白に滲む黒
無垢で純粋そのものだった彼女を軋ませ、歪ませたのは。
どうしようもない。この世界の《本当のこと》だった。
始まりは、彼女の親友とも呼べる、鳴浜マイが突然学園を去ったことだった。
彼女は自分に何も告げずいなくなってしまったマイを、懸命に探した。
わかったことは、ただ一つ。
鳴浜家が没落したということだった。
事業に失敗し、また父親が急な病でこの世を去り、混乱の末に音も立てずいつのまにか鳴浜家という名家は、なかったことになっていた。
貴族の家でなくなった者を相手にする者はいない。
彼女は自分の父にもマイを捜索するよう頼んだが、彼はそれを拒み続けた。「そんな家はない」と、言葉でも否定した。
それがきっと、彼女の見ていた世界と、現実がずれ始めた最初。
彼女はそれでも探し続けた。こっそり俺を伴って下町に降りてまで。
そこで彼女は、真実を見た。
自分が口に入れるもの、身に纏うものがどこから来ていたのか。
「ねぇ……ハジメも、こんなことをさせられていたの?」
「……はい」
大人が子供を鞭打つ。
少年は手を血まみれにして田畑を耕し、少女はもう動かない手を無理やり酷使して糸をつむ。
堅いパンを手渡され、どれだけ食べたくてもぐっとこらえる。
家には、家族がいる。
父は兵隊として城や国境に出向き、年に数えるほどしか帰ってこない。
母はぼろ布をなんとか着物として繕い、猫の額ほどしかない菜園で子供たちを養うことに必死だ。
父も母もいない子は、ただ働かされるだけ。
帰るところなんてない。帰るところなんてない。
道の隅にうずくまり、自分のためだけの食事に涙を流しながら口をつける。
どこにでもある日常。
懐かしい、俺がいた場所。
彼女はただでさえ白い顔を青ざめ、でも親友の名を呼んで歩き続けた。
彼女も知らないわけではない。この国が、この世界が、こういうものだと。
話を聞いて、本を読み、知識は十分にあった。
でも、彼女にとって、彼女が見ていた世界にとって、この現実はそれこそ物語のようなものだったのだろう。
彼女を高貴な人間だと見とめた子供が「奴隷にしてくれ」と懇願する。固まってしまった彼女の代わりに、俺が彼らを追い払う。
唇をぐっと噛んで、彼女は進み続けた。
俺はその背中を痛々しく思った。だが、どうすることもできない。
俺はただ見守っていただけだった。
いつかは、どっちにしろ知ることになっただろうからと、深く考えずにいた。
鳴浜マイが見つかったのは、それから二週間後だった。
しかも、最悪な形で。
「あなたさえ殺せば、私たちは幸せになれるのよ!!」
俺に取り押さえられたマイは、鬼気迫る表情で彼女に吠えた。
彼女は蒼白な顔で呆然とその光景と、今しがた自分を貫こうとしたナイフを見ていた。
旦那様がいない深夜に、突然屋敷を訪れてきたマイを彼女は大喜びで迎えた。
二人は楽しそうに雑談を始め、そのまま彼女はマイを自室に泊まらせることにした。だから、俺はずっと彼女の部屋の前で中の様子をうかがっていた。
マイの瞳からにじむ殺気を、微かに感じ取れていたから。
「あなたのせいよ! あなたのせいで、こんなことになったのよ!」
マイは、彼女に怨念のこもった目を向ける。
そこには友人としてあったはずの感情が、少しも見受けることができなかった。
「あなたのお父様がね、私のお父様の会社をつぶしたの。長い間協力して、信頼していたのに裏切った! お父様の秘書にこっそり自分の腹心の部下を置かせたり、取引している会社にデマを流したりして、そんな卑怯な手口で、私たちからすべてを奪った。返して! 全部返せ!! お父様を……お父様を返せぇ!!」
彼女は震えていた。
マイは幼いころからの親友で、どういう子なのか彼女はよく知っている。
賢く、人の痛みがわかる子で彼女にいつも優しくしてくれた。
なのに、そんな親友がここまで堕とされる世界があるなんて。
しかも自身の父の行いによってだとは、彼女は何も知らなかったのだ。
「マっ、マイ……ごめん、なさい。でも、私……」
しかし彼女は激しく動揺しながらも、声を振り絞って、親友に歩み寄ろうとした。救おうとした。
それを親友は「あははははははは!」と、突然狂ったように嗤い、荒んだ目で彼女を見た。
「馬鹿だねぇ、ミユお嬢様は……。何も知らない、蝶よ花よと育てられた令嬢。学園で、自分がどんな目で見られているのかも知らないんだよねぇ」
クスクスと、嘲笑う。
「今までずっと私が擁護してあげていたけど、それも終わり。ミユはやっと賢くなれるね。私――ミユと友達なんかになるんじゃなかった」
彼女はとうとう涙を零した。
痛々しく、大きく見開いた目から滴が溢れていた。。
俺はその表情に気づいて歯ぎしりし、マイの口を塞ごうとする。しかし途端、自らを省みない激しさで抵抗され、拘束を緩めてしまった。
その一瞬をついて逃げ出したマイはテラスへ向かう。
激しい雨が降りそそぐ中、一度だけ彼女を振り返った。
「あなたを……この身をかけて呪ってやる!!」
テラスから少女の体が投げ出される。
彼女の絶叫が耳に焼き付いている。
泣き叫び、後を追いかけるように飛び出そうとした彼女を抱きしめ、必死になだめ続けた。
そして、彼女は――――
無垢であったがための報いを受けた。
彼女は父の経歴をあさり、自分のこれまでの人生の裏にあった事実を一から十まで調べ切り、全てを知ってしまった。
自分がとんでもないほどの数の人々を踏み潰してきたのだという真実を。
鳴浜マイだけではなく、過去にいた友人たちの名も幾人かそこにはあった。
貴族ならば、どこにでもある話だ。
いや、貴族でなくても人ならば誰かを踏み台に生きているようなものだ。
それでも自分を恥じた彼女は、もう一歩も歩けなくなった。
無知であった彼女は、誰もがする自己を正当化させる術、「そういうものだと諦める」術も何も知らず、そのまま罪悪感に押しつぶされていったのだ。
これ以上、誰かを踏むことに耐えられないと、彼女は自分を殺そうとした。
止めようとした。でも、どうしようもない。
泣き叫ぶ彼女を見ていられない。
「やめたい」「ごめんなさい」と、悲痛な声を上げる姿は痛々しかった。
だから―――、
『殺して』という命令に逆らえなかった。
奴隷は主人といつも一緒。
俺もすぐに後を追った。
目を覚まして、幼い姿の彼女を見たときの驚愕。
自分たちにまるで罰のように下された病を知った時の絶望。
それは今もまだ続いている。