第七十話 迷宮の底
ふぅ、大分落ちたな――
上を見ながら俺はそんな事を思う。ポッカリと空いた穴は下から見たら円形の物に変わっていた。落ちている内にだんだん周囲の壁に変化が現れていたのは判っていたけどな。
何せ途中から四方から絶壁が迫ってきているような感覚に陥ったぐらいだ。
そんな穴だ、地面が見えた時は完全に壁走りに切り替えて、後は一気に駆け抜け着地した。
といっても、穴から地面までもかなりの高さがあったけどな。元の穴を再度登るとなるど正直かなり手間が掛かりそうだ。
落ちる時なら勢いにある程度任せられるけど、登るとなるとそうもいかないしな。面倒だし。
どちらにせよ、恐らくこの層も迷宮の一部だ。迷宮のステータスでは深層が地下五十五層まであることになっていたから間違いないだろう。
つまり、落ちるだけで終わりという事は考えづらいという事でもある。勿論あくまで迷宮の構造を信用するならだが、迷宮である以上、基本的には地上に戻れる手段は用意されている筈だからだ。
だから、とりあえず俺は偵知の術を行使する。網の目状の忍気を広げ、周辺の状況を調べるつもりだが――なんだこれ? どういうことだ?
俺の頭に疑問符が浮かぶが、とにかく上下も合わせてめいいっぱい広げようとする――が、駄目だ。
俺の偵知が何かに阻害されている。しかも、どういうわけか近くにとんでもない量の忍気を感じる。
意味がわからないが、とりあえず、地面に寝かしているマイラもどうにかしないとな。
偵知の術も何かに阻害されている以上、マイラをとりあえず寝かしたままにするというわけにもいかないしな。
本当は寝かせておいて背負うという手もなくもないが、この場所はあまりに不可解で、背中に彼女をやったまま乗り切れるか? となると不安もある。
そうなると、起こすしかないが――問題はやっぱその後だよな。俺のこと、どう説明しようか……ごまかす、わけにもいかないよな。
何せ落下途中のマイラに宙吊りになってる俺をバッチリ見られている。気のせいとか夢だと言うにしても、下まで降りてきたという事実もあるしな。
いっそ変化の術で化けて、俺は死んだことにしてしまうか――
ふと、気絶しているマイラの顔を見る。眠っているのと変わらないか。
普段は、っす! っす! と語尾につけて少々元気すぎなところもあるけど、よくよく見るとやっぱ可愛い顔してるなこいつ。
ごまかすか……どうもな。マイラが俺を助けるために我が身も顧みず飛び込んだというなら、それはそれで妙に不誠実な気もしてしまう。
う~~~~ん! でも、いい加減悩んでもいられないよな。流石にこのままというわけにも――
『ウオオォオォオオォオオオォオン――』
「ひゃっ! な、なんすか! なんすかこの声は!」
「――あ……」
「へ? あぁああぁああ! シノブ! 無事だったっすか!」
まいったな――上でも微かに聞こえていた不気味な唸り声が、ここだと更にはっきりと俺たちの耳に届いてしまった。
おかげで、マイラも意識を取り戻してしまった。つまり、もう俺はごまかしようがない。
「良かったっす! 心配したっすよ!」
「て、うぉ!」
するとマイラが立ち上がり、そして俺の体に飛び込んできた。
お、おいおい――
「馬鹿おま、いきなり抱きつくんじゃ……」
「シノブ、良かったっす。ふぇえぇえん、良かったっすよぉおぉおおお」
ちょっと焦り気味に声を発してしまったが、マイラは俺の胸の中で泣き出してしまった。
……参ったな。そこまで心配してくれていたなんてな。俺は後頭部を擦りながら天井を見た。
どうもこういう状況は慣れてない。
「あ~なんだ。まぁ、お互い無事だったし、良かったじゃないか……」
「うぅう、確かに、それはそれで、良かったっすぅうぅう」
「うぉ! お前、涙と鼻水、うわ、ちょ! つけるなそれ!」
色々台無しだぞ! あ~もう! とりあえず確かティッシュがあったはずだ、次元収納から密かに取り出して、そして顔を拭いてやる。
「ほら、鼻もしっかりかめよ。全く、子供かよ」
「うぅ、ありがたいっす」
マイラが渡したティッシュで、チーン! と鼻をかむ。さっき少しでも可愛らしいと感じたのはどうやら幻想だったようだ。
「ふぅ、でも本当、シノブが無事で良かったっす。うん、良かった……て、なんで無事なんすかーーーー!」
マイラが思い出したように声を張り上げた。
あ~やっぱそうくるか。くるよなそりゃ。
「そもそもあたしも無事なのおかしいっす! しかもなんか無傷っす!」
「何だ気づかなかったのか? 思ったよりも穴は浅かったんだよ」
「え? あ、なんだそうだったんすか!」
「そうだったんだよ」
『あっはっはっはっはっは』
二人で声を揃えて笑った。そう、単純な話さ。
「そんな筈ないっすーーーー!」
怒鳴られた。流石にこれはいいわけとしては浅はかだったか。
「大体、あの穴が落ちてきた穴っすよね! こっからあの穴までだけでも大分高いっす!」
「そこに気がつくとはやはり天才か」
「……シノブ、もしかしてあたしの事、馬鹿だと思ってるっすか?」
うん、ごめん、ちょっとだけ思ってた。
そしてじーっと訝しんでくるマイラ。
