記憶
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べちゃべちゃと絵を描くことを続けていると小野寺がどこかに出かけてしまう。今日は金曜日で祝日で小野寺は学校が休みらしい。
しばらくすると院の駐車場に一台の車が止まる。光沢を放つ下品な赤色の車。何か引っかかるようなものを感じてわたし赤い車に目を釘付けにされる。中から変な濃い化粧とはでな衣装とぼろぼろの髪をしたおばさんが現れて、しゃなりしゃなりと大またで歩き始める。その後ろにくたびれた様子のおじさんがつきしたがっている。
わたしは様子を見るために絵を描くのを放り出して孤児院の門前に向かう。院の中からは一之宮先生がどこかぶすっとした面持ちで現れておばさんに向き直る。
「イズミちゃんはどこにいるの?」
おばさんがどことなく上機嫌な声で一之宮先生に言う。一之宮先生は眉を顰めておばさんをにらみ返し、憎悪すらこもったとがった声で口にする。
「何をしに来たんですか?」
「決まってるじゃない。イズミちゃんを引き取りに来たのよ」
そう言っておばさんはころころ笑う。背後ではくたびれた感じのおじさんが、腰を折り曲げるみたいにして立ち尽くしている。そこにいるだけみたいな感じで、表情もどこか浮かない感じがする。おばさんに何か言いたいことがありそうでもあった。
「ですが信条さん……。あなたそう言って前もあの子を引き取りに来たじゃないですか。それで一週間もたたずにまた捨てたんでしょ? ありえませんよ、そんなこと。あなたにはもう親権なんてないんです。通るわけないんです、こんなこと」
一之宮先生の声はつんけんしていて、おばさんのことを強く攻め立てるみたいな響きがあった。おばさんはそれを平気な顔をして受け流す。んなことあたしの知ったことじゃないみたいな、そんな表情。
「あなたのそういう身勝手が、あの子の心にどれだけの負担をかけているか分かりますか? あなた、あの子が自分の体をどうしているのか知らないんじゃないでしょう? いくつかの解離性障害の疑いまであるんですよ? どの面下げて引き取りになんて……」
「うるさい」
おばさんは苛立った風にそう怒鳴る。一之宮先生がその剣幕に若干怯む。軽薄につりあげられたその目にわたしは何か背筋が凍るような感覚を覚える。
「生意気言わないでちょうだい。ようはイズミちゃんがどう考えるかでしょう?」
そういうとおばさんは施設の中に向かって大声で叫ぶ。
「イズミちゃーん? イズミちゃん。お母さんですよ。イズミちゃんを迎えに来ましたよ? イズミちゃん?」
「わぁっ。お母さんだ。わーい」
白々しいほどに無垢なる声がわたしの耳に飛来する。わたしはびっくりして表情を引きつらせようとするけれどそれもできない。何故ならその幼い声はわたしの口から吐き出されたもので、その時にはわたしの意志とは関係なく体が勝手に走り出していたからだ。
「おかーさん。おかあさんおかあさんおかあさん」
喉が痛くなりそうな声で何度もわたしはそう叫ぶ。何が起こっているのか分からなくなる。わたしはそのままどたばた走って香水臭いおばさんの体に飛び込んでいく。おばさんは笑顔でわたしを受け止めてから、あまったるい声を出してわたしの頭を撫で付ける。
「イズミちゃん。イズミちゃんひさしぶりね。元気にしてた?」
「うんっ。あたし元気だよっ!」
「絵を描いていたの? イズミちゃん偉いわねぇ、手が真っ黒よ」
違うと思った。わたしはイズミちゃんなんかじゃない。それなのにこの人はわたしをイズミちゃんだと呼んでは、母親みたいに振舞ってわたしの頭を撫で付ける。そしてぞっとするようなキスをわたしの頬に向かってしてきたかと思ったら、捕らえるみたいにわたしの体を掴んでどこかに連れ去ろうとする。
「ちょっと……どこに連れて行く気?」
一之宮先生が怒鳴る。おばさんがどこか勝ち誇ったように宣言する。
「どこって……この子のお家に決まってるでしょう? ねぇ、イズミちゃん」
