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すずめのチィ

作者: そらり
掲載日:2026/05/17

一


その日、冬の終わりの薄い日差しがアパートの窓硝子を弱々しく撫でていた。


鈍い音がした。何かがぶつかった音。

乾いているのに湿っている、奇妙な音だった。


美咲が窓辺に駆け寄ると、ベランダのコンクリートの上に一羽の雀が落ちていた。


小さな体が不規則に痙攣していて、片方の翼が妙な角度に折れ曲がっている。

首が傾いでいる。黒い目が、何を見ているのか分からないまま宙を泳いでいた。



「かわいそう」



美咲は口に出してそう言った。

けれどその「かわいそう」という言葉を発した瞬間、自分の胸の奥で別の感情が蠢いたのを彼女ははっきりと自覚した。


それは同情ではなかった。

もっと甘くもっと粘着質で、所有に近いものだった。

小さくて壊れていて、自分にしか救えないものを見つけてしまったという、暗い恍惚。


彼女は素手でその雀を拾い上げた。

体温が指先に伝わる。


骨が紙のように薄い。

雀の心臓が、彼女の親指の腹の下で信じられない速さで打っていた。



二



獣医は眼鏡の奥の目を細めて、優しく、しかし事務的に言った。


「野鳥は法律で飼えないんですよ。鳥獣保護管理法というのがあってね。

怪我が治ったら、自然に返してあげるのが一番です」


「でもこの子、飛べないですよね」


「ええ、翼の骨が。もう野生では無理でしょうね」


「じゃあ、どうすれば」


獣医は少し黙った。

それから言葉を選ぶようにして、自治体の窓口の話をした。

保護団体の話をした。


けれど、その声は遠くで鳴っているように聞こえた。

美咲は診察台の上の小さな箱のなかで震えている雀を見ていた。

見ながら、もう決めていた。


この子は、私のものだ。


家に帰り、彼女は段ボール箱に布を敷き、そのなかに雀を入れた。

名前を「チィ」とつけた。

呼ぶたびに、自分の声が甘くなるのが分かった。



三



チィは、言うことをきかなかった。

当たり前だ。雀は犬でも猫でもない。

けれど、美咲にとってその「言うことをきかなさ」がたまらなく魅力的だった。


餌を差し出しても警戒して逃げる。

指を近づけると、小さな嘴で突こうとする。

その抵抗のすべてが、逆に彼女を興奮させた。


——こんなに小さいのに、生意気。


抱きしめたい。握りしめたい。口のなかに入れてしまいたい。

頬ずりをすると、チィは怯えて身をよじった。

その怯えた目を見るたびに、美咲の胸の奥が熱くなった。


自分でもおかしいと思った。

保護しているはずなのに、愛しているはずなのに、どうしてこんなに、もっと怖がらせたくなるのだろう。


ある夜、彼氏の涼太から電話がかかってきた。

週末、映画を観に行こう、と。


「ごめん、チィが今日あんまり元気なくて。ひとりにできない」


「……雀って、そんなに手がかかるの?」


「かかるよ。大事な家族だもん」


「家族、ね」


涼太の声は冷たかった。

美咲はその冷たさに、少しだけ胸がすく思いがした。

私には、あなたより大切なものがある。

あなたには分からない、私だけの秘密がある。


そう思うと、電話を切ったあと箱のなかのチィを覗き込むのが、いっそう愛おしく感じられた。



四



季節が変わるころ、涼太とは別れた。

別れたというより、いつのまにか連絡が途切れていたという方が近い。


美咲はそのことをほとんど気にしなかった。

彼女の世界の中心は、段ボール箱のなかの小さな生き物になっていた。


そして何かが、少しずつ壊れはじめていた。


チィはある日箱から出ようとして、よろめきながら床を歩いた。


美咲はそれを見て、笑った。


笑ったあとで、急に苛立った。


逃げようとしている。

私から。

逃げようとしている。


彼女はチィを掴んだ。

強く翼に。力を込めた。

チィが小さく鳴いた。


その鳴き声を聞いたとき、美咲のなかで何かが満たされた。


それから彼女はチィの翼に、ときどき負担をかけるようになった。


羽を少しだけ折る。

足をわずかに曲げる。

飛べないように。

歩けないように。


