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悪魔、相見えん


 ルシールはわが目を疑った。

 アッシュの眼球が弾けとび、その眼窩から黒い霧が立ち込めてきたのである。霧はそれ自体に意志があるかのように、ミーシャの全身を包むように広がってゆく。


「なにっ、これ――」


 ミーシャが足掻こうとするも、まったく身体が動かないようだ。黒い霧は無数の蛇となって、ミーシャの肢体を締め上げてゆく。

 いったい何が起きているのか――

 呆然とその光景を見つめるルシールの前で、アッシュは唇を激情に曲げた。

 怒り、あるいは、悔恨。

 黒い霧はミーシャの顔面へと上り詰めて行き、


「あ、あ、あ、あ……!」


 赤く豹変した眼球を抉るように、侵入していった。


               ■


 幼い頃から、ルシールは学校で虐められていた。何かが原因だった、というわけではない。理由はおそらく、虐めていた児童たちにも分からないだろう。ただ自然と、幼稚な残虐芯の矛先が、ルシールに向いてしまっただけのことだ。

 クラスの一人を攻撃の対象にすることで、奇妙な連帯感が生じる。彼女を虐めれば、自分たちの仲間だ。虐めなければ、おまえも彼女と一緒だ。そうした心理が、子供たちの間ではたらいたに違いない。

 地獄のような毎日だった。

 そんなルシールの味方は、姉のミーシャだけだった。ルシールが泣いていると、いつも慰めてくれる。家に引きこもって登校を拒否すると、ミーシャは授業に遅れてでも、ルシールに付き添って学校へ送ってあげていた。そして、ルシールを虐めていた児童に、姉としての怒りを吐き出した。

 果たして、かいがいしい姉の世話のお陰だろうか。ルシールを虐めていた児童たちは、次第に行動を控えるようになり、ルシールもまた、明るさを取り戻して学校へ行くようになっていった。

 そしてついには、ルシールが家に友達を招いてくるようになったのである。

 それは、姉としては喜ぶべきことだった。友達と遊び、笑いあうルシールを見るたびに、しかし、ミーシャの気持ちは複雑になってゆくばかりだった。これまでは、自分だけがルシールの味方だった。自分だけが、ルシールの心の居場所だった。そう、思っていたのに。

 その嫉妬が間違っているということは、ミーシャ自身にもよく分かっていたはずだ。だが、心の奥底でくすぶっている感情を、どうしても消してしまうことができなかった。


「なかなかに、泣かせる話だとは思わないかな」


 ルシールの過去、ミーシャの想いをフラッシュバックによく似た感覚でアッシュは垣間見た。

 漂白された空間――ミーシャの精神領域には、ルシールへの様々な感情が、まるで嵐のように渦巻いている。

 その中心に、ひとり、紳士服を着こなした長身の影が佇んでいた。


「――おまえか」


 振り向いた男と対峙して、アッシュは怒りを声に乗せる。


「ミーシャの精神を解放しろ」

「これはこれは、誰かと思えばきみか」


 大仰に手を広げて、優男風の男はわざとらしく言った。


「あと少しだったのに、厄介なことをしてくれたね、メフィストフェレス()大公爵」

「……おれを、その名で呼ぶな、アスモデウス」


 アスモデウス――七つの大罪のうち、欲情を司る高等悪魔(デヴィル)は口元にいやらしい微笑を浮かべる。


「人間の味方をするのは、さぞ楽しいことだろうね、メフィスト。お父様の怒りを買ってまで、好き勝手するというのは」

「おまえと下らない会話をするつもりはない。さっさと彼女を解放しろ……!」

「つれないことを言うね。しばらくぶりの再会だというのに」


 クセのある頭髪を気にしながら、アスモデウスは片眉を吊り上げる。


「ミーシャ――健気な娘だろう? 妹思いの、素晴らしい魂の持ち主だ」


 アッシュは、黙然とアスモデウスを睨みつける。


「妹のためにあれだけ尽くして、妹を奪われて……自分の感情に気付いていながら、それがいけないもの(、、、、、、)であると分かっていて、自分をなんとか抑えようとしていた。なんて良い子なんだ。そう思わないかい、メフィスト」

「早く、解放するんだ」


 炎を宿した右手を握り締めて、アッシュは優男に向けて踏み出す。


「ふむ、血の気の多いことだ。あのいかつい天使に感化されたか――ま、かつてのきみよりは、十分悪魔らしい顔つきになったけどね」

「……っ!」


 アッシュは真っ白な地面を蹴り、アスモデウスに肉薄する。轟然と振るわれた炎は、しかし空しく宙を殴っただけだった。目の前から、敵の姿は消え去っていたのだ。


「残念ながら」

「なっ!?」


 悪魔にしては柔和すぎる声は、アッシュの背後で響いた。次の瞬間には、恐ろしい衝撃でアッシュの身体は吹き飛ばされている。


「この精神領域は、だいたいが僕の支配下だ。きみの小さな炎では敵わない」


 全身を駆けめぐる痛みに呻きながら、アッシュは身を起こす。


「だいたい、とは気にかかる言い方だな、アスモデウス……おまえらしくもない」

「ふむ、これがまた厄介な問題でね」


 アスモデウスはぐるりと回って、純白の精神領域全体を指し示す。


「この子は、強靭な心の持ち主だ。僕が彼女の欲望を後押ししてやろうとするのに、踏ん張っちゃって動かなかったんだよ。そんなわけだから、失名悪魔(デーモン)を一匹、胃の辺りに憑かせてね。彼女を色々と弱らせてから、おもいきり解放してやろうと思ったんだよ、自制心から」


 真紅の双眸は、間違いなく悪魔の輝きを秘めていた。いくら無邪気な声音で語ろうとも、その内に潜んでいる邪悪な情念は隠せない。


「ま、きみのような悪魔祓いに対するダミーでもあったんだけどね。さすがはきみも高等悪魔(デヴィル)だ、あの小汚い失名悪魔(デーモン)の口を割るのは簡単だっただろう」

「おれは、なにもしていないさ……ラッセが、あの悪魔を葬ったからな」


 アッシュの言葉に、アスモデウスは目を丸くしてから、腹を抱えて笑い出した。


「そうかそうか、ウリエルが直々に拷問にかけたのか! そりゃあ喋っちゃうわけだよ、まったく。僕でもあの炎には耐えられないだろうね」


 そして、アッシュの両手で小さく揺らめいている白炎に目を遣る。


「もっとも――きみがあの天使から授けられた程度の炎じゃあ、僕を止めることはできないけどね」

「……なら、試してみるか」


 アスモデウスの嘲笑に、アッシュは挑戦的な眼差しで応える。

 両者の間で、緊迫感が膨張してゆく。

 悪魔と、天使の力を授かった元悪魔。

 踏み出したのは、両者同時だった。



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