灰は灰に
白炎を宿した腕が振るわれると、弾丸のように焔がアスモデウスに迫る。それをわずかに横に逸れるだけでかわして、アスモデウスはアッシュの懐に大きく踏み込んだ。
アスモデウスの手刀が鮮烈な速度で繰り出される。刃物のようなそれが胸に突き刺さる前に、アッシュはなんとか掴み取る。
刹那、アスモデウスの手首から先が、細長い針に変化した。それは蠍の尾だ。欲情を象徴する昆虫の。
「が、っあ――!」
鳩尾のあたりに蠍の針が食い込んだ。あと一歩でも踏み込まれていたら、凶針は心臓に達していただろう。
しかし、安心はできなかった。次に迫ってきたのはアスモデウスの左手――だったものだ。今は巨大な蛇に変化しており、俊敏な動きでアッシュの首を締め上げる。白炎で引き剥がそうとするも、まるで力は弱まらない。
「ダメだな、やっぱり、いまのきみでは相手にならないよ」
心底落胆した、とでも言うかのような表情で、アスモデウスは首を左右に流した。
「四六時中、きみにはウリエルの炎が纏わりついているんだろう? そんな衰弱した状態で、しかも自分の悪魔としての力さえも満足に扱えないきみが、僕に勝てる道理はないんだよ」
「黙、れ……っ!」
呼吸さえも満足にできない状態だというのに、アッシュの瞳に敗北の色はない。戦わなければならない。その義務感だけが、空虚な彼を支える唯一のものだった。ゆえに、アッシュは屈しない。
「きみもなかなか、先代のメフィストに負けず劣らず、頑固者らしい。いいだろう」
アスモデウスが蛇に変化した腕を大きく振るう。アッシュの痩躯が宙を舞い、数メートルも飛ばされて背中から落下する。
肺の空気がすべて押し出されて、もがくことしかできない。
「ラファエルとの戦いはなかなかだった。今回も、面白い戦いを期待していたのだけれど……さっさときみを消して、終わりにしよう」
何かを招き寄せるように、アスモデウスは手首を上げる。
立ち上がることのできないアッシュの前に現れたのは、双眸に虚を宿したミーシャだった。
「自分が救おうとした者に命を奪われる――愉快な悲劇だと思わないかな?」
ミーシャの精神は、アスモデウスに支配されている。ゆえに、傀儡のように彼女を操ることも不可能ではない。
「ミーシャ……止めろ……」
アッシュの制止にも、ミーシャは反応を見せない。右手にはぎらぎらと輝くナイフがあった。ゆっくりとアッシュに歩み寄ってくる様は、魂が抜けて人形になってしまったかのようだ。
「彼女の魂は、美しすぎるんだ。このまま天国に渡すわけにはいかないとお父様がお怒りでね……仕方なく、こうして僕がやってきたというわけなんだけれど」
アスモデウスは、一瞬のうちにミーシャの後ろに立っていた。
「メフィスト。きみを倒して、ルシールの魂を取り込んで、ようやく彼女は地獄に行けるんだ。そのための、生贄になってくれないかな」
下弦に裂けた唇は、まさしく悪魔の言葉を紡ぐ。ミーシャの耳元で、アスモデウスが何事かを囁きかけると、ミーシャはナイフを高く掲げた。精神世界と言えども、精神の死は、肉体の死につながる。
落ちてくる銀閃――咄嗟に避けようとしても、身体が動かない。それが蠍の毒によるものだと分かっても、もう遅かった。
凶器が、アッシュの胸を貫いた。
大量の鮮血を嘔吐きながらも、アッシュは真っ直ぐにミーシャの瞳を見つめていた。彼女の頬に涙が伝わっていることを、アッシュは確かに見届けていた。
「……ミーシャ……」
今でも、ミーシャは苦しんでいるのだ。その精神のほとんどを支配されてなお、妹を想い、自分の行いを間違ったものであると抑えようとしている。悪魔の誘惑に、打ち克とうとあがきもがいている。
いかなる脅威にも反抗し続ける、その意志こそ――アッシュが、自身の運命に背こうとした理由だった。
「きみは……優しい、な……」
消え入りそうなアッシュの呟きは、ミーシャの耳に届いたのだろうか。
