第59話 リンの死闘
オーグが狙われている。
元龍のキバ、今はベーオウルフクランに所属するリンにとって、それは看過すべきことではなかった。
オーグを殺した暗殺者、名前はルキだったか。いつの間にかオーグがルキと協力し、転生教団を追いかけているなんて、それこそ寝耳に水なのだ。
リンはどうするべきだったのか?
理想はオーグといつまでも平穏に暮らすことだ。
でもリンはオーグとは違う、オーグには選べない選択肢も、リンなら選べる。
リンは非情になれる。冷酷な判断ができる。
そんな山猫と評された少女の決断……物語は終末へと加速するのだろうか。
「………」
鼻から下を薄い布で隠した浅黒い肌の少女が、富裕層の住む住宅街にいた。
彼女は配達員を装い、あまり人が近寄らないこのエリアを捜索していた。
探しているのは――。
「おい、例の貴族様、他殺らしいぜ」
「下手人は妻って話だな……これで何件目だよ、ったく世も末だな」
「…………」
気配を殺し、歩きながら聞き耳を立てる。
巡回警備する兵士たちは辟易するように雑談をしていた。
貴族の不審死事件、この一ヶ月でリンが数えた中では三件目ということになる。
あきらかになるのは不審な影。突然貴族の妻が豹変し、貴族を惨殺。それだけに飽き足らず子供も、使用人さえも皆殺しにしたというのだ。
狂気に駆られたというには、あまりに惨い。
リンはだからこそ冷徹に判断をくだす。
(転生教団が不幸な者の味方ならば、貴族は狙われて当然、ね)
無論可能性の話だ。だがリンは確信していた。
今のリンは少し異常ではないだろうか。興奮……いやそれよりも静かな怒りが大きい。
子供にしては大人ぶっていて、オーグと違って賢いし、間違ったことをする少女ではないが、今の彼女はどこか危うく見えるだろう。
もし彼女を心配する者がいたら、彼女は止められたかもしれない。
けれど、彼女は山猫だ。猫の自由さを束縛できる者などおりはしない。
(絶対に許さない……お頭を狙う奴はみんな許さない)
断固たる決意を持って、彼女はある人間を追跡していた。
彼女が脳内にプロファイリングしたメメント貴族街住民データ。
なにかの役に立つだろうと集められたデータは、貴族街の住民や使用人にいたるまで、彼女は正確に記憶している。
記憶力には自信あるから、それはちょっと誇らしげなリンだった。
リンが追跡していたのは身なりの良い貴族の男だ。
護衛もつけず一人で歩いていているが、この貴族街に限れば治安は良いから、これだけなら不審な点はないだろう。
だがリンは明確にその貴族の男性をターゲットに絞った。
原因はその貴族の家で働く使用人の一人が行方不明になったことだ。
リンは刑事も顔負けの調査力と行動力を持って、転生者を割り出そうとしていた。
転生者は肉体はもちろん、人生を、信仰を、すべてを身勝手に奪い去る。
肉体を奪われると、自我が消滅し、突然クラリスのように豹変するというのだ。
賢い転生者はそうそう尻尾を出さないが、それでもミスは見つかるものだ。
リンは念の為に短刀を隠しながら構えた。
この貴族が転生者ならば、拷問し、仲間の居場所を吐かせる。
オーグを危険の晒す者は決して許さない、それは神の命令にも背く孤高な山猫の矜持だった。
(道を曲がった……でもあっちは?)
やがて追跡していた貴族が突然道を曲がる。
リンは気配を殺しながら後を追うと、不自然な地下階段があった。
リンは念の為周囲を伺った。
ここは貴族街と表通りの境だった。
おそらくだが、ここは地下クラブの類、あるいはアングラな酒場だろうか?
迷っていても仕方がないと、リンは階段を下る。
無骨な木製の扉が外と内を仕切っている。
ここから先は何が待っているか――なんて尻込みはしない。
決断的にリンは扉を開くと、中へと突入した。
しかし……そこは予想外に広々とした空間が広がっていた。
中は薄暗いが、見渡せない程ではなく、天井は地上三階はあるのではないか?