少しだけ怖い顔をしておばさんはわたしのほうを向き直る。わたしは混乱していた。確かにこの人はわたしのことをイズミちゃんだと思っているらしい。だがわたしはイズミちゃんではない。信条くぼみという名前がある。
いやしかしそれにしたって。わたしは考える。信条くぼみなんて名前は一之宮先生から教わったもので、それがわたしの本名である根拠はどこにもない。むしろこの人がいうようにわたしはイズミちゃんという人間なのかもしれない。そうであったとしてもわたしは困らないだろうか。どうなのだろう。
「ねぇ。どうなのイズミちゃん。帰りたいの? 帰りたくないの?」
そう言っておばさんはにたりとした笑顔で同意を求めてくる。わたしは喉から心臓を吐き出しそうな感覚に襲われる。自分が何かとんでもないものを目に前にしているようなそんな感覚。
目の前の女の人は暖かい。暖かくて大きくて引っ付いていると奇妙な気持ちになってくる。それと同じくらいに何かどうしようもなく恐ろしいものも感じてしまう。アタマの中が上手く整理できない。どうすれば良いのか分からない。
誰でも良いから助けて欲しい。そう思った途端わたしの口から別の何かが声を発する。
「おかあさんと一緒にいたい」
その時わたしはわたしがものすごく遠くにいるように感じられた。わたしという存在がもう一つあって、それはいつもいつもわたしの後ろで立ち尽くしてわたしのことを観察していて、そしてそれこそがここでこうしているわたし自身であるという、奇妙な想像が頭を張り付いてはなれなくなる。
胸騒ぎがする。
わたしはどうしてしまったのだろう。
「じゃあ。一緒に帰りましょう」
そう言っておばさんはわたしを連れて行こうとする。後ろでそれを見ているわたしは何もすることができない。ただしわたしの体はるんるんと嬉しそうにスキップを踏むように、そのおばさんについて歩いていってしまう。漠然とそれを見送っていると、なんだか意識がぼやけるような心地がする。このまま目を閉じてしまったら何もかも感じなくなるんじゃないかとそんな気がする。
「ところでイズミちゃん。そのアタマの傷はどうしたの?」
おばさんが言う。
「えっとね……これはね……。……で、……が…………」
わたしが答える。もうほとんど何も聞き取ることができない。わたしはわたしの中に静かに沈みこんでいく。酷く心地が良い。そのうち自分がなんなのかも分からなくなって、このまま消えてしまうんだろうか。そしたらわたしはどうなるのだろう? このイズミちゃんと呼ばれている誰かが代わりにわたしをやってくれるんだろうか。
そんな風に考えたときだった。
ばたばたと羽ばたくような音がして、何か黒い物体がわたしとおばさんの間を駆け抜ける。おばさんはそれにおびえるようにしてわたしのことを放り出すと、わたしは地面に投げ出されてがつんと頭をぶつける。その衝撃でわたしの意識がわたしの体に戻る。わたしは自分の意思で立ち上がると、目の前で起こっていることを見やる。
「このカラス……いったいなんなのよ、もうっ!」
一匹のカラスがオバサンの上を旋回し、そのアタマに向かって何度も何度もくちばしを突きつけている。その執拗な攻撃におばさんは両手を振り回して抵抗するけれど、カラスは器用にそれをかわしてつかまらない。おばさんは痺れを切らしたようにこう叫ぶ。
「ちょっとあなた……何をしてるの? 助けなさいよっ」
そういわれ、背後に構えていたおじさんがびっくりしたように跳ね上がる。するとおじさんはまずカラスの方を見上げて、次に床に転がったわたしの方を一瞥して申し訳なさそうな、いとおしそうな変な顔をすると、ぶきっちょに手を差し出してカラスを捕まえようとする。
「うわっ」
眉間のあたりをくちばしで一突き。それだけでおじさんは怯んで動けなくなる。おばさんは期待はずれという様子で眉をつりあげる。
カラスはそのままおばさんの頭上に飛び上がり、空からぽとりと白いものを落としてくる。それは見事におばさんの鼻の頭に着地して、おばさんはヒステリーを起こしたように絶叫する。
