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神の黙示録  作者: 六野薫
夢と理想と現実(あるいは長すぎるプロローグ)
2/24

 




 授業の終了を告げるチャイムが聴覚に届いた。

 同時に、黒板の前でぼそぼそと先生が何かを言う──おそらく、宿題の類だろう。

 夏休みに入る前のテストのせいか、宿題はかなりの量が出ているようだ。


 そんなことを思いながら、優斗は微睡みに意識を預けて机の上に突っ伏していた。

 夏本番も近づいており、気温もかなり高くなっている。そんな状態で授業など聞けるはずもない。そう諦めて、優斗はだらしなく寝ていたのだ。

 次第に、ノイズがクリアとなり教室の喧騒が聴覚に触れ始める。


「──起きろ、霧神」


 低い声が脳天から降り注ぐ。

 同時に優斗の意識が徐々に覚醒し、突っ伏していた机の上から顔を上げて、ゆっくりと瞼を開いた。

 薄らと白く染まった視界に、映ったのは優斗が在籍する教室だった。


 正確には、神宮市の北に位置する高校。青桜高校の二年二組の教室の中。その後ろの一番端の席。

 優斗が爆睡して過ごした六時間目の授業が終わったのか、放課後を迎えた教室は騒然とし、笑い声と楽しそうな声が満ちていた。


 と。


 そこで初めて、優斗は自分に声を掛けた主に視線を向けた。

 目の前に立っていたのは、一人の少年。優斗とは対照的に筋肉が盛り上がり、スポーツ系の容貌。それだけではなく、眼鏡を掛けたその姿は同時に知性も感じさせる。


「ん? そんな顔してどうしたんだ? 霧神、今日はやけに疲れてるじゃねーか」


「……朝に変なやつに会ったせいだよ」


 呟いて、優斗は小さく溜息をついた。

 変なやつ──夕闇柴乃。自称・異世界人。

 世界を一緒に救って欲しいと言って、そのまま立ち去ってしまった。あれが本当か、嘘かなど優斗に知る術はもうない。だけど、優斗には何故かそれが本当のことに思えてしまっていた。


「んで、いったい何の用だ?」


 桐沢に突っ込まれるよりも早く、優斗は先んじて訊ねた。

 それに、桐沢は拳を突き出して答える。


「昼飯の当番を賭けて、じゃんけんしようぜ!」


 この青桜高校は、少子化が謳われる最近では珍しいマンモス校である。そのせいか、いつもこの学校の食堂や購買部は混雑しており、昼休みともなると昼飯を購入するのは非常に困難だ。

 そのため、優斗たちのように学校に行く前に近くのコンビニで予め買う者も少なくない。今日の当番は、桐沢だったので優斗は朝行かなかったが。


 しかし、その当番を賭けて、じゃんけんするのはわかるのだが──優斗はこの後が容易に予想でき、はあーと大きく溜息をついた。


「……でもいいのか?」


「何がだ?」


「だって桐沢、お前生徒会長じゃん。賭けなんかしたら駄目だろ……巷では、問題にもなっているらしいし」


 もっとも、もう何回もやっているので今更ではあるが。


「別に問題ないだろ。……普通なら、な。問題になってるのは、俺がお前のパシリみたいな扱いになっているせいだ!」


「事実だろ」


「虚言だ!」


 叫ぶ桐沢に、優斗は肩を竦めた。


「しょうがないだろ、お前が負けるんだから」


 優斗の言葉に、桐沢がうっ、と言葉を詰まらせる。

 優斗と桐沢のじゃんけん勝負は、過去におよそ八十回ほど行われているが、内七十回ほど優斗は勝ち──現在は、六十連勝中だ。


 なぜかは分からないが、昔から優斗は異常に勘が良いのだ。

 実際、じゃんけんの勝率はかなり高い。それだけではなく、非常に少ないが何か悪いことも事前に察知できる時もあるぐらいだ。


 が、それは全てに通じるわけではなかった。何回か宝くじを大量に購入したことがあるが当たった試しはない。

 だが、桐沢はすぐさま復活すると、それに、と続ける。


「──そんなこと心配しなくても大丈夫だ。何かあった時は生徒会長の権力で揉み消すからな」


 そんなに権力が強いわけないだろ。

 そう言おうとして、優斗は思い出した。

 この青桜高校では、『生徒が自由に動く』というのが校風なので、教師が生徒会に一部の権力を譲渡しているのだ。特に生徒会長は一番の権力を誇り、生徒会室には生徒会長専用のプライベートスペースがあるぐらいだ。

