1
灰色の夜道。
世界は色を失い、本来この場を照らす僅かな月光さえもこの時ばかりはなかった。
風の唸る音も、虫の知らせも、人の声も聞こえはしない。
ただ、空虚な闇が漂うばかり。
普段、ここは有り触れた住宅街だったが、今は異常極まる現象で覆われていた。まるで異世界のような、物語のような光景。
と、そのとき。
二つの影が夜道を駆け抜けた。
一組の少年と少女。
少年が少女の手を引っ張る形で、地を駆ける。膝は泥だらけとなり、赤黒い血が凝固し、痛々しく見える。二人の顔には恐怖の表情が張り付けられ、十メートルごとに後ろを振り返っていた。
二人の足は既に限界と言っても過言ではなかった。──が、それでも二人は背後から迫ってくる追手から必死に逃げ続ける。その必死さは、周りの異常な現象にすら気づかないほどだ。
「……もう走れないよ」
「あと、もう少しで逃げれるから頑張ろう。ね?」
泣きごとを言い立ち止まった少女に、少年が励ます。
だが、少年は知っていた。それが気休めの言葉にすぎないことを。普通に考えて、あれから逃げることは不可能なのだから。
「さあ、行こう。もうすぐだから」
偽りの言葉を口にして、少年は少女の手を引っ張った。少女はそれに、頬を赤く染めると、こくりと頷くと再び足を動かす。
しかし──
二人の逃避行はそう長くは続かなかった。
角を曲がった二人の目の前に高い壁が突如、立ちはだかる。
「ちっ!」
袋小路。──そう認識した少年は舌打ちし、来た道を慌てて引き返す。
瞬間。
目の前の出来事が、二人の足を止まらせた。
「グルゥゥゥゥゥ!」
目の前で闇がうごめき、雷鳴の如き音が聴覚を叩き。
その音に思わず、二人は身を竦ませ、背後の壁に背中を張り付けた。
そして、その音を発した主が闇の中から姿を現した。
獣だ。全長は五メートル近くある。口からは巨大な牙が顔を覗かせ、四肢からは鋭い鉤爪が視認できる。
少年は、地球の生態系に詳しいわけではない。──それでも、あれが地球上の生物ではないことは直感で理解していた。
「グルゥッ!」
獣が一歩踏み出し、その身を少年と少女に近づける──同期するように、二人は一歩後ろに下がろうとするが背後の壁がそれを許さなかった。
前には獣、後ろには壁。絶望的な状況。
と、
「あれは、わ、わたしを狙っているの」
少女は震える声で囁く。
「──だから、わたしが囮になる。……その間に、ユート君は逃げて」
「そんなことするわけないだろ!」
少年は自分でも驚くほど固い声で言い返した。
何で──そんなことを!
この少女は、寂しさを感じていた少年に、優しい言葉をかけて救ってくれたのだ。誰よりも大切に思っている少女にそんなことはさせない。その逆はあっても、それだけは有り得ない。
たとえ自分の命を落とす、としても。
「囮役なら僕がやる。その間に、君は逃げて」
そう言って、覚悟を決めると少年は近くに落ちていた棒を拾い、握った。
正直相手にもならないだろう。だが、それでもいい。少女が逃げる時間さえ稼ぐことができれば、それで十分だ。
しかし。
少女は、少年の言葉に今にも泣きそうな表情で笑っただけだった。悲痛な、何かを覚悟するような笑顔だった。
「大丈夫私に任せて」
「何をするつもり──」
少年が言葉を紡ぎ終わる前に、少女は一言呟いて上書きした。
「さようなら」
少年がその言葉の意味を理解する前に。
とん、と。
少女が手を伸ばし、少年の身体を突き飛ばした。
直後。
少年は通常の時間流から外れたようにも感じた。
思わぬ方向の力に、少年の身体が横に向かって飛ばされると同時に。
少年の視界の端で、獣が短く咆え、少女との間合いを一瞬で詰め──
「な、何するんだよ!」
尻餅をつき、非難の声を上げて──少年は目の前の光景に思考が硬直した。
網膜に映ったのは、少女の華奢な身体に一本の牙が貫いた光景。
小さな身体からおびただしい量の血が流れ、灰色の地面を真紅に染め上げていく。
「──ねえ」
少年が少女に向かって呼びかける。だが、身体を巨大な牙で貫かれた少女はぴくりとも動かない。
地面を伝って、少女の血が少年の手に触れた。その生温かさは、それが本物であることを、現実であることを冷酷に、残酷に告げていた。
「……嘘だよね」
少年が力なく呟く。
そんなはずはない。
だって、約束したのだ。『私はいなくならない』と。
だが、その姿は生者にはほど遠かった。
瞳からは意思の輝きが見られない。
