復讐すればいいのに〜婚約破棄のその後のお話〜
ある夜会で、この国の王太子が婚約者の公爵令嬢に、婚約破棄を告げた。
幼い頃から決まっていた婚約を破棄された公爵令嬢と公爵家は、怒り心頭の様子だったらしい。
それからその場で王太子は、平民の少女を新しい婚約者にすることを発表した。
国王陛下の御前で行われたその破棄は、まさに青天の霹靂。
公爵家以上に顔を真っ赤にした国王は、すぐさま王太子を廃太子とした。
頭脳優秀と謳われていた王太子の突然の廃太子には、国中が騒然となった。
そしてその原因が、一人の平民の少女だったという噂も同時に広まっていた。
何の後ろ盾も持たない平民の少女――元王太子は彼女に骨抜きにされたらしい。
その少女と一緒になりたいだけであればいくらでもやりようはあっただろう。
側妃にでもすればよかったのだから。
わざわざ衆目環視の中で婚約破棄を実行しなければ、廃太子とまではならなかったに違いない。
元王太子の不可解な行動に誰もが首を捻った。
彼の側にいた少女が魅了などの魔法を使ったのではないかという噂まで、まことしやかに囁かれる始末であった。
折しも世間は悪役令嬢小説ブームである。
悪役とされ婚約破棄された令嬢の、痛快な逆転劇は娯楽性に富んでいて、皆を夢中にさせていた。
現実でも、婚約破棄をされた公爵令嬢が元王太子や平民の少女に復讐するのでは? と期待もされていた。
「復讐すればいいのに」
そう誰もが囁き、頷き合っていたのだが。
しかし、現実には小説のようなことは起こらず、彼の公爵家は件の夜会以来完全に沈黙してしまっていた。
◇◇◇
そんな中、早朝にひっそりと王城を出立する馬車があった。その馬車には王家の紋など刻まれていない。
護衛もいない。荷物も僅少。
まるで下働きの者が王城の馬車を借りて実家へでも戻るような――そんな馬車の中には男女がひと組。
「ごめんなさい、私のせいでこんなことになってしまって……あなたは誰よりも王位にふさわしい方なのに……」
そう言って涙ぐむ少女を、見目麗しい青年――元王太子が優しい声音で慰める。
「全て私の選んだことだ。君は何も気にしなくてもいいんだよ。私は所詮王太子の器じゃなかったってことさ」
「いいえ! 私は知っています。あなたが、どれだけ国のことを考えていたのか。誰よりも王位に相応しいお方でしたのに」
「そうか……君が知っていてくれるならそれでいい」
「それに……アリエンヌ様にも申し訳ないことをしました。こんなに素晴らしい婚約者を、彼女から奪うような形になってしまった……」
「アリエンヌには弟がいるから問題ない」
王城内で囁かれていた噂によると、彼と婚約者だった公爵令嬢は、新しい王太子の婚約者へとスライドしたらしい。
世間での噂が収まるのを待って、発表することになるのだろう。
新王太子の公爵令嬢への寵愛は深く、元王太子と婚約していたときは人形のようだった彼女が、徐々に笑顔を取り戻していると聞いた。
彼は、まだ彼の令嬢に心を残しているのではないだろうか。彼女は彼の顔を仰ぎ見たが、表情からは何もわからなかった。
急に現れた平民の少女のせいで、どこかぎこちなくなってしまった令嬢との仲を悔いているのだろうか。
彼は、その噂をいつも苦々しげに聞いていた気がする。
「ごめんなさい、私なんかを選んだばかりに……本当はまだ、アリエンヌ様を想ってらっしゃるのでしょう?」
不安そうな顔をした彼女に、少しぎこちない笑みを返す彼。
「いや、違う。そうじゃない。私じゃどうしたって彼女を幸せにできなかったんだと、今更ながら力不足を思い知っただけだよ。それに、王太子のままでは平民の君とはどうやっても結婚できない。けれど、臣籍降下させられた今なら結婚できるだろう。これでいいのさ」
