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神の黙示録  作者: 六野薫
夢と理想と現実(あるいは長すぎるプロローグ)
8/24

「ばっ……かじゃないの!」


 優斗が男子生徒に襲われた次の日の昼休み。

 青桜高校の学食の端で報告を終えた優斗に、柴乃が言い放ったのは罵倒だった。

 怒りのせいか、こめかみがひくひくと動いている。


「うっ、ごめんなさい」


「あなたねえ、どんな危険なことかわかってるの? 確かに普通の力で負った傷なら、あなたの言う通り擬似夢が終わったら、元に戻るわ。でも、あなたが対峙したのは普通の力じゃなくて、神力よ。強大な神力は、世界に干渉する。下手したら、あなた死んでたわよ」


 今更ながら優斗は身体を竦ませた。いかに無知が恐ろしいかを知る。

 その姿を見て柴乃は、はあーと溜息をつくと、絶対零度の視線をやや温かみのあるものに変えた。


「でも、まあいいわ。生きて戻ってきたなら。……それで、確かにその男は神力を持っていたのね」


 突然の話題の変化に、優斗は言葉を添えた。


「ああ、確かに持っていたはずだ。擬似夢のなかでも動けてたし」


「……ちなみに、その男の神器は何だったのかしら?」


「神器……? 確か……銃だったけど、それがどうしたのか?」


 優斗の言葉に、何かを考えるように柴乃が俯く。


「……これで、決まりね。黒幕は恐らく神力を持っている。それも、高位のよ。何で持っているかは気になるところだけど」


「高位って……神力に序列にあるのか?」


「当然よ。神力を持つ人間の属性は大きく分けて七つに分かれるの。それによって、序列ができるのよ。その男子生徒が持っていたのは、銃の神器だから黒幕も恐らく銃の神器ね。これは、序列二位の神器。かなり高位のものよ」


「……何で男子生徒と黒幕が同じ神器ってわかんるんだ?」


 柴乃が視線をこちらに向けて、食後のコーヒーが入ったカップに口をつけた。


「神力は譲渡が可能なのよ。意図的と偶発的、二種類あるけど。偶発的の方は、長い時間一緒にいなきゃいけないから、黒幕は意図的に男子生徒が渡したんでしょうね。そして、私と離れた瞬間、あなたを狙ったというところかしら」


 淡々と告げられた言葉が、優斗の脳内で噛み砕かれて理解し、一つの可能性を導き出す。


「じゃあ、もしかしたら、俺はこれからも狙われ続けるということか?」


 神力は譲渡可能なのだ。それなら、黒幕は自らの手を染めることなく、生徒に神力を植え続けて、優斗を襲わせることも可能ということだ。

 柴乃は優斗の言葉に首肯する。


「ええ、理論的にはそうなるわね。ただ、神力も無限ではないから、そう何人も渡せるわけではないけど」


 優斗はこれからの未来を予想した。直感など使わなくても容易にできる。優斗の周りの人間が、黒幕によって次々と優斗を襲うように仕向けられるのだ。

 でも──そんなことをさせては駄目だ。もう、二度と被害者を出してはいけない。なるべく早く、黒幕を捕えなければ──

 と。

 優斗の想念を、柴乃の凛とした声が打ち破った。


「そんなに自分で背負う必要はないわ」


「でも……俺がやらないと……」


「よく考えなさい。黒幕があなたを襲ったということは、あなたにそれだけの価値があるということ。脅威なのよ。霧神君、あなたはあなたの出来ることをやればいいのよ」


「俺に……出来ること?」


「そう。あなたが倒れたら、この計画は頓挫なのよ。そうしたら、比にならない数の人間が死ぬわよ」


 その言葉は決して脅しではない。

 優斗が《門》を破壊できなければ、恐らく柴乃の言った通りなるのだろう。獣に人間が蹂躙され、夢の世界の人間に奴隷として扱われる可能性すらあるのだ。


「……わかった。いったん、落ち着くよ」


「それでいいのよ。──それで、これからどうしましょうか? 霧神君が私の家に泊まる? それとも、私が霧神君の家に住むことになるかしら? まあどちらにせよ、同棲は決定ね」


