贖罪の炎
揺らめく白炎は純潔にして高貴なる熱を帯びていた。いったいどのような手品だというのか。アッシュは燃え盛る自分の右手を冷静に見つめ、そして視線をミーシャに移す。
正確には、その腹部へと。
「ちょっと、なんなの――どういうつもり!?」
アッシュが白炎をミーシャへ近づけてゆくと、カレンが咄嗟に止めに入る。
「悪魔を祓う。やるなら今しかない、頼むから邪魔をしないでくれ」
「冗談を言わないで! そんなことをすれば、ミーシャがどうなるか――」
アッシュは、袖を掴むカレンの手を優しく振り払った。その左手にも、右手と同じく白く燃え盛る炎が宿っている。
「大丈夫だ。この炎は――誰も傷つけはしない」
アッシュの真摯な眼差しに、カレンは出掛かっていた文句を飲み込んだようだった。何より、自分の手を掴むその白い炎が、まったく熱く感じられないことに驚いていた。まるであらゆるものを拒絶するような純白だというのに、むしろ心が温まるような――
「おれなら、ミーシャを助けられる」
掴んでいたカレンの手を放し、アッシュは体をベッドの上のミーシャへと向ける。
そして、白炎に包まれた両の掌を、むき出しになっているミーシャの腹部へとあてがった。
「悪魔……おまえの居場所は分かっている」
アッシュの呟きと共に。
ぞぶん、と両手がミーシャの腹部へと沈んでいった。深々と突き刺さるように入ってゆく両手は、しかしその肌を寸毫も傷つけてはいない。白い炎がかすかに火の粉を散らしながら、その手はより深く、ミーシャの中へと入っていった。
カレンとルシールはその超常的な光景を、怒りや悲しみよりも驚嘆の思いで見つめていた。いったい何が起きているのか、常人には理解できまい。
炎に包まれたアッシュの両手が、ふとその動きを止める。蒼白な顔が眉間を険しく寄せると、
「――ここか――!」
力の限り、その両手を引き抜いた。
ずるずるとミーシャの腹部から抜けてゆくアッシュの両手が掴んでいたものは。
「オ、オ、ア、ア、ア、ア、ア……!」
陰惨な、それこそ地獄の底から轟いてくるかのごとき苦吟を響かせているのは、暗紫色の鉱石だった。そう言えども、大きさは人間の幼児以上で、半透明の棺のような形を成している。中で蠢いているのは、形容するのもはばかられるような、醜怪な生物だった。
「……これが、失名悪魔だ」
目を剝いて絶句するカレンとルシールに、アッシュは暗紫色の鉱石を示してみせた。両手で抱えるように持たなければならないほど巨大なそれが、ミーシャの中に潜んでいたというのだ。
「ゲ、ガ、ガ、ガ、ガ――」
鉱石の中で、それはもがき苦しんでいた。まるでアッシュの手が纏う白い炎に焼かれているかのように。
ラッセは、それまで開いていた書物を閉じて、アッシュから悪魔を受け取る。ラッセの体格に比べれば、鉱石がひどく矮小に見えてしまう。
「これで、悪魔祓いは終わりだ」
アッシュの両手から、いつの間にか白い炎は消え去っていた。疲弊しきった、それでも彼なりに相手を安心させようとした表情は、微苦笑にしかならなかったが。
「お姉ちゃん……っ!」
母の後ろから、ルシールは勢いよく姉に駆け寄る。それまで痛ましいほど暴れていたミーシャは、両目を閉じて規則正しい吐息を立てていた。
「彼女は、いまは眠ってしまっている。休息が必要だ……悪魔にとり憑かれたものは、劇的に精神と肉体が消耗するからな」
事務的にそれだけを告げると、アッシュは悪魔を抱えたラッセを伴って部屋から出ようとする。
「ま、待って。その、あなたたちは――」
カレンに呼び止められて、アッシュは茫洋とした眼差しを返す。この短時間の間に、さらに体力を消費してしまったようにやつれていた。
「きっと、何がなんだか分からなくて混乱しているのだろうな、あなたは」
独白めいた口調でそう告げるアッシュの顔には、かすかな憂いの色が浮かんでいた。
「だが、それでいい。ミーシャは助かった。それさえ分かっていれば、十分だ」
「あ――」
カレンがさらに何かを言うよりも早く、アッシュとラッセは部屋を後にした。
やるべきことはやった、もう自分たちは不要だと言わんばかりに。
■
グレシャム家を出て、アッシュとラッセは屋敷への帰路につく。
あれだけの壮絶な出来事が展開されたばかりだというのに、家を離れればそこはありふれた日常だった。人間社会の。
時刻は昼食時を過ぎた辺りだろうか、通りを往来する人はまばらだったが、それでも悪魔などとは無関係の、幸福に満ちた顔で生活を送っている。