理由は自分でも分からない。

ただ、そうしていないと、チィがどこかへ行ってしまう気がした。


愛していた。

心から。

だから壊した。


「ごめんね、ごめんね」と泣きながら、彼女は手を止められなかった。

チィのうるんだ黒い目が、彼女を見ている。

何も言わずに。


ただ見ている。



五



その日なぜ窓を開けたのか、美咲は自分でもよく覚えていない。



春の風が部屋に入ってきていた。

彼女はチィの足をいつもより強く握っていた。


飛べないはずだった。

歩けないはずだった。

それなのに彼女がコンビニに行くために玄関を出て戻ってきたとき、箱のなかは空だった。


窓が、開いていた。


あとで考えれば、それは無意識の試験だったのかもしれない。


本当に私から逃げるのか、それとも最後まで私のもとに留まるのか。

彼女は、試したかったのかもしれない。

自分の愛が本物かどうかを。


美咲は泣き叫んだ。

家中のどこを探してもチィはいなかった。

ベランダにも、階段にも、道路にも。


翌日から、彼女は電柱にビラを貼りはじめた。


「雀を探しています。右の翼が少し曲がっています。

足を少し引きずります。見かけたかた、ご連絡ください」


ビラには、美咲の携帯番号だけが書かれていた。


それは、もはや雀を探す張り紙ではなかった。

彼女自身の、失ったものへの、長い遺書だった。



六



季節が二つ変わった。


美咲は痩せた。髪は伸びた。

毎日、街を歩いた。


公園の木の下を覗き、神社の縁の下を覗き、知らない家の庭を塀越しに覗いた。


人々は彼女を不審そうに見たが、彼女は気にしなかった。

私には、大切な子を探すという使命がある。

世界は、その使命のためだけにある。


ある夕暮れ、彼女は、町の外れの古い路地を歩いていた。


そこに、一軒の小さな家があった。

錆びたトタン屋根。傾いた門。枯れた紫陽花。

その縁側に、小さな老婆が座っていた。


そして、老婆の膝の上には——


チィがいた。


間違いなかった。

右の翼の角度。足の引きずり方。首を傾げるときの、あのしぐさ。

けれど、何かがおかしかった。


老婆はチィを、膝の上で撫でていた。


ただ撫でているだけのはずだった。

しかし美咲の目には、その手つきがひどく奇妙に映った。


撫でる、というより、圧している。

愛しむ、というより、押さえつけている。

チィの黒い目が、じっと、虚空を見ていた。


——あの目。


美咲は、それが自分に抱かれていたときのチィの目と、全く同じであることに気づいた。



七



その夜、彼女は眠れなかった。

あの老婆は、チィを虐待している。


私と同じように。


いや違う。私は愛していた。

あの老婆は、ただ壊している。

私が救わなくては。

あの子を、取り戻さなくては。


——あの子は、私のものだ。


翌朝、彼女は台所から包丁を持ち出し鞄に入れた。


自分でも、なぜそんなものを持っていくのかよく分からなかった。


ただ、必要な気がした。何かと戦うために。何かを取り戻すために。


路地を歩いた。昨日の家を目指した。


足が震えた。けれど胸の奥は、妙に静かだった。


やっと、長い旅が終わる。

やっと、私の子が私のもとに帰ってくる。


角を曲がった。


そこには——


家は、なかった。



八



眼の前にあったのは、半分崩れかけたコンクリートの廃ビルだった。


窓硝子は砕け、鉄筋が剥き出しになり、壁には赤や黒の落書きが散っていた。


昨日見たはずの小さな家は、どこにもなかった。


老婆もいなかった。

紫陽花もなかった。

縁側もなかった。

ただ、錆と黴と、湿った闇の匂いだけがした。


美咲は混乱したまま、入り口から一歩、足を踏み入れた。


薄暗がりのなかに、人影があった。


ひとつ、ふたつ、みっつ。


数人の男たちが、破れたソファと空き缶の散らばるフロアにたむろしていた。

彼らは一斉に彼女を見た。


そのうちのひとりが、ゆっくりと口元を歪めた。


「お。なんか入ってきたぞ」


「迷い込んだのか?」


「かわいいじゃん」


「小さいな」


男たちの視線が、彼女の体を上から下まで撫でた。

その視線には、見覚えがあった。