魂の抜け殻のように。
あるいは死者のようにも見えた。
「ははは」
壊れた機械のように、声を漏らす。
ようやく手に入ったと思った。
何もなかった自分に。
人との温もりと自分を受け入れてくれる存在が。
だが──結局無理だったのだ。
それならば。
手に入って、こんな思いをするぐらいならば。
────最初からなかった方がましだった。
少年が静かに内心で声を発し、地面に崩れ落ちるなかで。
灰色の世界が色を徐々に取戻し、獣と少女の姿は世界の変遷に消えていく。
一夜の幻のように。
少年の前から、その姿を消した。
そして──
「────っ」
優斗の微睡みを破ったのは頭から感じる鈍い痛みだった。思わず頭を押さえて、声にならない音を漏らす。
痛みを振り払うかのように頭を摩り、未だ朦朧としている意識で優斗は瞼を開いた。
真っ先に視界に映ったのは、勉強机に、ベット──優斗の部屋にある調度品だった。
やがて意識が次第にはっきりし、今の状況を捉え始める。
どうやら頭から感じる痛みは、あまりの寝相の悪さにベットから落ちた代償らしい。
見事に、優斗の半身はベットから抜け出し、頭を床に打ちつけていた。
「……最悪の目覚めだ……」
そんなことを呟きながら、優斗はベットから這い出した。
起きかたもそうだが、何といっても、見ていた『夢』も今までの見た中でワーストスリーに入るものだ。
夢だとわかっていても、あれは見ていて気持ちの良いものではなかった。
出来れば忘れたい部類に入る。
だが──それは決して許されることではないのだ。あれは、優斗が背負うべき出来事であり、忘れていいものではないのだから。……現実か幻かも未だに判断できない出来事だったが。
ちらりとカレンダーに視線を移すと、七月七日──七夕だった。テスト前なので、高校の授業はサボるわけにはいかない。
と、そこで玄関のインターホーンがしきりに鳴っていることに気がついた。連続で、何度も家中に、甲高い音が響く。
案外、その音に無意識の内に応えようとして、ベットに落ちていたのかもしれなかった。
「はいはい、今行くから」
絶対に、インタホーンを押す相手には聞こえないのだが、そんなことを言って。
優斗はベットから這い出すと、寝癖を手で適当に押さえ、あくびをこぼしながら部屋からのたのたと出た。
おそらく、鍵を忘れた母親が外にいるのだろう。仕事が忙しく、ほとんど家に帰ってこない母親は、時々鍵を忘れてこういうことになる。
優斗は寝ぼけ眼のまま、玄関に行きドアを開け放って──
「────」
一人の少女を視認した。
歳は優斗と同じぐらい。
髪は珍しい黒紫色で、対照的に肌は白い。
相貌は驚くほど整っており、身体つきは細く、その姿はひどく儚げだ。
おそらく、あそこまで可憐と言う言葉が合う人間は他にいないだろう。一目で優斗とは種類が違う人種だと理解できる。
それと同時に、優斗はその少女の違和感を覚えた。
この少女は何かを持っていると。
圧倒的な力のような、人を惹きつける力のような──言葉では言い表しにくいが、言うのであれば、そう上位存在のような。
案外、カリスマ性でもあるのかもしれないが。
というか、これは間違っても母親ではない。というか、こんな少女は優斗の知り合いにいない。
「あの──」
誰ですか? と、口にする前に、優斗の台詞を上書きして、その少女は凛とした声を響かせた。
「あなた、霧神優斗よね?」
「あっ、はい。そうですけど……」
「そう、なら良いわ」
言って、その少女は強い意思の輝きを秘めた瞳で優斗を捉えて。
「──私と一緒に世界を救ってくれないかしら」
…………
しばしの間の後。
「…………えっ?」
「私と一緒に世界を救ってくれないかしら」
「……いや、それはわかっているけど」
「私と一緒に世界を救いなさい」
「さっきよりも命令口調に!」
「私と一緒に世界を救わないなら、殺すわよ」
「もうそれは脅しだ!」
思わず叫んでしまって。
呆然と、優斗は少女を眺めた。
優斗の聞き間違いでなければ──この少女は、『一緒に世界を救ってくれないかしら』と言ったはずだ。
何の意図を持ってそんなことを言っているか、優斗には見当もつかない。
だけど──それでも、わかることもある。
こんな奴とは無関係になるべきだ、と。
優斗はドアノブを持つと、にこりと微笑んだ。
合わせるようにして、少女も慎ましく微笑む。
「そう、やっとわかってくれ──」
バタン!
