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「市村。これ社内メールで大阪の資材部に送っといて。あとこれ、北沢支店。支店コード判るか?」
「判ります」
パソコンに向かっていた顔を、ほんの少しだけ上げた彼に、机の横を通りざまにそう声を掛けられた。家具店に一緒に出向いて以来、他の社員と同じように彼には普通に仕事を頼まれるようになった。普通どころかやたら使われているような気もしていたが。
「あと時間あったら、名刺フォルダ整理してくれると有難い」
手渡された書類を受け取ると、完全に顔を上げてこちらを向いたそこには、にやりと浮かぶ笑み。仕事モードの声も幾分和らいでいた。
「・・・時間あったら。多分それ今日は無理です。不動産事務の所でデータ入れなきゃなんないんで。ゴウさんのが先ですよ」
「あー、じゃあいいや。お前、引っ張りだこだな」
行っていいよと軽く手を上げて、またパソコンへ向き直る。その横顔はもう真剣なものへと戻っていた。
「京ちゃん、それ、もういい?」
手元のボウルを覗き込んで、緋天がハンドミキサーを止めた。その中はしっかり泡立てられたメレンゲ。緋天一人のミキサーを止めた所で、調理室の喧騒は少しも小さくならなかった。
「んー、いいの、これ位で?」
こちらの手元は白っぽくなった卵黄。今日は週に一度の必修クラブの日で。この調理部の顧問の放任主義に従い、いつものように緋天と二人で一つの調理台を占拠していた。
「うん。そんな感じ」
今日のメニューはロールケーキ。作るものは自由なので、隣の台からは香ばしい醤油の香りが漂ってくる。緋天にボウルを渡してから、後輩のその台を冷やかしに行くと、網の上でいい色に焦げ目のついた餅がぷくりとふくらんでいるところだった。
「この暑いのに何でお餅なんか焼いてんだか」
ゴムベラでボウルの中身をひとつにしている緋天の横に戻ると、ああ、と笑みをこぼして彼女は口を開いた。
「鎌田君ちでしょ? なんか、文化祭の試作、って言ってたよ」
「おー、えらいね。ウチらのクラスなんて、まだ全然用意してないのに」
「でも決まってるからいいんじゃない? 三組なんてまだ何やるか論争中らしいよー」
「あー、そだね。そういや、私、やっぱりメンバーに組み込まれてたよ。まあいいけどね。別に好きな人いないし」
「えっ!! いいの?」
今日、部活前にクラスの文化祭実行委員に引き止められ、彼らがさも当然とばかりに話した事。それは文化祭の出し物の主要メンバーになれ、というものだった。
驚いた顔でこちらを見る緋天の手からボウルとゴムベラを受け取って、中身を混ぜる。もったりとしたクリーム色になっていくそれを見ながら、緋天が不満そうな声を出した。
「だって好きでもない人といなきゃいけないんだよ? それに京ちゃん、バイトもあるのに練習とか大丈夫なの?」
「私は座ってるだけでいいみたいだからね。練習もなにもないっしょ。それにバイトに影響あるなら初めから断るよ」
「うーん。京ちゃんがいいならいいんだけど」
うなずいて小麦粉の入った粉ふるいを手にした緋天が、それでもまだ何か言いたそうにしてじっとこちらをみてくる。
「おーい市村。磯部巻き食わねぇ?」
思わずその表情にほだされかけた所で、隣の台から声がかかった。近づいてくる同じ学年の男の後に、皿を手にした後輩。
「今日は真面目に来たんだ? サボリだと思ったよ。さっきは鎌田っちしかいなかったじゃん」
「重役出勤だって。な、鎌田」
「僕が呼びに行ったんすよ。先輩あんまり休むと進級できないんですよ? 知ってました? 必修クラブも単位としてカウントされてるの」
「げ!! マジで? 知らなかった・・・」
いわゆる、不良、として周りの生徒、教師から認識されているこの男は、一応調理部に在籍している。けれども二週に一回は休むので、数少ない男子部員が集まる同じ班の後輩が、今日はわざわざ呼びに行ったらしい。
「やべぇ、オレもっと真面目に出ねーと」