「ち、ちょっと待て。いったい何の話だ?」


 トンデモナイことを口走り始めた柴乃を、優斗必死で止める。


「何って……私たちの今後の事なのだけど」


「ごめん……何でそんな話になってるんだ?」


 柴乃が大きく溜息をつく。


「はあー、物分かりが悪いわね。……いい、あなたはこれからほぼ常に狙われているのよ」


「……まあ、そうだな」


「そして、霧神君は自分の身を守れるほどまだ力を制御していない」


「そ、そうだな」


「だけど、私はあなたという存在を失うわけにはいかない。だから、霧神君を守れる私がずっと傍にいなきゃいけないじゃない。だから同棲よ」


 飛躍しているようにも感じたが、正論ではあった。

 しかし、年頃の男女が一つ屋根の下というのは抵抗がある。


「だ、だけど、同棲までしなくても良いだろ?」


「相手を舐めすぎよ。寝ているとき、お風呂に入っているとき。いつでも人間が無防備なる瞬間があるじゃない。同棲でもしなきゃ、止められないわよ」


「た、確かにそうだけど……ゆ、夕闇は、その……抵抗とかないのか?」


「ないわよ。だって、霧神君だもの」


 変なところで妙な信頼されていた。勘のときといい、柴乃はどうして優斗のことを無防備に信じているのだろうか。


「なに、それとも霧神君は変な妄想でも脳内で繰り広げているのかしら。厭らしい」


「ぐっ。わかった、わかったよ。でも、どっちに家にするんだ? 俺としては自分の家が良いんだけど」


「何? 早速、私を連れ込む気かしら」


「お前がやれって言ったんだろうが!」


 優斗の叫びに、柴乃は微笑を浮かべただけだった。


「冗談よ。──それでは、放課後またね」


 いったいどこからどこまでが冗談なのかを判断しかねた優斗は、食堂の席を立ち、颯爽と立ち去る柴乃を呆然と見つめるだけだった。






 六時間目の授業が始まる。

 それをぼんやりと見ながら、優斗は思考を巡らせる。


 結局──霧神優斗という人間は戦うことができるのだろうか。今まで、命を懸けた戦いどころか喧嘩すらほとんどしたことがない優斗が。

 昨日の戦闘は、正直流れに身を任せただけで、優斗自身何の覚悟も持ってはいない。


 死ぬ覚悟も、命を奪う覚悟も。


 だが、実際はそうはいかないのだ。

 誰かを守るために、もしくは世界を守るために、優斗は何かを犠牲にすることが、相手を殺すことができるのか。

 昨日は自分の手を染めずに済んだ。しかし、次もそうなるとは限らない。


 それに──


 優斗の脳内に由香里のことが浮かんだ。

 今までずっと逃げてきた。有耶無耶にしてきた。だが、それももう終わりにしないといけない。『大切なもの』を失くすことばかりを恐れるばかりでは、過去を振り切って前に進むことは出来ないのだ。

 

 失くさせはしない。

 消えさせはしない。

 優斗が必ず守るのだ。


 力は足りないかもしれない。でもそれでも、夢から、過去から、現実から目を背けるのはもう止めるべきなのだ。現実を直視して、今度こそ理想を実現するのだ。

 今度こそ──

 あてもない思考に身を任せた優斗は次第に意識を思念の渦の中に埋めていった。








 朦朧とした意識が次第に覚醒する。


 どうやら、あの後優斗は眠ってしまったらしかった。

 目を開けると、六時間目はおろか既にホームルームも終わってしまったのか、夕暮れの教室には優斗以外誰一人としていない。。柴乃も先に帰ってしまったのか、優斗の机の端に『少しやることがあるから先に帰るわ』と書かれた紙が置かれてある。


