第55話 蠢く闇
昏く静まる貧民街、さながら貧民街を出歩く者はまるで幽鬼のようだ。
身の安全を思うなら近づくことなかれ、誰もがその鉄則を知るそのエリアで、今新たな陰謀が動き出していた。
打ち捨てられた教会、その三階は僅かな蝋燭の灯りのみで薄っすらと照らしている。
腐ちた床の上には数人の女性が一箇所に固められ、その周囲にはそれを監視するならず者がいた。
誰が見ても、ここからどんな悲劇が彩られるのか想像できよう。
少なくとも恐怖で震えた金髪の女性ケイトはそう考えた。
「う、うぅぅ……」
「お母さん助けて」
「もういや……お家に帰りたいよぉ」
ケイトの周りには、いずれも身なりの良さそうな女性たちが集められている。
身代金目的か、だとしたらこの数はちょっと異常だ。
ケイトはなんでこうなったのか、自問自答する。
朝いつものように顔を洗って、身嗜みを整えると彼女は家に鍵を掛けて仕事に出た。
その時はいつもと変わらない陽気な朝で、ケイトは鼻歌を歌っていたのを記憶している。
どうしてこんなのことに――悔やんでも悔やみきれないが、ケイトの悲劇はそんな朝に起きたのだ。
朝ごはんを食べていないケイトは、いつもベンの店で賄いを食べて済ます。それはケイトの数少ない朝の愉しみでもあった。
ベンは気弱で冴えないところはあるけど、真面目で努力家で心配性の店長だ。
ケイトはそんな店長のサンドウィッチが大好きだった。
今日も晴れ晴れ、空を見上げれば入道雲がゆっくり流れて消えていき、朝の喧騒が心地よく響いていたのに。
――突然後ろから男に拘束され、視界を布で隠され、ドサ袋に詰め込まれた女性の気分とはなんなのか?
喩えるなら、それは人生の絶頂とは言わないまでも、幸せな家庭を築いた主人が、家に帰ったら強盗に妻が殺され、娘が強姦されていた現場を目撃した。ケイトはそんな気分を一度に味わった。
今彼女はガタガタと震え、神に縋った。ケイトの信仰する神が応えてくれることはないだろうが。
そんな悲鳴や泣き言ばかりの女性たちに下卑た視線を下すならず者は震える手で、ケイトの美しい金髪に触れた。
「へ、へへ、へ……お、俺コイツが良い! 女って良いよなぁ、いい匂いだし、素肌も綺麗、きっと大切に育てられたんだろなあぁ、お、俺コイツがほ、欲しい!」
ケイトは身動ぎした。クスリでもやっているのか呂律の回らないならず者は、うわ言のように意味のわからないことを呟いた。
こんな薄汚い男に慰め者にされるのか、ケイトはサァーと血の気は引くのを感じ取った。
今すぐにでも逃げ出したい、けれどケイト達拐われた女性たちは皆手を縛られている。
仮にこの状態で立ち上がっても抵抗出来ず、即座に組み伏せられるのは明白だ。
何よりもケイトが逃げ出さなかったのは、部屋の奥に佇むあの『鬼人』のせいだ。
(なんでこんなところに鬼人がい、いるの?)
ケイトはオーガをちらりと見た。
このアルバシア地方にはオーガ族は住んでいない。
もっと北方の氷原地帯に住んでいる筈のオーガが、なぜメメントの街にいるのか、ケイトには到底理解できなかった。
それでもケイトは大好きな冒険活劇小説で、オーガの恐ろしさは知っていた。
あの屋根に付く程の巨体、肌は緑色で、はちきれんばかりの筋肉が目立つ。
口からは牙が覗き、最も特徴的なのが額の角だろう。
オーガの角は二本、強いオーガ程角が大きいと冒険小説では描かれていた。
鬼棍棒という武器を使うのが定番で、それは無数の棘のついた鉄棒だという。
その怪力は大地を砕き、数多の冒険者が鎧ごと砕かれた。
けれど小説の定めとしてオーガとはやられる為に存在する。
強くて凶暴でも、最後には主人公にやられるのは、ケイトの溜息を下げたが……。
さてそんな冒険活劇小説でも、悪の大ボスとして描かれるオーガがケイトの前に存在するなら?