「きゃぁああっ! 糞、糞よふんフンっ! もういやっ!」
そう言っておばさんは歯軋りをしながら両足を地面と打ち鳴らし、おじさんを蹴り飛ばしてからその手を引いて歩き始める。
「もう服もぼろぼろっ。あなた、すぐにこれを綺麗にしにいくわよ。こんなのいやよ、あたし」
「……この子を引き取らなくて良いのかい?」
「そんなの後よ、後っ! ……まったくもう」
そう言っておばさんとおじさんの二人組は車に乗って帰っていく。わたしは漠然としてそれを見守っている。しばらくすると、一連の動きを全て観察していたらしい小野寺がやってきて、カラスを指差してこう口にする。
「こいつがなんかばたばた飛んでったから来て見たんだが……あいつら、おまえの親なのか?」
分からない。わたしはその場で首を振るってみせる。小野寺はふうんと退屈そうに言う。
「じゃあ誰なんだろうな。そのイズミちゃんっていうのは」
わたしもそれを考える。知っているような気がする名前だ。わたしが首をかしげると、カラスは何か満足したようにわたしに向かって羽を広げて見せると、その無表情な瞳のままばたばたとその場を飛び去っていく。
カラスの黒い羽がわたしの足元に落ちる。飛び去っていくカラスを眺め、アタマに手を伸ばしてその場を立ち去ろうとした時、ふと引っかかるものを感じる。
「……あっ」
そして思い出す。
イズミちゃんというのはわたしの妹の名前だった。
信条イズミ。死んだのは確かわたしが小学校にあがる少し前のこと。
家の庭に向かってべちゃりとつぶれているイズミのことを思い出す。わたしは壊れた卵みたいになったイズミを窓の内から眺めている。自分がどうしてそんなことをしたのか、それを考えながら漠然とイズミを見下ろし、お母さんの帰りを待っている。
イズミはあの後小さな棺に入れられていた。あちこち裂けて骨が折れてめきょめきょでぐちゃぐちゃだったイズミ。あちこち縫い合わせて張り合わせてずたぼろの人形みたいになって、それでもすごく綺麗でかわいらしかったイズミ。そのまま持って帰って部屋に飾っておきたいと、そんな風に強く感じたことを覚えている。
「つまりですね。あなたは妹を窓から放り投げて殺してしまったことを後悔している。そのことがあなたの中にイズミという人格を作り出し、それは時折現出し、あなたの元に現れたり、時にあなたに成り代わったりする。そういうことではありませんか?」
その夜。食事と入浴を終えて部屋に戻ってくると、猫みたいにふっくらとして黒い尻尾の生えた綺麗な女の人が、わたしのベッドにしどけなく寝そべっていた。
「あなたの母君があなたをイズミちゃんと呼んでいたのは、つまりあなたたちは親子でイズミが生きている世界を共有していたのですよ。親子揃ってイズミの生存を肯定し、その中であなたはあるときは長女のくぼみとして、あるときは次女のイズミとして母親に振舞っていました。そう考えれば今回のことにも説明がつくのではありませんか?」
そう言って流麗に片方のまぶたを閉じてみせる女性に、わたしは声をかける。
「あなた誰?」
「私ですか? 悪魔です。あなたの悪い心」
ふふふっ。と女性はその場で微笑んで見せて
「天使がいるのですから当然悪魔もいるというものです。ほら、きちんと尻尾も生えていますよ。先っぽが尖っていますね、実に悪魔的ではありませんか」
そう言ってお尻を向けてひょろりと生えた悪魔の尻尾を見せ付けてくる。露悪的な黒い衣装を纏ったふっくらとした女性。男の人の読む雑誌にでてきそうだと思った。
「そうです。私はあなたの父君の呼んでいた雑誌より姿を借りています。本当なら天使がやって見せたように、カラスや他の動物の姿を使ってみせるのが一番分かりやすいのですけどね」
「なんででてきたの?」
「正邪のバランスを保つためです」
と、悪魔は言った。
「天使の奴がカラスに擬態してしまったので、常にあなたの傍にいることができなくなったのです。そうなると悪い方の私ばかりがあなたの心に巣食っていることになりますね? これではあなたが何をやらかすか分からないということで。自重して外に出てきてあげたというところです」
