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ぼくの裾が揺れる春  作者: うつチャリンカー


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17/18

第17話 好きに理由は要らない

イメージ曲 https://youtu.be/lBXCNkNqKzU

全18話 19時公開

 父に話す、ということだけが、家の中に残っていた。


 母に言った夜のあと、食器棚の上には中学の説明会の封筒が置かれたままだった。母はそれを急かさなかった。朝になればいつも通り弁当箱を出して、夜になれば洗濯物をたたむ。ただ、ぼくが返事をするまで待つ間だけが、前より長くなった気がした。


 木曜日の夜、夕飯のあとに父がテレビを消した。


 居間の明かりが急に静かになる。ローテーブルの上には湯のみが二つ、少し離して置かれていた。父は仕事のシャツの袖をひと折りしたまま、ソファの端に座っている。真正面じゃなく、少し斜めに体を向けていた。


「湊」


 呼ばれて、喉の奥が細くなる。


「座れ」


 ぼくはソファじゃなく、ラグの上に座った。膝を立てるのも変な気がして、正座に近い形になる。母は台所でやかんを火にかけていて、その細い音だけが聞こえた。


「母さんから、少し聞いた」


 父はそう言って、湯のみには触れなかった。


「でも、俺はおまえの口から聞きたい」


 ごまかしのない言い方だった。


 ぼくはテーブルの木目を見た。そこを見ていないと、声が出る気がしない。


「……中学の制服」


 最初に出たのは、それだけだった。


 父はうなずきもしない。急かしもしない。ただ待っている。


「スカート、選びたい」


 言ってしまうと、前に母へ言ったときより音が固かった。もう一度言い直したくなる。けれど父はそのまま聞いていた。


「前から、ずっと」


 膝の上で指を組み直す。ほどいて、また組む。


「小さいころから、そういうの見てて。今も、変わってなくて」


 言葉が途切れるたび、台所のほうで小さな皿の触れる音がした。


「女の子になりたい、っていうのと同じかって言われると、たぶん違う。ただ、スカートが好きで。制服でも、そうしたい」


 父の顔は大きくは変わらなかった。眉の間が動く。叱る前の顔ではない。考えているときの顔だった。


「家で着るのと同じじゃないぞ」


 低い声で、父が言う。


「学校で着るなら、毎日だ。見られる。言われる。笑うやつもいるだろうな」


 ぼくはうつむいたまま、ラグの毛を指先でつぶした。


「先生でも、面倒を避けたがるのはいるかもしれん。友達だって、全員が同じ顔するとは限らん。俺が学校の中まで入って、先に全部片づけることもできん」


 現実の形だけが、順番に置かれていく。大きい声じゃないのに、逃げ道がない。


「……うん」


 それしか言えなかった。


 父はそこで一度、顎を指で触った。


「怖いか」


 聞かれて、喉がつかえた。


 怖い。


 その一言を認めたら、そのまま何も言えなくなりそうだった。でも黙ると、それも違う気がした。


「……こわい」


 やっと出した声は、自分でも驚くくらい小さい。


 父は「だろうな」とだけ言った。


 それから、もう一度こっちを見る。


「それでもか」


 湯のみの湯気が、もうほとんど見えなくなっていた。台所では、母が水を止める音がした。家の中は静かなのに、胸の中だけがうるさい。


 それでもか。


 その聞き方は、賛成でも反対でもない。逃げるなら今のうちだと言われているみたいでもあるし、本当に自分で決めろと言われているみたいでもあった。


 ぼくは膝の上の指を強く組んだ。


「……怖いけど」


 言ってから、一度息を吸う。


「着たい」


