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海になったネコの話

作者: 鳥野
掲載日:2026/03/02

 一匹のネコが、岩場に座って、夜の海をにらんでいました。


 しょっぱい風がヒゲを揺らして、足元では、岩にぶつかった波が白くくだけています。海にうつった一直線の満月の光は、波に揺られて、散ったりくっついたりを繰り返していました。

 波間に、ちら、ちら、と魚の腹が光ります。

 夜になると、たまに魚が跳ねるのです。ネコはもどかしそうに、尻尾を揺らしました。ネコは魚を捕まえようと、随分と長いこと待ち伏せしていましたが、どうしても届かない距離なのです。


 ――空腹って、なんでこんなにつらいのだろう。


 ネコのお腹が、くうと鳴りました。今日は朝から、何も食べていません。遠くで魚が光るたびに、だんだんとじれったくなってきました。

 もっと近くに来てはくれないものか。――いや、いっそ自分が海になって、魚を飲み込んでしまいたい。ネコは空腹を紛らわそうと、想像していました。自分が海になったら、魚を食べ放題だ。きっと楽しいことだろう。


 その瞬間、近くで、ちらっとが光りました。ネコは目を見開きます。ほとんど反射で、伸び上がって前足を振り出していました。質量のある身に、爪がひっかかる感触がありました。


 ――やった!


 しかし、喜んだのも一瞬でした。ネコは、距離を見誤っていたのです。後ろ足が、宙に浮いていました。ネコは、ぐらりと海に吸い寄せられていきます。


 あ、と思った時には、ぱちゃん、と水の跳ねる音がしました。

 視界がぼやけて、ふっと耳を塞がれるように、音が消えます。なまぬるい海水に全身が撫でられるように感じました。海に落ちている。ネコはパニックになって、身体をよじりました。苦手な水に落ちてしまっては、どうすることもできません。


 ――もうだめだ。


 呼吸が塞がって、ネコはぎゅっと目をつむりました。


 どれくらい時間が経ったでしょう。

 息苦しさは消えて、随分と体が軽く感じました。恐る恐る目を開けると、青い世界が広がっていました。ネコは、ぱちぱちとまばたきを繰り返しました。ニャア、と鳴こうとしましたが、代わりに口から、ぷくぷくとあぶくが吐き出されました。後ろ足の肉球が、じゃりっと柔らかな砂を掴んでいました。ネコは後ろ足で立ち上がって、周辺を見渡します。


 ネコは、海底に立っていました。

 すぐそばを漂っていくのは、ぼんやり光るクラゲたち。月の光だけが照らす海底は薄暗いのですが、ネコの目ではっきりと見ることができます。


 気付いたら、右の前足のツメに、魚が引っかかっていました。さっき捕まえようとした、小魚です。腕を振ると、魚から赤い血が噴き出して霧のよう海中に広がります。

 ネコは堪らず、魚にかぶりつきました。なまぐさい味が口内に広がって、空腹の胃袋に滑り落ちていきます。尻尾の毛が逆立つほどの美味しさに、ネコはふるりと身震いしました。


 あっという間に食べ終えると、残った骨は、海に漂って遠くに消えていきました。


 胃袋が満たされたネコは、だんだんと落ち着きを取り戻していきました。一体どうして、自分は海の底にいるのでしょう。ネコは首を傾げます。呼吸ができるのも、なんとも不思議です。

 伸びをしようと水底を両脚で蹴ると、ふっと水中に身体が浮きます。感じたことのない浮遊感に、慌てて前足で水を掻くと、身体が前に進みました。何度も水中を蹴ると、更に速く進んでいきます。

 初めはぎこちなかった動きも、ぐるりと辺りを回った頃には、泳ぐという感覚を掴んでスムーズになっていました。

 ネコは、吐き出したあぶくを尻尾で叩いたり、背の高い海藻に身体を擦り付けたり、水底を引っ掻いて爪痕を残してみたりと、好きに遊び回りました。海中は、ネコの知らない、楽しいものでいっぱいでした。


 ――きれい。


 ネコは、夢中になっていました。そして、ひとつの結論を出しました。


 ――きっと自分は、願い通りに海になったんだ!


