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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

勿忘

作者: 波音久渡

ここは、とある片田舎にぽつんと佇む小さな神社。周囲の森は鬱蒼と茂っており、人による手入れもままならないのか、鳥居には苔がびっしり生えており、本殿も所々朽ちている。

そんな、人間の記憶からとうに忘れ去られたような場所の片隅に彼はいた。昼過ぎの長い春雨に打たれながら、目の前にある盛土に向けて呪詛のように呟く。


寂しい。

悲しい。

苦しい。

何もかも…憎い。


薄汚れた毛並み、痩せこけた身体。最愛の嫁が眠るこの地で、その狐はうっすらとその瞳に涙を浮かべる。




死因は交通事故だった。人間が駆る鉄の車に、嫁の命は唐突に、理不尽に、為す術もなく奪われた。嫁を探しに走った狐が見たものは、道路の脇に咲く大量の花。そして、辛うじて狐の形を留めていた『何か』であった。


どうして、嫁が死ななければならなかったのか。


やりようのない怒りをどうにか抑え、亡骸を弔うべく近場にあった神社へと向かう狐。住処は全く別のところにあったのだが、不思議と、導かれるように彼の地へと亡骸を運び、あまり目立たぬ境内の隅で土葬した。

生まれて直ぐに出会い、流れるように番となった嫁狐。腹には子も孕んでいた。あまり意識したことはなかったが、そこには確かに愛があった。

そして、最愛の者を失うことが、これほど辛いものだと狐は知らなかった。ここに来て初めて、悲しみが怒りに勝り、狐は静かに嗚咽した。




思えば、あの日も今日のように雨だった。かれこれ一年程の時が過ぎるが、新たな番を探す気には到底なれない。嫁を失った狐の心にはぽっかりと洞が空いていた。


人間が。

雨が。

愛が。

何もかも…憎い。


未だに払拭できぬ、やりようのない怒り。涙を湛えるその淀んだ瞳には、静かな怒りが憎しみと共に秘められている。


こんな気持ちになるのなら、愛など知りたくなかったーー。




毎日の様に行われる墓参り。最後に供物として鼠の死骸を盛土の前に置くと、狐は住処として使っている本殿の屋根裏へと駆け上がる。本来は巣穴を掘って地中で過ごすものだが、この人気のない神社ではその手間も省ける。何より、餌となる鼠もそれなりに迷い込んでくるので、狐にとってはこれ以上ない食料庫でもあった。


しとしとしと。しとしとしと。


夕刻を過ぎても止まぬ雨が朽ち果てた屋根を叩き、何処か物悲しい音を奏でる。悲愴、哀惜、憎悪……今の狐の心情を代弁するかの如く。


しとしとしと。しとしとしと。

ーーざっ。


ふと、聞きたくもない雨音に混じる、それとは似ても似つかぬ雑音。狐にとっては確かに聞き覚えのある、不愉快極まりない雑音。


人間か。


狐にとっての生きる意味は、とうに失われていた。亡き嫁に想いを馳せ、いずれは一人静かにこの地で果てる。それが狐にとっての本願であり、運命だと思っていた。

けれどもただ一つ、狐にとって何よりも優先すべきことがある。嫁の眠るこの地に、生涯の仇である人間を何人たりとも踏み入れさせてはならぬ。その為ならば、例え我が身が引き裂かれようとも構わぬという、強い覚悟の下。


しとしと。しとしと。

ーーざっ。ざっざっ。


徐々に大きくなる人間の足音に、狐はその瞳に憎悪の火を灯す。長雨に打たれ冷えきった身体に鞭を打ち、屋根裏に僅かに存在する穴から外の様子を伺った。

雨足は先程よりも緩やかで、足音もより鮮明に聞こえてくる。僅かな明かりを灯す電灯に照らされ、鳥居の向こうにうっすらと映るその人間は、どうやら女のようだ。こんな雨だというのに傘も差さず、小柄な体躯に見合わぬ長い黒髪を濡らしたまま、鳥居の真下で立ち止まった。


こんな遅がけに、何をしに来たんだ。


ただでさえ人気のない神社に、わざわざ立ち寄る理由など簡単には思い浮かばない。狐は怪訝そうな表情を浮かべつつ、女の動向を注視する。

件の女はというと、どこかうわの空といった表情で鳥居を見上げ、次第に足元へと視線を落とす。そして、左手に持っていた何かをそっと石畳に置き、静かに両手を合わせた。


……どういうつもりだ?