 言葉にした瞬間、急に何かが軽くなるわけではなかった。むしろ胸の奥は前よりはっきり重い。ただ、その重さの形だけは、さっきよりわかった気がした。


 父はしばらく黙っていた。


 それから、背もたれに寄りかからずに言う。


「そうか」


 短い声だった。


「なら、着たいなら着ればいい」


 顔を上げる。父はまだ真っ直ぐには見てこない。少し斜めのまま、言葉だけをこっちへ置く。


「ただ、楽なほうは選べん。嫌なことを言われる日もある。途中で面倒になっても、急に何もかも軽くなるわけじゃない」


 父の指が、湯のみの脇を一度だけなぞる。


「代わりにはなれん。けど、ひとりで勝手に決めたことにもしない」


 その言い方は、手放しの肯定じゃなかった。いいな、と軽く持ち上げてもくれない。そのかわり、聞かなかったことにもされなかった。


「……うん」


「説明会の日は、俺も行く」


 その一言が、いちばん最後に来た。


 ぼくはすぐには返事ができなかった。うれしい、と言うには喉の奥がまだ詰まっている。安心した、と決めるには、これからのことが白すぎる。それでも、封筒の角が前より遠くなく見えた。


「……うん」


 やっと言うと、父はそれ以上何も足さなかった。


 母がそこで居間へ戻ってきて、冷めかけた湯のみを見て「入れ直す?」とだけ聞いた。父は「いや、いい」と答える。いつもの家の会話だった。なのに、そのいつもの音の下に、さっきまでなかったものがひとつ増えている気がした。


 翌日の学校で、ランドセルの中の封筒は前の日より重くなかった。


 軽いわけでもない。ただ、背中に当たる角の意味が変わっていた。


 三時間目が終わった休み時間、ひよりが自分の席で説明会の紙を見ていた。蓮は横から「もう採寸とかあんの」と覗きこんで、真帆は封筒の端をきれいに揃えてから鞄へしまっている。前と同じ景色のはずなのに、ぼくだけがその紙を違う目で見ていた。


 放課後、帰りの会が終わってみんなが立ち上がるより少し早く、ぼくは声を出した。


「……ちょっと、話したい」


 自分で言ってから、自分の声じゃないみたいに聞こえた。


 蓮がいちばん先に振り向く。


「え、なに。珍し」


 ひよりは鞄の口を閉じる手を止めた。真帆だけが、あまり驚いた顔をしない。


 四人で渡り廊下まで出る。冬の終わりの風は弱いのに、窓の隙間から入る冷たさだけはまだ細かった。金網の向こうに見える運動場は、夕方の色へ寄っている。


「父さんにも話した」


 最初にそう言うと、ひよりの目が動いた。蓮は「お」と小さく言って、そこで黙る。真帆は手すりのそばで待つ形のままだった。


「それで」


 そこから先のほうが、本当は言いたかったことだった。


「中学、ぼく……スカート、選びたい」


 渡り廊下は外より静かで、自分の声だけが薄く響いた。


 蓮が先に口を開いた。


「制服で?」


「……うん」


「毎日?」


 聞き方は率直で、少しだけひるむ。でも蓮は変に笑わなかった。ただ本当にそこを確かめたかっただけの顔をしている。


「そりゃ、すげえな」


 言ってから、蓮はすぐ鼻の頭をこすった。


「いや、変な意味じゃなくて。毎日って、家で着るとか遊びで着るとかと、全然ちがうじゃん」


「うん」


「……でも、規定で選べるんだろ」


「たぶん」


「なら、別にいいじゃん」


 言い終わりは、前に秘密を打ち明けたときと同じだった。軽いのに、手を離す軽さじゃない。


「楽とは言わねえけど」


 蓮はそこだけ声を落とす。


「俺、当日いるし。変な空気になっても、普通に隣歩くから」


 その言い方が蓮らしくて、ぼくは息を吐いた。


 ひよりは腕を組まずに、まっすぐぼくを見ていた。それから、ぼくの手にある封筒へ視線を落とす。白い紙の角、指で押さえているところ、開きかけた口元。そこを見てから言う。


