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「なあ、お前」
食後のコーヒーを口に入れながら、メールをチェックしていると。
背後から回ってきたゴウが隣の平岡の席から椅子を引いて座った。
「お前、いつから市村なんて呼ぶようになった?」
「は?」
パソコンの画面に集中していたせいと、唐突に聞かれたその質問の意味が判らず、間抜けな声が出た。横を向くとにやりと笑う彼。
「まさか抜け駆けなんてしてねーだろうな」
気付けば周りに人がいない。他の先輩はまだ外に昼食をとりに行っているか、休憩室でのんびりしているかどちらかのようだった。
「・・・市村、ですか?」
「ほら、それ。いつから呼び捨て?」
相変わらず笑みを浮かべていたが、彼の目には何か違うものが見え隠れしていた。
「先週の土曜日、ですかね? 家具屋に挨拶行くのに案内してもらったんですよ。それでまあ、遠慮なしに普通に話すようになりましたけど」
店長の前で京子の名前を出す時に、礼儀にならい苗字を呼び捨てにした。そしたらそれが、妙にしっくり馴染んだので、そのままそう呼び続けていただけなのだが。
「ふーん。なんか一昨日さあ、随分楽しそうにお前の事話してたから。出し抜かれたかと思った」
「何もしてませんって。安心して下さいよ。女子高生に手、出す気にはなれないんで。俺より聡さんとか幸成さんのが露骨だと思いますよ」
鳩を怖がってあんな風に叫んでいた彼女をゴウに見せてやりたい。あれを見れば、とてもじゃないが手を出すような気分に到底なれないだろう。
「あいつらはいいんだよ。ただ騒いでるだけだからな」
ふん、と鼻で笑ってからゴウが立ち上がる。
「お前、いいんだな? おれ、デート誘うけど」
「いいに決まってるじゃないですか。余計な敵対心は無用ですよ」
そこまで自分を気にするゴウが何だかおかしくて。
こぼれた笑いと一緒にそう返した。彼が心配するような事は何ひとつないのだから。
「あー佐山さん。お疲れ様です」
いつもなら。客との予定がない日は七時までに家に帰るのだが。
今日は何となくだらだらと残業を続けて。気付けば七時半を過ぎていた。
「おう、お疲れ」
外に出た所で、自転車を押す京子と鉢合わせた。夏の名残も今は消え、さすがに外は暗い。電灯と店舗の照明に照らされたその顔に笑みが浮かんでいた。少し涼しい風が頬をなでる。九月も半ばを過ぎて、ここ二、三日は朝夕こういう風が吹くようになった。
「お前、チャリで来てんの? 家どこ?」
「市内ですよ。西中の近くです」
「じゃあここから十分くらいか。ってうわ。制服だよ」
気付けば彼女が身につけているのは白と紺色の制服。白の半袖シャツにボルドーに近い赤のネクタイ。生成りのサマーベストとボックスプリーツの濃紺のスカート。
「うわ、って何ですか? っていうかそんな見てると怪しいですよ」
思わずまじまじと観察してしまっていた事に、彼女の言葉で気がついた。膝上のスカートから惜しげもなく長い足をさらして。けれども紺のハイソックスが膝下を隠す。
「・・・いや。なんかさ。いつもお前、仕事中かっちりした服着てただろ? だから余計驚いたって言うか」
京子が仕事中に着ていたのは、ブラウスとスーツのスカートかパンツ。確かに周りの女性は全員スーツかそれに順ずる服を着ているのだから、合わせるしかなかったのだろう。大人びた京子の顔も手伝い、姿かたちは二十歳前後の若いOLとして見れなくもなかった。
それを見慣れていた分、目の前に立つ女子高生に引いてしまう。
「ふーん。佐山さんまでコスプレとか言い出さないで下さいよ。そんな女子高生っぽくないですか?」
