「女だから」と笑われた女性巡査が、屈強な男を逮捕するまで
夜の空気は湿っていた。
二月の半ば、愛知県半田市。JR亀崎駅の周辺は、いつもより少しだけ静かだった。街灯の明かりが路面に落ち、時折、ホームから聞こえるアナウンスが遠くに溶けていく。
交番勤務の女性巡査・佐藤あかりは、その夜、一人で歩いていた。制服の上に薄いジャンパーを羽織り、帽を少し深くかぶっている。身長は百五十五センチ。細身で、遠くから見れば学生と見間違えられそうな体躯だった。入庁四年目。まだ「巡査」の肩書きが、彼女の中で少し重く感じられる時期だった。
昨年の秋から、この一帯で十数件の強制わいせつ事件が起きていた。帰宅途中の女性が狙われる。犯人の目撃情報は「中年の男」という曖昧なものばかりで、捜査は膠着していた。あかりは同僚三人と警戒に当たっていたが、その夜はたまたま一人で駅近くの路地を巡回していた。
午後八時を少し過ぎた頃だった。
彼女は、駅から西へ続く細い道で、一人の若い男を見つけた。二十代前半に見える。会社員風の服装。歩くスピードが、明らかに遅すぎた。女性の後ろを、一定の距離を保ちながらついている。
「中年」ではない。特徴は食い違っていた。
それでも、あかりは立ち止まった。二十メートル後方から、静かに尾行を始めた。男の足音が、夜の舗道に鈍く響く。あかりの靴音は、できるだけ消すように、つま先で歩く。
男は駅から約一キロ西の住宅街へ入った。街灯が途切れ、闇が急に濃くなる。その瞬間、男の足取りが変わった。早足になる。数秒後、曲がり角の奥から、短い悲鳴が聞こえた。
「警察だ! 待て!」
あかりは声を張り上げ、駆け出した。
男は振り返りもせずに走った。あかりは一度、見失った。五〇〇メートルほど離れたアパートの影で、再び鉢合わせた。後ろから上着のフードを掴む。
男は勢いよく振り返ると、あかりを睨みつけた。
「女のくせに、生意気なんだよ!」
怒鳴り声と同時に、拳が振り下ろされる。
顔面に一発。さらに、もう一発。
衝撃で視界が白く弾け、鼻血が迸った。制服の襟元がすぐに赤く染まる。あかりはよろめきながらも、足を止めなかった。男は再び逃げ、さらに二発、殴られた。
今度はバランスを崩して転倒した。膝と掌が冷たい地面に打ちつけられる。
「これだから女は弱いんだよ!」
今度は笑いながら私を見下してきた。
「追いつけない、、」
一瞬、弱気が頭をよぎった。体格差は歴然としていた。男は身長百七十センチ、体重七十キロ近くある。自分は細くて軽い。鼻の奥が熱く、呼吸がうまくできない。
そのとき、三年前の失敗が、鮮明に蘇った。
配属されて間もない頃、一一〇番で臨場した現場で、職務質問を命じられた少年に逃げられた。数百メートル走ったところで足が止まり、引き返した。指導教官の上司に、怒鳴られた。
「女の足では追いつけないとでも思ったのか。それで市民が守れるのか」
あの言葉は、今も胸の奥に刺さったままだった。「女だから」という言い訳は、警察では通用しない。あの夜、自分は「どうせ相手は男だし」と、どこかで諦めかけていた。それが恥ずかしかった。
あかりは血の味を感じながら、ゆっくりと顔を上げた。
男の背中が、暗がりの中でまだ動いている。
彼女は拳を握りしめた。
「絶対に、諦めてたまるか!」
さらに二百メートル。全力で走った。肺が焼けるように痛む。視界の端が白く滲む。ようやく、男の背中に手が届いた。
「もう、逃がさない!」
首に飛びつき、体を絡めて引き倒す。男が「ぐっ」と呻いて地面に倒れ込んだ。あかりはそのまま馬乗りになり、両膝で男の腰を固定した。男が上体を起こそうとする。あかりは右手で襟を掴み、左手で地面を押さえて体勢を安定させる。
「離せ……!」
男が腕を振り上げ、再び顔面を狙ってきた。あかりは肘でそれを受け止め、同時に自分の肘を男の顎に叩き込んだ。鈍い音がした。男の目が一瞬、焦点を失う。
「動くな」
あかりの声は低く、震えていなかった。鼻血が顎から制服に垂れ落ちるのも構わず、彼女はさらに体重を真下に落とした。
男が体をねじって振り落とそうとするたびに、あかりは両膝で腰を挟み込み、後ろに体重を預けて男を地面に押し付けた。
女に手を出す男は絶対に許さない。
この男には絶対に負けない!