「私は、いいと思う」


 最初に置かれたのはそれだった。


「というか、選べるのに空気で選べなくなるほうが変でしょ」


 言い方はやわらかいのに、芯だけ細く固い。


「湊くん、前に着てたときも、スカートの落ち方、ちゃんと似合ってたし」


 その言葉で、胸の奥が熱くなる。ひよりは慰めるときの声じゃなかった。前に真帆の家で鏡の前に立ったときみたいに、見たままを言う声だった。


「制服だからって急に似合わなくなるわけじゃないよ」


 ひよりは前髪を耳にかける。


「むしろ制服のほうが線きれいかも。プリーツの幅とか、長さとか、ちゃんと見たい」


 最後のところだけ、いつものひよりに戻る。その具体さに、肩の力が抜けた。


 真帆は間を置いてから言った。


「それで、湊くんはもう決めてる?」


 いつかと同じ聞き方だった。慰める前に、まずこっちへ返してくる。


 ぼくは手すりの白い塗装の剥げたところを見た。そこを見ていると、自分の声の出る場所が少しわかる。


「……父さんにも、同じこと聞かれた」


「うん」


「怖いかって」


 ひよりも蓮も黙っていた。真帆だけが、急かさない顔で待っている。


「怖い」


 今度は前より、ほんの少しまっすぐ言えた。


「でも」


 言葉が止まりそうになって、それでも止めたくなかった。


「怖いけど、着たい」


 渡り廊下の向こうで、どこかの教室の戸が閉まる音がした。遠くでボールの跳ねる音もする。その全部のあいだに、自分の言った一言だけが残る。


 真帆は小さくうなずいた。


「じゃあ、それで十分だと思う」


 短い声だった。


「当日、一人で立つ必要はないよ」


「うん」


「必要なら、先にどう動くか考えよう。誰がどこにいるかとか、何を言われたらどうするかとか」


 真帆らしい言い方だった。気持ちだけで包まずに、困る場所を先に減らそうとする。


 蓮がすぐに乗る。


「それな。説明会の会場とか、たぶん変にざわつくやついるし」


「いる前提なんだ」


 ひよりが言うと、蓮は肩をすくめた。


「いや、いるだろ。世の中そういうのいるじゃん」


 雑な言い方なのに、そこで目を逸らさない。


「だから先に決めといたほうがいい。俺、笑われたら普通に腹立つし」


「うん、私も」


 ひよりが言う。


 それから、さっきより近い声で続けた。


「でもさ、たぶんその日いちばん大事なの、周りの顔より、湊くんがちゃんと自分で選ぶことだよ」


 その言い方が、胸の中のどこかへ静かに入る。


 似合う、も、いいと思う、も、うれしかった。けれど今の一言は、それより深い場所に落ちた。


 ぼくは封筒の角を指で押さえた。白い紙のざらつきが、指先にかすかに残る。


「……うん」


 それしか言えなかったけれど、さっきまでの「うん」とは違った。


 帰り道、三人はいつも通りの話をした。蓮は腹が減ったと言い、ひよりはそれなら家まで我慢しなよと言い、真帆は横で静かに笑っていた。空はもう夕方の薄い色で、風はまだ少し冷たい。制服なんてまだ着ていないのに、歩きながら、頭の中ではプリーツの幅ばかり思い浮かんだ。


 家に帰ると、説明会の封筒は居間の棚の上に出ていた。


 ぼくは手を洗ってから、それを自分の部屋へ持っていく。机の前に座って、封を開ける。申込書を一枚ずつ取り出す。上着、シャツ、セーター。その下に、下衣の欄がある。


 スラックス。

 スカート。


 白い四角が、ふたつ並んでいた。


 前は、その白さを見るだけで喉が乾いた。遠くて、勝手に決まるものみたいに見えていた。


 ぼくはスカートの横の四角に、指先をそっと置いた。


 紙は少し冷たくて、かすかにざらついている。まだ丸はつけない。説明会も、その先の会場も、まだ来ていない。それでも、その場所だけはもう他人のものじゃなかった。

 父に話す、ということだけが、家の中に残っていた。


 母に言った夜のあと、食器棚の上には中学の説明会の封筒が置かれたままだった。母はそれを急かさなかった。朝になればいつも通り弁当箱を出して、夜になれば洗濯物をたたむ。ただ、ぼくが返事をするまで待つ間だけが、前より長くなった気がした。


