姉と妹
ルシールは奇妙な気配を感じて目を覚ました。
枕もとの時計を見ると、もうそろそろ日付が変わろうとしていた。
これまでは、夜の間もろくに眠ることができなかった。姉の部屋から響いてくる笑い声に、恐怖とそれよりなお深い悲しみを覚えていたからだ。しかし、いまはもう、心配する必要はない。あの妙に顔色の悪い、しかし美しい少年が悪魔を祓ってくれたのだから。
いま、ミーシャはルシールの隣で安らかな寝息を立てている。あれから眠っているままだが、それでも以前のようなおぞましい影など、その寝顔には残っていなかった。
ルシールの父、セドリックも、仕事から帰ってきてミーシャの容態を確かめるや否や、歓喜の涙を流していた。母、カレンも同じ気持ちだろう。
悪魔――人智を超えた存在から、アッシュという少年はミーシャを、ルシールの家族を救ってくれたのだ。白い炎、五芒星の描かれたチャーム、そして悪魔のその後など、分からないことは多い。けれども、あの少年は自分たちを助けてくれた。それがルシールにとって、何よりも嬉しいことだった。
明日の朝が来れば、きっと、幸せな生活が戻ってくる。
姉がいて、家族がいて、笑いあって暮らせる、そんな幸せな時間が。
ルシールの意識は、再びまどろみの中に沈んでいった。
いや、完全に沈み込む、その直前だった。
不意に、胸の辺りに苦しさを感じて、ルシールは意識を取り戻した。
風邪でも引いたのだろうか、妙に息苦しい。胸の辺りに手をやろうとして――
冷たい何かが、ルシールの腕を掴んだ。
「んっ――!」
彼女が叫ぶよりも早く、その口元を何者かが塞ぐ。
驚愕に目を見開いた先には、
「ルシール」
嫣然と微笑む、愛しい姉が――ミーシャがいた。
ミーシャの左手はルシールの口にあてがわれ、そして右手には鋭い輝きを宿すキッチンナイフがあった。硬く冷たい感触がルシールの柔らかな首筋に当たる。
どうして、こんなことを。
声を出そうと思っても、喉を振るわせることしかできない。
「ねえ、ルシール」
窓から差し込む月光を背に受けて、ルシールの上に馬乗りになっているミーシャは妖しく呟いた。
彼女の手は、氷のようだった。首に触れているナイフよりもなお、肌が凍ってしまうのではないかと思えるほどに。だが、何よりも異常だったのは。
「見て、私を。私だけを見ていてほしいの」
濡れた唇が紡ぐ言葉に、ルシールは自然と姉の目を見遣っていた。
吸い込まれそうな、赤い瞳を。
「……!」
声を上げることもままならないまま、ルシールは身をよじる。しかし、ミーシャの束縛からは逃れられなかった。
「動かないで、ルシール。お願い。お願いだから、逃げないで」
首に当たるナイフが、わずかに圧力を増す。痛みがルシールに襲い掛かったが、姉に対する恐怖がその刺激を意識させなかった。どうして、こんなことを。
「なんでこんなことをするの――そんな目をしているわね、ルシール」
「――」
心を見透かされた気がして、ルシールは体を強張らせる。
「分かるわよ、当然でしょう。私は、あなたのお姉ちゃんなんだから」
小首をかしげて、ミーシャはルシールを睥睨する。長くさらさらとしたブロンドの髪が、肩から背中へと流れ落ちる。月光が横顔に当たって、血のように光る両の眼をまざまざと映し出した。そしてその口元は、歪んだ弦月を描いていた。
「ねえ、私にも聞かせて? どうして、私を見てくれないの? どうして、あなたは友達ばかりと遊ぶの? 私は、もう要らないの? これまでずっと、あなたを守ってきたのに――どうしてなの、ルシール」
つりあがった口から零れてくるのは、単なる疑問ではない。怨嗟の色を孕んだ、危険な問いかけだった。ミーシャが何を言おうとしているのか、ルシールには、わずかに心当たりがあった。
「私は、こんなにも愛しているのよ。あなただけを、ずっと、ずっと見守ってきたんだから」
ルシールの唇から、ミーシャの手が外れる。
「私だけの、かわいいルシール。私だけの、かわいい妹」
しかし、声を出すことができなかった。声帯が締め付けられているように、乾いた喘鳴だけが吐き出される。
「もう、誰にも渡さない。誰にも渡すわけにはいかないの。ずっと私と一緒にいて、ルシール」
真紅の眼差しが、ルシールの身体を金縛りに遭わせているかのようだった。首筋からナイフが逸れても、指一本動かすことさえできないままだった。
「お願い、ルシール。お願いだから」
「はっ――かっ――」
ルシールの両頬を、ミーシャの冷たい両手が優しく包み込んだ。
呼吸さえもままならないままのルシールに、ミーシャは、悲痛な笑みに満ちた顔貌を近づけてゆく。
唇が静かに重なった。
ルシールの鼓膜に響いてくる早鐘のような心臓の音は、果たして自分のものなのか、それともミーシャのものか。
紅の双眸は、ルシールの瞳を捉えて離さない。鏡面のような赤に映っているルシールの瞳は、恐怖に染まりあがっていた。さらに、瞳の中の瞳には、ミーシャの眼が映っていて――
「……っ!」
