それは禁じられた言葉
「ミユ様…………」
俺は、いったい何をしているのだろうか?
ベットですやすや眠る、幼い彼女に寄り添いながら思う。
明日で……この方と別れなければならない。
それを思うだけで胸が張り裂けそうになる。
でも、きっとそうするべきなんだろう。
このたった三日間で、俺はもう二度も彼女を殺していた。
衝動のままに、時を進めすぎたのだ。
俺と彼女の主従関係は……既に破綻している。好き勝手に、こんなになった彼女を自分の欲のままに扱っている時点で、俺は彼女の奴隷失格だ。
これでいいんだ。
でもせめて、ギリギリまで……このままで。
俺は眠る彼女の頬に触れる。これ以上は、踏み込めない。
もどかしさを感じなくもないが、それが俺と彼女の適切な距離だったはず。
不意に彼女が目を覚ました。
綺麗な澄んだ瞳で、俺をじっと見つめる。
さて、彼女は次に何を言うのだろうか。
気が付けば、彼女の姿が少し成長しているような気がする。
さっきまでの十二歳の容姿から、十五歳のころのものへと変貌している。
彼女はじっと俺を見ていて、小さく笑った。
唇が動いて、言葉をささやく。
「ハジメ、私を『ミユ』って呼んでよ」
「えっ…………」
一瞬、頭が真っ白になる。
思考が空回りして、彼女が何を言ってるのか認識できない。
この、言葉は。
長い間、何度も何度も何度も繰り返してきたのに一度も出なかった言葉だった。
何で、こんな時に……。
一生懸命、俺は記憶を呼び覚ます。
思い出せ、思い出せ。
彼女の時を進めさせるために。
「それは……できません」
「何で? 私がいいと言ってるのに」
不満げに頬を膨らませた彼女に、俺は戸惑いながらも何とか思い出した言葉を絞り出す。
「お嬢様と俺は、主と奴隷です。俺は一生、あなたに使われるだけの道具。だから、俺ごときがお嬢様と対等に付き合うようなことなど……あっては、ならないのです」
当時は俺はそう淡々と彼女に返したはずだ。
なのに、どうして? 今は――――
こんなにも、胸が苦しい。
彼女はむっとした表情のまま、言った。
それは、俺が長い間忘れていた言葉。
「私は、ハジメが好きだよ」
息が止まる。視界が真っ白に染まる。
あまりの衝撃に、もしかして死んでしまったかもしれない。
眩む視界の中、彼女の声だけは明瞭に聞こえた。
「私は、ハジメが好き。ハジメだけしかいらない。だから、呼んで。『ミユ』って、呼んで」
「それはできません……」
それは許されないのだと、もう二度と、お願いですからそのようなことをおっしゃってはならないと、俺は彼女に説き伏せたのだ。
俺も忘れようとして、忘れた。
あまりにも幸せな夢だから、ずっと見続けるのが辛かった。
でも、今その光景が巻き戻ってくる。
不満げな、なのにどこか切なそうな顔をした彼女が、俺の服の裾をそっと小さく引っ張る。
「ねぇ、『ミユ』って呼んで」
『……すみません』そう俺は返したのだ。今もまたそう言って逆らうべきだ。
こんなになっても、俺と彼女の関係は主従関係以外の何物でもない。それは変わらない。変えてはいけない。
なのに。わかってるのに。
「…………ミユ」
彼女が停止してしまう。だけど、もう我慢できなかった。
俺は彼女をぎゅっと抱き寄せ、その耳元で呟く。
「ミユ、ミユ、ミユ……俺も、愛してます」
彼女の唇に触れようとして、躊躇う。
俺に、そんな資格はない。
何度も、彼女を殺めてしまった、俺には。
でも――離れたくない。
奴隷と主はいつも一緒。
もう壊れてしまった、誰も認めない関係だとしても。
やっぱり、俺の主はミユしかいないのだ。
ごめん…………レイカ。
×××
サイレンが鳴り響く。
囚人が逃げ出したのだ。
指示を待つ看守たちに、レイカは命を出す。
「あなたたちは東のほうを。現在西の方を探索しているものから連絡が入り次第、私の奴隷たちも行かせるから」
「「「はっ!!」」」
ばたばたと騒がしく何十人もの看守が駆け出して行った。
レイカは空を見上げる。
暗闇に浮かぶのは、紅い半月。
自分の瞳の色と似た、あまり好きになれない色。
ため息交じりに、レイカはにっと無理やり猫のように笑った。
彼は彼女を連れて逃げ出してしまった。
彼の現在の主であるレイカが、この囚人を捜索する指揮を執ることになっている。
まだ若く、経験が浅いはずのレイカだったが、堂々と威厳を放つ様に誰も異を唱えず従っていた。
「わかっていたさ……でも、ここまで予想通りだと、本当に切ない」
小さくつぶやくのと同時に、後ろに気配が立った。
振り返らないまま、レイカは冷えた声で言った。
「どこ?」
「ほっ、北東の方角にある、港へ続くルートに」
奴隷の声は上ずっていた。
レイカが父を陥れた後からずっとこんな調子だ。
しかし彼女は無視して、堅い声で告げる。
「じゃあ、東に行った者たちを攪乱してそっちのほうには近づけないようにしてくれ」
「えっ……いいえ、了解しました」
戸惑いの声とともに奴隷は去って行った。
「だって、ね。私は彼らが大好きなんだよ。焦がれる、ほどに」
レイカは笑みを絶やさない、しかし声音にはどこか物悲しげな響きが混じっていた。
サイレンがけたたましく空気を震わせる。