 木曜日の夜、夕飯のあとに父がテレビを消した。


 居間の明かりが急に静かになる。ローテーブルの上には湯のみが二つ、少し離して置かれていた。父は仕事のシャツの袖をひと折りしたまま、ソファの端に座っている。真正面じゃなく、少し斜めに体を向けていた。


「湊」


 呼ばれて、喉の奥が細くなる。


「座れ」


 ぼくはソファじゃなく、ラグの上に座った。膝を立てるのも変な気がして、正座に近い形になる。母は台所でやかんを火にかけていて、その細い音だけが聞こえた。


「母さんから、少し聞いた」


 父はそう言って、湯のみには触れなかった。


「でも、俺はおまえの口から聞きたい」


 ごまかしのない言い方だった。


 ぼくはテーブルの木目を見た。そこを見ていないと、声が出る気がしない。


「……中学の制服」


 最初に出たのは、それだけだった。


 父はうなずきもしない。急かしもしない。ただ待っている。


「スカート、選びたい」


 言ってしまうと、前に母へ言ったときより音が固かった。もう一度言い直したくなる。けれど父はそのまま聞いていた。


「前から、ずっと」


 膝の上で指を組み直す。ほどいて、また組む。


「小さいころから、そういうの見てて。今も、変わってなくて」


 言葉が途切れるたび、台所のほうで小さな皿の触れる音がした。


「女の子になりたい、っていうのと同じかって言われると、たぶん違う。ただ、スカートが好きで。制服でも、そうしたい」


 父の顔は大きくは変わらなかった。眉の間が動く。叱る前の顔ではない。考えているときの顔だった。


「家で着るのと同じじゃないぞ」


 低い声で、父が言う。


「学校で着るなら、毎日だ。見られる。言われる。笑うやつもいるだろうな」


 ぼくはうつむいたまま、ラグの毛を指先でつぶした。


「先生でも、面倒を避けたがるのはいるかもしれん。友達だって、全員が同じ顔するとは限らん。俺が学校の中まで入って、先に全部片づけることもできん」


 現実の形だけが、順番に置かれていく。大きい声じゃないのに、逃げ道がない。


「……うん」


 それしか言えなかった。


 父はそこで一度、顎を指で触った。


「怖いか」


 聞かれて、喉がつかえた。


 怖い。


 その一言を認めたら、そのまま何も言えなくなりそうだった。でも黙ると、それも違う気がした。


「……こわい」


 やっと出した声は、自分でも驚くくらい小さい。


 父は「だろうな」とだけ言った。


 それから、もう一度こっちを見る。


「それでもか」


 湯のみの湯気が、もうほとんど見えなくなっていた。台所では、母が水を止める音がした。家の中は静かなのに、胸の中だけがうるさい。


 それでもか。


 その聞き方は、賛成でも反対でもない。逃げるなら今のうちだと言われているみたいでもあるし、本当に自分で決めろと言われているみたいでもあった。


 ぼくは膝の上の指を強く組んだ。


「……怖いけど」


 言ってから、一度息を吸う。


「着たい」


 言葉にした瞬間、急に何かが軽くなるわけではなかった。むしろ胸の奥は前よりはっきり重い。ただ、その重さの形だけは、さっきよりわかった気がした。


 父はしばらく黙っていた。


 それから、背もたれに寄りかからずに言う。


「そうか」


 短い声だった。


「なら、着たいなら着ればいい」


 顔を上げる。父はまだ真っ直ぐには見てこない。少し斜めのまま、言葉だけをこっちへ置く。


