悪魔、少女を騙りて
閑静な住宅街にあるグレシャム家は、外から見る限りは至って平穏な家庭だ。徒歩で一時間ほどかけて、アッシュたちはようやくルシールの家にたどり着いていた。かなりの距離をルシールはひとりで歩いてきたのだというから、その芯の強さが窺える。
「お姉さんは中にいるのか?」
グレシャム家を見つめるアッシュの瞳は険しい。
「はい、多分……お姉ちゃん、悪魔にとり憑かれてから一度も外に出たことがなくて……」
ルシールは震える声で答えた。自分の家だというのに、まるで幽霊屋敷でも見るかのように怯えた眼差しだった。
「そうか……会ってみるしかないな」
アッシュは頷いて、保護者のように後ろに控えているラッセを顧みて、小さく頷いた。ラッセも同じく首肯を返す。
玄関に向かい、インターホンを鳴らすとすぐにドアが開け放たれた。心配そうな面持ちで出迎えたのは、ルシールの母であろうと思われる女性だ。
ルシールの姿を認めるや、彼女は涙を滲ませて我が子を抱擁する。
「どこに行っていたのよ、心配したんだから……!」
「ごめんなさい、ママ。でも、お姉ちゃんを治せる人を、連れてきたよ」
「治せる人……?」
ルシールの母は、いま気がついたというように二人の男へ視線を遣った。胡乱げな眼差しも仕方のないことだろう、治すといえども医者ではなく神父風の男が立っていたのだから。
「あなたたちは、確か――」
「隣の町の、エクソシストだ。おれはアッシュ・ランチェスターで、こっちがラッセ・アグエイアス」
そう自己紹介する自分を、なんと不甲斐ないことかとアッシュは嘆く。隣の町の、エクソシスト。まるで趣味の悪いキャッチコピーのようだ。
しかし、その説明で何かに思い至ったのだろうルシールの母は、我が子を庇うように後ろへとやった。
「すぐに帰って。警察を呼ぶわよ」
「ちょっと待ってくれ、おれたちは別に」
「噂は聞いているわ、神父の真似事をする詐欺師なんでしょう?」
彼女が警戒するのも無理もないだろう。なんといっても、アッシュとラッセはあくまでカソックめいた衣服を身に纏っているだけで、十字架もなければ教会の印もない。
「落ち着いてくれ。おれは歴としたエクソシストで、詐欺師なんかじゃ――」
「信じられないわ。どうせ法外な金額を請求するに決まっているもの」
「要らないさ、金なんか。なぜこうも疑われる……」
アッシュは力なくうな垂れる。まともな聖職者に見えないことは分かっていた。とはいえ、ここまで疑われてはさすがに落ち込まざるを得ないだろう。グレシャム家が敬虔な信仰を持つならばなおさらだ。
困り果てるアッシュに助け舟を渡したのは、それまで黙然と見守っていた偉丈夫である。
「あなたが疑う気持ちは分かる。だが、このままではあなたの娘も、あなた自身にも危険が及ぶかもしれない」
「それは、そうだけれど……」
巌のような大男に気圧されて、ルシールの母は言葉をにごらせる。
「どうか、あなたの娘を診させてはもらえないだろうか。私たちは、ただ救いたいだけなのだ」
ラッセの声音は重苦しかったが、そこには同時に優しさも含まれていた。心から彼女らを気遣うような、温かいものだった。
ルシールの母は、わずかの沈思の後に答える。
「……分かったわ、少しだけなら。でも、どうしようもないと分かったらすぐに出ていってもらうわよ」
「感謝する」
ラッセは慇懃に腰を折る。
アッシュは何とも納得のいかない様子で、その様子を見つめていたが、
「未熟だな」
家に招かれてゆくラッセに小声でそう耳打ちされ、蒼白な顔をますますしらけさせて、彼に続くのであった。
■
「じゃあ、部屋からずっと出てこない、と?」
ルシールの姉、ミーシャの部屋の前で、アッシュは首をかしげた。
「そうよ。昨日から、一度も出てこないの」
ルシールの母――名はカレンといった――は、怪訝な表情を崩さずに首肯した。
「……大丈夫なのか?」
部屋に閉じこもっていると見せかけて、窓から逃げ出したのではないかとアッシュは疑う。そうして町に繰り出して、動物や人間を襲わないとも限らない。
「お姉ちゃんは、中にいます。今朝も、笑い声が聞こえたから……」
母の後ろに隠れるように控えながら、ルシールは答えた。姉を本当に慕っていたのだろう、その声には怯えよりも悲しみの色のほうが強い。
「そうか……」
アッシュは黙り込んで扉を見つめる。口元を固く引き結び、そして意を決したようにドアノブに手をかけた。
ドアを開けると同時に流れ出てきたのは、吐き気を催すような腥風だった。その只ならぬ臭いに、アッシュは鼻を押えながら部屋に立ち入る。
