50年後には山上被告は必ず再評価されている。そして、再評価の際、現代の我々の言論と国家の限界は露呈するのだ
山上被告の公判が続いているという事で、様々な意見が出るようになりました。
他の影響は考えずに、一犯罪としてだけで定義付けるという事が出来なくはない。
あれはテロなんだと、頑なに主張する議員さんもおりました。
私、ふりがなの立場として言えば、殆ど初期から一環していまして、山上良くやった派閥となり、その意見は、様々な意見を見ても聞いても、相変わらずそのままでいます。
人々の山上被告の評価が大きく分かれる分岐点が、国家のガバメント問題です。
・ガバメントとは
>政府・行政: 国や地方自治体などの統治機関やその組織、政治システムそのものを指します。
>統治: 支配、統治権、施政といった行為や権力そのものを指す場合もあります。
>語源: ギリシャ語の「舵取り(kubernan)」に由来し、「統治する」という意味合いが共通しています。
国家レベルのガバメント問題となると、命題的に安全保障レベルの外せない最上位の国家の命題となります。
ですので、私からすれば、他の論点、例えば犯罪としてどうなんだという論点等は完全に塵芥です。
最上位の命題という事で、自明的に、国家のガバメント問題は、他の一切の論点より先に済ますべき論点となり、もし、他の論点を、国家のガバメント問題より先に持ち出す方を見たならば、その目的は事件全体を矮小化したいからである、と、はっきり書いてしまいます。
まぁ、山上被告の再評価は確定路線ですので、力を持つ利害関係者、及び宗教関係者が生きている間は、急ぐ必要はないのかなと言った所。
この時代において、統一協会による国家のガバメント問題を提起するのは、後世の日本人に、我々が馬鹿にされないよう物証を残す程度の目的以外には機能しないでしょう。
もちろん、私は事件を矮小化したい人の気持ちもわかるつもりです。
例えば、平和な日本において重大過ぎる問題が起きてしまった。
事件をとにかく矮小化して、心の平穏を保ちたい場合。
それは、防衛機構的な、普遍ともいえる心の機微です。
だから国家のガバメント問題はないのだとする、という思考は理解出来ます。
歴史系の証言物では付き物ですよね、前書き辺りにある、本人の思っている事を言っているだけで、事実を話しているとは限らないというやつです。
他のケースで言えば、純粋に政党や宗教の利害関係者であること。
それか、単に知識がなかったり、命題を重要な順に並べる能力が無いからかもしれません。
長年君臨する安定与党が、悪徳宗教に嵌まり、行政の邪魔をして、人々の陳情を無視して免罪にしてしまった。
問題を大きく起こさないようにと、宗教関連の法律は改訂されたが、悪徳宗教の誘いは断れなくなり、総理にもなった与党の中核議員が、悪徳宗教の宣伝塔になっている。
悪徳宗教に苦労したとある宗教二世の青年が、悲観から広告塔になっている中核議員を銃殺し、結果的に悪徳宗教は解体された。
もし、私の意見を変えたい人が居るならば、安倍晋三銃撃事件における他の諸法律問題を一切説明せず、上記の出来事が国家のガバメント問題にならない理由を説明すべきです。
山上被告は結果的に、一撃の下、国家レベルのガバメント問題を修正してしまいました。
良くやった以外の意見が出ない事は、当然とも言えます。
そして、安倍晋三銃撃事件から露呈した、国家としての日本のガバメント問題にたどり着かないのは、知識や応用能力の差とも言えます。
例えば、どこかの国の大統領が悪徳宗教にドはまりして、警察を使って国民の権利を直接侵害するようになってしまった。
大統領やその関係者が、国民の財産を奪い、反抗する者は直接的に加害する。
当然、国民は末端の警察に反撃する訳です。
そんな中では死んでしまう警官も出るでしょう。
そうやって治安が崩壊し、軍隊で国民を鎮圧しましょうとなって、軍権がここまで自由に動かせるなら、軍事独裁政権で良いじゃないなと、軍事独裁政権に移行する。
このケースの場合、末端の警官や悪徳宗教関係者を排除すれば何かが解決するでしょうか?