 

 案外、揉み消すぐらい造作もないのかもしれない。


「俺が法律だからな。心配するな」


「お前はどこの独裁者だ!」


「だから霧神、何か頼みたいときは俺を頼ってくれていいぞ。例えば、リア充を爆発させたいとかな。俺が率いる『魔法使い促進委員会』が実行してやるよ」


「なんだよ、その委員会。うちの学校にそんなのあったっけ?」


「いや、俺が今年からつくったんだ。理念はリア充を殲滅し、みんなで魔法使いを目指すことだな」


「お前、やりたい放題だな!」


「言っただろ、俺がルールなんだって。……おっと、悪い霧神、ちょっと電話が来たわ。あーもしもし、あー……大丈夫だ。ターゲットは、俺の目の前にいる。優秀な魔法使いを何人か連れてこい。今なら、やれる」


「何その不穏な会話! つーか、ターゲット俺かよ! てか、いったい何をするつもりだ!」


「やだな、霧神。お前は十分、リア充度が高いだろう。俺たちの中じゃ、お前は一番の殲滅対象だぜ」


 桐沢の手がポンと、優斗の肩に置かれる。桐沢の視線が怪しく光って、途轍もない威圧感を優斗に与えた。


「俺が!? いやいや、俺にそんな浮ついた話ないだろ!」


「はあ? いったい、どの口が言っているんだよ。学園のアイドル、白紙さんを独り占めにしやがって!」


「いや、俺は別に独り占めしてるつもりは……」


 優斗が言葉を紡ぎ終わる前に。

 少女の綺麗な声音が教室に響いた。


「おっす、ユウ! 一緒に帰ろうー」


 その声に誘われるように、優斗は横を向いて──教室の扉の前に立っている一人の少女を視認した。

 少女は、優斗の視線が自分に向いているのがわかると大きく手を振る。


 名前は、白紙由香里。優斗の同級生で、幼馴染だ。

 ややスレンダーな体型に、短い茶髪、そして小動物のような双眸。

 相貌は整っている方であり、確実に美少女の部類に入る。……ややフランクなところがあるため、あまり女子と見なしにくいが。


 まあ、そこには幼馴染として何年も付き合っていた部分も関係あるのだろう。


 由香里が在籍するのは二年三組だが、ほんの時々、こうして二年二組の教室に来ることがある。しかし、実際は、優斗と由香里の交流は高校に入ってほとんどないのだ。

 ……というよりは、優斗が意識的に避けているのだが。


 由香里が手を振りながら、こちらに駆け寄る。その珍しい姿に、優斗は言った。


「珍しいな、由香里がウチのクラスに来るなんて」


「最近、ユウに会ってないからね。それにほら、テスト前だから私部活ないし」


 青桜高校では、テスト前には部活動が制限される。由香里は剣道部と弓道部の二つの部活に入っているが、おそらく両方休みになったのだろう。

 由香里は優斗の前まで歩み寄ると、にこりと微笑む。


「ユウ、一緒に帰ろ?」


「…………んっ…………っ…………わかったよ」


 数瞬の考慮の後、優斗は頷くと桐沢の方を向いた。


「じゃあ、そういうわけだから」


「おう。また明日な、じゃんけんは出来なかったから、明日は各自で持ってこようぜ」


 桐沢が苦笑して言う。──しかし、目が語っていた。『明日、覚えていろよ』と。


 優斗は意識してそれを無視すると、挨拶を済ませて、優斗と由香里は教室を出て一緒に廊下を歩く。廊下は下校する生徒で溢れており、そのまま真っ直ぐ校門へと列を成していた。