 いや──違った。


 もう一人、窓辺の席に腰かけてこちら見ている少女がいた。

 小動物のような双眸をこちらに向け、微笑んでいる。窓から差し込んだ西日に、顔が照らしだされ、絵画のような光景を創り出している。


 優斗は未だ朦朧としている意識の中でその少女の名前を呼んだ。


「……どうしたんだ、由香里?」


 思わずその名前を呼んだ優斗は、脳内に昨日の記憶が蘇って気まずい気持ちに陥った。

 しかし、そんなことは杞憂だったようで、由香里は昨日のことを感じさせない快活な声を発した。


「あ、やっと、起きたんだ、ユウ。おはよう…………今日、一緒に帰らない?」


「……もしかして、今日もそのためだけに待っていたのか?」


「むー、悪い? だって、ずっと一緒に帰ってないじゃん」


 小動物のように頬をぷうーと膨らませる由香里を見て、優斗は苦笑した。


「しょうがないだろ。最近は夕闇と……」


 言いかけて、優斗は口を噤んだ。

 どう説明しようかと悩んだのだ。まさか、ありのまま言うわけにはいかない。いったい、誰が信じるというのか。世界を救うお手伝いをしています、など。


「…………」


 優斗の視界に、白から黒へ変わったように、満面の笑みから不機嫌そうに表情を変えた由香里が映る。


「あのさ、俺さ……」


 六時間目の決意を口にしようと、優斗は真剣な眼差しで由香里を見つめた。


「俺さ、由香里と遭う前に大切な人がいてさ……とっても仲が良くて……でも、いなくなっちゃったんだ。それからかな……そんな思いをするぐらいなら、最初からそんな存在はいらないって、思うようになって……それで、俺は友達以上の存在とか作れなくなっちゃって……自分の中でその人が大きくなっちゃうと、いなくなった時……耐えられなくなるから」


 優斗は視線を伏せる。


「でも、俺はやっぱり間違ってた。こんなんじゃ、いつまでも前に進めないって、余計に周りを傷つけるって、由香里の言葉で気づいたんだ。…………だから、さ。今更こんなこと言うのは怒るかもしれないけど──」


 視線を上げて。


「────」


 その先を紡ぐことは出来なかった。

 由香里が人差し指を伸ばして優斗の唇に優しく当てたからだ。


「その先は駄目。私も言わなきゃいけないから」


 そこには、不機嫌な表情だった由香里はいなかった。代わりに、由香里の顔にはいつも通りの満面の笑みが浮かんでいた。


「──ごめんね。ユウが苦しんでいること気付かなくて」


「……俺もごめん。ずっと避けてて」


「うん、ちゃんと話してくれたから許す」


 微笑を浮かべたまま、おどけて由香里が言う。


「じゃあ、帰ろうか」


「ああ、そうだな」


 由香里の言葉に誘われて、優斗は椅子の上から立ち上がると荷物をまとめる。

 そして、教室から一歩出た瞬間。




 キイィィィィィィィィィ────ン!





 世界が侵食する不協和音が学校中に鳴り響き、視界から色が消えていく。

 周囲から放たれる様々な情報が遮断され、僅か数秒で擬似夢への移行が終了する。

 その世界の変遷を、優斗は呆然と眺めていた。


 柴乃が《(ゲート)》を開いたのか? と、一瞬思い至ったがすぐに一蹴する。

 そんなことをする理由がないからだ。ただでさえ多少、世界を崩壊させる危険性があるのに、意味もなく《門》を開く理由はない。

 