悪魔めいた微笑を続けるアスモデウスの前で、アッシュは口腔と胸の割創から鮮血を溢れかえらせる。
滂沱と流れる血液は、やがてその場に血だまりをつくりあげ――
炎上した。
「これは――」
張り付いていた笑みを消して、アスモデウスが瞠目する。
アッシュの血液は、そのすべてが炎となって燃え上がっている。高貴なる白い揺らめきを湛えて、純潔なる灼熱を頂いて。アッシュの刺傷は、瞬く間に塞がれていった。
白炎はミーシャが握り締めるナイフをも溶かしていた。しかし、炎に包まれるミーシャには何の影響も及ぼしていない。まさに、害悪のみを灰に帰する炎。
「ウリエルの、力か――すべてを、メフィストに譲り渡したというのか?」
傲慢、かつ自信家であるアスモデウスがここまで驚愕するのも珍しい。
ただでさえ、天使と悪魔が契約を交わすなど、二〇〇〇年以上もの間なかったことだ。増してや、天使がその力のすべてを悪魔に託すなどと――それは神に叛逆するに等しい行為ではないか。
「ウリエル……間に合ったか」
表情を安堵に変えて、アッシュはよろめきながらも立ち上がる。その全身は白い炎に包まれて――いや、彼の体自体が、炎に変化しているのだ。
贖罪炎。
アッシュが背負うことを覚悟した、大天使にして熾天使、ウリエルの炎。
その真価がいま、発揮される。
「アスモデウス」
白炎と化したアッシュが、無表情に変わり果てたアスモデウスを視線で射る。
「……終わり、か。残念だよ、メフィスト」
肩を落としたアスモデウスは、完全に諦観した声音でそう言い放った。
アッシュの足元から、白い炎は燃え広がってゆく。白いミーシャの精神領域を、さらに白い炎が浄化する。嵐のように宙に渦巻いていたルシールへの歪められた情感もろとも、アスモデウスを燃やしつくすために。
「さすがはウリエルの炎だ。こうなってしまえば、僕にはどうすることもできない。今回は、きみの勝ちだ」
優男の纏う紳士服が、足元から炎上して灰になってゆく。全身を包みこんでゆく炎に照らされて、アスモデウスは本来の姿をわずかに浮き上がらせた。おぞましい、地獄の主の副官としての姿を。
「あーあ……お父様、怒るだろうなぁ」
ポケットに両手を突っ込んで、親に叱られることを恐れる子供のような無邪気さのまま、アスモデウスは消え去った。ウリエルの炎に焼かれて、地獄に送り還されたのだ。
かつての同胞を見送って、アッシュはぽつりと空虚に向かって吐き捨てる。
「灰は灰に帰らなければならない――安心しろ、アスモデウス。おれも、すぐに灰になる」
それは、自分に向けた言葉であったのかもしれない。
同時に、純白の空間が蠕動を始める。主となっていた悪魔が消え去ったことで、本当の所持者であるミーシャの元へ、精神が返還されようとしていた。
アッシュが振り返ると、そこには呆然と立ちすくむミーシャがいた。悪魔から解放されて、自分のやってきたことを悔やんでいるのだろう。儚げなかんばせに浮かんでいるのは、やはり、絶望だ。
「私は……なんてことを……」
自分の手を見つめて、ミーシャは嘆く。その白い指は、彼女には血で染まっているように見えるのだろう。これまで自分が傷つけてきたものの。
「わた、し……どうすれば、いいの……?」
訴えかける眼差しを受けて、アッシュは静かに首を振った。
「それは、自分で考えるんだ。どうすれば償えるのか……自分で、考えなければならない」
「で、でも……ルシールは……あの子は、きっと、私のこと……」
「正しい償い方なんて、おれにも分からない。おれも、手探りで生きているんだ……だが」
震えているミーシャの肩に、アッシュは優しくその手を添えた。
「ルシールは、きみを待っている。本当のきみを、待ち続けているんだ。だから」
不器用な笑みを、アッシュは浮かべる。
「帰ろう、妹のところへ」
「……ありがとう」
涙を溜めた目には、小さな、しかし確かな希望が浮かんでいた。