 そのまま下校する生徒の群れに混ざりながら、優斗は由香里に視線を向けた。


「……けど、由香里と帰るなんて久しぶりだな」


 優斗の言葉に、由香里が頬を膨らませる。


「本当だよ! 高校に入って一回もないよ」


「そうだっけ?」


「うん。いっつも私が誘おうとしたら、逃げるんじゃん」


 うっ、と息を詰まらせて、優斗はサッと視線を反らした。あまりにもその言葉が正鵠を射ていたからだ。

 逃げる。紛れもなくそうだった。


「…………まあそれはいつものこととしても、ユウなんか元気ないね?」


 優斗が黙ったからか、由香里は突然話題を変換した。それに優斗は申し訳なく感じながらも言葉を返した。


「そうか? 別にそんなつもりはないけど……放課後だからじゃないか? まあ、俺からしたらお前が何でそんなに元気なのかが気になるけど」


「もちろん、ユウと一緒に帰っているからかな」


「あーはいはい」


「酷い! 私の告発を流すな!」


「俺と一緒に帰ることは、悪事の部類に入るのか」


 こちらの方が、酷い! と叫びたい気分だ。正しくは告白だろう。


「まあそんなことより、どうしてユウは元気がないの?」


「暑いからかなぁ」


「それもあると思うけどさー、なんかあったんじゃない?」


 由香里の瞳孔がスッと細められた。隠し事も全て透き通してしまうような視線。

 昔からこの視線から逃れられたことはない。恐らく今の発言もある程度の確信を持っているのだろう。


 だが──本当のこと言うわけにもいかない。朝に自称・異世界人の少女と会い、『一緒に世界を救いましょう』と言われた、などと。それこそ、変な誤解を受けてしまう。

 優斗は、取り敢えず気になっていることを口にする。


「……朝に、嫌な夢を見たせいかもな」


 苦々しく告げた優斗の言葉に、由香里は眉をひそめた。


「嫌な夢って、あの夢?」


「そうだよ」


 由香里には以前夢のことを話したことがあるため、何を見たか気付いたらしい。

 だが、何故か由香里はじりじりと優斗との距離を離していく。


「どうしたんだ?」


「流石の私でも、現実と夢をごちゃまぜにするのはちょっと……」


「おい、なんで引きつった顔で俺から離れていく。それと、俺は断じて現実と夢をごちゃまぜにはしていない!」


「だって、その夢って実際体験したことでしょ」


「……まあ、俺の記憶通りならそうだけど」


「なら、やっぱりそうじゃん。だって、この街で二メートルを超える獣が現れるとか有り得ないじゃん」


 確かにその通りである。

 優斗の記憶と夢の内容を見合わせてみても大方同じだが、どれもこれも有り得ない内容でいっぱいであり、何よりどちらも曖昧なのだ。本人がこうなのだから、信じる方がおかしいのだろう。


「こうしてユウは、二次元と三次元の違いがわからなくなるんだね」


「おい、いつからそんな話になったんだ」


「夢と現実、二次元と三次元。ほら、あまり変わらないじゃん」


「全然違うわ!」


「人類がどちらを追い求めるかは同じだよ!」


「それでうまいこと言ったつもりか」


 全くうまくなかった。

 というか、二次元を追い求める人類って……想像するだけで優斗の背筋に寒気がはしったのだった。


「まあでもなんか切ないよな」


「二次元との壁が破壊できないことが……?」


「おい、お前はどうしてそっちの方向に持っていきたがるんだよ。違うよ、俺が言っているのは、ほら、あれだよ。人間って夢とか理想を追い求めるけど、現実では思い通りになることって少ないだろ。だから、なんか切ないなあって」