 と、言うことは……


「ねえ、何これ?」


 優斗はその声に思考の中断を余儀なくされた。

 居るはずのない人間の声。否、動けるはずのない人間の声が聴覚に触れたからだ。

 その声がする方向に、優斗は咄嗟に振り向く。


「何で……由香里が動けるんだ?」


 優斗は驚愕とともに声を漏らす。

 視界の前面。

 そこで由香里は、訝しげな表情を浮かべながら、胸の前で腕を交差して身体に回していた。口調は落ち着いているが、全身から溢れる怯えは隠せていない。


「ねえ、何なのこれ? どうなってるの? 何で周りが灰色になってるの?」


「ちょっと由香里、落ち着け」


 優斗は次々と疑問を口にする由香里の肩に手を置き、揺さぶって宥める。

 やがて、その状態で数秒経過すると由香里は落ち着きを取り戻した。


「なあ、一つ聞いていいか?」


「うん、いいけど……」


「由香里は前にもこんな光景見たことあるか?」


「ううん、ないよ。これが初めて……でも、こんな状況なのに、ユウは落ち着いているね」


「まあ、俺は経験者みたいなものだから」


 優斗の言葉に、由香里は意味がわからなかったのか可愛らしく小首を傾げた。


 その姿をぼんやりと見つめながら、優斗は思考を巡らせる。

 由香里が問題なく動ける──これは、由香里が神力を体内に持っているということだ。


 だけど、何故?


 柴乃は、優斗が擬似夢の中で会ったとき、「やっと見つけた」と言ったのだ。その言葉でどれだけ神力を持つ者を切望していたか、わかるほどだ。

 その柴乃が黒幕を除いて、優斗以外の神力を持つ者を見逃した? ──まず、考えにくい。


 なら──由香里が黒幕なのか。夢の世界から来た、現実世界を崩壊させようとする刺客なのだろうか。

 でも、それは有り得ない。由香里は優斗の幼馴染だ。夢の世界から来てるはずがない。だが、それなら由香里はどうして神力を……


 いや、一つあるではないか。神力を持つ方法が。

 優斗と一緒に居すぎたのだ。それによって、優斗の神力が移動してしまったに違いない。


 と、そのとき。


 優斗の聴覚に、小さな声が触れる。


「あの……この体勢、恥ずかしいんだけど」


 頬を赤く染めながら、由香里がぼそぼそと呟く。

 そこで、ようやく優斗は気づいた。

 肩に手を添え、由香里を見つめている──これでは何かの前動作と勘違いされても、可笑しくない。


「いや、ごめん」


 優斗は慌てて肩から手を放すと、気まずさのあまり視線を逸らせた。

 僅かだが自分の頬が熱を持っているのがわかる。


 あと暫くはまともに由香里の顔を直視できないな、と思いながら、優斗は上擦った声を発した。


「あ、あの、外がどうなっているか見に行かないか? ここで待ってても仕方がないし」


「そ、そうだね」


 気のせいか、こちらもやや上擦り気味の由香里の返事を聞いた後、優斗は教室の外に向かって足を進める。


 すると、由香里が突然優斗の腕に自分の腕を絡ませた。そして、身体全体を優斗の腕に押し付ける。

 女の子特有のふんわりとした甘い香りが鼻孔をくすぐり、優斗はくらっとなる意識を必死に留めた。


「え、えっと由香里さん?」


「こ、怖いから……駄目?」


 頬を赤く染め、上目づかいにそう言われたら断れるわけもない。

 優斗は強張った声で、「お、おう」という情けない返事しかできなかった。


 そのまま、優斗と由香里は腕を組みながら廊下を歩く。

 由香里は学校中で五本の指に入るまではいかなくても、それなりに可愛い美貌の持ち主である。それに加え性格も良いので、男女ともに非常に人気があるのだ。

 幼馴染といえ、そんな美少女と腕を組んで、校内を歩いている優斗は当然平静ではいられなかった。思わず由香里が女子であることを意識してしまい、歩き方を忘れてしまったように、足元が覚束ない。