なんのための空間だろう……リンは疑問に思っていると、突然目の前に気配を感じた。
リンは短刀を構えると、目の前に立っていたのは……道化師?
「……ウエールカーム」
「お前は……?」
「フヒ!」
まるで豚のように太った道化師は、口角を上げて笑うと、見た目には似合わない機敏さでリンに襲いかかった!
問答無用か、道化師はカラフルなステッキでリンに振り下ろす!
「ハッハーッ!」
「フッ! 甘いっ!」
リンは咄嗟に背負っていた配達員偽装用のバッグを道化師に投げつけた。
バッグはステッキで叩かれくの字にひしゃげると、リンはその隙に道化師の背後に回った。
一撃で仕留める! リンは覚悟を決めると道化師の首筋を正確に捉えた。
だが、道化師はリンの想像を越えていた。道化師は素早くリンを捕捉すると、不気味な回転でリンに振り返った。
「イヤーッ! ハッハーッ! イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」
リンは咄嗟の振り向きに、攻撃チャンスを失った。
対して道化師は狂った笑みを貼り付けたまま、滅茶苦茶にステッキを振るう。
一発一発は見切れない程でもない、防戦一方になりながらもリンは致命打は避け、反撃の機会を伺った。
「く! うざい!」
リンは短刀を投げつける。しかし道化師はステッキでそれを弾き返した。
あのステッキ、鋼鉄で出来ているのか、嫌に硬くて頑丈だ。
可愛らしいステッキに反して、まるで鉄の棒ね、とリンは愚痴る。
だが短刀を弾いた道化師にリンはすぐに飛び込むと、短刀をその腹部に突き立てた。
「もらった!」
豚のように太った腹部に短刀を突き入れると、リンは勝利を確信する。
致命傷にはならないかも知れないが、これだけの重症ならまともに動けない……筈だった。
パアァン!
突然道化師の腹部が服の内側から爆発した。
腹部から飛び出す大量の色鮮やかな風船に、無数の白い鳩。
それらが一斉に飛び出すとリンの視界を奪った。
「イヤーッ!」
だが道化師は呆気にとられるリンにステッキを横薙ぎに振り払った。
ドゴッ! 嫌な音が響くと、リンは側頭部に直撃を受け、吹き飛ばされた。
「がは! く……あ」
クリーンヒット、リンは呼吸さえままならず、頭から血が出ていた。
頭蓋骨が粉砕していてもおかしくない一撃、道化師は幻惑的なステップで、リンの前まで迫ってきた。
道化師はあざ笑う、まるでマッドピエロのように。
リンはあのでっぷりとしたお腹にまさか、あんな仕掛けがあるとは想像もしていなかった。
相手がピエロである……その前提を忘れていたのか。
「イヤーッ! イヤーッ! イヤーッ!」
「かは! うく! ンアーッ!」
道化師は狂ったように動けないリンを滅多打ちにする。
リンは殆ど抵抗ができなかった。
小手先の技が通じない、相手はその姿さえも利用し、重たそうで動けないと偽装。
でっぷりとしたお腹は、そこを攻撃させる為のダミーターゲット。
すべて計算づく、リンの実力を上回る難敵だった。
「イヤーッ!」
「あぐっ………!」
ボロボロになっていくリン。
左腕が折れている、その性でピクリとも動かない。
呼吸は乱れ、視界は血で半分染まって遮る。
それでも――それでも彼女の瞳は諦めていなかった。
道化師が振り下ろすステッキを、リンは歯を食いしばって転がりながら回避すると、なんとか動く右手で短刀を道化師に投げつけた。
だが道化師はステッキを回転させて投げナイフを防御。
リンは立ち上がると、前屈みになった。
意識が朦朧とする……そう長くは戦えない。
「あ、アンタが何者なのか……はぁ、はぁ……知らない、けど……アタシはまだ―――死なないっ!」
リンは駆ける。相手は詭道の天才だ。
身体能力もリンを大きく上回っている、体格差もある。
あげく俊敏さでさえ、リンと互角という難敵だ。
唯一弱点があるとすれば、防御力は人間並みか。
短刀を防御するあたり、面の皮には自信がないのかも。
「ハァ!」
リンは短刀をまた投げた。当然弾かれる前提だ。
道化師が短刀を弾くと、彼女は優れた動体視力で跳躍し、弾かれたナイフを口に咥えた!