「どうしよう、ユウが本格的に気持ち悪い」


「やめて、わりと本気で傷つくから!」


「まあ、それはともかく……現実なんてそんなものだよ。何でも思い通りになって、自分の理想が叶うなんてほとんどないよ──それに、だから人生が面白くなるんだよ」


「そんなものかなぁ……」


 優斗はため息とともに呟いた。

 果たして、優斗はそう思うことができるのだろうか。

 夢から、過去の出来事から目を背けて。

 過去の出来事を夢だと信じて。


 現実から眼を反らしている優斗が──今更そのように思うことができるのだろうか。現実は、大半が非情だと。理想は叶わない、と。


「……でも、俺は信じたいなぁ。理想は叶うって……じゃなきゃ、夢がないだろ」


 その言葉は由香里へ向けてというよりは、優斗自身へと向けたものだった。

 由香里が満面の笑みを浮かべる。


「うん、そっちの方がユウらしいよ」


 と、由香里が思い出したようにさらに続ける。


「そういえば今日七夕だけど、理想を追い求めるユウは何かを願うの?」


「あーそういえば、そうだったな」


 由香里の言葉で、優斗はカレンダーに映っていた日付を思い出した。


「うーん、特には。何かいつもと違う事が起こるように、とか?」


 由香里が軽く口を尖らせる。


「つまんない。ほら、ユウはもっと己の理想というか、願望をここで叫んでもいいんだよ」


「……己の願望?」


「うん、『俺が二次元との壁をぶち壊す!』とか」


「……お前はどれだけ二次元の壁を壊させたいんだよ」


「でも、ほら無限の可能性が見えるかもしれないよ」


「悲惨な末路しか見えねーよ! ……それにそんなこと叫ぶ、幼馴染って嫌すぎるだろ」


「大丈夫。私は、ユウがそんなこと叫んでも、きっと見守っているよ。具体的には、一キロ離れたところから」


「それって、完全に他人のふりだよね!」


「だって、気持ち悪いじゃん」


 由香里が胸の前で腕を組んで後退りする。


「…………」


 どうして、優斗が悪いことになっているのか問い詰めたい。


 と。


『二年二組の霧神君、まだ下校していないのであれば至急職員室に来てください。課題を提出し忘れています。繰り返します──』


「あー」


 六時間目の授業、優斗は爆睡していたため課題を提出し忘れていたのだった。こうして呼び出されるということは、度重なる課題の提出の忘却によって単位でも危ないのかもしれない。

 優斗はどこか心の中で安堵しながらも、由香里の方に振り返った。


「……なんか、ごめん。そういうわけだから。由香里は先に帰ってていいよ」


「むーなんで忘れるかなぁ」


 由香里が可愛らしく頬を膨らませるのを見て、優斗は苦笑をにじませた。


「……ごめん」


「でも、それじゃあしょうがないね。私、今日は先に帰るよ」


 そう答えて。

 由香里は優斗に軽く手を振ると、下校する生徒の集団の中に消えた。












 それから三十分ほど経って──

 優斗は職員室にいる先生に挨拶して退出すると、学校から離れて帰路を辿り始めた。三十分前に比べて人の数はグッと少なくなり、波のように列をつくって生徒の集団も今では数えるほどしかない。


「はあー」


 その中を一人で歩きながら、優斗は大きく溜息をついた。

 霧神優斗という人間は、物心がついた頃から孤独だった。


 幼い頃に父親を亡くし、母親は常に働いていた。だから、優斗はほとんど一人で遊ぶことが普通だった。

 そんな時、一人の少女に出会った。顔も名前もはっきり覚えていないが、その子はとても可愛らしかったことだけ覚えている。


 どこから来たのかもわからないその少女は、どうやら家出をしたらしく行き場がなかったので、母親の許可を取って優斗の家で一週間ほど一緒に過ごしたのだった。

 その一週間はとても楽しかった。全く寂しくなかった。この時間が永遠に続けば良いのに、とさえ思った。


 しかし、一週間経ったある日、その少女は消えてしまったのだ。獣に喰われるという結果で。


 優斗には今では、あれが現実か幻かもわからない。そんな女の子がいたのは確かなのだが……曖昧なのだ。母親に確認すれば、直ぐにわかるのだろうが。

 結局、怖いのだ。事実を知ることが。

 幻なら良いのだろう。だが、あれが現実だとすると……優斗は耐えられる自信がない。


 少女を守れず、身を裂かれるような思いを改めて認識したくない。

 だから、優斗は『大切なもの』を作らない。作れないのだ。


 『大切なもの』を作ると、あの少女のように消えてしまう気がして。あんな思いを現実でしたくないから。あんな思いをするぐらいなら、最初からなかった方が良いとさえ思ってしまうのだから。