ケイトは即座に己に万が一も勝ち目がないと悟った。
ケイトは冒険者でもなければ、まして小説の主人公でもないのだ。
ただ蹂躪されるための、有象無象の犠牲者に過ぎないと自覚している。
そんな絶望する女性たちを一瞥して、オーガはゆっくりと口を開いた。
「そうだ、その者らがお前達になる。奪え、肉も人生も、信仰さえも!」
オーガは流暢な言葉でならず者達に言った。ならず者達はその言葉に狂喜乱舞。
ケイトはその光景にさらに怯んだ。
「うおおおっ! これで借金ともおさらばだぁ!」
「俺は三人も殺している! 騎士に捕まって処刑されるなんてごめんだっ!」
「い、イヒヒヒィ! 新たな命、そ、それってどんな気分だ……エヒ?」
何をされるのかは皆目検討も付かない。
ただこれだけ多くの女性が拐われたのは偶然ではなさそうだ。
もう一度店長のサンドウィッチが最期に食べたかったな――ケイトは泣きながらまだ死にたくないと心から願った。
……しかしその願いさえもこれから奪われるなんて、誰が想像できようか。
「まずは俺だ、お、俺をこの金髪女に!」
ラリったならず者がケイトの髪を乱暴に引っ張る。
ケイトは呻くと、ラリったならず者は涎を垂らして、ケイトに顔を近づける。
「い、いや! 助けて誰か! イヤァァァ!」
貧民街の打ち捨てられた教会にそんなか弱い悲鳴が響いた。
誰が助けるのか、この街の住民にそんな情や正義感が何故期待できる。
オーガは嘲笑った。このオーガ、何かがおかしい。
「な、泣いてる姿も可愛いなぁ、お、俺もお前みたいにち、ちやほやされてぇ!」
「イヤっ……イヤ! イヤー!」
「イィィィヤッハァァ! ヒャッハー!」
突然甲高い女の声が、ならず者の笑い声を引き裂いた。
ならず者達が顔を上げると、教会の窓からとんがり帽子を被ったメスガキエルフが問答無用で魔法をぶっ放した!
「吹っ飛べウインドバースト!」
全ての属性の魔法を操るそのエルフは杖から魔力を解き放つと、強風が吹き荒れ、ならず者達は壁に叩きつけられた。
強制的に伏せさせられた女性たちは難を逃れ、一斉にストンと教会に踏み込んだエルフの魔法使いに注目する。
ケイトはいつものようにガツガツ乱暴に歩くそのメスガキを見て、安堵の涙が零れ落ちた。
「ビンゴかよ……しかもケイトがいるじゃねぇか」
「魔女さん……助けに?」
魔女オーグは、ケイトの側に駆け寄ると、面倒そうに頭を掻いた。
実は偶然で、ケイトを探していたのは事実だが、ここにケイトがいるとは思っていなかったのだ。
本当のことを言ったらがっかりさせてしまうか。
オーグは適当に話をでっち上げるのだった。
「まぁそれはアレよ、普段世話になってるし、助けるのが当然っていうか? あーもう! ベンが泣き言言うから助けにきたの! だからもう安心しなさい!」
ちょっと格好がつかないオーグに、ケイトは安心して微笑んだ。
けれどこの予想外のサプライズゲストの登場にオーガは歩み出る。
「貴様裏切り者のアリス……仲間を一人殺したのは貴様か」
「ああん? 誰だテメェ。オーガがなんでこんなみみっちいことやってるの?」
「……気をつけろ、そいつが教団の神官だ」
階段で慎重に気配を殺しながら今度はローブを纏った青年が現れる。
オーグは杖を構えると、青年は粗末な剣を構えてオーガの側面に移動した。
「貴様我ら転生教団を次々襲撃する悪魔か……!」