ドアを容赦なく閉めた。
ついでに鍵まで掛けたドアに、優斗は背中を預けた。
何も聞こえない。背後で何やら喚いているようだが、優斗には何も聞こえない……
少女が叩いているのか、背中を預けたドアが一定の振動で揺れて、鬼気迫る声が優斗の聴覚に触れる。
「霧神君、ちょっと開けなさい!」
「嫌だよ! というか、何で俺の名前知っているんだよ!」
「私にかかれば、あなたの名前一瞬で知ることができるわ。ちなみに、私はあなたの家族構成から家の間取りまで知っています」
「怖!」
「どうやら、私の怖さが身に染みたようね。なら、このドアを開けてくれるかしら」
「絶対嫌だ! 開けたら、嫌な予感しかしねーよ!」
「あら、わかってるじゃない。ほら、開けなさいよ。生まれてきたこと後悔させてあげるから!」
「そんなこと言われて、開ける奴がどこにいるんだ!」
それでも、諦めないのか少女は必死で叩き続ける。
「霧神君、早く開けなさい!」
「…………」
「ほ、ほら、早く開けなさいよ」
「…………」
「き、霧神君、私は寛大だから、今ならまだ許してあげるわ。ほら、早く開けなさい」
「…………」
「ね、ねえ、早く開けてよ」
「…………」
「霧神さん、お願いします。私が悪かったですから」
「…………」
「ねぇ、なんで開けてくれないの。意地悪しないでよぉ。う、うぅー、うぅー……うわあああああああ────っ」
泣き出してしまった。
実際に見ていないからわからないが、おそらく本気で泣いているだろう。
何だか悪い気分になって、ドアを開けてみると、優斗の家の前に黒髪の少女が泣き崩れていた。
「……取り敢えず家に入るか?」
「…………」
居た堪れなくなって優斗が発した言葉に、少女は無言のままこくりと頷いた。
「で、お前はいったい何なんだ? 宗教の勧誘か何かか?」
優斗の家のリビングで。
丸テーブルを挟んで、優斗は少女の前に座った。少女の眼は未だ赤く染まっているが、それ以外は特に変なところはない。
少女は赤く染まった眼を優斗に向ける。
「宗教の勧誘なんかじゃないわ。そんなのと一緒にしないで」
「でもなぁ……」
怪しさという点ではそれには勝るとも劣らない。
「私は怪しくなんかないわ。超健全よ」
「朝から、人の家の前で『一緒に世界を救いましょう』って言っている奴のどこが怪しくないんだよ」
「別にお金を取ろうってわけじゃないわ。ちょっと、命を賭けて欲しいだけよ」
「より酷くなってんだろ!」
「あら、そんなことないわよ。命はお金で買えるもの」
「……なんつーう、嫌な考えだよ」
「あなたの命は、ミジンコで買えるわね」
「俺の命はミジンコと同等か!」
「お釣りも返ってくるわ」
「それ以下かよ!」
叫ぶ優斗に、少女は満足したのか微笑んで言う。
「まあ、こんなところでいいかしら……私の名前は夕闇柴乃。あなたから見ると、異世界人よ」
「ふーん」
適当に相槌を返して。
少女──柴乃が発した言葉に違和感を覚えて、優斗はそれを口にする。
「……異世界人?」
「ええ、そうよ。私は、夢の世界から来た異世界人よ」
「…………」
ああ、これは駄目かもしれない。
玄関のやり取りで薄ら感じていたが、こいつは……
柴乃が優斗を鋭い視線で睨む。
「あなたが考えていることを、当ててあげましょうか?」
