空白のロマンス
ふと気がつくと、私は男の格好をしていた。
「ここは…?」
あたりを見回してみる。
そこはまるで西部劇の荒野のような場所だった。
そして、私は馬車の手綱を握り締めていた。
なぜ、こんなところにいるのだろう。
「う……うう……」
突然声がして、飛び上がりそうなほどびっくりした。
それは女性のうめき声で、馬車の下から聞こえている。
私は急いで馬車を降りた。
すると、金色の髪の女性が血まみれになって倒れていた。
「大丈夫ですかっ!」
私はその女性を助け起こし、傷を見た。
身体中が無数の切り傷でズタズタになっている。
すると、彼女はうっすらと目を開け、私を認めると口を開いた。
「お願い…ケベックまで私を……」
彼女はそう言うと、目を閉じようとした。
私は慌てた。
「待ってください。ケベックとはどこにあるのですか?」
だが、女性はそれに答えず、目を閉じた。
そして、その目は、再び開かれることはなかった。
(どうしよう……困った)
「は───」
大きくため息をつき、馬車を降りる。
ここには鏡はない。
だが、手で自分の髪を触ってみると、男のように短く刈り込んであるのがわかる。
着ている服も、薄汚れたズボンにシャツ、革のベストと、まさしく男が身に付けるものだった。
しかし、私は自分が女であることを知っている。
それなのに、自分がいったい誰なのかがわからないのだ。
何も思い出せないのを不安に思いながら、私は何気なく血まみれの女性の傍らにしゃがんだ。
「触るな!!」
ビクッとして振り返る。
少し離れた場所に、少年が一人、真っ黒な馬にまたがり、怖い目でこちらを見つめていた。
「………」
にらみつけるその目や、風にあおられた髪は、彼の乗った馬よりも闇のように黒かった。
この暑い中にもかかわらず、黒い手袋にブーツを身に付け、着用している服も黒に近い濃い紫で、首や腕、脚はピッチリとおおわれている。しかも、服と同じ色のマントまでまとっていた。
なんて、暑苦しいんだろう。
それにしても、さっきまで誰もいなかったのに───
「その死体に触るんじゃない」
少年はそう言いながら、ヒラリと馬から飛び降りた。
「え……?」
私は女性に目を向けた。
その間、少年はそばまでやってきたらしい。私は気配を感じ、ガバッと振り返った。
「!!」
ドキン───と、胸が高鳴った。
身体が動かない。
いつのまにやら、少年は、しゃがんでいた私の傍らに片膝をついていた。
(な……に…?)
彼はジッと私の目を覗き込んでいる。
深い深い闇の色───そんな瞳に射すくめられ、私の身体はなぜか動けない───と、その目がフッと和らいだ。
「さあ、行こう」
「え?」
意外にも優しい声だった。
私の胸の高鳴りがいっそう激しくなる。
もしかしたら顔も赤くなっているかもしれない。
「どこに?」
「オレたちの家に決まってるだろ」
「え……オレたちのって……ボクたちは兄弟なのか?」
「はっはっは!」
突然、少年は声を上げて笑った。
「何をわけのわからんことを。おまえはオレの妻じゃないか」
「な、何をっ! ボクは男だぞ!」
私はそう叫んだが、声はうわずり、震えてくるのをとめることができなかった。
「いいや、おまえは女だ!」
彼は怪訝そうに目を細めた。
「何をするっ!!」
彼は嫌がる私の手をつかみ、無理やり馬に乗せ、自分も飛び乗ると馬上の人となった。
彼の胸が、私の背中にピッタリとつく。
「…………」
またしても、胸がドキドキしてくる。
「なぜ……」
すると、少年は、後ろから私の耳に囁いた。ハスキーでクラクラしそうなくらいのいい声。
「なぜ、お前がオレを忘れてしまったのか、わからんが……いいか、おまえはオレの女だ。この世でたったひとり、オレが愛する女はおまえしかいない」
(ああ……)
彼の声は、まるで魔法のように私の心をとらえて揺さぶる。
「ハッ!!」
彼は勢いよく掛け声を上げると、馬を走らせた。
(なぜ…?)
私の身体は、少年に後ろからしっかりと抱きしめられ、馬の動きとともにゆれていた。
わからない。
いったい何が起きたというのだろう。
ここは私のいるべき世界なの?
夢なんじゃないの?
なぜ、私は男の格好をしているの?
この少年の言っていることは正しいの?
誰か───
誰か私に教えて──────
だが、天からも、どこからも、私の心の叫びに答えるものはなかった。