第一話【夏の終わりと寒い秋】(1/2)
千石はあまりに速かった。
仁が振り下ろした一撃は、完璧なタイミングで理想どおりの軌跡をえがいた。それは紛れのない必殺のはず。にもかかわらず、彼の竹刀は空を切る。
心臓が跳ねた。その身に危機が迫っていると警告する。しかし、その信号を受け取った仁の脳が、思考を開始するよりも前に……。
破裂音が、鼓膜を震わせた。
「胴あり!」
視界の右端で、審判が赤い旗を上げる。それが自身の敗北を示すものだと理解するまで、数秒を要した。
言い訳のしようもないほどの完敗。蒸し暑い防具の中で、仁はため息を漏らす。
幾度となく繰り出した攻撃は、ひとつとして千石には届かず。かたや稀代の天才剣士は、たったの一太刀で仁を切り伏せてみせた。青春の全てをかけても埋められないと思えるほどの差が、そこにはあった。
ふいに、刺すような痛みが走った気がした。仁は思わず、防具の上から腹を押さえる。
「……!」
一瞬だけ、幻覚を見た。
胴に触れた小手が、真っ赤な血で染まっている。千石の面抜き胴が、彼の腹部を真一文字に切り裂いたかのごとく。
(いや、そんなはず…………)
震える手を強く握る。深く息を吸い、気を確かに持てば、幻影はすぐさま消えうせた。
当然だ。たかが竹刀で防具を破壊し、その下の人体までもを断ち切る。そんな芸当ができるものなど、存在するはずもない。いかに眼前の男が、中学剣道界において歴代最強ともくされる傑物だとしても。
幻覚は去り、仁は無事に現世へと帰還した。なのに、彼の視界はかすみ、揺れはじめる。
「……ッ!? おい、ジンッ!」
叫んだのは哲夫か。だが、もはや彼はその声に応えることすらできない。
景色が回る。審判が焦った風で、誰かに何かを呼びかけているのが見えた。大人たちが慌てて駆け寄る。なぜか千石がよろめき、膝をついた。
記憶は、そこまで。
こうして、彼の夏は終わりを告げる。いつかに読んだ物語なら、彼はこのまま別世界に転生し、壮大な物語の幕が上がるのだろう。
しかし、目覚めたのは医務室のベッドであった。倒れた原因が脱水症状だったことや、千石が無傷で優勝したことを、ぼやけた頭で聞き流す。当然ながら、そこは以前と変わらぬ現実だ。脳裏にこびり付いた敗北の記憶は、高校に進学した今も消えることはない。
たったひとつだけ、変わったことがある。
仁は剣道を辞めた。
竹刀はあの日から一度も握っていない。
第一話【夏の終わりと寒い秋】
「だからぁー、みるてぃのパンツがイチゴ柄だったんだよ!」
哲夫が仁の両肩をつかみ、揺さぶる。生ぬるい息を頬に受け、仁は思わず顔をしかめた。
「そ、そうか……よかったな……」
綺麗な空気を求めて顔を背ける。十一月の乾いた風が、仁の肺を満たした。夏の猛暑はどこへやら、今年の秋は例年よりも少し寒い。
教室を見渡す。窓際に座る彼らへ、クラスの女子たちが冷ややかな視線を向けていた。
(なるほど、こりゃあ肌寒いわけだ)
仁はひとり納得する。しかしその元凶である男はというと、そんなことなど意にも介さず、尚も気持ちの悪い熱弁を続けている。
「あー、もう俺、みるてぃと結婚するわ。うん、これはもう、そういう運命だわ」
彼、浅黄哲夫は仁の親友である。『みるてぃ』というのは、彼のお気に入りのバーチャルアイドルだ。昨年にハマってからというもの、事あるごとにその魅力をに伝えようとしてくる。
みるてぃとやらのことは未だによく分からない仁だったが、この男の気色悪さの方は嫌というほど実感させられていた。
「結婚ってお前、画面の中に入る能力でも身につけたのか。それとも、ついに狂ったか?」
「ジンも祝福してくれよな!」
「話を聞け!」
仁のツッコミを一切無視して、友人は満面の笑みで親指を立てた。
「……俺は親指を粉砕する能力が欲しい」
「そんな冷たいこと言って、ジンだってモテないんだからさ~!」
「それはほとんど……お、ま、え、のせいだッ!」
仁が語気を強めたところで、哲夫は両手の人差し指を彼に向けてニヤけるばかり。
「……やっぱり、全部の指をへし折る能力にするわ」
周囲からの軽蔑の目も、メンタルお化けの哲夫にはどこ吹く風。休み時間の教室でこんな話をできる彼の精神力は、ある意味では尊敬に値する。……とはいえ、その巻き添えを食らう側からすれば、いい迷惑だ。
おそらくクラスメイトたちからは、仁は哲夫と同種の人間だと思われてしまっているのだろう。
青崎仁は、ごく普通の高校一年生である。唯一の取り柄と呼べるものもあったが、それは中学三年の夏に手放してしまった。今は馬鹿な友人に振り回されながらも、平穏な日々を過ごしている。
「なあ、実際さ、気になる女子くらいいねーの? 俺は二次元しか興味ない……ってか、みるてぃ一筋だけどさぁ」
デリケートな話題に気を使ってか、哲夫が声をひそめる。音量調節ができるなら最初からしろと思いつつ、仁は首を横に振った。
「いないっての」
「このクラスでも山下とかレベル高いと思うぜ? あとは隣のクラスの白坂、二年の工藤先輩も綺麗だよな……」
頭の中でどんな妄想を繰り広げているのか、虚空を見つめて頬を赤らめる哲夫。ほんの数秒前まで、二次元にしか興味がないとか抜かしていたはずの男である。
朱に染まった彼の頬を張り倒したい衝動に耐え、仁は穏便に言葉の暴力を駆使することにした。
「そんなお前に残念なお知らせだ。まず山下はお前のことをゴミを見るような目で見てるぞ。同じクラスだから当然だ。脈はない。
さらに白坂はヤンキーだろ。そりゃ、お前みたいなオタクとは相性最悪だ。
そして工藤先輩だが、すでにサッカー部の赤鰊先輩と付き合ってるんだとさ」
「マジかよ! 俺の青春終わったじゃん!」
テツオが両手で頭を抱えて天井を仰ぐ。PKを外したサッカー選手のようなリアクションなのは、赤鰊先輩の名前に引っ張られたからに違いない。
だが、その落胆も一瞬のこと。
「いや、まだ一人残っている」テツオは不適な笑みを浮かべ、「……黒須がいるじゃないか」