「では……まさか……私と結婚するためにわざわざ公の場で婚約破棄を告げられたというのですか?!」
彼女はハッと息を呑んだ。
「でも、あなたはずっと、王太子であるために努力していたんでしょう? 浅学な私には想像もつかないような、大きな研究を成功させたこともあると聞いてます。私を選んだせいで、全ての功績がなし同然になってしまうなんて」
彼女は彼が、寝る間も惜しんで新分野の勉強をしたり、足繁く研究所に通っていたのを知っている。
「いや、私の方こそ何も与えてあげられなくなってしまって悪かった。今から向かう辺境の地では使用人も最小限だし、貧しい領地だ。君に贅沢はさせてあげられないだろう。それでも君は私についてきてくれるだろうか? 今ならまだ間に合う。悪評高い私から逃げたことにすれば、君の評判が下がるのだけは防げるかもしれない……」
「いいえいいえ!」彼女は必死に首を振る。
「これでいいのです! 私が本当に欲しいものは目の前にいるあなたの愛だけなのですから」
これでいい。それは彼女の心からの言葉であり、偽りない本音だった。
彼女が本当に欲しかったのは、王太子である彼の愛だけだったのだから。
王位も要らない。金も要らない。煌びやかなドレスも、美しい宝石も、彼女にとっては何の意味もなさない。
そうでなければ、危険を承知で婚約破棄を強請ったりしない。
あれだけの騒ぎになったのだ。魅了の魔法だのアイテムを使っただの言われていたのだから、王太子を惑わすものとして、秘密裏に処分されてもおかしくなかっただろう。
彼が次の婚約者にと指名してくれなければ、その憂慮は現実になっていたかもしれない。
「私が欲しかったのはあなただけです」
「そうか……」
彼からの返答はそれだけだったが、その口元はわずかに嬉しそうに綻んでいた。
今から彼らは、臣籍降下の際に与えられた、貧しい領地へ向かうのだ。
これからは決して楽な暮らしではないだろう。王城に住まい、沢山の侍従や使用人たちにかしずかれていた彼にとっては特に。
しかし、彼女は元は平民だ。境遇柄逆境には慣れている。二人で支え合っていけば、ささやかな幸せくらいは手に入れられるだろうか。
彼女は城を去る前に一つだけ彼にお願い事をした。
それは、彼女の家族への墓参りだった。
王都からほど近い場所にその墓地はあった。
何の罪もない公爵令嬢に婚約破棄を突きつけた彼らは、町の人にとっても罪人同様の身だったらしい。
王都では、彼らに快く花を売ってくれるような店はなかった。
苔むした石板の前に、道端に咲いていた野の花を供える彼女に、彼は聞いた。
「誰の墓だ?」
彼女は少しの沈黙の後、淡々と答えた。
「兄だった人の墓です。私の恩人であり、彼は素晴らしい研究者でした」
「そうか、そんな肉親を亡くしてさぞ辛かったことだろう。これからは心配はいらない。金はないかもしれないが、私は君のことを幸せにすると彼に誓おう」
彼女は顔を真っ赤にさせて、うつむきながら呟いた。
「嬉しいです」
そんな彼女を愛おしそうに抱きしめた彼は、ますます彼女を幸せにしようと、彼女の兄の墓の前で誓った。
◇◇◇
あれからもう、十年になるだろうか。彼は29、彼女は26になった。
彼と彼女は手を取り合って、この辺境の地で慎ましく暮らしてきた。
辺境の貧しい領地では、家計の助けになるような税収が見込めない。使用人を雇うような余裕もなかったため、彼らは生活の全てを自分たちでしなければならなかった。
それでも、彼らは領地の小作人たちと意思の疎通を図り、時には農作業を手伝ったりして、領民たちに『畑領主』と親しみを込めて呼ばれるようになった。
また、彼は研究者としての能力を発揮して土壌改良や、安定して収穫を見込める品種の作付けを提案した。
