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再び亮祐の腕の中に戻され、一度目より幾分余裕のあるその手の動きにゆるゆると頭に霞がかかってくる。
緋天の高校の頃を先程思い浮かべて、それと共に甦った記憶が頭の片隅から鮮明に浮かび上がってきた。
始まりは、三年前の九月一日。
「京ちゃん、もう来てるよ、木船支店の若様。今お昼食べに外に出てるの。もうすぐ帰ってくると思う」
秋とは名ばかりの蒸し暑い中の始業式をやり過ごして。バイト先の従業員休憩室に入るなり、正社員の沙紀が目を輝かせて出迎えた。
「沙紀さん・・・ダンナさん怒りますよ? そんなキラキラしてたら」
「だぁーって。かっこいいんだもん。うちの人、地味だから」
肩をすくめて笑う彼女はとても可愛らしい。自分にはない柔らかさを持つ沙紀がとても羨ましくて。そっとため息をついた。
市村京子。
この字面を見て、誰もが、イチムラ キョウコ、と名前の京の字をキョウ、と発音するだろう。でも本当は、ミヤコ、と発音する。けれども小学生時代から初めて会う人々にキョウコだと思われ、そしていつしかそれがあだ名となり。学校の友人、クラスメートはもちろん、ついにはバイト先の人々までキョウちゃん、と呼ぶようになっていた。自分でもその音が嫌いではないし、実際友人もミヤコ、と呼びかけるよりキョーコ、と呼びかけるほうが言いやすいと言う。
「ちゃんと仕事できるんですかねー。噂だけが一人歩きしてたりして」
「そんな事ないよー。東京でも指名あった、ってさっき店長言ってたし。あたしは知らないけど、ここにいた時もお客さんの評判良かったみたいだよ」
「ふーん」
世の中には恵まれた人間がいるものだ。
このバイト先、商売道具は何かと言うと。客の求める住み場所を提供する、不動産業。それに加えてお金のある客向けに少し贅沢な家屋の設計、建築。そして両方の客対象のインテリア全般のアドバイス、販売。この三つを武器として二年前にこの街に広い店舗が建設され、そして事業を展開し始めた。元は東京に本店があり、そこで成功を収めた開業者が故郷のこの県に支店をオープンさせた。今では全国十店舗を持つ上場企業でもある。
不動産屋、設計事務所、家具屋、単一の店なら珍しくも何ともないのだが。この三つを一つにまとめ、広くてお洒落なショールームを作り、客に住まいのプランを提案。このある意味手っ取り早い流れが受け、こんな地方でも結構な売り上げを見せている。
親が大工のせいなのか。
物件を見るのが大好きで、将来は不動産屋に就職したい、と中学の頃から思っていた。ところがこの店舗がこの街に進出して、その存在を目の当たりにした中三の初夏。これこそ自分の理想のスタイルだと衝撃を受け、半ば無理やり、高一の夏休み、バイト店員にしてもらった。そのまま長期休みや土日、平日の夜なども続けて雇ってもらい、一年経った今はかなり受け入れてもらっている気がする。仕事自体は雑用で、三部門の別なく、書類の整理、作成、お茶くみ、ショールームの掃除、生活雑貨ブースのレジ、などなど。自分以外は全員が正社員なので、基本的にバイト要員は使いやすいのだと思う。そんな気軽さも手伝って有難い事に格部門の社員に可愛がられて、色々覚える事ができた。
「京ちゃん反応薄いねぇ。好きな人でもいるの?」
沙紀が不満そうにそうつぶやく。
「いませんってば。ただ、そこまで皆が口を揃えて誉めるとなんか怪しいって言うか」
今年の四月から東京本店へ勉強に行っていた社員が、今日付けで元からの配属先、この木船支店へと戻ってくるのだが。彼はかなり優秀な社員らしく、男性はその能力を、女性はその容姿を褒め称える。彼と入れ違いに他県の支店から異動してきた沙紀も、今日初めてその噂の人物を見てこの様子だ。
「何さんでしたっけ、その人」
制服から白のシャツと黒のスカートに着替え終えて、ロッカーの扉を閉める。飲んでいた紙パックのジュースをゴミ箱に捨てた沙紀が嬉しそうに振り返った。
「佐山さん。木船支店の若様、佐山亮祐」