良く分からない。わたしが目を丸くしていると、悪魔は上品な動作でその場を起き上がる。ベッドを立ち上がると、長い手でわたしのベッドを指し示してみせる。
「あなたの眠るところです。……どうぞ」
そういうので、わたしはすぐにパジャマに着替えて布団に寝転がる。最初に起きた朝の色違いの灰色のパジャマだ。すごく肌触りが良い。
「ねぇ悪魔さん」
と、わたしは悪魔に問いかける。
「あなたはわたしの前の記憶について。何か知っていることはありますか?」
「さぁ。どうでしょうか」
悪魔はころころと、あざけるような形に唇を歪めて、しかし上品に笑う。
「わたしはあなたの悪魔です。『記録者』や『歴史学者』ならともかくとして、それをわたしに訊くのはナンセンスというものですよ。知っている、知っていないの問題ではありません。そもそもが管轄外なのです」
意地悪な口調でそう口にする。そして愉快そうに微笑んで見せると
「こうして話をしていることすら、本来は考えられないことなのです。そもそもあなたに知恵を授けるのも、ふつうなら『学者』や『教師』がやるべきことですし」
わたしはうなずきもせずに顔を背けてしまう。このまま明かりをしまおうかと思っていると、ノックの音が部屋にこだまする。
「お姉ちゃん」
妹の声だ。わたしは思った。悪魔はほんの少し不愉快な表情を浮かべて扉に目をやり、それからあけてやったらどうだとばかりに顎をしゃくってみせる。そのとおりにする。
「お姉ちゃん。……おねぇちゃあんっ」
言って、妹はわたしの胸の中に飛び込んでくる。柔かい体を精一杯押し付けて行われる愛情表現。わたしはその小さな体を抱きとめ、お腹から引き剥がして目を合わせる。
「あなた……誰?」
わたしは尋ねる。
妹は真ん丸な目をくりくりと輝かせて首をかしげる。イズミちゃんは確か一歳の赤ん坊だったはずなのだ。悪魔の言うことが本当だったとしても、こんなに大きくなっているのはおかしいと思う。
「簡単なことですよ」
悪魔はつまらなさそうに答える。
「あなたが成長するのにしたがって、妹の方もあなたの中で育っていった……。ちょっぴりペースがつりあわないのが難点ですが」
妹はにこにことしてわたしの顔を見上げると、背後の悪魔に向かって声をかける。
「悪魔。いるんだ」
声をかけられた悪魔はどこか不機嫌そうに長い髪をはらって見せて
「ええ。あなたとは話をする機会を持ちたいと思っていたところです……。天使の奴はただの人の良いガキですし、まだ遭遇確率の高い他の連中も、偏屈か高慢かのいずれかですしね。私の知る限り、まともなものはおそらくあなたくらいのものでしょう」
「相変わらず悪魔は何いってんのかわかんないね」
妹は不思議そうに唇を尖らせて見せる。
「認識の違いです。私は自身がただの儚い悪魔でしかないことを知っていますが、あなたはそうではないのでしょう? 私の話が理解できないのはそのためです」
妹は何も分からないというばかりに、無垢な表情で首を傾げてみせる。悪魔はたわいもないものを見るように微笑んで見せた。
退屈したわたしは一人でベッドに向かう。妹がそこについてきて、悪魔がそれに続く。妹はわたしの傍で寝転んで甘えるように身を寄り添わせる。
わたしはなんとなく二人の存在を理解し始める。天使も悪魔も、おそらくは妹も、わたしの為に存在する特別な人たちだと分かってくる。眠たくなったわたしのまぶたの向こう側に現れ、時にわたしの声を借りて話し始める、カラスや女性の姿を取った不思議な人たち。
「それでは。わたしはそろそろ失礼することにいたします」
そう言って、悪魔はぴらぴらと手を振ってわたしの前から去っていく。
「天使がいないのに私一人だけがいる訳にはいきませんから……。またあのカラス野郎をひん掴んで戻ってきますから、それまでどうかお楽しみに。さようなら」