「ただ、楽なほうは選べん。嫌なことを言われる日もある。途中で面倒になっても、急に何もかも軽くなるわけじゃない」


 父の指が、湯のみの脇を一度だけなぞる。


「代わりにはなれん。けど、ひとりで勝手に決めたことにもしない」


 その言い方は、手放しの肯定じゃなかった。いいな、と軽く持ち上げてもくれない。そのかわり、聞かなかったことにもされなかった。


「……うん」


「説明会の日は、俺も行く」


 その一言が、いちばん最後に来た。


 ぼくはすぐには返事ができなかった。うれしい、と言うには喉の奥がまだ詰まっている。安心した、と決めるには、これからのことが白すぎる。それでも、封筒の角が前より遠くなく見えた。


「……うん」


 やっと言うと、父はそれ以上何も足さなかった。


 母がそこで居間へ戻ってきて、冷めかけた湯のみを見て「入れ直す?」とだけ聞いた。父は「いや、いい」と答える。いつもの家の会話だった。なのに、そのいつもの音の下に、さっきまでなかったものがひとつ増えている気がした。


 翌日の学校で、ランドセルの中の封筒は前の日より重くなかった。


 軽いわけでもない。ただ、背中に当たる角の意味が変わっていた。


 三時間目が終わった休み時間、ひよりが自分の席で説明会の紙を見ていた。蓮は横から「もう採寸とかあんの」と覗きこんで、真帆は封筒の端をきれいに揃えてから鞄へしまっている。前と同じ景色のはずなのに、ぼくだけがその紙を違う目で見ていた。


 放課後、帰りの会が終わってみんなが立ち上がるより少し早く、ぼくは声を出した。


「……ちょっと、話したい」


 自分で言ってから、自分の声じゃないみたいに聞こえた。


 蓮がいちばん先に振り向く。


「え、なに。珍し」


 ひよりは鞄の口を閉じる手を止めた。真帆だけが、あまり驚いた顔をしない。


 四人で渡り廊下まで出る。冬の終わりの風は弱いのに、窓の隙間から入る冷たさだけはまだ細かった。金網の向こうに見える運動場は、夕方の色へ寄っている。


「父さんにも話した」


 最初にそう言うと、ひよりの目が動いた。蓮は「お」と小さく言って、そこで黙る。真帆は手すりのそばで待つ形のままだった。


「それで」


 そこから先のほうが、本当は言いたかったことだった。


「中学、ぼく……スカート、選びたい」


 渡り廊下は外より静かで、自分の声だけが薄く響いた。


 蓮が先に口を開いた。


「制服で?」


「……うん」


「毎日?」


 聞き方は率直で、少しだけひるむ。でも蓮は変に笑わなかった。ただ本当にそこを確かめたかっただけの顔をしている。


「そりゃ、すげえな」


 言ってから、蓮はすぐ鼻の頭をこすった。


「いや、変な意味じゃなくて。毎日って、家で着るとか遊びで着るとかと、全然ちがうじゃん」


「うん」


「……でも、規定で選べるんだろ」


「たぶん」


「なら、別にいいじゃん」


 言い終わりは、前に秘密を打ち明けたときと同じだった。軽いのに、手を離す軽さじゃない。


「楽とは言わねえけど」


 蓮はそこだけ声を落とす。


「俺、当日いるし。変な空気になっても、普通に隣歩くから」


 その言い方が蓮らしくて、ぼくは息を吐いた。


 ひよりは腕を組まずに、まっすぐぼくを見ていた。それから、ぼくの手にある封筒へ視線を落とす。白い紙の角、指で押さえているところ、開きかけた口元。そこを見てから言う。


