悪魔に休みはない
黒い霧が、ミーシャの顔からアッシュの眼窩へと戻ってゆく。爆ぜたはずの彼の眼球は元に治り、悪魔から解放されたミーシャを見つめていた。
精神領域における時間の流れは、日常の空間とはことなる。ルシールがアッシュの異変に呆気にとられていたのも、一分にも満たない間だった。
「おねえ、ちゃん……」
ミーシャの両目には、先ほどまでの赤い光は宿っていなかった。代わりに、ルシールが知っている姉の優しい眼差しが、涙とともにルシールをしっかりと見据えている。
「ルシール……ごめんね、ルシール……!」
姉の抱擁は、温かい。
「ううん、平気だよ。私は、平気だから」
ルシールが慕う姉が、いま、ここにいる。今度こそ、本当に悪魔から解き放たれたのだと、ルシールはようやく悟ることができた。
「泣かないで、お姉ちゃん。大丈夫だから――」
ルシールは、震える姉の背に腕を回した。
ルシールにも、ミーシャの気持ちが伝わっていたのだろう。なぜあのような行動に及んだのか。彼女が、妹にどのような感情を抱いていたのか。
それを分かった上で、ルシールはなお、姉を慕い続けるに違いない。姉妹の間にある絆は、悪魔ごときに穢されてしまうような脆弱なものではない。
強い人間だ、とアッシュは二人を眺めて思う。もう、大丈夫だろう。二度と悪魔に憑かれることもなければ、その仲が引き裂かれることもない。これで、自分の役目は終わったのだ。
「……」
そろそろ両親が騒ぎを聞きつけてやってくるだろう。その前に家を出るべきだな、とアッシュは踵を返しかけるが、
「あの……待ってください」
躊躇いがちな声が、その背中にかけられた。
ルシールとミーシャは、互いに似たような表情を浮かべて、アッシュを見上げていた。
「あの……ありがとう、ございます」
ルシールのお礼の言葉に、アッシュは何も返すことができなかった。
「あなたのおかげで――」
「やめてくれ」
彼女の言葉を遮って、アッシュは小さく呟いた。
「おれは……感謝されるような人間じゃあない。見ただろう、おれは……」
いくらミーシャを助けるためといえ、悪魔の力を、メフィストフェレスとしての力を使ってしまったのだ。ルシールにとっては、さぞ恐ろしい光景だったに違いない。それに――悪魔に感謝するなど、許されないことだ。理由など、単純なこと。悪魔は、悪を司る存在なのだから。
「おれは――」
「この人はね」
今度はミーシャがアッシュの言葉を制する番だった。ルシールに向き直った姉は、御伽噺を語り聞かせるような口調で続ける。
「私を助けてくれた、天使なの」
「天使――本当に?」
目を輝かせて、ルシールはアッシュを見つめた。憧憬の眼差しは、アッシュの心に深く突き刺さる。しかし、首を横に振ることはできなかった。ミーシャが、そう言ってくれたのだから。
「本物の、天使……ありがとう、天使さん」
無邪気な笑顔。姉の言葉を信じて、アッシュを信頼する、妹の無垢な心。
アッシュは、その感謝に答える代わりに、ルシールの胸元を指差した。
「そのペンダント――大切にしておくといい」
ルシールが肌身離さず身に着けている、十字のペンダント。それは、姉から誕生日のお祝いにもらったものだった。
不思議そうな目で見返したルシールが何かを言う前に、黒衣の影は窓から身を躍らせている。二人が慌てて窓際まで向かったときには、その痩躯は夜の深い闇に溶けていた。
■
屋敷にたどり着いたときには、アッシュはもはや卒倒寸前だった。いくら悪魔といえども、人間の姿をとっている以上、体力にも限界がある。普段からウリエルの炎に熱されながら、熾烈な戦いを乗り切ったのだ。いつ倒れてもおかしくなかった。