「ねえ、ユウ」


「は、はひっ!」


 突如掛けられた声に、優斗の声が裏返った。

 それに、由香里はくすくすと笑った。すっかり立場が逆転しているような気がする。


「……そんなに笑わなくても良いだろ」


「だって、ユウ可笑しいんだもん。さっきまで全然平気そうだったのにいきなり、きょどるんだから」


 それから一頻り笑った後、由香里は続ける。


「なんかこの世界にいるのが、私たちだけな気分になるね」


「そうだな」


 あながち嘘ではないことが怖いが。

 しかし、由香里は優斗の返事が気に入らないのか、むっ、と表情を変える。


「なんかそっけない。なんか他のことを考えてる」


 半眼をつくり、探るような視線を向ける由香里に対し。

 優斗は背中に冷や汗をかきながら、応えた。


「いや、このまま戻らなかったらどうしようかなって」


 だが、優斗が実は別の事を考えていた。

 隣にいる由香里には失礼になるかもしれないが、この体勢では理性が持ちそうにないから、早く柴乃が助けてくれないかなあ、とかだ。


 すると、由香里は優斗の内心を察したのか絡ませていた腕をするりと離し。

 太陽が落ちたせいか、数メートル先が闇に沈んだ廊下に向かって駆け、くるりと振り返った。


「私はいいかな」


「えっ?」


 聞き返す優斗に、


「だ・か・ら、私はユウと二人きりでもいいかなって言ってるのっ!」


 由香里が暗闇の中でもわかるほど顔を赤く染めながら叫ぶ。

 優斗は反応に困り、ぽりぽりと頬を掻いた。


 どういう意味だろうか? ──まあ普通に考えて、意味は一つしかない。

 意味を理解し顔を赤くした優斗に、由香里はさらに続ける。


「私ね──」


 だが、その小さな口から続きが語ろうとした瞬間。


 ちりっと。頭の中で何かが焼け焦げた。嫌な予感。

 優斗の網膜に由香里が口を半開きにしたまま、唖然とした表情が映る。震える手で、ゆっくりと優斗の背後を指す。


「……何あれ?」


 由香里の指摘に、優斗は背後を振り返った。


 そこには不思議な生物がいた。

 不思議な色の巨大な体躯。四肢を地面に着け、眼光を赤く煌めかせ、口からは鋭い牙が顔を覗かせる。


 獣だ。神隠しをする獣。堕獣(バグ)


「──由香里下がれ! 絶対俺の傍から離れるな!」


「う、うん」


 その姿を視認したと同時に、優斗は叫んだ。視認してから、声を発するまでの時間の猶予は一切なかった。思考を切り替えながら、優斗は堕獣(バグ)を睨みつける。


「来い!」


 由香里が下がるのを確認して、堕獣に向かって廊下を蹴りながら、内なる力に意識を置いた。

 刹那、優斗の手の平の上の空間に幾何学的な模様が刻まれ──燐光が収束した。発散。細剣と見間違うほどの細身の両刃剣が顕現する。


「うらあああああ!」


 咆哮とともに、間合いに入った堕獣に向かって、優斗は身体を捻りながら鉤爪が描く円弧の軌跡に、剣を合わした。


 大量の火花と途方もない衝撃。


 腕が痺れ、剣を落としそうになるが踏ん張って、優斗は鉤爪の上に剣を滑らせてそのまま足に斬りつけた。

 切り裂いた肉の感触をあえて意識から外すと、優斗は手首を返して再び切りつける。

 堕獣も黙ってはいなかった。グルッと唸ると、縦横無尽にステップを踏みながら連撃を放つ優斗に鋭い鉤爪を振るう。


「──う……ああ────っ!」


 優斗の咆哮はいつしか声にならぬ絶叫へと変わっていた。

 戦闘が続くに連れて、優斗の中でギアが上がっていき脳内からノイズが消えていく。同時に、直感が鋭くなり優斗は堕獣の鉤爪を躱していった。


 と。


 堕獣が、度重なる斬撃によって廊下に溜まった血液に足を取られ、僅かに体勢を崩した。巨大な体躯が左に傾き、斜めになる。

 それを優斗は見逃さなかった。優斗は未だ赤に染まっていない床を蹴り上げ、一気に懐へと突っ込んだ。


「いっ……けええええ──ッ!」


 堕獣の鉤爪が優斗に相対的に近づく。その必殺の攻撃を、優斗は直感が示した予測に従って間一髪で躱すと、全身全霊の気勢を持ってすれ違い様に斬りつけた。斬撃が堕獣の体躯に赤い筋として刻み込まれ──体躯が僅かに硬直した後、その姿が光の粒子となって四散する。


