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 手の中の茶筒にふたをして、壁の時計に目をやった。

 休憩室の横の給湯室。本日の休憩用に人数分の湯のみをお盆に用意して、あとはポットからお湯を急須に注ぐだけにするように準備を整えた。

 二時三十分。

 そろそろここを出なければいけないと判っているのだが、どうにも腰が引けるのは、一緒に外出する予定の相手がやりにくいから。

 意を決して設計事務所の方へ続く廊下に出ると、当の本人がこちらに向かっていた。淡いグリーンのYシャツに黒に近い茶のスーツ。右手に薄手のブリーフケースを提げて。

「ああ、市村さん。そろそろ行く時間かと思って。準備できてる?」

 涼しい顔でそう問われて。不覚にも頬に朱が上りそうになるのを止められなかった。

「っ。すみません、すぐ行きます。・・・三分待って下さい」

「急がなくていいよ。裏口にいるから」

「はい」

 本当は自分が準備万端で彼に声を掛けなければいけなかったのだ。先を越された悔しさと、昨日はあんなにやりづらそうだったのに、仕事となれば完璧にやり遂げてしまうのかと非難したい気持ちで。

 生活雑貨ブースの上司にこれから行ってくると声をかけてから、何人かのいってらっしゃいと言う声を背中に浴びる。ロッカーからバッグを取り出し早足で裏口へと向かった。


「暑いね」

 まだまだ残暑の厳しい午後の熱気の中へ足を踏み出して、隣の彼が呟く。涼しげな色のそのシャツを横目に入れて、本当にそう思ってんのかこの人は、と心の中で毒づく。

「そうですね」

「・・・車で駅まで来りゃ良かった」

 ふと自分も同じ事を望んでしまったけれど、歩けば十分弱のこの距離を車で来ても、エアコンが効き始める前に着いてしまうだろう。



「市村さんさ、まだ高校生でしょ」

「・・・ですけど?」

 気のない返事をしてやったら、会話が続かないだろうと予想していたのに。思いもかけず低めの声が返ってきた。

「気になってたんだけど。うちの会社、バイトは取らない主義なのにどうやって採用された?」

 駅へと続く道をたどりながら、内心の動揺を隠してにっこり笑う。

「話すと長いんですけど」

「いいよ。どうせ話す事なさそうだから」

 苦笑して返すその言葉に、かちん、と怒りのスイッチが入ってしまう。

「手短に言うと。高一の時、どうしてもここでバイトしたくて、でも募集もないから諦めてたんですけど」

 手短に、の所を殊更に強調して話し始める。

「頭のいい友達がいて。その子がボランティアとして働かせて下さい、って社長に手紙書いたら? って思いついてくれて」

 去年の知り合ったばかりの緋天を思い出す。

 思えばそれで彼女に一目置くようになったのだった。

「その通り実行してみたら、なんと驚いたことに社長から家に電話がかかってきて。三ヶ月でいいなら無償で働かせてくれる、って。それで木船支店の人に必要だって思わせる事が出来たら、その後もバイトとして雇ってくれる、って言ってくれたので、そうさせて貰いました」

 自然と口元がほころんでしまっていたので、それを引き締めてから隣を見上げる。驚いた顔が見えたので何故か得意な気になった。


「・・・すげ」

 出されたその言葉は本心に聞こえたので、思わずその顔を見返した。

「いや、凄いよ、本当。あの社長に手紙、って事だけでも凄いけど。今もここにいるって事は皆に認められたって事だろ。あんな癖のある人達に認めさせるのも凄い」

 少し楽しそうに笑って躊躇うことなくこちらを見るその視線に、逆に自分が耐えられなくなり目線を逸らした。

「意外、でした? ふらふらしてる女子高生だと思って見てましたよね?」

 冗談ぽく返して、この男の唐突な態度の変化に流されないようにした。そうしなければいけないような気がして。

「それはない。しっかりしてると思ってはいたけど。まさかこんな面白い事する奴には見えなかった」

 真顔で否定して、そして快活に笑う。言葉遣いも他人行儀なものから自然なものになっていた。完璧に仕事上の駒として見られていたのに、多分今の自分は彼の何かを手に入れたようで。

 オンオフで顔が違うと評される、彼のオフの顔を引き出したのだ。

「やるなぁ。その友達も頭切れるな。高校生だろ? あー、なんか女子高生のイメージ覆された、今」

「でしょ? まぁ、これからは佐山さんも使える人間だと私を認識して下さいよ。いつでも雑用するんで」

 悔しいことにその笑顔に少々見とれてしまい、それを隠す為にまた苦労して笑ってみせる。そして同じように自分も言葉を崩して返す。それが信頼の証なのだ、彼が見せた素顔へのお返し。

「はは。了解」

 もうひとつ邪気のない笑顔を自分に向ける彼の、その態度。それはもちろん嬉しいのだけれど、いい加減その明るい表情に頬に上る熱を抑えきれなかった。自分としては結構、人馴れしていると言うのか、男性女性の区別なく他人と話す事に慣れているつもりだったのだけれど。この急激な変化が良くなかったのか、少しその笑顔にやられてしまったようだった。右手で顔を仰いで照れ隠しに前方を見やる。

「・・・暑いですねー、あ、四十七分の電車に乗れそうですね」


 陽炎の立ち揺れる道路の先に駅が見える。

 額に浮かび上がった汗をぬぐってデジタルの腕時計に目をやる。事前に調べていた時刻の電車に間に合いそうだと確認して、なんとなくほっとした。


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