あまりに突飛な行動に、狐の脳内は疑問符で埋め尽くされた。あの行動は、自身にとっての嫁の墓参りと似たようなものであると、狐は理解している。理解しているが故に、その行動が意味する所を理解出来なかった。そこに墓がある訳でもあるまいし、一体何に対しての手向けなのだろうか。

一連の動作を終えた女は、特に言葉を発することもなく、踵を返してこの地を振り返ることなく、立ち去っていった。


……不気味な人間だ。


当初の憎悪は何処へやら、肩透かしをくらった気分の狐は小さく溜息を吐いた。きっと二度と会うこともないだろうし、気にしても仕方がない。

しかし、何故かこの時は好奇心の方が勝った。狐は重い身体を無理矢理動かし、先程の女が置いていった物を確認するべく、屋根裏から外へと飛び降りる。


なんだ、これは。


石畳の上に置かれていたのは、小さな花を無造作に寄せ集めた花束。青色、水色、桃色……色とりどりの小さな花だったが、狐はそれらの花に既視感を覚えていた。

そう。あれは嫁が亡くなった時に見た景色にあった、大量の花だ。


……当てつけのつもりかっ!


本能的に怒りを覚えた狐は、その花束を咥えると、一心不乱に首を振る。遠心によって舞い散る花弁が狐の身体に貼り着くが、そんな事はお構いなしに首を振り続けた。

暫くして狐も気が済んだのか、咥えていた花束"だった"ものを吐き捨てる。辺り一面に散らばった花弁は雨に流されると共に、独特な香りを撒き散らした。


懐かしい、香りだ。


一度見たきりの花だというのに、狐はこの香りを遥か昔から知っている。それはまるで、亡き嫁を彷彿とさせる愛おしい香り。

ただでさえ荒れていた感情に横入りしてくる、自身の心を揺さぶる言葉にならない感情。その正体が狐には分からず、ただ唸るしかなかった。




それからというものの、毎日のように雨は降り続いた。そして、毎日のように嫁の墓参りをしては、屋根裏に身を隠す。すると示し合わせたかのように件の女は現れ、毎日のように花束を石畳に置いていった。

狐はというと、花束を咥えるともう振り回すことはせず、自然と嫁の眠る墓にそれを供えるようになった。何度香りを嗅いでも思い出せないが、それでも脳裏に鮮明に嫁の姿が思い浮かぶ、不思議な花束。


自覚こそしていなかったが、狐はこの花束の虜になっていた。




そんな日々が一週間ほど続いたある日、狐は女に接触を試みようと思い立つ。確かに人間は憎いが、あの女に関しては不思議とその様な強い憎悪を抱くことはない。寧ろ、あの花束を毎回この地に届けてくれていることに、感謝の気持ちすら覚えてしまった。


……ざっ。ざっ。


相も変わらず雨が降り続く中、いつも通りに女の足音が聞こえてくる。待ってましたと言わんばかりに屋根裏から飛び出すと、徐々に近づいてくる足音の主を拝むべく、鳥居のすぐ手前で待機した。


…………。


薄らぼんやりと電灯に照らされたのは、遠目からではあるが見慣れたいつもの女。狐には人間の美醜が分からなかったが、傍から見ればそれはそれは美しい顔立ちの女だった。


……なんでしょうか。


狐を見るや否や、女は何の躊躇いもなく問いかける。まるで、狐を人間と同じように意思疎通が出来るものと理解しているかのように。


何をしに、ここに来ているんだ。


無論、狐には人間の言葉が分からない。音として聞き取れても意味が理解出来ないため、女が発する言葉に対し、狐はただ問いかけることしか出来なかった。


わたしは……何をしているんでしょうね。


小さく首を傾げながら、困ったような表情で答える女。しかしそれ以上は特に気にすることも無く、左手に持っていた花束を石畳に置く。

決して無視されている訳ではないのだが、狐にとって納得のいく返答でないことは、女の言動から見てもはっきりわかる。


こんな時間に、こんな場所で、何をしているんだ。


言葉として発していないため、そもそも理解されないのは重々承知。しかし多少の苛立ちを覚えながらも、狐は再び問いかけた。すると女はしゃがみこみ、花束に向けて手を合わせる……かと思いきや、おもむろに痩せこけた狐の頭に手を置く。

