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少女と少年

 震えをおさえるように、ルシール・グレシャムは小さな手を握り締めた。まだ中等学校に通い始めたばかりの少女は、その年齢に相応しくない恐怖と動揺を瞳に浮かべて、目の前の建物を見上げていた。

 その建造物は、一見すると教会のように思える。しかし、屋根や壁面に十字架はなく、神を讃える類の偶像もない。教会でなければ、あるいは小さな図書館のようでもあった。


「大丈夫……大丈夫だから……」


 ルシールは自分に言い聞かせるように、胸元で揺れる十字のペンダントを握り締める。

 この場所に来たのは何のためなのかを思い出す。浮かんできたのは、ルシールが慕ってやまない最愛の姉の顔。そうだ、自分の姉を救ってもらうためにここに来たのだ。まだ建物に踏み入ってすらいないのに、怖気づいている場合ではない。


「……っ!」


 意を決して、ドアノックハンドルを手にする。冷たい金属が、ルシールの決意を鈍らせる。それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかなかった。

 二度、金具を打ち付ける。反応はその直後だった。

 軋みを上げてドアが開く。そこに立っていたのは、身長二メートルを超える偉丈夫だ。ルシールを見下ろす顔は荘厳で、圧倒的な気迫がその全身から漂ってくる。右手には、聖書なのだろうか、厚い大型の本を抱えるように携えていた。


「――客人か」


 腹の底から轟くように低い声音だった。翠の双眸がルシールを鑑定するように細められる。


「あ、あの、わたしは……」

「話は中で聞こう。さあ、お入りなさい」


 半開きだったドアが開け放たれる。中から流れ出てきたのは、二種類の空気だった。一つは血まで凍りつくような冷たく暗い流れ。もう一つは、それとは対称的にすべてを抱擁するように暖かい、慈愛に満ちたような空気だった。その相反する二つの気流がせめぎあうようにルシールの側を通り抜けてゆく。


「……」


 おぞましいような、しかし、むしろ心地よいような――

 不思議な感覚に囚われながらも、ルシールは口許を固く結び、中へ踏み入っていった。

 そこはまるで礼拝堂のようだった。いくつもの椅子が整然と並べられ、ステンドグラスからは極彩色の陽光が注がれ、室内をほの明るく照らしていた。しかし最奥に祭壇はない。代わりに設えてあるのは、向かい合う革張りのソファーだ。


「座りなさい」

「あ……」


 ルシールが何かを伝える暇もない。男はそれだけを告げると、奥へと引っ込んでいってしまった。

 ルシールはとにかく、言われたとおりソファーに腰を下ろす。不思議な心地よさが、ソファーから伝わってきた。握り締めたペンダントが、気持ちを落ち着かせてくれる。

 間もなく、険しい表情の男が帰ってきた。その傍らには、新たな人影があった。まだ成人していないだろうという齢の少年だ。本来であれば誰もが賞賛するほどであろうその美貌は、しかし蒼白に染まって憔悴しきっている。目を離している隙にでも昏倒してしまいそうだった。しかし、瞳だけは異様な生気を湛えてルシールをひたと見据えていた。


「あなたが依頼主か」


 ぽつりと呟くように告げて、少年はルシールの向かい側に腰を下ろす。その側に佇立する大男と同じく、カソックのような黒衣を身に纏っていた。


「あ、あの、わたし……聞いたんです、あなたが、悪魔祓いをしてくれる、って……」

「確かに。おれは悪魔祓いができる」


 誇るでもなく、少年はただそう口にした。

 ルシールは少年の態度にいささかの不安感を覚えつつ、言葉を続ける。


「わたしの、お姉ちゃんに……悪魔が、とりついて……それで、その……本当に、祓ってくれるんですか?」

「落ち着け。焦る気持ちは分かるが、順を追って話を聞きたい。まずは、あなたの名前からだ」


 ぶっきらぼうだがどこか優しい少年の物腰に、ルシールは失っていた冷静さを取り戻す。


「ご、ごめんなさい。わたしは、ルシール・グレシャムっていいます。隣の、エーカータウンに住んでいて、えっと、十二歳、です」

「そこまでは言わなくていい」

「あ、す、すいません……」

「謝らなくてもいい」

「ごめんなさい……」

「だから――ぐっ!」


 苛立った声を上げる少年の頭に、突如、傍らの男が手に持つ本を振り下ろした。軽快な音がして、少年は頭を押える。よほど痛かったのだろうか、やや涙目になりながら男を睨みつけ、気を取り直してルシールに向き直る。


「お、おれはアッシュ・ランチェスター。悪魔祓いの専門家だ。このでかいのは、ラッセ・アグエイアス……まあ、助手みたいなものだ」


 ルシールは、きょとんと丸くしていた瞳を慌てて元に戻す。


「あ、その、よろしくお願いします」


 今までの厳かな雰囲気が、一瞬で崩れていったようだった。


「それで、ルシール。きみのお姉さんに悪魔がとりついたって、どういうことなんだ?」

「はい、それが……」


 ルシールが目を閉じると、あのときの光景が鮮明に蘇る。

 ルシールの姉――ミーシャが異常な行動をとるようになったのは、一年ほど前の話だ。窓の外を眺めては、急に笑い出す。鏡に映る自分の姿を見つめては、腕や首をかきむしる。初めは両親も心の病ではないかと心配したのだが、ミーシャの症状は悪化してゆく一方だった。