「いや普通に女子高生に見えるんだけどさ。なんかすげー変な感じ」
ふてくされる彼女をもう一度見ると、ちゃんと制服姿も似合う。ただ単にいつもと違うから頭が追いつかなかっただけなのだ。それにしても、これだけの美人が同じ高校にいるというのは、クラスメートの男子はどんな感じなのだろう、とそんな考えが頭をよぎる。もし自分が高校生の時に京子が隣の席にでもいたら、絶対授業に集中するどころではない、と思い至った。
「何ですか、にやにやして。気色悪いです」
「きしょ・・・!? って俺か? 今、俺に言ったのか?」
すっぱりと彼女が言い放った言葉に思考を中断されて。そして到底聞き流せない、その言葉に愕然とした。気色悪いなどと誰にも言われた事がないのに、彼女は公然とそれを口にした。
「好き放題言ってくれんなぁ。ええ? 今度鳩連れてきてお前のロッカーに入れてやろうか?」
「カギかかってるから無理ですよ。・・・何かほんとに仕事中と性格違いますよね。しかも平気で人の弱点ついて半端じゃないし。やっぱあんまり緋天とは似てないかも」
不服そうに言って、後半はこちらを見上げて観察するように首をかしげた。
「何だ、そりゃ。俺が何と似てないって?」
「・・・友達です。ほら、ここで働けるようにアドバイスしてくれた子。その子も佐山さんみたいに慣れない相手に引いちゃうんですよ。仲良くなったら全然そんな事ないんですけどね。今の佐山さんみたいに。それで似てるなーって思ってたんだけど」
眉をしかめて、そして首を振る。
「やっぱり違うのかも。仲良くなったからって緋天はそういう事言わないし。弱点つくなんて卑怯な事思いつきもしないなー」
「お前な。そんなの戦略の基本だろうが。卑怯でも何でもない」
にやりと笑った彼女に言い返してやると、うわっ最低、と声が返ってくる。それから満面の笑みでまた口を開いた。
「じゃあ佐山さんの苦手なものって何ですか?」
「・・・泣いてる奴」
いきなりの真面目な質問に、はずみで真面目に答えてしまう。
「えぇ? んー、もしかして子供嫌いですか?」
「嫌いじゃないけど苦手かもな。泣かれたらどうすればいいのか判らないから」
京子の質問の矛先が違う方へ向いたので、ほっとした。本当は泣いている女と同じ空間にいるのが苦手なのだが。
「あー、確かに。佐山さんてそういうの面倒がりそう」
苦笑して紡がれたその言葉にまたしてもどきりとさせられる。それはそのまま、女性にもあてはまる事だったので。
ジジ、と電灯に虫が当たる音がして。京子がそれを見上げる。
「・・・じゃあそろそろ帰ろっかな。佐山さんは車?」
「ああ。気を付けて帰れよ」
これ以上話してると余計な事まで口を滑らしそうだ、と思った瞬間。彼女がそう切り出した。安堵して言葉を返す。
「近いのに車って・・・。運動した方がいいですよー」
「いいんだよ。ジム行ってるから」
「ふーん」
味のない返事をしてから京子が自転車に乗る。膝上のスカートの丈が数センチ上へとずれた。
「お前、スカートそんなでチャリ乗ったら、中見えるだろ?」
「うわ、どこ見てんですかっ。やっらしー」
「やらしいって・・・失敬な」
にやりと笑ってからペダルに足を乗せ、少し漕ぎ出す。
「スパッツはいてるから平気ですよー。お疲れ様でしたー」
ひらひらと手を振ってから、軽快にペダルを踏んで。颯爽と彼女が遠ざかって行く。肩までの髪がさらさらと夜風になびいていた。
「・・・完全にからかわれてんな、これ」
ハタチにも満たない少女に体よくあしらわれ。100%負けた気がする。けれども腹は立たず、知らない内に笑みが浮かぶ。
駐車場へ向かう頬は、しばらく緩んだままだった。