王都での評判を耳にして最初は冷たかった領民たちも、次第に心を開いてくれるようになり、彼らは徐々に土地に根付いていった。
「レクシェル!」
嵐の勢いで家に飛び込んできたのは、元王太子であり、今の夫だった。
彼はベッドに横たわる妻の手をきつく握りしめた。
「作業中に倒れたと聞いた。大丈夫なのか?!」
「あなた……」
彼女は、驚くほど顔面蒼白の状態で、ベッドに横たわっていた。
傍らに寄り添っていた女性が、立ち上がりながら言った。
「今、うちの人が村外れのジェイキンス先生を呼びにいってるからね。それまで頑張るんだよ」
「ありがとうございます」
女性に笑いかけようとしているのか、脂汗が滲んだ彼女の顔がわずかに引き攣る。
女性はなおも励ましの言葉をかけながら部屋から出て行き、彼らは二人きりになった。
彼女は、今の彼女と同じくらい青褪めてしまった、彼の冷たい手をぎゅっと握り返した。
「あなた……ごめんなさい」
彼女のその言葉に、彼はハッと息を呑んだ。
「何を言ってるんだ。体調が悪い時など誰にでもある。気にせず休みなさい」
「違うの。今まで黙っていて……騙していてごめんなさい」
「何のことだ……?」
妻が言ってるのが、家の裏に生えている雑草を乾燥させたものをお茶だといって彼に飲ませていたり、楽しみにとっておいた酒を隠れて飲んでしまったという類のものでないことは、彼にも薄々わかっていた。
「もうすぐ私は死ぬでしょう」
「死ぬだなんて……少し調子が悪いだけだよ。気弱になってはいけない。医者に見せればきっとすぐによくなる」
「いいえ。いずれこうなることはわかっていたの。あらかじめ決まっていたことだもの……ずっと黙っていてごめんなさい」
黙っていてごめんなさい。そう呟いた瞬間、彼女の目からぽろり、と涙がこぼれた。
「決まっていたって……どういうことだ?」
彼には妻が正気のようには思えなかったが、弱っている彼女にきつく問いただすわけにはいかない。
それだけ、今は辛いのだろう。痛みもあるのかもしれない。そう思った。
「それから、」
彼は握りしめる手に少し力を入れたが、彼女の瞳は虚空を見つめていた。
「私はあなたを憎んでいました。復讐のためにあなたに近づいたの……騙していてごめんなさい」
そして、彼女は語った。
歳の離れた彼女の兄が、優秀な研究者だったこと。両親と死別した後、親代わりとして彼女を養ってくれていたこと。そして、ある研究を完成させたが、成果を共同研究者に横取りされてしまったこと。
そこまで聞いた彼は、サッと顔を青褪めさせた。
「まさか」
「そうです。兄の共同研究者は当時の王子殿下でした――つまり、王太子になる前のあなたのことです。寝食を削り、全てをかけた研究を奪われた兄は、失意のもとやがて自ら命を絶ってしまいました」
「ネルガーには妹がいたと聞いたことがあったが、君がそうだったのか」
「ネルガー=アーマッド。それが兄の名前です。私は兄の死後親戚の家に引き取られました。その後の話はあなたにも話したことがあると思います」
彼が聞いた話では、彼女は引き取られた後、大変不遇な子ども時代を過ごしていた。
義実家には居場所がないばかりか、幼い彼女に養育費を請求した。
兄は研究に生活費以外の全てをつぎ込んでいたため、彼女にそれを払うことはできず、金を稼ぐために歳を偽って働きに出なければならなかった。
朝夕なく働いていた彼女は、やがて視察のために市井へ降りていた王太子と出会い、恋に落ちた……はずだった。
「私はあなたが王太子だと知って近づきました。兄と一緒にいるところを一度だけ見ていましたから。兄の復讐のためだけに近づいて。そして、何もかも奪ったのです。あなたが継ぐはずだった王位も、あなたに与えられる筈だった公爵令嬢との愛も、あなたに約束されていた未来の何もかもを――」