やっとのことで扉を開けて、長いすの並ぶかつての礼拝堂を通り抜けて、書庫の奥にある椅子にどっかと腰を下ろした。ステンドグラスから差し込む月光が、いつのまにか朝日に変わろうとしている。疲弊しきった身体は、自然と眠りの世界へとアッシュをいざなってゆき――
ぼん、と重い響きが脳天に直撃した。
「――勘弁してくれよ」
いつの間にか傍らに屹立していた偉丈夫が、いつも持ち歩いている分厚い書籍で――ウリエルとメフィストフェレスとの契約書で殴ったのだった。
いささか子供じみた行いをしでかしながら、ラッセはいたって飄々とした面持ちで口を開く。
「首尾はどうだ」
「ああ……まあ、なんとかなったさ」
曖昧にうなずいたアッシュに対し、ラッセは天使らしい厳粛な態度で訊ねる。
「何かあったな。話してみろ」
「相談にのる、っていうんじゃあなさそうだな」
鼻を鳴らして、アッシュは睡眠を欲する眼をこする。それから、重苦しい口をなんとか動かした。
「……アスモデウスに会ったよ。お父様の計画らしい、今回の一件は」
「そうか」
「……それだけ、か? 他の天使に報告しなくていいのか……?」
「さて……」
ラッセは、相変わらずのいかめしい表情で答える。
「悪魔の言うことを信用していれば、こちらが利用されるだけだろう。私がここにいることを知っていて、鎌をかけてみようと思ったのかもしれん。確かな情報でもないのに、うかつに動くわけにもいかない」
「……相変わらず、真面目な天使だな、あんたは……」
ラッセは、頷くでもなく、否定するでもなく、ただ静かにそこに立っていた。
「……おれは、何者なんだろうな。悪魔であることをやめたはずなのに……今回もまた、悪魔の力に頼ってしまった。それなのに、天使だと……言ってくれたんだ、二人は」
「おまえは、私の契約相手でしかない。罪人として、己の罪を購い続けることを私に誓った、単なる契約者だ。それ以外の何者でもない」
「そうか……そう、だよな」
救いを求めて、悪魔をやめたわけではなかった。自分が犯した過去の罪を償うために、生きる限りを誰かのために尽くそうと、そう決意した果ての選択だった。
おれは、ただの罪人だ。それでいい。そのままで。
いつの日か、この身が赦される日は訪れるのだろうか。いったい誰が、この自分を赦すというのだろうか。もし、それを決めるのが自分自身だとしたら――
「……おれは、十字架を背負い続けるさ」
神のように、崇められることもなく。その身より重い十字架を背に受けて、地の果てまで歩き続けるだろう。それが、アッシュの選択だった。
贖罪に、終わりはない。
自嘲気味に唇を歪めるアッシュを、ラッセは感慨のない眼で見つめ続けていたが、ふとその顔を上げる。
「……どうした、ラッセ」
遠くを眇めるようなラッセに、アッシュは不穏な気配を感じた。天使が見つめるその先を覆うとするが――
不意に、硬質な音が屋敷に陰々滅々と鳴りわたった。耳慣れた金属音は、来客を知らせるドアノッカーの音だった。
「客人だ、アッシュ。出迎えの準備をしておけ」
「……この時間から、か……悪魔も元気なことだな」
「少なくともおまえよりは、活気がある」
この大男にしては珍しい諧謔を口にして、ラッセは来訪者を迎えるべく部屋を後にした。
新たな仕事が舞い込んできたのだろう。不眠不休で悪魔を祓いつづける悪魔。冗談にしても、つまらない話だとアッシュは嘲笑した。
悪魔に休みはない。
とある町に、寂れた教会のような建物がある。
そこに住んでいるのは、悪魔祓いの専門家だという噂だ。
あなたも、悪魔に悩まされているのなら、足を運んでみてはどうだろうか。
出迎えてくれる翠瞳の偉丈夫と白皙の美少年は、きっと、あなたの力になってくれるだろう。