 そのせいで、親しい人──由香里からなるべく距離を取って。

 今日も由香里と一緒に帰ることができなかったことに、どこか安堵している優斗がいて。


「……何やってんだよ、俺」


 そんな理由で、人を、由香里を遠ざける自分自身が、優斗は嫌で嫌で堪らなかった。


 現実から、過去から、夢から目を背け。

 過去にあったかもしれないことを、夢だと信じ。

 なのに。

 それに一番囚われているのは優斗自身なのだ。


「あー、もうー」


 優斗は小さく声を漏らすと、何度も繰り返してきた思考を脳内から霧散させた。そして、視線を辺りに向ける。

 自己嫌悪している間に、どうやらお気に入りの大通りに着いたらしい。騒音が聴覚を叩き、様々な店が網膜に映る。


 大通りは、暇を持て余した学生にはもってこいの場所だ。

 優斗はこの青桜高校をただ近いから、という理由で選んだのだが、あまりにも家との距離が近すぎて自転車で通学することを、学校側は許可しなかった。

 結果的に優斗の家よりも遠いにも関わらず、自転車が使えるため速く学校に着く者もいるくらいだ。


 予冷が鳴る直前まで、家でぬくぬくするつもりだった優斗には誤算だったが、すぐにこれは変わった。

 この大通りは人で溢れているため、自転車が通れないからだ。

 今日も案の定、大通りは人で溢れかえり騒然としていた。あちこちで店の宣伝が行われ、つんざくような騒音が溢れる。


 大通りを歩きながら、バックに詰め込まれた教科書の重量と人の多さにうんざりし、思わず優斗は天を仰いだ。

 顔を上げた優斗の視界に、ビルに備え付けられた電光掲示板が映る。


「あー、またか」


 眉をひそめると、息とともに声を漏らした。

 そこに流れるのは、最近よく見かける語句。


 すなわち。


 『行方不明者続出』とか『現代の都市伝説』とかだ。

 最近、この手の事件──突然周りの人間が消えていく──というものが異常に増えてきているのだ。

 規模はそれほど大きいものではないが、その異常性から多くのメディアで取り上げられている。


 それは、誰にも悟られることなく文字通り『消え去る』というもの。

 噂では、『隣にいた友達が急に消えた』や『目の前で話していた友達が蒸発した』など信じられないものもあるくらいだ。


 神隠し。


 それが一番当てはまる言葉だろう。

 そうは言っても、すぐに見つかるだろう、というのが大衆の見解なのだが。


 と。


「……んっ?」


 優斗は天を仰ぎながら、怪訝な表情を浮かべた。

 灰色の小さな点。

 それが、蒼穹の空のど真ん中に浮いていたのだ。


 咄嗟に辺りを見渡すが、大通りにはこれほど人がひしめいているにも関わらず、優斗以外気づいている様子はない。

 やはり、見間違いか。そう思い、何度も目を擦った後再び視線を空へと向けるが、それは変わることなく同じ座標に位置していた。

 そして──





 キイィィィィィィィィィ────ン!