「えっ?」
「あなたは今、私を見てこう思っているはずよ。──ああ、なんて残念な電波女なんだ。死ねばいいのに、って」
「いや、そこまでは思ってないからな!」
「失礼。それは、私があなたに思っていたことだわ」
「お前、俺に対してそんなこと思っていたの!」
優斗の叫びに、柴乃がブツブツと小さい声で呟く。
「……だって、私のあんな姿を……」
「えっ?」
「何でもないわ。気にしないで。それで、話を戻しましょうか。あなたに彼女はいるのか、でしたっけ?」
「いや、絶対そんなこと話してなかったよな! お前が、異世界人かそうじゃないかの話だ!」
「霧神君は、恋人はこちらの世界の人間の方がいいってこと? 差別は良くないわよ」
「ああ、そうじゃなくて!」
このまま埒が明かない。
頭をガシガシと掻いて、優斗は真っ直ぐと柴乃を見た。
「お前、言っていたよな。──『一緒に世界を救おう』って」
「ええ、言っていたわね」
「それっていったいどういう意味だ?」
優斗の言葉に、柴乃は小さく肩を竦めた。
「……別にそのままの意味よ。今、この世界は危機に瀕している。だから、私と一緒に世界を救って欲しいのよ」
「異世界人のお前と一緒に?」
「異世界人の私と一緒に」
優斗の言葉に、柴乃が首肯する。
何とも変な話である。
異世界人が別の世界を救おうとしている。……まあ、優斗の知らない事情が何かあるのかもしれないが。
それに、柴乃の話も信じ難い。まだ、優斗を騙そうとしているという方が真実味がある。
「疑うのは良いけれど……」
柴乃が優斗の思考を読み取ったかのように言葉を紡ぐ。
「いずれ、あなたは知るわ。時間の問題よ。もう看過できないほど、現象が進んでいるから。世界は喰われ、夢に囚われる」
「世界が喰われている?」
「そう。まだ、あなたにはわからないかもしれないけど……」
言って、柴乃は立ち上がった。
「お邪魔したわね。私は帰るから」
「おい、待てよ! 俺はまだ何にも聞いてない──」
優斗の制止の声が届く前に、柴乃はリビングから出て行った。
呆然としたまま、優斗はその後ろ姿を見送る。
「…………」
わけがわからない。柴乃が何をしようとしたのか。
──一緒に世界を救ってくれないかしら。
たとえ、それが本当だったとして。
どうして、優斗なのか──
『大切なもの』を守ることができなかった優斗が選ばれてしまったのか。
玄関のドアが閉まる音が、リビングにいる優斗の聴覚に触れる。その音でハッと我に返った優斗は、何気なく壁に掛かっている時計に視線を移す。
そこで初めて、優斗は現在の時刻を確認した。
「は、八時二十分!」
今日は、柴乃のインターホーンで強制的に叩き起こされたので、時間には余裕があると勝手に思い込んでいたのだ。そのせいで、時間のことはすっかり失念していたわけだった。
それを視認した瞬間、優斗は慌ててその場から立ち上がって学校に行く準備を始めた。
高校の予鈴は、八時四十分だ。この家は、高校から近い方だが、どう足掻いても十五分はかかる。
今から家を出ても間に合うかは、神のみぞ知る、だ。
「間に……合うはず!」
そう言って、準備を終えた優斗は家から出る。
その時は既に、異世界から来たと言っていた少女のことなど頭から消えていた。