仕方ない。俺はマイラの前に立ち肩を、ポンッ、と叩いて教えてあげた。
「マイラ、きっと運が良かったんだよ」
「なんだそうっすか。運なんっすね! ラッキーなんすねーーーーて、いい加減真面目に答えるっす!」
チッ、駄目か。なんだよ、たまにはそういうこともあるだろう。間違いなく地下五十メートル以上は落下したけど、運が良ければ二人共無事でいることだってさ。
「シノブ、あたしが信じられないっすか?」
「へ?」
「あたしが、信じられないから、本当の事を言えないっすか……」
ふとマイラが目を伏せて、どこか沈んだ調子で問いかけてくる。
まいったな。正直信じる信じないの話だけでもないんだが……こんな顔されると心苦しい。
それに、あの声といい、色々対処しなければいけないこともある。
そうなると、やはり素性を隠したままというのは――現実問題厳しいだろうな。
「――ふぅ、判ったよ。全て話すよ。ただし、このことは絶対に誰にも言うなよ?」
「!? 勿論っす! あたしは口が固いのが取り柄っす! 秘密の手帳も誰にも見せてないっす!」
「いや、それはいきなり不安になる話なんだが。大体、それマイラの秘密だから見せないの当然だし、そもそも俺が見てるだろ」
「あれは覗かれたっす! 無効っす無効っす!」
マイラが必死に訴えてきた。
まぁ、確かに勝手に読んだのは俺だけどな。
とは言え、あんな感じにデカデカと秘密の手帳とか書かれた中に記されるのは勘弁してもらいたい。
「とりあえず、秘密の手帳に書き込むのは禁止な」
「え! 駄目っすか!」
「……やっぱ話すの止めとくわ」
「う、嘘っす! 書かないっす! あたしの胸に秘めるっす!」
マイラは胸を突き出すようにして宣言した。
まあ、どちらにしても教えないと話が進まないしな。
「判った、じゃあ、ある程度噛み砕いて話すぞ」
「合点承知っす!」
何か時折言葉のチョイスがおかしい気もするが、とにかく俺は自分が忍者で、この穴に落ちても平気だったのは忍術という魔法のような力のおかげということまで説明した。
「そんなわけだ。理解したか?」
「……な、なんとなく判ったっす!」
「本当に判ったのか?」
半眼で問い返す。何とも怪しい。
「も、勿論っすよ! とにかく、シノブはただの無職ではなく、前の世界では淫者で淫術を得意にしていたってことっすね!」
「忍者で忍術だ! 何をどう聞き間違えたらそうなるんだ!」
何か微妙にイントネーションから卑猥さが滲み出てたしな! なんとなくだけど!
「……でも、だとしたらどうしてステータスではただの無職って出たっすかね?」
そして、マイラが首を傾げて疑問を呈してきた。確かにそこは不可思議なところでもあるけどな。
「よくわかんないけど、でもこっちには忍者というクラスはないんだろ?」
「う~ん、確かにそうっすけど……それにしてもステータスがおかしいっすよね」
確かにそうなんだけどな。マジックとオーラは知らんが、正直パワーやスピード、テクニックはありえないほど低いし。
「まあ、そこは今考えても仕方ないしな」
「確かにそうっすね」
自分から言っておいてなんだが、マイラもあっさり納得したな。
「でも……も、もしかしてシノブが秘密を教えたのは、あ、あたしが初めてっすか?」
うん? なんか突然上目遣いでそんな事を聞かれた。いや、それはな……。
「いや、正直二人目だな」
「に、二号さんってことっすか!」
「妙な言い方するなよ!」
なんか俺がたらしとかそんな感じに思えるだろ、その言い方だと!
全く。まあ、正直ネメアも入れると別だけど、あれ人じゃないしな。
「……初めてだと思ったっす――」
そして、何故かマイラはそこが気になるらしい。なんでだよ、そんなに初めての女になりたかったのかよ。
「あぁ、まぁ、そうだな。あの城や宮殿の中ではマイラが初めてだな。うん」
「え? 本当っすか!」
何の慰めにもならないだろうなと思いつつ、仕方ないから無理やりそっち方面でごまかしてみたら意外と食いつきが良かった。
「そうっすか~ふふっ、えへへ~」
「……そんなに嬉しいものかねぇ」
本当、何がそんなに嬉しいのか。
「う~ん、でも、そしたら一体誰に教えたっすか?」
「まあ、それはその内教えるよ。それよりもここから出るほうが先決だ」
「そ、そうっすね……さっきから気味の悪いうめき声も聞こえてるし、早く出たほうがいいっす!」
うん、そうなんだよな。声は実は断続的に聞こえてきている。
「そうだな、じゃあその前にマイラのステータスも聞いていいか?」
「え? あたしっすか?」
「ああ、とにかく二人で迷宮をでないといけない以上、俺もマイラの正確なステータスを知っておきたいんだが、何か問題あったか?」
「……べ、別にないっすが、わ、笑ったり呆れたりしないっすか?」
は? 何でそうなるんだ? う~ん、もしかしてあまりLVが高くないとかか?
でも、だとしても――
「笑うわけ無いだろ。俺が無職でも馬鹿にすること無く接してくれたマイラなら特にな」
「……な、なら見せるっす!」
と、いうわけでマイラのステータスを見せてもらったわけだがな。