 金属音のような耳障りな音に、優斗は咄嗟に耳を覆った。その音は脳内まで響き渡り、軽い頭痛を引き起こすほどだった。

 しかし、それだけでは終わらなかった。


「……は?」


 優斗は素っ頓狂な声を発する。

 それも無理はなかった。

 だって、その灰色の点がその金属音に合わせて、この大通り全体を覆うほど広がっていったのだから。

 空が灰一色に染まっていき、やがてそれは優斗の視界全面を侵食する。


 僅か数秒。


 たったそれだけの時間で、優斗を包み込む世界が色を失った。


「……な、なんだよ、これ?」


 呆然と呟き。

 周りを見渡した優斗は、さらなる驚愕に見舞われた。


 あれほど騒ぎ立てていた人も、

 歩いていた人々も、

 やかましい騒音も、


 ──この空間ごと凍結していたのだ。


 まるで時が止まっているかのように。


「……いったい何なんだ?」


 灰色の世界で一人、優斗は戸惑いながら静かに呟いた。

 見慣れたはずの風景。

 だが、今はその風景が見知らぬ場所のように感じ、たまらなく怖い。

 得体の知れない不安に駆られ、優斗は足早にその場を離れようとする。


 瞬間。


「うぎゃ!」


 焦る気持ちに身体が追いつかず、優斗は顔から無様に道路の上に転んだ。

 慌てて立ち上がり、顔を上げ、


「うわッ!」


 叫んだ。

 立ち上がるときに、偶然前に踏み込んだ足が、眼前の人の身体を突き抜けていたからだ。

 よく見ると、この灰色の世界にいる人間全て透けて見える。

 まるで自分以外が幽霊になった気分だ。


「本当に、どうなって……」


 すぐさま足を引き抜いた優斗は、最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。

 視界の前方。

 そこに複数の影があった。

 この灰色の世界で、動くことが許されていた優斗以外の生物。


 その姿は、明らかに地球上の生物ではなかった。


 全長は二メートル以上はある。全身は盛り上がった筋肉で包まれ、その色は名状し難い不思議な色。口からは巨大な牙が顔を覗かせ、四肢を地面に着けていた。

 圧倒的な捕食者の風貌。


 その姿に、優斗の身体が条件反射のように硬直する。


 ──俺は、あの獣を知っている。


 優斗は内心で呟いた。

 幻か現実なのかすら判断できない過去の出来事。その夢の中で何度も見た獣に、風貌に若干の差異があるものの酷似している。

 同時に、優斗は確信した。


 ──逃げれない。


 あの夢では、どんなに逃げても追いつかれ、最後には喰われてしまうのだ。幼い頃の時と体格に差はあっても逃げるのは至難の業だ。


 ……いや、まだ大丈夫かもしれない。獣が『霧神優斗』という存在に気がついていない今なら──


 と、そのとき。


 優斗は目の前で獣達によって行われ始めた光景に、思考を硬直させて、絶句した。


「…………な、何してるんだよ?」


 思わず漏らしたその声はあまりにも小さく、獣に届くことはなかった。だが、そんなことを気にしないぐらい優斗の意識は目の前の光景に釘付けになっていた。

 複数の獣が半透明となった人々を襲っているのだ。

 いや、あれは襲っているというよりも、


「──く、喰らっているのか?」


 その言葉はその光景を正確に表していた。獣達が半透明な人々をその存在を喰らいつくすように貪っているのだ。現に、優斗の目の前では獣達の牙が触れたところから、この大通りにいる人々の身体が削り取られている。


「ひっ」


 眼前のあまりにも凄絶な光景に、優斗は恐怖の声を発した。逃げろ。早く逃げろ。と脳が警告を発する。

 だがその時、じりじりと後退していた足が小さな石を蹴り上げ。

 乾いた音が無音の世界に反響する。

 恐る恐る獣の方に視線を動かすと、その瞳はばっちりと優斗を捉えていた。


 刹那。


「うっ」


 たまらず短く声を出すと、優斗は身体を反転させ、脇目も振らず地を駆けた。

 本来であれば、その場から一目散に駆けだすのは効果的ではないのだろう。だが、そんなことを考えられないぐらい優斗の脳は、恐怖に忠実だった。

 走りながら背中で、重い足音が近づいてくるのを感じる。正確な距離は測れない。だが、その距離が徐々に縮められているのは理解できた。


 直後。


 もしかしたら逃げられるかも、という淡い期待は見事に砕けた。


「──くっ!」


 空気を切り裂く音を捉えた優斗は、咄嗟に身体をひねる。そして、地面を蹴り上げると鞄でガードするように前に突き出した。

 視界の端で一筋の閃光が駆け、鞄に大きな爪痕を残して切り裂き。

 その傷口からぼろぼろと教科書が零れ落ちる。


「くそっ!」


 叫び、せめてもの抵抗に鞄を投げつけると、前のめりになりつつも再び疾走する。

 だが。

 獣はそれを意にも返さず払いのけると、すぐさま間合いを詰め、再び優斗に向かって前足を振るった。


「うぐっ」


 反射的に身体を守るように腕を胸の前で交差する──が勢いを殺しきれなかった優斗は、地面に叩きつけられ二、三度バウンドした。

 肺に溜まった空気が、強制的に吐き出され、くぐもった音が漏れる。頭に強い衝撃が走り、身体が擦りむき、口の中に微かに血の味が広がっていく。


 ──冗談じゃない。


 優斗は心中で呟いた。

 夢だと、白昼夢を見ているのだと思い込みたかった。さっき、由香里に言った『何かいつもと違う事が起こるように』などと気軽に言った自分を呪いたい気分ですらある。

 だが、全身を貫くような苛烈な痛みは、これが現実であることを忠実に示している。

 頭を打ったせいか身体がふらふらとする。──がそれでも再び逃げるために、優斗は身体に鞭を打つと、すぐさま前方を見上げた。


「────っ!」



 声にならない悲鳴を上げる。

 理由は単純だった。網膜に映った光景は、絶対的な捕食者がまさに食事をしようとしていたもの──牙を剥き、口を大きく開いていた光景だった。

 脳内を走馬灯が駆け巡る。死の瞬間が肉薄しているほど近づいているのを、優斗は肌で感じた。


 しかし、その瞬間が訪れることはなかった。


 鋭い牙が優斗の身体を貫く前に。

 視界を蒼炎が覆い。

 突如出現した槍がそれを弾き返し。






 ──一人の少女が舞い降りた。 











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