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14.TEARS

 泣かないで。


 泣かないで。


 何がそんなに悲しいの。


 物もお金も、ここにはたくさんあるのに。


 泣かないで。


 愛して欲しいなら、


 愛が欲しいなら、


 僕が愛してあげるから。



                    TEARS


 私の父親には、本妻の他に本妻公認の妾がいた。

 その中の一人に、まだ成人すらしていない一人の少女がいた。

 私が12だったころ、そのひとは17だった。

 そのひとは、いつも泣いていた。

 元華族である「御帥みかみ」の名を欲するが故の、時代錯誤な政略結婚で嫁いで来た彼女は、その幼さのために父から愛されず、また足の遠のかれた他の妾達の鬱憤晴らしにされて、いつもいつも泣いていた。

「何故泣くの」

 私がそう尋ねるたびに、彼女は穏やかに笑って言った。

「泣いてないわ。母と約束してきたんですもの。どんなに辛い時でも決して顔を俯けずに、前を見据えて浅瀬を捜すって」

 それは、彼女と彼女の母だけに通じる物語だったのだろう。

 幼い私は歳の近い彼女を姉のように慕っていた。

 護りたいと思うようになるまで、そう時間はかからなかった。

「セン、あなたの名前は“ひらめく”と書くのでしょう?閃光のセン。素敵な名前ね、閃」

 あまやかな彼女の声も、それを紡ぐまだ幼い唇も、細い四肢を持つ雪のように白い体も、強い光と脆さを同居させた大きな瞳も、

 セン、と言う名前も、彼女が好きだというから好きだった。

 だから、父を憎んだ。

 きっと父に愛されることが、彼女の幸せなのだろう。それなのに彼女を幸せにしない父を憎んだ。

 同時に、幸せに出来ない自分を憎んだ。


 朝、昼、夜。

 日は廻る。

 春、夏、秋、冬。

 月日は廻る。

 私の体つきは、だんだんと父に近づいていく。

 その隣で、彼女もまた、美しく開花していった。


 私が15の時の、夏の嵐の夜だった。

 寝苦しく水でも飲もうと部屋を出た私の耳に、ふと女の嬌声が風に乗って聞こえてきた。

 その声は、聞き覚えのある声―――恐らく彼女のお付きの女のものだった。

 なんの拍子か、風の弱まった瞬間に女が叫んだ。

 ご主人さま、と。

 この屋敷で彼女のお付きがご主人さまを呼ぶのは、彼女か父親だ。

 それを裏付けるように、女の声をたしなめる低く聞きなれた声を、聞いた。

 そして、走り出す。

 彼女は、恐らく今の声を聞いてしまった。

 ノックもせずに部屋に飛びこむと、彼女は真っ暗な部屋の中で、床にうち伏していた。

 泣いている、と思った。

 いつものように、涙を流さずに声を殺して、穏やかな笑みの裏で。

 私がそっと細い肩に手をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げた。

 背の中ほどまである、黒く長い髪が顔を覆うようにしていたが、その隙間から潤んだ瞳と濡れた頬が、見えた。

「閃…!」

 とっさに見てはいけないものを見てしまった気がして目をそらした私に、彼女は抱きついた。

 女性特有の甘い香りがして、頭がくらりと揺れた。

 私を抱きしめる彼女の腕の強さから、彼女が人肌を求めていることを知った。

 耐えがたい衝動は、私の中に渦巻いていた。しかも彼女はそれを求めている。

 それを認識してもなお踏み込めない私を見透かしたように、彼女は耳元で囁いた。

「閃、お願い。独りに、しないで」


 その夜のことは、よく憶えていない。

 ただ、彼女の柔らかさと温かさと、甘い香りと絡み付く声を、鮮明なまでに思い出すことは出来た。

 熱に浮かされたような恍惚のなかで、彼女は言った。

「幸せ」と。


「人生っていうのはね、川の流れみたいなものなの」

 私の腕の中で、彼女は歌うように語った。

「流れの速さは人それぞれよ。とても速い人もいれば、穏やかな人もいるわ。

 特に速い人は大変よ。たくさんたくさん流されて、取り返しのつかないことになってしまう人もいるの。けれどね、どんなに流れが速くても諦めては駄目。必ずどこかに、足をついて一休みできる浅瀬があるのよ。そこを目指して泳ぐの。

 けれどね、下を向いていたら浅瀬があっても気付かないでしょう?だからいつも顔を上げて、背筋を伸ばすの。そうすれば絶対に浅瀬は見つかるから」

 全部母が言ったことなんだけれどね、と彼女は笑った。

「だから俯いたり、泣いたりしないって決めていたのに、今日は駄目だったわ」

「…今夜だけじゃない」

「?何故」

「あなたはいつも泣いていた。穏やかに笑っているその裏側で、声を殺して涙も流さずに」

「…気付いて、いたの?」

 頷くと、彼女は美しい顔を歪めた。泣いているような笑っているような、そんな曖昧な顔だった。

「気付いていた。ずっと前から」

「私が、好き?」

「ああ」

「そう。私もあなたが好きよ。とても好き。…愛してる」

 愛してる、と言ったその響きは柔らかく甘く、私の脳を支配した。


 彼女はその夜、本当に心からの笑みを見せた。


 そうして次の日の朝、彼女は逝ってしまった。

 自分と同じ名前の木の下で、嵐が散らしたその木の花びらの褥に抱かれ、その外装に似合わぬほど強烈な毒薬が入っていたらしい小さな薄桃色のガラスの小瓶を抱いて、穏やかに笑って。

「ツバキ」

 今までにないほど白い頬に、涼しい夏のせいか狂い咲いた椿の、昨日の嵐で落ちなかった唯一の花が影を落としていた。

「ツバキ」

 眠るように伏せられた瞼は、今にも開きそうで。

「ツバキ」

 触れた体は、服を通してまだ微かな温もりを感じるのに、甘い香りは残っているのに。

「ツバキ、ツバキ―――…椿姫」

 ここにあるのは、ただの体。朽ちていくだけの物体。


『私の名前はね、ほら、あそこの椿の木の“つばき”に姫と書いて“ツバキ”なの。私には勿体無いくらい美しい名前でしょう?』


「椿姫」

 とても、あなたに似合う名前だと思ったんだ。

「椿姫」

 ふわりと儚く笑うあなたを、

「椿姫」

 護りたかった。


『駄目よ、言っては駄目。それは私なんかに言うべき言葉ではないわ。あなたには、もっと相応しい人がいるのよ』


 返そうとした唇を塞いだ、細い指。

 あの夜のあなたは、私の至るところに残っているのに。


「椿姫…!」


 あなたは、逝ってしまった。

 私に残ったのは、あなたとの誰にも言えない記憶と、

 言い損ねた言葉。


 たった、それだけ。




 何故泣いたの。

 何故抱きしめたの。

 こうやって、おいて逝ってしまうのなら、


 なぜ、愛してるなんていったの。


 教えてよ、

 ねぇ、つばき。



答えは、

まだ、

みつからない。



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