 振りぬいたままの状態で、立ち尽くした優斗の手の中で白銀の剣も四散する。続けて、身体中から力が抜けるほどの疲労感が優斗を襲った。


「……っ、由香里大丈夫か!」


 今にも廊下に倒れ込みそうな身体に鞭打ち、振り返って。

 優斗の網膜に無傷な由香里の姿が映った。


 だが、優斗が安堵する前に、幾つもの現象が立て続けに起こった。


 戦闘によって極限まで研ぎ澄まされた直感によって、頭の中で再び、ちりっと何かが焼け焦げた。嫌な予感。警告。


 直後。


 由香里の背後で『闇』がうごめき。

 優斗が声を上げる前に、警告を発する前に──由香里の身体を飲み込んだ。

 そして。



 ごきゅ。

 


 乾いた音が廊下に響き渡る。


「あっ……」


 目の前の突然の現象に思考が追いつかない。

 脳内が痺れ、視界がちかちかとする。

 舌が渇き、喉が潤いを失う。

 徐々に脳が目の前の現象を噛み砕き理解していく。


「ああああ……」


 理解した。

 だけど、信じたくない。そんなわけがない。

 しかし、そんな優斗を嘲笑うかのように、由香里を飲み込んだ『闇』は廊下の奥から姿を現した。


 堕獣だ。


 夢の世界の獣が優斗の前でグルルと満足げに喉を鳴らす。


「なんで……?」


 堕獣は倒したはずだ。優斗の目の前で跡もなく四散したはずだ。なら、どうして今もなお目の前にいる?