その一心で、あかりは体全体の力を乗せて制圧した。
「ぐあっ……!」
男が息を詰まらせる。あかりは手を伸ばし、男の右手首を掴んで背中に回した。警察学校で習った制圧の型を、血の味の中で正確に思い出す。左手で首筋を押さえ、膝で背中を固定する。男が足をばたつかせて抵抗するたびに、あかりはさらに強く体重を乗せた。
「てぇぇぇぇい!」
肘を男の背中に叩き込む。鈍い衝撃が伝わり、男の体が跳ねた。
「おのれぇぇぇ!」
男が歯を食いしばって、最後の力を振り絞って上体を起こそうとした。あかりはそれを許さなかった。肘をさらに深く当て、体重を乗せて押し潰すように抑え込む。
「これが、女の本気よ!」
「ぐぉぉ、助けてくれぇぇぇ!」
男の息が詰まる音がした。肩が落ち、荒い息だけが残る。白目がかかりかけ、体から力が抜けていく。
「もう許してください……」
かすれた声で、男が観念した。
「2度と女を舐めんなよ!」
あかりは低く言い放った。男は白目をむいたまま、ゆっくりと首を横に振っていた。
「……この俺が女に負けたなんて……」
この男にとっては、女に完全にやっつけられたという事実を、どうしても認めたくなかったのだろう。
近くの家から人が出てきたのを見て、あかりは叫んだ。
「一一〇番を!」
あかりはようやく手を緩め、立ち上がった。膝が震えている。鼻は完全に詰まっていて、呼吸は口でしかできない。制服は血だらけで、顔も腫れ始めている。それでも、彼女は男を見下ろしたまま、静かに息を整えた。
「どんな犯人でもやっつけて市民を守る」
その想いが、血の味と一緒に胸の奥で確かに響いていた。
近所の住人が駆け寄り、一一〇番をかけてくれた。あかりは男の腕を再び背後に回し、しっかり固定したまま、パトカーのサイレンが近づくのを待った。
サイレンはすぐに近づいてきた。赤色灯が暗い住宅街を切り裂くように点滅し、タイヤが急ブレーキをかけて止まる音がした。ドアが開くと同時に、同僚の男性巡査が二人、飛び出してきた。
「佐藤! 大丈夫か!」
あかりは顔を上げた。鼻血はまだ完全には止まらず、制服の前は赤黒く染まっている。でも、声ははっきりとしていた。
「容疑者を確保しました。公務執行妨害と傷害です。抵抗は……もうありません」
同僚が素早く男の両腕を後ろ手に手錠で固定した。男はすでに力が抜けきっており、ただ荒い息を繰り返すだけだった。白目がかかりかけた目を細め、地面に視線を落としている。さっきまでの「女に負けたなんて」という呻きは、もうどこにも残っていなかった。
別の同僚があかりの肩に手を置いた。
「顔、ひどいぞ。すぐに救急車を呼ぶ」
「大丈夫です。鼻が折れたくらいで」
あかりは小さく息を吐き、ようやくジャンパーの袖で顔を拭った。血の匂いが鼻腔に残っている。痛みは確かにあった。でも、それ以上に、胸の奥に広がる熱いものが勝っていた。
三年前、逃げた少年の背中を見送ったときの無力感。上司に怒鳴られたときの悔しさ。すべてが、今夜のこの瞬間で少しだけ清算された気がした。
男がパトカーに押し込められるとき、あかりはもう一度、その横顔を見た。体格差も、力の差も、すべてを乗り越えて、自分はここに立っている。女だから、という言い訳は、もう自分の中に一片も残っていなかった。
救急車が到着し、あかりは担架に座らされた。救急隊員が鼻の状態を確認しながら「全治一カ月は覚悟してください」と告げる。彼女は小さく頷いただけで、答えなかった。
窓の外では、同僚たちが現場検証を始めていた。住民の誰かが「あの子、一人でよくやったな……」と呟く声が聞こえた。
あかりは目を閉じた。
痛みはある。血の味も残っている。でも、心の奥で、静かに、確かに、何かが温かく灯っていた。
——数日後。
半田署の取調室で、男は正式に強制わいせつ容疑で再逮捕された。あかりが現行犯で取り押さえたことが決定打となり、連続事件の容疑者として書類がまとめられていった。
その夜の出来事は、すぐに全国ニュースで報じられた。
「身長一五五センチの女性巡査が、鼻血を流しながらも一人で容疑者を追跡・制圧」
「鼻骨骨折の重傷を負いながらも、諦めずに逮捕」
画面には、包帯を巻いたあかりの顔写真と、事件現場の映像が流れた。ニュースキャスターが静かに伝えたあと、街頭のインタビューが続いた。
「すごいよね。女の子一人で、あんなに大きな男を……」
「警察不祥事が続いたあとだけに、こういう話を聞くと少し救われる」
「自分も交番のお姉さんを見ると、ちょっと安心できるようになった」
あかり自身は、病院のベッドでそのニュースを見ていた。顔はまだ腫れ、鼻にはギプスが当てられている。痛み止めの効きが悪い夜もあった。でも、画面の向こうから届く声に、彼女は静かに目を細めた。
全国のどこかで、交番勤務の若い女性警察官が、このニュースを見ているかもしれない。
「女の足では追いつけない」と、誰かに言われたことがあるかもしれない。
「どうせ相手は男だし」と、自分を小さくしてしまったことがあるかもしれない。
そんな人たちに、今夜の自分の行動が、ほんの少しでも「諦めなくていい」という希望を届けられたのなら——それで十分だった。
あかりはリモコンの電源を切り、天井を見上げた。
鼻はまだ痛む。でも、心の奥で灯っていた小さな火は、消えていなかった。
「悪い男をやっつけたこと」
その事実は、ただのニュースではなく、誰かの明日を少しだけ明るくする種になったのだった。
【あとがき】
この物語は、実際にあった出来事をもとにしています。
体の大きさも、痛みも、過去の失敗も乗り越え、ひたすら前を向いて走り続けた一人の女性巡査。その姿を知ったとき、同じ女として心から胸を打たれました。
「女だから」という言葉を、誰よりも行動で覆してみせた彼女の生き方を、少しでも形に残したい。そんな思いで、この小説を書きました。
この物語を読んでくださった方の中に、一人でも「まだ諦めなくていいんだ」と思える瞬間が生まれたなら、それ以上に嬉しいことはありません。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