そう言って悪魔の姿は霧散して、わたしの前から消える。わたしはそれをまぶたを薄く空けて見守ってから、再び目を閉じる。おなかのあたりに妹の体温を感じる。妹が言う。
「お姉ちゃん。……今日は一緒に寝てもいぃ?」
わたしは良いよと短く答えてから、妹の柔らかい体を抱いて眠りに落ちていく。妹はえへへと無垢に笑って、甘えるようにわたしの抱擁を受け止める。
酷く安らかな心地だった。
夢を見る。そして思い出す。
わたしは自分の部屋で絵を描いている。その時の自分の部屋というのはこの孤児院の部屋ではなくして、昔住んでいた黒塗りの大きな家のほうの部屋。大きな窓と真っ白な天井と壁に貼られたお父さんの絵があって、わたしはそこで毎日絵を描いて過ごしている。
わたしは三歳くらいの女の子を描いている。その女の子というのは、ちゃんと成長していればそれくらいの年になっているはずのイズミちゃんの絵で、わたしは端正込めて明るい色を塗り重ねていく。
毎日のようにキャンバスに向かって絵の具塗れになって、わたしはようやくその絵を完成させる。わたしはお父さんの絵を隅っこにどけてその絵を部屋に飾りつける。膝を抱えて一日中自分の絵を見ていると、突然部屋にお母さんが入ってきてわたしの絵を見やる。
「イズミちゃん?」
お母さんはわたしの絵に向かって目を丸くして信じられないようにそう口にする。わたしは嬉しくなってはにかんでみせる。お母さんは我に帰ったようにわたしの方を振り向いて、そしてものすごく複雑な表情を浮かべる。
それからお母さんは毎日その絵を見るために部屋を訪れた。
わたしはそれが嬉しくて、毎日膝をかかえてそれを見るようになる。お母さんは絶対にわたしとは口を利いてくれない。絵を見て見続けてしばらくすると一人で帰っていくだけ。それでもわたしはお母さんが部屋に来てくれるだけですごく嬉しい。
それが楽しみで、わたしはもう少し成長したイズミちゃんの絵を描く。
五歳になったイズミちゃんにお母さんはうつろな表情で話しかける。わたしはその様子をとても不思議に感じながら見守る。お母さんはそれから毎日毎日そこに現れて、イズミちゃんに向かって話しかける。恍惚の表情を浮かべて、まるで本当にそこにイズミちゃんがいると信じ込んでいるように。
ある日。わたしはまったく返事をしないイズミちゃんの代わりにお母さんに返事をしてしまう。
お母さんは最初絶句して、それから僅かにこちらを振り向いたかと思うと、すぐにイズミちゃんの絵に向き直って再び話しかけ始める。わたしはそれに返事をする。お母さんは返事があったことを泣いて喜んで、絵に向かって両手を伸ばして涙声で何度も話しかける。
そんなことが毎日のように続く。お母さんはわたしのことを無視してイズミちゃんに話しかける。わたしはイズミちゃんの振りをしてお母さんに返事をする。お母さんはにこにこ笑ってイズミちゃんと話をし、満足したように部屋を去っていく。
わたしはお母さんと話ができたことが嬉しくなる。
ある日。ごはんを食べていると、絵の前でもないのにお母さんがイズミちゃんに向かって話しかけてくる。
わたしはイズミちゃんになって返事をする。
お母さんが笑う。わたしも嬉しくなる。
目を覚ます。
ぐわんぐわんと視界が揺れている。なんだか三十時間くらい眠ってしまっていたような、奇妙な気持ち悪さが全身を支配している。それでいてどこか気だるくもあり、眠ったような眠っていなかったような不思議な心地だ。
だらだらとその場を起きだして気付く。わたしの体をまとっているパジャマが昨日とは柄を変えている。肌に絡みつく感覚が全然違う。どこかしらしっとりと湿ったようなそれは重たくもあり、わたしはそれに妙な不安感を覚えながら体を起こす。
鉄格子のはまった窓を見る。外はざらざらと雨が降っていて、霧が深くて外の景色が何も確認できない。ただおぼろげに、涙を流すような陰鬱なカラスの鳴き声が木霊するだけだ。わたしは肉の石を食べたカラスがどうしているのか少しだけ心配になる。悪魔はどうしているだろうか?