グッと唇を噛み締めたまま彼は。
彼女の顔から目を逸らせずにいた。
「そうか。だが、復讐というのならば、君は何故ここに留まっていたのだ? 廃太子され、辺境に送られ……そんな時に君が去っていったのならば、一人残された私は発狂していたかもしれないのに。もっとどん底に落とすことだってできただろう。君がいたからこそ、私はここまでやってこられたのだ。私は君に感謝こそすれ恨んだりはしていない。謝られる筋合いはないな」
彼の声は震えていた。
より強く唇を噛み締める。
そうしなければ、涙がこぼれてしまいそうだったのだ。妻に、泣いている姿を見せたくなかった。
「元々私は不治の病に侵されていたのです。二十歳まで生きられるかどうかと言われておりました。若干の延命効果があるとされる治療にも莫大な費用が必要で、兄はそれを稼ぐために研究を完成させようと急いでいました。研究を発表して認められれば、国庫から借入することができるようになるからです」
国家的な功績を納めた者は、研究費用を国庫から借り入れることができるようになる。彼女の兄はそれを狙っていたのだ。
しかし、その研究成果はいつのまにか奪われ、自分の存在は消されていた。
兄が平民であることで、その功績が抹消されたのだろうことは、想像に難くなかった。
研究者だった兄にとって、自分の研究の成果を奪われるというのは、死ぬより辛いことだったのだろう。
まして、信頼していた共同研究者に裏切られて絶望した兄は、認可されていないような安い酒を大量に飲むようになり、ある日道端で冷たくなっているのが発見された。
それは緩やかな自殺と同じだった。
「復讐を兄の墓前で誓った私は……王位確実の王太子を誘惑して全てを捨てさせ、その後献身的に支える妻となりました。ほどよく四、五年経った頃にあなたを残して逝くつもりでした。最期に恨みの言葉を言い連ねて、あなたに後悔と絶望を味わわせてやりたかった。兄がそうだったように。思ったよりも長く生きすぎてしまったみたいですが、やっと望みが叶います」
彼の言葉はもはや声にならなかった。
「もっと早く病のことを告げてくれていれば……」
治すための医者も薬もきっと手配できただろう。
薬がどんなに高額なものであったとしても。
そのために中央へ頭を下げることになったとしても、後悔はしなかったに違いない。
だが、彼はその言葉はのみ込んだ。
これを復讐なのだと言った。そんなことは望んでいないのだ、彼女は。
「そう……だったのか、私はまんまと君に騙されてしまったわけだね」
存外穏やかな声が、出た。
彼女は虚に天井を見つめているから、彼の顔までは見えないはずだった。
自分の声が震えているのも、気づかれないといい。
「ああ、悔しいな」
彼女を心ごと救えなかったのが。
「悔しくて泣きそうだ」
彼女から生命の気配が薄れていくのが。
「君の復讐は成功だよ」
既にたくさんの涙が彼の頬を伝っていたが、彼女がそれに気づく様子はない。意識を保つのでせいいっぱいのようだった。
彼女は今、彼の声を聞きながら何を思っているのだろう。
本懐を遂げられて満足しているのだろうか。
それでも、少しは幸せだったと思ってくれはしないだろうか。
「安心するといい。君の復讐は成功したよ。きっと、天国のネルガーも喜んでいるに違いない。だから、ジェイキンス先生が来るまで、少し眠りなさい」
彼女は少し唇を震わせると、ゆっくりとまぶたを閉じた。
その頬を滑り落ちた涙が、シーツに小さな透明のシミを作った。
それはきっと、彼のための涙だった。
そして、彼女の手から力が抜けた瞬間、彼の喉からは堪えていた慟哭が噴き出した。