「そうですよ。ちなみに来週はきびだんご作る予定っす。あ、それより先輩、これ試食してもらえますか? 河野先輩も」
「・・・あ、うん。ありがとー」
後輩の鎌田が差し出した皿を受け取って、緋天が微笑を見せる。
「お前ら何作ってんの?」
身を乗り出して調理台の上を覗き込んだ男に緋天は顔を強張らせた。
「あー、ロールケーキ。用が済んだらさっさと戻る! 緋天が怖がってるでしょーが」
「っんだよ? ちょっと見ただけじゃねぇ?」
緋天の反応に苛立ちをあらわにして、彼が不良らしく凄んでみせた。
「まあまあ、抑えて。ほら、先輩はこっちのおろし醤油も味見して下さいよ」
鎌田が機転をきかせて彼を隣の台へと誘導する。それにほっとして緋天に向き直ると、困った顔でこちらを見ていた。
「ったく。あいつも不良ぶってカッコつけなきゃいいのに。緋天が余計しゃべれなくなるって分かんないのかねぇ? だいじょぶ?」
「うん。ごめんね」
「緋天が謝ることないの! あいつが悪いんだから。女の子びびらすなんて最低だよ」
しょんぼりしながら緋天が粉ふるいを再び手に取った。落ちていく白い粉を見て、緋天の笑顔を消した彼を心の中で罵った。
普段、友達同士では笑顔を簡単に見せる緋天だけれども。
慣れない人間や、今の様にやたら凄んでみせる不良、騒がしく周囲を気遣う事を知らない人間の前では。緋天はあまり口を開かないし、笑わない。笑う事ができなくなる。
そういう人間の前でも、自分ならうまく話を合わせたり、何か言われても適当に笑顔を作って受け流す事ができるのだが。緋天はそれが出来ずに貝のようになってしまう。きっとそれは緋天の無意識な自己防衛なのだろうと友人の間ではそんな見解が出ていて。誰もが自分が守ってあげなければ、という気持ちにさせられる。けれども緋天を理解しない人間はそれを自分を馬鹿にした態度だと取って、緋天がさらに口を開けない空気を作り出すのだ。
「うーん・・・佐山さんにちょっと通じるものがあるなぁ。態度は全然違うけど」
「・・・え? 誰それ」
緋天のそんな他人への対応が、佐山の二面性と重なった。緋天は不思議そうにふるいを横に置き、溶かしたバターの入った器を持った手を止めた。
「九月からね、東京にいた社員の人が入ってきたの。もともとは木船支店にいた人なんだけどね。んで、その人が緋天みたいに慣れない相手にはかなり構えてるっていうか。お客さんは別として。あと仕事モードの時は、仲いい人ともあんまり喋らなくて、仕事一直線て感じ」
牛乳とバニラエッセンスをボウルに入れてやる。漂う甘い香り。
「その人ね、そんな感じなのにね、すっごい他の人に期待されてんだよ。木船支店の若様、とか呼ばれてんの。確かに仕事はできるみたい」
「えー? じゃあ、あたしと全然違うよ。そんなすごくないもん」
ようやくバターの器を逆さにして、緋天がボウルを回しながら中身を混ぜ始めた。
「やっぱ似てるって。あ、そうだ。佐山さんも緋天の事、頭切れるって誉めてたよ。採用された時の事話したらさ」
何かに集中していると周りの声があまり聞こえなくなる所も、仕事に集中している佐山に似ている。
「んー。・・・・・・そういう話するって事は、京ちゃんはもう仲良くなったんだね、その人と」
緋天が嬉しそうにそう言う。やっぱり彼女は頭がいい。これだけの話でそこまで行き着くのだから。
「うん。初めはほんと軽く見られてたんだけどね。私の魅力で奴の壁を打ち砕いてやったわ」
「あたしと本当に似てるなら、その人すっごいラッキーだよ」
混ぜ終えた生地を天板に流し込む。帯状に落ちていくそれを見ながら緋天がさらに笑った。
「だって京ちゃんと仲良くなったら、怖いものないもん。あのね、その人も色んな事が前より楽しいよ、きっと」
さらりと言ったその言葉はこちらを惑わせる。そんな風に嬉しいことを言ってくれる緋天は最高にかわいい。
「っもう!そういう事は簡単に言っちゃ駄目だよ。勘違いする奴が出てくるからね。私が女で良かったよ」