目に飛び込んできたのは凄絶な光景だった。ティーンエイジャーの女の子らしい装飾や調度品で満たされた部屋は、しかし赤く染まりかえっている。それが鮮血であることは、床に散らばっている動物だったものの成れの果てが語っていた。猫、犬、鳥。無残にも引き裂かれたそれらに、いったい何が起きたのか。
答えは、部屋の主を見れば一目瞭然だった。
「あら、こんにちは。またルシールのお友達かしら?」
ベッドの上で微笑んでいたのは、ルシールの姉、ミーシャだろう。その口唇を艶かしく彩っているのは、紛れもない動物たちの血液だった。歪な口紅だ、とアッシュは心中で毒づいた。
「一応、確認する。きみがルシールの姉か?」
「ええ、そうよ。初めまして、かわいい坊や」
優雅に微笑むミーシャは、その笑顔さえ見れば悪魔にとり憑かれているなどと思えまい。部屋のグロテスクな光景と彼女の態度とが、奇妙なギャップを生んでいる。
「坊や、か……同じぐらいの年齢に見えると思うんだけどな……」
アッシュは蒼白な顔面に苦笑を浮かべる。
後ろでは、ルシールと母のカレンが、豹変したミーシャをただ唖然と見つめていた。
「ルシール……そんなところにいないで、こっちに来て。いっしょにお食事しましょう?」
「お姉ちゃん……」
「大丈夫よ、大丈夫。私が上手に食べさせてあげるから――ね?」
母の影で震えるルシールに向けて、ミーシャは手を伸ばす。ベッドの上に座り込んでいるミーシャとルシールの間には、かなりの距離があるはずだ。だというのに、まるですぐ目の前に姉がいるかのような錯覚をルシールは感じていた。
二人の間を遮るように、アッシュが脚を動かした。
「ミーシャ。残念だが、きみには悪魔が憑いている。放置しておくわけにはいかない」
「悪魔? 私に?」
くすくすと含み笑いを漏らすミーシャは、歳相応の少女の顔をしていた。
「面白くない冗談ね。ユーモアの勉強をしたほうがいいわ、あなた」
ミーシャは、繊手を開け放たれたままの窓へと向ける。すると、何かに導かれるように、窓外から一羽の鳥が飛んできてミーシャの手にとまる。
「……生命引導か」
鳥のような小さな魂であれば、悪魔は容易に招くことができるという。
「ねえ、かわいいでしょう? この子も言ってるわ、食べて、ぼくを食べて、って」
ミーシャの手の上で、コマドリはネジの切れた機械のように動かない。
ルシールは、直視に耐え切れなくなったのか母の背に顔をうずめた。
「……止せ、ミーシャ。怖がっている」
黒い皮の手袋をはめながら、アッシュは険しい視線をミーシャに送る。
「怖がっている? ルシールが?」
コマドリを大事そうに撫でていたミーシャの声音が、わずかに硬くなった。
「うそ……うそでしょう。どうして? なんで私を怖がらなきゃいけないの?」
訴えかけるミーシャの姿は、悪戯をはたらいた姿を見咎められた子供のようだった。
「ち、違う……私は、なにも悪いことなんかしていないわ。そうでしょう、ルシール……わた、私は……」
「目を覚ますんだ、ミーシャ。今のきみは、ルシールを怖がらせるだけなんだ」
「ち、が……わた……あ、ああ……」
ミーシャは次第に精彩を欠いてゆく。震える手に力が込められてゆき、コマドリを無残にも握りつぶしてしまう。
「あ、ああああ……ああ……あああああああっ!」
動揺の声が、絶叫に変わった瞬間だった。ミーシャの身体がばね仕掛けのように跳ね、ルシールめがけて迫ろうとしたのだ。だが、それを待ち構えていたように、アッシュの反応は鮮やかだった。
「大人しくするんだ……!」
アッシュが黒衣の懐から取り出したのは、五芒星の描かれた銀色のチャームだ。皮手袋に握られたそれが、ミーシャの胸にあてがわれる。
「――っは――!」
反応は劇的だった。目に見えない力の束縛を受けるように、ミーシャの肢体は大の字に硬直したのだ。アッシュは、動けなくなったミーシャの身体をベッドに横たえる。
「ラッセ……やるぞ」
「承知した」
それまで事の成り行きを見守っていたラッセが、手にしていた分厚い書物を開く。
『汝、契約者よ――』
重厚な声音が、書物に綴られている何ごとかを読み上げ始めた。それと同時に、アッシュは若の手袋を脱ぎ捨てて、ベッドの上でもがいているミーシャの衣服を捲りあげる。血にぬれた白磁の腹部があらわになった。
『熾天使ウリエルとの契約によりて、ここに贖罪の力を解き放たん』
ラッセがそう唱えた直後だった。
アッシュの右手が、轟然と燃え上がる白い炎に包まれる。