あまりにも、見覚えがありすぎた。


それは——かつて自分がチィを見るときにしていた、あの視線だった。


壊れたものを愛しむ視線。弱ったものを所有しようとする視線。


小さくて、逃げられなくて、自分にしか救えないと信じ込みたがる、

あの甘く粘着質な、暗い恍惚の視線。



九



ヒッ、と、喉の奥で音が鳴った。


自分の声だと気づくのに、一瞬かかった。

足が後ろに下がろうとしたが、指先まで凍りついていてうまく動かない。

男のひとりが立ち上がる気配がした。

床を踏む靴の音が、反響する。


逃げなきゃと、美咲の頭のどこかが叫んだ。


美咲の視線が、反射的にフロアの奥の窓へ走った。


砕けた硝子の枠。埃にまみれた鉄のサッシ。

夕方の光が、その窓から斜めに差し込んでいた。


その光のなかに——


小さな影があった。

一瞬、目を疑った。


窓枠の縁に一羽の雀がとまっていた。


灰色のちっぽけなありふれた雀。

けれど、美咲はその雀を世界中のどの雀と間違えるはずもなかった。


チィだった。


右の翼は、折れていなかった。まっすぐだった。

足も、曲がっていなかった。

首の傾ぎも、なかった。


まるであの冬の朝、窓に激突するより前の


——彼(・)女(・)に(・)「(・)救(・)わ(・)れ(・)る(・)」(・)よ(・)り(・)前(・)の(・)——


姿のように、その体はなめらかで、完全だった。


チィは、じっと美咲を見ていた。


黒い目が、彼女を捉えていた。


怯えでも怒りでも哀しみでもなかった。

責めてもいなかった。

許してもいなかった。


ただ、見ていた。


彼女が雀にしてきたすべてを、

彼女自身が今まさに置かれている状況のすべてを、

たった一羽の小さな鳥が静かに見届けているようだった。


時間が、止まった。


男たちの足音も荒い息も、すべてが遠のいた。

美咲の世界には、ただ、その窓とその雀とその黒い目だけがあった。


唇が震えた。


何か言おうとした。

ごめんね、と言おうとしたのか。

助けて、と言おうとしたのか。

自分でも分からない。

けれど声は、出なかった。


チィはほんの少しだけ、首を傾げた。


その仕草は、かつて箱のなかで美咲の指先から逃げようとしていたときのものと、そっくり同じだった。


けれど今その動きには、怯えがなかった。ただ確かめるような、穏やかさだけがあった。

そしてチィは、くるりと背を向けた。


躊躇いはなかった。

翼を大きく広げた。


一度羽ばたき、二度羽ばたき、そして三度目、いよいよ力強く羽ばたいた。



——飛べたんだ。



美咲の胸の奥で、何かが、千切れる音がした。

それは悲鳴にも似ていたし、祈りにも似ていた。


チィは、砕けた窓の縁を蹴った。

小さな体が、宙に舞った。


夕方の斜光がその灰色の羽に当たって、一瞬、金色に輝いた。


雀はまっすぐに空へ向かい、やがて大きく弧を描きながら、上へ、上へと昇っていった。


優雅だった。


それは、美咲がかつて一度も見たことのないチィの姿だった。

彼女の掌のなかでも、段ボール箱のなかでも、電柱のビラのなかでも、ついぞ見られなかった姿。


彼女から完全に切り離されたところで、初めて現れる姿だった。

雀は、高く、高く、夕空のなかへ消えていった。


残されたのは、空っぽの窓枠だけだった。



十



美咲は窓を見つめたまま立ち尽くしていた。

背後から、男の手が彼女の肩にかかった。


「お姉さん、どこ見てんの?」


声は遠くで鳴っていた。


彼女は、もう逃げようとはしなかった。

逃げられる、とも思わなかった。

そして、それ以上に——


逃げる資格は自分にはないということを、彼女はたった今、理解したのだった。


チィは、戻ってこなかった。

助けにも来なかった。許しもしなかった。ただ見て、そして、飛び去った。


ぼうっとしている彼女を、1人の男が愛らしそうに尋ねた。


「お姉さん、名前は?」


彼女は小さく鳴くように、けれど笑顔でこう答えた。


「チィ」


そしてその日から、彼らの行方は知られていない。

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