照れ隠しでそう言って緋天の頭を撫でたけれど。半分は本当の警告。それでなくとも真面目な部類に属する男子生徒には、緋天は人気が高いのだ。ただ、ぼんやりと好き、という程度で告白までに至らないのがほとんどのケースだから安心しているのだけれど。
首を傾げる緋天の手からボウルを受け取って、もう一枚の天板に残りを流す。予熱していた二体のオーブンにそれぞれ手元の天板を入れて、スタートボタンを押す。
「さて。んじゃ鎌田らの磯部巻きでも食べますか」
「うん。あ、じゃあお茶淹れよう」
嬉しそうに頷いた緋天の頭の向こうに、隣の班の連中が楽しそうに話をしているのが見えて、ほっとした。
「あれ? 緋天、持って帰んないの?」
生クリームとフルーツを入れて巻いた完成品のケーキを、緋天がきれいに切り分け始めた。もうほとんどの班がそれぞれのものを作り終えて帰り支度を始めている中、緋天が真剣な顔で包丁を入れる。
「ん、鎌田君ちにあげるの。さっきお餅もらったから」
半分位切り終えたそれを、緋天の指が数える。
自分のケーキを持ち帰るのに包んでいたラップを、適当な長さに三枚切った。
「緋天はやさしいねぇ。私のはあげないよ。おいしくできたから。はい、これに包みなよ」
「あー、ありがとう」
一切れずつラップに包むのを手伝っていると緋天が手を止めて、もう一枚ラップを切った。
「え? だって鎌田っち三人分でしょ?・・・ってまさか」
「うん。だって同じ班なのに一人あげないっておかしいよ。それにさっき怒らせちゃったし」
なんて心の広い子だろう、と感動してしまう。あれだけ嫌な思いをして怖がっていたのに自分からその中にまた踏み込むとは。
「あ、待ってー。はい、さっきのお返し」
驚いてぼんやりしてる間に緋天が隣の台へ、帰ろうとしていた彼らを引き止めていた。はっとして緋天の横へ並ぶ。また緋天に嫌な思いをさせる訳にはいかなかった。
「わ、ありがとうございます」
「ラッキー。餅がケーキに化けたっ」
「河野先輩の手汗がブレンド・・・」
にこにこ顔の緋天に順番にケーキを手渡されて、三人の後輩の男達は嬉しそうに騒ぎ出す。
「えっと。大石君は甘いもの好き?・・・甘さ控えめなんだけど」
笑みを消した緋天が引け腰気味に。踏ん反り返って紙パックのコーヒーを飲んでいた彼へと向かう。
「はぁ? 俺にもくれんの?」
差し出されたケーキを反射的に受け取って、大石が怪訝な顔をする。
「うん。さっきはごめんね」
「や・・・、ってかお前」
「はい!! そこでお礼。お礼言いなさい!」
かなり驚いた顔の大石の頭をはたく。緋天に謝らせるなんて、この男は何と馬鹿な事をしてくれるのか。
「あー・・・ありがとうございマス」
はたかれた頭を押さえて、それに怒りを見せずに、彼は緋天にぼんやりとした視線を送った。
「・・・食べれる?」
「は?」
「それ。ケーキ。好き?」
堅い顔の緋天が短い言葉を紡ぐ。それだけで緋天がもう壁を築いているのが判った。
「ああ。・・・・・・好きだよ」
意外にも穏やかな声を大石が出した。それに安心したのか緋天が微笑んでこちらを向いた。
「良かったー」
「よしよし。えらいね、緋天は。んじゃ、帰ろっか」
一仕事やり終えた、というようなほっとした顔を見せて頷いた緋天とラップや包丁を片付ける。ちらりと入り口に目をやると、案の定何か言いたそうな顔の彼がこちらを見ていた。さっさと帰りやがれと手を振る。
「・・・緋天、また妙なの手懐けちゃって」
先程緋天が微笑を見せた時、大石の耳が赤らんだのを確認したのだけれど。彼に協力するつもりは針の先ほどもない。緋天が安心して話す事ができない相手は初めから問題外だ。
「???」
変な虫がつかないように、自分が見張ってあげるのだ。はっきりとした言葉で伝えられた事はないが、緋天の兄である司月にも会うたびに遠回しにそんな意味合いの話が出てくる。
緋天がくつろげる相手でないと認められない。誰からも好かれるようなそんな人間がいい。いつもにこにこ笑顔を浮かべているような。
緋天を預ける事のできる男が現れるのはいつになるだろう。
少なくとも今は基準を満たす人間が一人もいないと確信して。何故だか安心して笑みがこぼれた。