そして思い出す。そうだ、妹はどうしたのだろう。確か一緒に眠ったはずなのだけれど……。そんなことを考えていると、部屋にノックの音が木霊する。
「はい」
わたしが返事をすると、外側から強引に扉を開こうとノブが回される。ぎしぎしと音をたてて扉は何の反応も見せることがない。そう言えば鍵をかけていたんだった。思い出し、わたしは扉の前まで歩いていく。
扉を開く。
小野寺正志が心配げな表情でその場で立っていた。
「小野寺……?」
意外な人物の訪問に、思わず目を丸くする。小野寺はわたしの顔をまじまじと見詰めると、目を丸くするわたしに向かっていう。
「大丈夫か?」
「え?」
「いや……。昨日おまえ様子おかしかったから」
小野寺はそう言ってわたしの部屋に踏み込んでくる。枕もとにおかれた本に視線を向けて、それを手にとって溜息を吐く。
「おかしかったって? 昨日でしょ。何も変わったことなんか……」
「そんなことないぞ。話しかけても返事しなかったし、普段からおとなしいけど昨日はなんか特別びくびくしてて。なんか不気味だったし。……そんなにショックだったのかなとか思ったんだが」
「ショック?」
わたしは鸚鵡返しに小野寺を見やる。すると小野寺はいぶかしそうにこちらを振り向いて
「昨日のこと、忘れてる訳じゃないだろう」
と言った。
「いや……。昨日は一日中絵を描いてただけだけど……。どうかしたの?」
そこで。小野寺は何かを察したように息を吐いてみせる。それからこちらに労わるような表情を向けて。
「……春崎が寝込んでいるからおれが起こしに来てみれば。全部忘れてるな。良いか、よく見ろ。そしてよく聞け」
言って。小野寺は鉄格子のはまった窓を大きく開放する。若干の雨粒が部屋の中に振り込んでくるのにかまわず、小野寺はわたしを窓の前まで連れてくる。そのままアタマを掴んだと思ったら、鉄格子の僅かなスキマのほうに押し込んでくる。
「や……何するのっ」
鉄格子のスキマは大きく、腕くらいなら簡単に通るけど、頭は流石につっかえる。霧雨は見た目よりずっと勢いが強くて、降り注ぐ雨を大量に浴びてしまう。変に甘い味だ。
突っ込んだ張本人の小野寺はどこか神妙な顔をして、そして苦々しい声で伝える。
「庭のほうを見ろ」
言うので。わたしは滑り台やブランコの遊具が置かれた外庭のほうに目を向ける。
妙なラインが引かれている。
「へ?」
まるで刑事ドラマみたいな、ロープをかたどった不思議なラインだ。それが庭のところどころに転々と配置されている。わたしはそれをまじまじと見詰めた。なんだあれ。わたしあんなの知らないぞ。
「人が死んだんだ」
目を丸くするわたしに小野寺は言う。
「おまえの担当の一之宮だよ。……一昨日の夜殺されて、昨日の朝、発見されたんだってよ。おれも知ったのは昨日の昼だけど」
そう言って小野寺はわたしの頭を鉄格子から引っこ抜く。
がしゃりと窓が閉められて、小野寺はわたしの方を向き直る。
「大丈夫か?」
小野寺がそういう表情を、顔をずぶぬれにしたわたしはまじまじと見詰めていた。
ようやっと死体登場。
ミステリ的には準主役的存在なのに、三話でようやっととかどうよ。