「ああ、ああ、ああああ―――――――っ!!!!!」
◇◇◇
心地よい風が吹き抜ける。
彼はふと、目を開いた。
目の前には、二つ並んだ墓があった。
一つは質の悪い墓石なのだろう……苔むしている上に、刻まれた墓碑銘は風化して読めなくなっていた。
そして、もう一つは比較的新しいものだった。
「ネルガー……君はきっと怒っているのだろうな」
ぽたり、とうつむいた彼の言葉が墓碑に落ちる。
ネルガーという男のことはよく覚えている。
彼は、まだ第一王子という身分だった頃に、研究所によく出入りをして研究者の真似事をしていた。
特に痩せた土地に育つという作物の交配に興味があり、色々調べたり実験をしていた。
そんな時の周囲の人間の反応は大体二種類で、彼が王子と知ってゴマを擦りながら近づいてくるか、それとも関わり合いにならないように遠巻きに眺めるかだった。
そのどちらにも当てはまらなかったのが、彼女の兄のネルガーだった。
ネルガーは、新しい医薬の研究をしており、その新薬が完成すれば二、三年に一度は大流行をみせる流感を防ぐことができるとのことだった。
彼の身分を知ってからも、近づきも遠ざけもしないネルガーに興味を惹かれた彼は、研究の手伝いを口実によく一緒にいた。
彼には病気がちの妹がいて、その研究の功績をもって国庫から治療のための借入をする、という話も聞いていた。
ただ単純に早く完成するといいな、と思って色々と手伝っていた。
とは言っても、王子である彼の身分をもってしても、一個人に対して国庫金を融通することなどはできない。
その為、彼にできたことと言えば、せいぜいがデータの書き写しや治験のための治療院の紹介ぐらいであったが。
研究は、後少しで完成というところまできていたが、立太子の準備などで忙しかった彼は研究所へ顔を出すことがしばらくできなくなった。
立太子の式典が終わったら顔を出し、そして完成しているだろう研究のお祝いを言おう。
そう思っていたのだが……現実はそうはならなかった。
ネルガーが苦心して完成させた研究の成果は、何故か全て立太子したばかりの彼のものになっていた。
恐らく、研究所の誰かが新しい王太子におもねろうと、余計な気を回した結果に違いない。
彼はすぐに自分の功績ではないことを主張したが、誰にも受け入れられることはなかった。
人は皆、見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞き、信じたいことだけを信じるものだ。
彼がいくらネルガーの功績だと声を高くしても、ネルガーが平民だというだけで旗色は悪いらしい。研究に記された功績者の名が、ついぞ覆ることはなかった。
彼は、ネルガーがこの研究に全てを賭けていたことを知っていた。
誠心誠意謝罪し、せめてネルガーの妹の治療費を負担しなければ。
そう決心して研究所に向かった彼が知ったのは、研究発表の翌日からネルガーがずっと無断欠勤しているという事実だった。
不安に駆られた彼が研究所で調べたネルガーの家を訪ねた時、すでに家は無人で、その大家からはネルガーの死を知らされ愕然とした。
妹の行方もわからないということだった。
その後も探し続けていたのに、まさかこんな近くにいたとは思わなかった。
(結局私は、彼らを利用するばかりで、何一つ返すことができなかったのだな)
彼女の正体は知らなかったが、彼は知っていた。
彼女が、何らかの目的で彼に近づき、婚約破棄をそそのかそうとしていたことを。
(私はそんな彼女をあえて利用した……)
「レクシェルは私を許してくれるだろうか」
彼女の隠し事には気づいていたが、気づかないふりをして茶番に巻き込んだ。
彼女は彼を憎んでいたと言ったが、彼もまた彼女を愛していたわけではなかった。