「包丁を、いきなり持ち出して……それで、うちで飼っていた猫を――」

「……殺した、のか」

「いいえ、その……食べて……っ、いたんです」


 凄惨な記憶だ。包丁で生肉を解体しながら口に運び続けるミーシャの姿は、もはや獣のそれだった。血にぬれた顔がルシールに向けられて、優しく微笑む。


『おいしいよ? ルシール、一緒に食べよう?』


 そう歌うように囁いたミーシャの声は、ルシールが愛する姉そのものだった。花のような笑顔も、無邪気な温かさも、なにもかもがミーシャと変わらない。


「お姉ちゃんと一緒なのに、お姉ちゃんじゃない……お父さんも、お母さんも、怖がってどうしようもなくなって……」

「なるほど、な」


 アッシュは小さく頷いて、ルシールを安心させるように笑みを浮かべた。いや、浮かべようとしたのだろうが、実際にはわずかに顔を引きつらせた微妙な表情になっただけだった。


「詳しく見てみる必要があるな、きみのお姉さんを。だけど心配する必要はない。必ず悪魔を祓ってやる。このおれが」


 アッシュの力強いその言葉に、ルシールは心が温かくなるのを感じていた。

 姉に悪魔が憑いているのだと訴えても、誰も信じてくれなかった。姉をどうやって救えばいいのかルシールには分からなかった。最後の望みを託すために、ここへやってきたのだ。悪魔祓いの専門家がいると噂の、この屋敷に。


「少し、ここで待っていてくれ。準備をしてこなきゃならない」


 ふらつきながら立ち上がるアッシュの姿は、しかしルシールには心強く思えた。

 彼ならば、きっと助けてくれるのだと。


                 ■


 ソファーのある応接間の奥には、広大な書庫がある。膨大な数の書物が眠るその部屋には、今ではそう簡単には手に入らない貴重なものや、何の文字で書かれているのか分からない珍品などが整然と並べられている。

 アッシュは、その本のなかから一冊を抜き出して、中身を検めていた。


「子供は単純だな……助かるよ、こうも易々とおれを信じてくれると」


 傍らで厳然と構えているラッセは、アッシュの言葉に表情を変えることなく返す。


「純粋であると表現すべきだ、アッシュ。彼女はおまえに助けを求めてここまできた。おまえには、彼女の期待に応える義務がある」

「分かっているさ、そんなことは。ただ、悪魔祓いをしてほしい、という依頼なんて滅多に来ないだろう? こちらから出向かなきゃあ、誰も信用して任せてはくれない」

「人にとって、悪魔などは幻想的な存在にすぎないからだ。精神の異常だと思えるならば、その専門の医者に任せてしまえばいい。人の認識はそういうものだ。それに――」


 ラッセは翠色の瞳をアッシュに置いて、教育者のような声音で言い放つ。


「おまえもまだまだ未熟だということだ。人々の信用を得ようとするならば、それなりの功績を残さなければならない。おまえのように不敬なものなら、なおさらだ」

「……もっと身と魂を削れ、ってことだろう。努力するよ」


 そう言い返すアッシュの表情は、まるでふて腐れる子供のようだった。

 ページをめくっていたアッシュが、手を止めてある文面に目を下ろす。


「おそらく、暴食の悪魔だろう。司っているのはベルゼブブだが、あいつがこんな小さな仕事をするはずがない。高等悪魔(デヴィル)じゃない、失名悪魔(デーモン)だろうな、憑いているのは」


 人にとり憑いて、いかにも悪魔らしい凶行に駆り立てるのは、決まって低俗な失名悪魔(デーモン)たちだ。ベルゼブブのような、聖書にでも名前の表れる高等な悪魔ならば、この程度では済まされない。


「なれば、大層な準備は必要あるまい。私は彼女の元へ戻っているぞ」


 ルシールの待つ応接間へ踵を返しかけたラッセに、アッシュは慌てて声をかける。


「待てよ、ラッセ。あんたの意見はないのか?」

「意見、とは何だ?」

「そりゃあ……悪魔に対する考察とか、助言とか……」

「私の意見は、おまえには必要ないだろう。私は助言をするためにここにいるのではない。私はおまえを監視する立場にある。仕事はおまえの判断が全てだ。そして、判断の責任は、おまえ自身が取らなければならない。そうだろう、アッシュ」


 小さくとも荘厳な声が、広い書庫に陰々と響いた。

 アッシュは、しかし文句を言いたげに口を開閉させるが、その言葉も見つからなかったようである。諦めたように嘆息すると、本を棚に戻して準備を開始するのだった。



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