そんな中を、アッシュとラッセは隠しきれぬ違和感を振りまきながら歩いていた。暗紫色の鉱石――棺型の悪魔は、ラッセが用意した白い布に包んである。正式な教会で祝福儀礼を施された、紛れもなく神聖な布である。
「あれで、よかったんだよな……」
ただ歩くことさえも億劫に感じながら、アッシュは独り言ちた。
ラッセはそれを彼への問いかけだと受け取ったのだろう、肩に担いだ悪魔を抱えなおして口を開く。
「どうした、泣き言か。もっと労わって欲しかったのか」
「違う、そんなんじゃ――!」
ラッセの揶揄に対して、アッシュの語気は自然と強くなる。しかし、アッシュが言葉を続けることはなかった。変わりに、深い嘆息が血色の悪い唇から漏れる。
「おまえは、よく耐えている。悪魔祓いを始めてから、そろそろ一年というところか」
「なんだ、それは。褒めているのか」
「私がおまえを褒めることなどない。単に事実を述べたに過ぎない」
視線を前に向けたまま、ラッセは相変わらずの平板な声で言い放つ。
「まあ、そうだろうな……おまえがおれを認めるはずがないからな」
「当然だ。自分でもよく分かっているじゃないか」
「……おれが言いたいのは、だ」
若干の苛立ちを募らせながら、アッシュは大男を見上げた。
「おれは、確かに自分でこの道を選んだ。この、悪魔祓いの道を。だが、それで――」
「それで合っていたのか、などとふざけたことは言うな、アッシュ」
翠の双眸が、険しい光を帯びてアッシュを見据えた。
「おまえがエクソシストの道を選んだのは、何のためだ」
「――罪を、償うためだ」
「ならば、疑問を持つべきではない。おまえが自分で選んだ道だろう。そうすることで、おまえは、過去の罪を清算できると考えた。その自分を否定するというのか。愚かしいにも程があるぞ」
「おれは……ただ……」
「ただ、何だ? もっと他人に信用してもらいたいのか。愛されて、慕われて、それに応えるように救いの手を差し伸べたいと、そんな子供じみた幻想を抱いているのか」
ラッセの指摘に、アッシュは何も言い返すことができなかった。自分でも意識していなかった本心を、見透かされてしまったような気がしたから。
「そのような行いが赦されるのは、神だけだ。おまえは、ただの罪人に過ぎない。背負っているのは十字架などではない、おまえの罪だ。おまえが自分自身で抱え込むと誓った、おまえの過去だ。それを今更になって捨て去ることができるなどとは思うな」
苛烈なラッセの物言いに、アッシュは言葉を返すことができなかった。
「もはや、この道以外におまえの進む道はない。後戻りさえも、赦されていない」
「……分かってる。分かってるさ、そんなことは」
元より、帰る場所などなかった。罪を償うために、さらに罪を重ねてここに立っているのだ。罪を償おうとすれども、その度に新しい罪科が背中に圧し掛かってくるのだ。膨大な罪が、地面に落ちる影を肥大化させてゆくような感覚に、アッシュは小さく身震いした。
進むしかないのだ。たとえ、その身が朽ち果てようとも。
差し伸べた救いの手が、無下に撥ね退けられようとも。
誰にも赦されないから――なにより、自分が赦さないだろうから。
軽く頭を振って、アッシュは雑念を取り払う。
「それよりも……何か、気になることがあるんだよ」
グレシャム家で悪魔を祓ってから、アッシュはどうにも腑に落ちないでいた。
「どうした」
「悪魔が彼女にとり憑いた理由だ。ミーシャに、そんな素質があったとは思えないんだが……」
「フム――」
ラッセは目頭に手を当てて考えに耽り始める。
悪魔が人にとり憑くには、何らかの理由がある。今回のミーシャの場合は、腹部に――臓物に『暴食』の失名悪魔がとり憑いていた。ということは、それに関連する何らかの「問題」がミーシャにはあったはずである。精神的な負い目、傷といったものに、悪魔は寄生するものだ。
しかし。
「ルシールの話を聞く限りじゃあ、ミーシャに何らかの異常があったとは思えない。不自然なんだよ、その悪魔がとり憑いていたというのは」
ラッセが抱える布に顎をしゃくって、アッシュはそう指摘する。
「では」
ラッセの悪魔を抱える腕に力が込められ、威嚇するような声色に変わる。
その口角は、わずかながら、それでも、ラッセ・アグエイアスという男にとっては大げさすぎるほど吊り上がっていた。
「事情聴取といこうではないか。この悪魔に、洗いざらい話してもらおう」