その感触は、この世のものとは思えなかった。雨に打たれているとはいえ、そのか細い手はあまりにも冷たく、まるで血の通っている人間とは思えない。


……少しだけ、お話しませんか。




しとしとと小雨が屋根を打つ境内の本殿に、一人と一匹は腰掛けていた。びしょ濡れになった身体をふるふると震わせた狐だが、ここにきてようやく女が雨にさらされているにも拘わらず、身体が一切濡れていないことに気付く。


お前は、何者だ。人間なのか。


腰掛けて微動だにしない女を見上げながら問いかける。その言葉にならない意思を正しく理解したのか、女は狐の眼をしっかり見据えると、優しく微笑みかけた。


人間……でした。わたしも、この近くで亡くなったんです。


口は動かしていない。しかし、狐にはその意思をはっきりと感じることが出来た。女の言葉をそのまま鵜呑みにするならば、女は幽霊という解釈で正しいのだろうか。


だとしたら、何故ここに来る。あの花束は、誰の為に供えている。


狐にとっては、女が人間であろうと、幽霊であろうと、どうでもよかった。ただ知りたいのは、女にとってこの地に訪れる理由。それだけ。


何故、でしょうか。わたしの意思ではないと思いますが……この地に呼ばれている気がして。


女の言葉に嘘はない、狐の直感がそう告げていた。にわかに信じ難い話ではあるが、目の前に幽霊らしき者が存在している時点で、狐の中から"常識"の二文字はとうに失せている。


あなたは、心当たりがありませんか。わたしが今、ここに存在する理由。この地に導かれた理由。


知るか。と答えてやりたいところではあったが、狐にとって最早他人事ではない。少し情けなく思い悩むその姿がほんの少しだけ、嫁の佇まいを彷彿とさせてしまったのだ。


すまないが、おれにも分からぬ。ただひとつ……お前の供える花束からは、亡き嫁の香りがした。


狐の意思を聞いた女は、少しだけばつの悪そうな顔をする。しかし狐は苦笑しつつも、自身や嫁のこと、交通事故が起きた日のこと、その日から今日までの自身のこと……全てを聞かせた。そして不思議と、狐の中に渦巻いていた憎悪が以前よりも和らいでいることに気付く。


……まぁ、そういう事だ。だからその花束を、毎晩嫁に供えていた。勝手なことをしてすまなかった。


全てを黙って聞いていた女は、何故か涙を零していた。突然の涙に狐は戸惑いを隠せず、それでも自身に出来ることは何も無く、ただ女を見上げることしか出来ない。しばらく涙した女は、実体のない眼を紅く腫らしながらも、狐に向けて精一杯の笑みを浮かべる。


ごめんなさい、感極まってしまって。ただ、あなたのおかげで、わたしが今ここにいる理由……なんとなくですけれど、解った気がします。


ふと、女は正面にある石畳を指差す。その先にあるのは、先程自分で置いた花束。小雨から霧雨へと弱まった天候の下、電灯の灯りを受けて花束に付着した雫がきらきらと輝いている。


あの花は、"勿忘草"という名前なんです。人間は数ある花に言葉を与えるのですが、勿忘草には"私を忘れないで"という言葉が与えられています。

きっと、あなたの奥様がわたしをこの地に導いたのですね。


あまりに都合のいい話だとは思う。それでも狐は、胸を締め付けられるような想いに歯を食いしばるしかなかった。


……忘れるはずがないだろう、莫迦。


怒りではない。悲しみでもない。今まで知らなかった感情に襲われた狐は、そう呟くのが精一杯だった。


えぇ、きっと奥様も解っています。だからこそあなたは--。


その時、雨が止んだ。

同時に、女も姿を消した。

あまりに突然の消失に、狐は慌てて周囲を見渡す。しかしどこにもその存在は無く、雨上がりの雨垂れが屋根から伝い落ちるだけだった。


……生き続けて、か。


静かに狐は独り言ちた。




それからというものの、狐の前に女が現れることはなかった。あれほど降り続けていた雨も綺麗さっぱりと消え、片田舎の夜空には星の海が広がっている。

狐はというと、相も変わらず本殿の屋根裏を根城としながら、亡き嫁を想いつつ生きている。ただ、その眼は今までと違い爛々と輝いており、生気に満ちていた。墓の前の供物も、鼠の死骸に取って代わって、近辺で採れる勿忘草になった。


寂しさ。

悲しさ。

苦しさ。

全て受け止めて、生きるよ。


あの女の言葉、亡き嫁の想い。

狐は決して忘れないだろう。

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