破棄することになった彼の公爵令嬢との婚約は、もちろん政略的な理由が大きいが、お互い嫌い合っていたわけではなかった。
むしろ、彼の方は令嬢に好意を抱いていた。
けれど、好きだと自覚してすぐに、彼は思い知らされることになった。その視線が誰を追っているのかを。
彼の一つ下の腹違いの弟。
皮肉なことに弟もまた、公爵令嬢のことを憎からず想っているようだった。
しかしそれがわかったところで、はいそうですかと言って婚約者をすげ替えるわけにはいかないのが、政略結婚というものだ。
弟が側室の子どもだったのが大きな理由だ。
そして、政略上の理由で、公爵令嬢が将来の王妃になるのは確定であり決定だった。
だから彼が王太子の座についている限り、その想いが誰に向かっていようと、彼との婚姻は免れない。
そこで彼は一計を案じたのだった。
それは、彼らのためだったのかと問われると、正直わからない。
自分はそんな殊勝な人間ではないから、報われない想いを抱えて惨めになるだろう、未来の自分のためだったのかもしれない。
為政者にはあるまじきことだとわかっているが、ネルガーの事件も引きずっていた彼は、正直なところ、自分が王として国を統治する未来を描けないでいた。
平民の女性に出会い、真実の愛を見つけるというストーリーは、とてもシンプルでわかりやすい。
一時の感情に流されて、政略結婚の相手である公爵令嬢に婚約破棄を突きつけてしまった彼には、色恋沙汰で政治的な判断をも誤る人間だという、不名誉なレッテルが貼られる。
そしてそれは、王太子を交替するのに、最適な根拠となったのだ。
全てが、彼の思惑通りだった。
事実、普段なら「血筋が……」と言って渋るだろう上級貴族たちの誰も、婚約破棄劇の後には王太子の交替に異を唱えなかった。
結果的に、彼の計画はとても上手くいった。
ついでに、ずっと気になっていた辺境の貧しい領地に飛ばしてくれるようにと、弟だった新王太子に頼んだ。
何かを勘づいたらしい弟には引き止められたりもしたが、彼は城に留まることはしなかった。
そうして彼は、全ての憂いと一切の迷いを捨てて辺境の地へ降り立ったのだった。
同行した彼女に愛を囁きながらも、何かを期待していたわけではなかった。途中で彼女が逃げたとしても、彼は追いかけないつもりだった。
ただ、一人になるのが寂しかった――本当にただそれだけだった。
しかし、時間は人の心も関係も変えていく。
十年と言う年月は決して短いものではなかった。
伸ばしていた髪を短く切り、指にあかぎれを作りながらも、彼と一緒に働く彼女の姿は、いつしか自然に彼の心に染み込んでいった。
いつも隣にいるのが当たり前で。
しかし、これはかけがえのない日々なのだと。
ただただ、彼女が隣で笑うのが。
愛しくて愛しくて。
自分が穏やかな恋の真っ只中にいるのだと、自覚するには充分な時間だった。
「復讐、してくれればよかったのに」
ぽたり、とまた言葉が落ちる。
「君は私に幸せを与えてくれただけだった……」
虐げられていた義実家への一番の復讐は、自分が幸せになることだと笑っていた彼女。
十年も彼に尽くしておいて、これが復讐だったと告げ、最後に彼のための涙を流した彼女。
『ありがとう』
震えていた唇は確かに告げていた。声にはならなかったけれど、彼には届いていた。
「ありがとう、レクシェル。愛してる、本当に――」
ぽつり、と墓碑を打ったのは、透明な雫だった。
ぽつり、ぽつり、とそれは、透明なシミを作っていく。
彼は灰色の空を仰いだ。
次々と滑り落ちてくる冷たい雫が、彼をコートごと濡らしていた。
(完)
お読みくださりありがとうございました!
追記:
誤字報告、感想などありがとうございます。