道化師の反応の良さ、リンに付け入る隙は殆どない。
ならばリンも勝つ為に、相手の想像を上回る必要があった。
「フーーーッ!!」
彼女は道化師の後ろに落下しながら、口に加えた短刀を振るった。
そのままもはや着地するほどの余力も残っていないリンはドサリと倒れた。
道化師は狂気の笑みを貼り付けたまま、リンに振り返った。
窮鼠猫を噛む。まさかのネズミの一撃だったが、道化師は今度こそリンにとどめを刺すべくステッキを構えた。
一歩――道化師の重たい足が歩を刻む。リンはもう前も見えないなか、ニヤリと笑った。
ピッ! 道化師は怪訝に己の首筋を見やった。
勝利の確信、化かし合いなら負けていない。
道化師の首筋から噴き出す鮮血、致命打を受けた道化師は古典的な言葉を使うなら、首をはねられた!
「オーーーノーーーー!」
道化師は止まらない出血に暴れ狂う。
まだ襲ってくるか……リンはもう戦う余裕はない。
しかし余計に動けば出血も増える、道化師は顔を青くしてそのまま前のめりに倒れた。
頸動脈を切り裂かれて死なない怪物ではなかったようだ。
リンは「はぁ、はぁ」と呼吸を荒くし、かろうじてこの戦いに勝利した……しかし。
「ほう、クレイジークラウンを破ったか」
リンは歯を食いしばり、必死に立ち上がった。
こっちは全身打撲、内出血も酷いと来た。
戦いの一部始終を見ていたのは、リンが追っていた貴族だった。
貴族は教養のある微笑みを向けると、リンに近寄った。
「彼は元々サーカス団の花形ピエロだった、もっとも中身は何度も反魂の法によって転生した名もなき闘士だったがね」
クレイジークラウン、肉体の強さに加え、なんらかの別人の魂が操り、あの強さがあったのか。
リンは息絶え絶えであっても貴族を睨みつける。
貴族はリンを見下すと酷薄な笑みを貼り付けたまま、ある提案をした。
「ねぇあなた、より強い自分に興味はありませんか? 今の自分を変えたいとは思いませんか? 我々の仲間になれば、あなたは好きな自分になれる! こんなに素晴らしいことはないですよ!」
反魂の法……身勝手にも対象の肉体を奪う禁呪。
恐らくこの貴族の男も、元々はどこかの馬の骨だったのだろう。
「……興味ない、私はまだ成長期だもの、いくらでも変われるわ」
「若いですねぇ、しかしクレイジークラウンを倒せるなど本当に惜しい、ねえお試しで転生してみません?」
どこぞの通販番組のように転生を推してくる貴族に、リンは舌打ちした。
一先ず退くべきか? 怪我の具合から考えれば当然だ。
だがその前にリンは確認する必要があった。
「お前が転生教団?」
「…………いけませんね、その名を乱りに使っては、ええ、仰る通り私は教団の司教を努めます」
司教? ということは幹部クラスなのか?
だがリンはその司教を名乗る男の目を見てゾッとした。
赤い双眸、あのクラリスや蒼白の老人の雰囲気と同じ、悪魔の気配があった。
「これを聞いてしまった以上、貴方の選択肢は二つです。一つは我々の仲間になる、ええ貴方なら立派な信徒になれるでしょう。もう一つは……死です」
どす黒い吐き気を催す邪悪の気配に、リンは唇を噛んだ。
全身が震え、汗が止まらない。
だが彼女は気丈に第三の選択肢を提示した。
「三つよ、アタシは……死なない!」