 不思議とそれは、正しい考えに思えました。



***


 どれだけの月日が経ったでしょう。

 あれからネコは、一度も地上に戻ることなく、海中で過ごしていました。

 いつの間にかネコの体は青く、深い色に染まっていました。海になったのだから、海の色になるのは当然のことです。

 一日中遊び回って、お腹がすいたら適当に魚を捕まえる。眠くなったら海藻を身体に巻き付けながら、好きなだけ眠る。ネコにとって、海は最高の環境でした。

 自分が海中で過ごしていることにも、疑問なんて持ちません。


 その日もネコは、気持ち良く泳ぎ回っていました。

 尻尾を揺らして泳ぐ姿は、遠目では長い魚が泳いでいるようにも見えるでしょう。ネコはそこらの魚よりも、速く泳げるようになっていました。


 ネコと並ぶように、小魚の群れがいっしょに泳いでいます。小魚たちは光を反射して、細かくきらきら光っていました。これもいつもの光景です。

 ネコは前足を伸ばして、簡単に一匹を捕まえました。おやつ代わりの小魚を咥えながら、ぐんぐん泳いでいきます。


 水を蹴るたびに、あぶくがぱっと散って行きます。骨だけになった魚を吐き出しながら、ネコは思いました。


 ――退屈だし、今日は『もじゃもじゃ岩』で遊んでみようかな。


 いつもの遊び場よりもずっと深い場所に、大きな岩がぽつんと見えます。海藻がびっちり絡み付いた岩なので、勝手にネコがそう呼んでいたのです。

 なんとなく危ない気がして近づいたことはありませんでしたが、とにかくネコは退屈だったのです。


 岩を目指して潜っていくと、だんだんと水は冷たくなって、あたりも薄暗くなっていきます。光を弾く小魚たちも、もうここにはいません。

 不安が半分、期待が半分でした。

 ざらついた砂が顔に当たって、前足で顔をこすります。砂が蹴散らされているということは、近くに何か生き物がいるのかもしれません。ごぼごぼと、自分があぶくを吐き出す音だけが耳に届いていました。


 目で見るよりも『もじゃもじゃ岩』はずっと遠く、ネコは随分と長いこと泳いでいました。

 砂で濁った視界は悪く、ほとんどなにも見えません。

 と、そのときです。前足の肉球が柔らかなものに触れました。爪を引っ掛けてみると、連なった葉がずるりと持ち上がります。これは間違いなく、あの岩に絡んだ海藻です。


 徐々に砂が落ちていって、濁った視界が晴れていきました。砂を散らさないよう、慎重に岩の周りを泳ぎます。近くで見ると岩は大きく、ネコが十匹乗ったとしても余裕がありそうです。

 地上で見た草原を少しだけ思い出しましたが、すぐにネコは考えるのをやめました。海の底にいる自分には、もう関係ないことなのです。


 ふと、何かの気配があるのに気が付きました。

 おいしい魚しかいない海。ネコの天敵たる生き物は、ここにはいないはずです。

 それでも何だか嫌な感じがして、さっと毛を逆立てましたが、水中では上手く立っていたかは分かりません。


 身を隠せないかと、岩の周りをウロウロと泳ぎ回っていた、その瞬間です。

 『もじゃもじゃ岩』に、亀裂が入ったのです。

 ぶちぶちと海藻を引きちぎりながら、裂け目は深くなっていきます。


 亀裂の先にあるのは、ぎざぎざとした――鋭い牙です。


 開いた巨大な魚の口が、間近に迫っています。ネコは反射で身体をひねりましたが、反応は、一瞬遅れました。

 ネコの背中に、大きな魚がしっかり食らいついています。牙が食い込む痛みに、悲鳴を閉じ込めたあぶくをぽこんと吐き出します。痛みを感じるのも、久し振りな気がしました。


 ネコはしばらく暴れていましたが、だんだんと力が抜けていきます。


 ――仕方ない。


 ネコは、おやつに食べたなまぐさい小魚の味を、ぼんやりと思い出していました。


 ――ぼくもたくさん、魚を食べてきたんだもの。


 だんだんと痛みを感じなくなってきて、ネコはゆっくりと目を閉じました。


 再び砂が舞って、辺りはまた、静かになりました。

 遠くから見れば、大きな岩が、ぶくぶくとあぶくを吐き出しているようにも見えます。

 


 こうしてネコは、本当の海になったのでした。

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