第57話 オーグでもアリスでも
青年は素早かった。けれどそれ以上にオーグの背後に現れた老人は素早かった。
オーグは咄嗟に後ろを振り向いた。オーグがギリッと歯軋りして睨みつけたのは、クラリスをあの邪悪なドラゴンに変えた張本人だったからだ。
全身が蒼白で、白髪はボロボロ、薄汚れた鼠色のローブを纏った老人は闇を讃える瞳でオーグの大きな瞳を覗き込んだ。
「あ、あ……ッ!」
「どけエルフ! 今すぐそいつを!」
「もう遅い―――」
ドロリ、と老人の口から邪悪な何かが吐き出された。
反魂の法、紛れもなく老人の魂そのものだ。
それはオーグの口へと流れ込むと、オーグは一瞬で体を仰け反らせ全身を痙攣させた。
「う、ぐ、ああ……ッ!!!!」
「ち……!」
青年は老人に剣を突き刺す。
しかしその瞬間、老人の体は赤黒い灰となり、その場に染みを残す。
青年は神がかったように焦点が合わず、痙攣するオーグを見た。
「エルフ……っ」
青年は剣を再び構えた。オーグがオーグじゃなくなる前に仕留めるつもりのようだ。
だが青年の顔も平然という訳ではなかった。あらゆる感情を押し殺したつもりでも、無実の者をたやすく殺せる訳ではない。
そこまで青年は人間として壊れてはいないのだから。
「もしもお前が、お前でなくなるなら……俺が介錯してやる……!」
「あががが、ぐあぁぁぁ――――」
なんだこれは? オーグは邪悪さを凝縮したような闇が、全てを覆うのを感じ取った。
オーグの自我を侵食する邪悪な闇、闇は燃え盛る炎のような形をとると、オーグに向かって嘲笑った。
『君の神秘ここで解き明かさせてもらおう、我ら転生教団の贄となるがいい……』
人型の炎は老人という感じはしない。おそらく元々の魂は老人ではなかったためだ。
オーグはとても息苦しく蹲まった。そこがオーグの自我のある部分であるというのに。
邪悪な闇はオーグの顎を引くと、いよいよオーグの自我を消し去ろうとしていた。
「ちくしょ、う……テメェ、なんぞ、に――」
甲高い声で悪態をつくが、邪悪な闇は意に介さない。
所詮弱りきった獲物が、泣きわめいているだけだ。その程度なら聞くに値しない。
邪悪な闇は、アリスの知識、秘密を欲しがっていた。
エルフの国が禁忌として保管していた禁呪の中には反魂の法の一部があった筈だ。
アリスは頑なに教団にその情報は提供しなかった。
禁忌を一度破った女の癖に、その女はプライドの塊のような面倒な奴だった。
裏切りの兆候があったから暗殺をしたが、何故か蘇った。
それも別人の魂を収めた状態で、だ。
邪悪な闇は、ならばとこの肉体の奪取を試みた。
今まさに小さなメスガキエルフの自我を邪悪な闇が侵食している。
――消える? アタシ……まで、穢されて。
オーグは身勝手な邪悪さに怒りに震えるが、オーグは反魂の法に抗う術をしらない。
そのままオーグは小さな悲鳴を上げると、オーグの全身から炎のように邪悪な闇が噴き上がった。
(消える…アタシも、アリスまで……だ、め――)
オーグは涙した、その視界全てが赤黒く染まるまで――――。
邪悪な闇はほぼオーグの自我を掌握し、肉体の操作権を奪取するのは時間の問題だった。
「ふはははは! これでまた一つこの世界の神秘の扉は開かれる! エルフの神秘を我は! ――――何故だ? 何故奪えない?」
異変だ。邪悪な闇は何故かオーグの肉体を奪えず狼狽した。
そんな筈はない、今まで反魂の法に抗い、まして逆に弾くなどありえなかった。
強制的に相手の魂と融合して肉体を奪う――まだ不完全ではあるが、それが反魂の法だ。
そうやって教団は肉体を乗り換え悠久の時を生きてきたのだ。
それは神へ至る為の修練。いずれは神さえも奪ってみせる……これはその為の計画の一端……の筈。
だが邪悪な闇は見てしまった。
メスガキエルフの身体から噴出する闇が次第に赤黒い炎に変わっていたこと。
「ば、馬鹿な! なにが起きたというのだ!」
「紛イ物メ……妾ノ力、ソノ一端ニ触レタカ」
なんだこの声は? オーグはぐらりと前のめりにだらしなく腕を垂らし、ゾンビのように顔を上げた。
その瞳は赤黒く輝き、超常の存在感を放っていた。
「な、何者だ! 人ではないっ!?」
「妾ノコトモ知ラズ、妾ノ力ヲツカウ……愚カナ」
圧倒的な存在感――闇は炎に焼かれると、浄化していく。
あっという間にオーグの自我の中にはちっぽけな邪悪な闇が取り残された。
「同じ力……? ま、まさか貴方様は!」
「消エロ……『移ろう者』メ」
その言葉を最期に、邪悪な闇は真下から噴き上がる赤黒い炎に焼き尽くされた。
邪悪な闇は焼かれながら、その目を見開き見たものは、メスガキエルフの身体から立ち昇る紅蓮の鳥であった。
怪奇現象はオーグの自我の中だけではなく、青年の目の前でも起きていた。
オーグが突然全身から炎を吹き出すと、宙に浮かび、紅蓮の翼を広げたのだ。
「……エルフ、なのか?」
「人間よ、妾はフェニックス……この弱き者を任せる」
「フェニックスだと……あ、おい!」
一瞬、紅蓮の炎に包まれた火の鳥が、甲高い鳴き声を上げ、空へと舞い上がっていった。
オーグはフェニックスの気配がいなくなると、そのまま自由落下、青年は慌てて受け止めた。
「俺、様……なに、が?」
「……無事なのか?」
オーグはぼんやりとして意識が定まらなかった。
ただ微睡みにいて、ただなんとなく自分が誰なのか知ってしまった気分だった。
(アタシ……オーグでもアリスでもなかった? アタシこそフェニックス?)
オーグがいつフェニックスを憑依させたのか知らない。
ただ聖炎の神鳥フェニックスは、オーグの側にずっと隠れ潜んでいたことだけは確実だった。
(『鮮血の鳥こそおヌシの風見鶏……それはおヌシを導き、おヌシが導く……されどその赤き鳥は、おヌシを冥府へと誘う……それは凶星となろう』……か)
一方青年もまた、この儚いエルフの少女こそ、青年の風見鶏なのだとはっきり理解した。
聖なる炎を纏った火の鳥も、見方を変えれば鮮血を吹き出す赤黒の魔鳥。
反魂の法さえ通じず、逆に邪悪な魂を焼き尽くしたこの少女に宿る力は、青年を死地へと旅立たせることを約束している。
だが、青年は望み通りだ、と覚悟を決めた。
「エルフ……いやオーグと言うべきか。俺の名はルキだ」
「ルキ……だあ? イヒヒ……いい、名前、んくぅ」
朦朧とする意識で、判断が正常じゃないオーグはそれっきり眠ってしまった。
禁呪をくらって五体無事の方が異常なのだが、その少女の寝顔はあまりに愛らしかった。