 自分自身に問い掛けながらも、優斗はその答えを把握していた。


 一匹ではなかったのだ。初めから、堕獣は二匹にいたのだ。最悪それ以上いる可能性すらある。


「……由香里いるんだろ?」


 一抹の希望を込めて、優斗は闇に向かって囁く。

 だが、又もや優斗の願いを嘲笑うかのように、堕獣は口を開き──廊下に何かを落とした。


 上履きだ。

 臙脂色のそれは二年生であることを克明に示し、その白地の部分には律儀に『白紙由香里』と書かれている。


「ああああああああああああああああああああああああ────────ッ」


 もう何の疑いようもなかった。優斗の最後の希望もあっけなく打ち砕かれた。

 喰われたのだ。

 もう、優斗を慕ってくれた幼馴染の『白紙由香里』はこの世界にはいない。


「ど,うして……」


 どうして、優斗が心を許した人物は消えてしまう。

 どうして、世界は優斗から『大切なもの』を奪う。

 どうして──

 そんな不条理が存在する。


「……ふざけるな」


 優斗は怒りに満ちた声で呟く。


 やはり消えてしまう。

 優斗の隣にいた人は、

 慕ってくれた人は、

 大切なものは、

 あの少女のように。

 この世界は、優斗の前から大切な人間を奪っていく。


「ふざ……けるな────ッ!!」


 絶叫し、優斗は怒りの衝動に身を任せ、堕獣に向かって廊下を駆けた。

 堕獣は獲物が自ら喰われに来たのが滑稽に映ったか、再び喉を鳴らすと鋭い鉤爪を振り上げる。


 しかし、優斗はそんなことは気にしなかった。

 由香里を喰らった獣をこの手で蹂躙することしか、もう頭には残っていない。


 間合いに入った優斗に、堕獣が爪を振り下ろし。

 優斗はそれに同期するように、何も持っていない右手を振り上げた。


 刹那。


 優斗の右手の上に幾何学的な模様が出現し、漆黒の光に包まれ、再び剣が顕現した。

 だが、それは先程顕現したような白銀の剣ではなかった。

 まるで優斗の全身から溢れる憎悪に染まったような漆黒の刀身に、あれだけ細かった幅広は抑えきれない感情を全て吸い込んだような大きさに肥大している。


 顕現した大剣と鉤爪が交差し──衝撃波が校舎を破壊し、鉤爪を叩き折るだけでなく堕獣の身体にも斬撃が当たった。

 同時に、優斗の頬を切り裂き、生温かい真紅の血が流れ落ちる。


「グルォォォォォォッ!」


 苦悶の声をあげる堕獣を見て、優斗は醜く顔を歪ませた。


 ぬるい。


 まだ足りない。由香里が受けた苦しみはこんなものじゃない。優斗が世界から受けた痛みはこんなものじゃない。


「消えろおおおおおおおおうぅうぅぅぅ────ッ!」


 優斗の怒号に合わせるように、漆黒の剣が輝き、剣と同色の瘴気が放たれる。

 やがて、その瘴気は優斗の身体を覆い始め、醜く変化させる。


 だが、そんなことはどうでも良かった。

 優斗は身体の変化にも構わず、剣を高らかに振りかぶる。


 と、そのとき。



『絶対にそのときに溢れる恐怖や憎悪も制御して欲しいの。マイナスの感情も危険なことを覚えておいて』



 脳内に声が響く。

 聞き覚えがある声。

 だが、誰の声かは思い出せない。

 その雑念を振り払おうとするが、その声は何度も何度も優斗の脳内で囁き続ける。


「──グルッ」


 獣のような声が、無意識の内に優斗の口から漏れる。

 そして、その囁き声から逃れるように、優斗は意識を暗闇の中に埋めた。







 重なり合う三つの円の中心。

 そこに優斗は立っていた。

 ここがどこかはわからない。だが、その三つの領域の内、ある一つの──漆黒の領域に引きずり込まれるのを直感で感じる。

 いや直感など使うまでもない。現に得も知れない引力によって『優斗』という存在が黒の領域に引きずり込まれる。


 徐々に、優斗の立ち位置が中心から変わっていく。暗く、冷たく、憎悪に染まった方向へ。

 でも、それでもいいかもしれない。

 何も考えずに、ただ獣のように己の感情に流されてしまうのも。

 その方が遥かに楽だ。


 ──ユ……ト……


 誰かの声が聞こえる。

 あの囁き声と同じ声。

 その声は、一つの意思となって優斗の意識を引っ張り上げていく。


 ──戻ってきて!


 そして、目の前の光景が変わった。









「……ユ……もど……て……」


 朦朧とした意識に誰かの声が届く。

 全身を揺さぶられ、強制的に沈んだ意識を上に引っ張り上げられる感覚に、優斗は次第に意識を覚醒させていく。


「ユート君……戻ってきて!」


 その声で、優斗は完全に目覚めた。視覚が周囲の情報を読み取り、目の前の光景を鮮明に映し出す。

 視界に映ったのは、一人の少女だった。長い黒紫髪の少女は、顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を流している。


「……夕闇……?」


 ぽつりと零れた優斗の声に、柴乃はハッと表情を変えると優斗の身体に抱きついた。


「……うっ、うぅー、う……よかった……よかったよ。もう……戻らないかと思ったよ」


 いつもの高飛車な柴乃の姿は、そこにはなかった。

 優斗の胸の中で、柴乃が抱きついたまま泣き続ける。それにされるがままにし、どうしたらいいかわからない優斗は、取り敢えずポンポンと背中を叩いた。


 柴乃の姿は酷いものだった。

 今しがたまで戦闘していたように、身体中ぼろぼろで、あの蒼炎を体現しているような紫を基調とした騎士のような装束を纏っている。少し離れた場所には、巨大な方天戟がぼろぼろになって落ちている。