まるで、凍てつく氷塊を口移しされたかのような悪寒が、ルシールを襲った。全身に回ってゆくその寒さは、かつてルシールが経験したことのないものだった。だが、彼女には、それこそが死の感覚であるのだという直観があった。指の先まで、彫像になってしまったように生気が失せてゆく。
魂そのものが、ルシールの体を抜け出して、ミーシャの肉体へと奪われてしまいそうな――快感にも似た、死の喪失感だった。
『一緒になろう』
頭の中で響き渡る、姉の誘惑。
次第にぼやけてゆく視界の中で、ルシールは世界が砕ける音を聞いた。
■
「ルシールっ!」
窓ガラスを突き破って、アッシュはルシールの部屋に転がり込む。
ベッドの上でルシールに覆いかぶさっていたミーシャは、突然の闖入者に顔を上げる。解放されたルシールは、自由になった四肢をうずくまらせて、激しく咳き込む。
「あなた……また私の邪魔をするのね……!」
驚愕よりも怒りを美貌に湛えて、ミーシャはアッシュに迫った。右手には、月光を受けて淡く輝く銀のナイフがある。
アッシュは、黒い皮手袋に握った五芒星のチャームで応戦する。閃いたナイフを紙一重でかわすと、チャームをミーシャの胸に押し当てたのだ。
「か、っは――!」
ミーシャの全身に、雷のような衝撃が走る。しかし――
「邪、魔をっ……! しないでよぉっ!」
「くっ――」
昼間のようにはいかなかった。五芒星の束縛も、いまのミーシャを押さえつけるには不十分だった。がむしゃらに振り回されるナイフを必死に避けながら、アッシュは手袋を脱ぎ捨てる。
「ミーシャ、しっかりしろ……! おまえの望みは……違うだろう……!」
アッシュの両手に白炎が灯る。しかし、その勢いは蝋燭のように弱弱しい。
「あなたには何も分からないわ……あなたも、同じよ! 私からルシールを奪おうとするっ!」
ナイフを振りかぶったミーシャの右手を、アッシュの手が掴み取った。炎の痛みがミーシャにとり憑く悪魔には伝わっているはずだ。それでも、ミーシャの力は弱まらない。いや、彼女の細い腕には見合わないほどの膂力で、アッシュを押し返している。
「死んじゃえばいいのよ。全部、全部、ぜんぶぜんぶぜんぶ……! ルシールには、私だけがいればいいの……!」
壁際まで追い詰められたアッシュの肩に、ミーシャのナイフが突き刺さる。
「がっ――!」
ミーシャの腕を必死に押しとどめようとするも、ナイフは止まらない。徐々に、深く肩口を抉ってゆく。あふれ出す鮮血は、カソックめいた黒い衣服を、さらに濃く染め上げる。
このままでは、いずれ押し負ける。
ミーシャの中に巣食う凶大な悪魔を祓うには、この程度の白い炎では不十分だ。
「まだか、ラッセ……!」
激痛に耐えながら、アッシュは屋敷で契約の儀を行っているはずの偉丈夫に呼びかけた。
より強い力を望むのならば、時間が必要だ。しかし、そのような猶予などない。
「あなたさえ、あなたさえ、あなたさえ」
赤い瞳に狂気を光らせて、ミーシャはナイフを手放さない。
このままでは――
アッシュの危機を救ったのは、思わぬ人物だった。
「やめて、もうやめて……!」
ミーシャを後ろから止めようとしたのは、頬に涙を伝わせたルシールだ。華奢な手が姉の凶行を抑えようとするが、しかし腕の一振りで弾かれる。
「ルシール――あなた――」
己の妹を顧みたミーシャは、凄惨な笑みを張り付かせた顔を歪ませる。笑いのまま固まってしまった表情を、無理やりに悲しみに捻じ曲げようとしているような、醜く、そして悲惨な容貌だった。
「お姉ちゃん、お願いだから……元に戻って……」
床に倒れたまま、ルシールは姉を見上げる。かつての面影を探して。
「元に、戻る……? 私っ、は」
アッシュからナイフを引き抜いて、ミーシャはルシールに一歩近づいた。
「私は、なにも、変わってい、ない、わ……変わったのは、あなたのほう、でしょう、ルシール……! あなたが、あなたがぁ」
笑いながら、泣いている。歓喜しながら、畏れている。
「なんで、よぉ」
悪魔によって歪ませられた感情が、ルシールに牙を剝いた。
振りかざしたナイフが無慈悲にも振り下ろされる。
「止めろ、と言っただろう、ミーシャ」
アッシュの手が後ろからナイフを止めていなければ、ルシールは命を落としていたに違いない。だが、両腕でミーシャのナイフを押しとどめているアッシュの声が、あまりにも深い悲しみに満ちているのはどういうことなのか。
「これは……これだけは、使いたくなかった……おれは……」
アッシュの瞳には、黒い涙が浮かんでいた。
こうするしかないと――己の非力を嘆くかのように。
「おれが持っているのは……人を救うための力じゃあない……!」
異変が、アッシュの首に顕れる。その蒼白な肌に走る血管が、真っ黒に染まり始めたのだ。あたかも闇色の血液が巡っているかのように。
その黒い血管は、顔面へと根を伸ばしてゆく。零れ落ちる黒い涙が、頬に同じ色の線を描いていった。
「ルシール……おれを、見るな」
絶望に満ちた声音で、アッシュが呟いた直後だった。
その両目が、爆ぜたのである。