「私は、いいと思う」


 最初に置かれたのはそれだった。


「というか、選べるのに空気で選べなくなるほうが変でしょ」


 言い方はやわらかいのに、芯だけ細く固い。


「湊くん、前に着てたときも、スカートの落ち方、ちゃんと似合ってたし」


 その言葉で、胸の奥が熱くなる。ひよりは慰めるときの声じゃなかった。前に真帆の家で鏡の前に立ったときみたいに、見たままを言う声だった。


「制服だからって急に似合わなくなるわけじゃないよ」


 ひよりは前髪を耳にかける。


「むしろ制服のほうが線きれいかも。プリーツの幅とか、長さとか、ちゃんと見たい」


 最後のところだけ、いつものひよりに戻る。その具体さに、肩の力が抜けた。


 真帆は間を置いてから言った。


「それで、湊くんはもう決めてる?」


 いつかと同じ聞き方だった。慰める前に、まずこっちへ返してくる。


 ぼくは手すりの白い塗装の剥げたところを見た。そこを見ていると、自分の声の出る場所が少しわかる。


「……父さんにも、同じこと聞かれた」


「うん」


「怖いかって」


 ひよりも蓮も黙っていた。真帆だけが、急かさない顔で待っている。


「怖い」


 今度は前より、ほんの少しまっすぐ言えた。


「でも」


 言葉が止まりそうになって、それでも止めたくなかった。


「怖いけど、着たい」


 渡り廊下の向こうで、どこかの教室の戸が閉まる音がした。遠くでボールの跳ねる音もする。その全部のあいだに、自分の言った一言だけが残る。


 真帆は小さくうなずいた。


「じゃあ、それで十分だと思う」


 短い声だった。


「当日、一人で立つ必要はないよ」


「うん」


「必要なら、先にどう動くか考えよう。誰がどこにいるかとか、何を言われたらどうするかとか」


 真帆らしい言い方だった。気持ちだけで包まずに、困る場所を先に減らそうとする。


 蓮がすぐに乗る。


「それな。説明会の会場とか、たぶん変にざわつくやついるし」


「いる前提なんだ」


 ひよりが言うと、蓮は肩をすくめた。


「いや、いるだろ。世の中そういうのいるじゃん」


 雑な言い方なのに、そこで目を逸らさない。


「だから先に決めといたほうがいい。俺、笑われたら普通に腹立つし」


「うん、私も」


 ひよりが言う。


 それから、さっきより近い声で続けた。


「でもさ、たぶんその日いちばん大事なの、周りの顔より、湊くんがちゃんと自分で選ぶことだよ」


 その言い方が、胸の中のどこかへ静かに入る。


 似合う、も、いいと思う、も、うれしかった。けれど今の一言は、それより深い場所に落ちた。


 ぼくは封筒の角を指で押さえた。白い紙のざらつきが、指先にかすかに残る。


「……うん」


 それしか言えなかったけれど、さっきまでの「うん」とは違った。


 帰り道、三人はいつも通りの話をした。蓮は腹が減ったと言い、ひよりはそれなら家まで我慢しなよと言い、真帆は横で静かに笑っていた。空はもう夕方の薄い色で、風はまだ少し冷たい。制服なんてまだ着ていないのに、歩きながら、頭の中ではプリーツの幅ばかり思い浮かんだ。


 家に帰ると、説明会の封筒は居間の棚の上に出ていた。


 ぼくは手を洗ってから、それを自分の部屋へ持っていく。机の前に座って、封を開ける。申込書を一枚ずつ取り出す。上着、シャツ、セーター。その下に、下衣の欄がある。


 スラックス。

 スカート。


 白い四角が、ふたつ並んでいた。


 前は、その白さを見るだけで喉が乾いた。遠くて、勝手に決まるものみたいに見えていた。


 ぼくはスカートの横の四角に、指先をそっと置いた。


 紙は少し冷たくて、かすかにざらついている。まだ丸はつけない。説明会も、その先の会場も、まだ来ていない。それでも、その場所だけはもう他人のものじゃなかった。


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