「……なあ、いったいその傷……」


 言いかけたところで、視界に入った凄絶な光景に、優斗は思わず口を噤んだ。

 周囲は相変わらず灰色の空間に包まれ、いくつか綻んだ場所がある。その先の白亜の壁には大きな傷跡が刻まれ、その多くは瓦解していていた。


 まるで巨大なエネルギーをぶつけられた後に、剣で何度も切り刻んだような傷跡。戦場の真っ只中にいるみたいだ。

 だが、当然のようにここは戦場ではなかった。


 学校だ。


 いくら凄絶な状況に変わっていたとしても、一年通った学校は間違えるはずもない。


「……誰がこんなことを……?」


 優斗が疑問を口にした瞬間。

 優斗の胸の中で、柴乃の身体がぴくりと震えた。まるで、聞かれたくないことを聞かれた時のような反応のようだ。


「誰がこんなことをやったのか知っているのか? 夕闇」


 優斗がそう言うと、柴乃が顔を上げ、儚く揺れる瞳が視界に映る。

 直後、優斗は全てを悟った。


「そっか……俺なんだな。こんなにしたのは。夕闇を傷つけたのは」


 堕獣自体は、優斗にとってもそこまで苦戦するものではなかった。


 だが、柴乃がここまで傷ついているということは、獣以外の何か──力に酔い暴走した優斗と戦っていたのだ。

 それ故に、柴乃は苦戦したに違いない。殺そうとせず、無力化を図ったことによって。


「……霧神君の持つ神力が擬似夢に干渉して、現実世界まで影響を及ぼしたの。──でも、あなたは悪くない! 堕獣から身を守るためにはしょうがなかったのよ!」


 柴乃が必死に叫んで否定する。

 だが、優斗はその慰めに近い言葉を言う柴乃の顔を、直視することができなかった。


「……ごめん……一人にさせてくれないか」


 優斗の言葉に、柴乃は案じるような視線を投げながらも、するりと腕を俺の身体から離すと、そのままどこかの教室へ入っていく。


 一人になった優斗はぼんやりと空中へ視線を漂わせた。

 オレンジ色に染まった廊下が徐々に影を落とし、少し前までは廊下の奥にしかなかった闇がその範囲を広げていく。


 意識を失う前の出来事は幻ではない。それは周りの状況がありありと示している。どれほど非現実で信じたくなくても、あれは現実なのだ。

 そして、それが意味することは──


「────ッ」


 さっきまで熱を帯びていた身体が急速に冷めていき。

 理不尽な出来事に、優斗は唇を噛み締めた。乾いた唇から、血が溢れ出る。


「なんで、なんで……いなくなるんだよ……」


 優斗は嗚咽交じりの声を漏らした。

 由香里との記憶が脳内で何度も反芻し、あの輝かんばかりの笑顔が焼き付いた。


 フッ、と。

 由香里がかつて──ずっと昔に、優斗に言ったことが頭の中で再生される。


 ──ユウが理想を追うなら、私は現実側を担当するね。それで釣り合いが取れるよ──だから、ユウは安心して理想を追ってね。


 ──私はどんなことがあってもユウの味方だからね。


「…………うっ……っ」


 白紙由香里はもう戻ってこない。


 それは、優斗の責任であり弱さのせいだ。

 せっかく決意したのに、前に一歩踏み出そうとしたのに──優斗と関わった人間は不幸な目に遭ってしまう。


 ……なら、俺は──


 そこまで思考を巡らせて、優斗は力が入らない身体を引っ叩いて無理矢理ゆっくり立ち上がると、柴乃に悟られないようにその場を離れた。


 迷惑をかけてはいけない。これからは、優斗が一人でやるのだ。どうしたらいいかもわからないが一緒に居てはいけない。


 何が変わるというわけでもない。ずっと前は、一人ぼっちだったのだから。ただ、昔に戻るだけだ。

 新たに一つの決意を固めた優斗は、重い身体を引きずって自宅に向かって足を向けた。






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