末端の警官や悪徳宗教関係者を排除すれば、何かが解決すると言う人は、権力という物や、行政府の負う責任を誤解していませんか?
日本の場合、悪徳宗教を庇ってしまったのは、他ならぬ施政者であったのです。
上記は途上国では何ら珍しくない流れです。
このような流れに、国民が武力で持って立ち上がり、政治家を排除する権利を抵抗権と言います。
抵抗権とは
>政府が国民の権利を不当に侵害したり、権力を濫用したりした際に、国民がその政府に抵抗し、権利を守るための権利です。
>これはロックなどの思想に由来し、革命権(政府を打倒する権利)と関連付けられ、究極の抵抗権とされますが、日本国憲法には明文規定がなく、憲法学の解釈やドイツ基本法のように明記された国もあります
>(自由で民主的な基本秩序を)排除せんと企てるすべての者に対し,他の防衛手段がない場合には,すべてのドイツ人は抵抗権を有する
また、かつてのトルコクーデターでは、大統領の圧政に対して、軍隊が大統領を排除し国民主権を取り戻しました。
真の問題は、安倍晋三銃撃事件で露呈した、与党自民党と宗教との癒着が、上記とどう変わるかと言えば、それは程度問題でしかないという事です。
自民党は宗教と与党という立場から出来る免罪を通して、国民の正当な手続き疎外し、機能しないようにして、経済的に国民を加害し、死人を出してしまいました。
※2009年統一協会は政治介入によって本部の強制捜査を免れている
挙句の果てに付き合いを断れなくなり、悪徳宗教の広告塔の筆頭に立ちます。
人によっては国家のガバメントに抵触するかも程度の認識でしょうが、私から見れば、抵触も抵触どころか国家のガバメントのド真ん中問題です。
本来我々が今しなければならない話題は、山上被告が世に出なかった場合、半ば統一協会による乗っ取りの成功していた与党自民党のガバメントはいつどの地点まで正常でいられたのかという事。
仮に自浄作用があるのならば、自浄作用はどのようなプロセスになっていたのかという事。
仮に国家のガバメントが正常で居られないまま、日本が軍事独裁政権に進みそうだった場合、自衛隊は政治家を排除し、かつてのトルコクーデターを再現出来たのか、政治家の排除の決定はどの瞬間に行うべきなのかということです。
それら未来にあったであろう日本の国家レベルの憂いを山上被告が解決してしまった。
真の保守層が山上被告を絶賛するのは当然と言えましょう。
そして、自民党の連中は、どの面下げて被害者に顔向けしているのかという点も大きいかもしれません。
本来は、それだけの事を考えなければならないレベルの国家のガバメント問題があったのです。
仮に国家のガバメント問題ではないとするなら、何故自民党は統一協会のパージを進めるのでしょうか?
統一協会側からも問われるパージ何故何故問題は、話題の国分太一さん問題と似ています。
何故統一協会をパージするのか、何となく心当たりはあるが、その理由だけでも説明してくれ。
自民党は統一協会から問われますが、完全な自爆となってしまうため、無視を決め込んでいます。
自身らが起こした国家レベルのガバメント問題から顔を背けるために、とにかく安倍晋三銃撃事件を政治テロという事にしたい。
何故なら、テロなら自分たちは悪くない、説明もせずに済む、という事に出来るから。
山上被告の犯行を与党の立場でテロだと議員が言い張る現状は、国民の無知に付け込んだ清々しいまでの悪行と言えます。
マスメディアは自民党の命令に屈しました。
だから、山上被告の犯行をテロだと決めつけているのです。
一方で日本の司法は、自民党の私利私欲的から来る一方的なニーズにどう答えるのでしょうか。
>テロリズとは政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いることを言う
もし同事件が政治的な目的を伴っていなく、テロなどではないと司法に断定された時、その時、自民党関係者は、あれはテロではなかったと謝罪出来るのでしょうか?
自民党自身は山上被告によって半ば成された自浄から、更に前に進む事が出来るのかという問いの答えの全てがここで出ます。
謝罪出来る訳がない。
感謝どころか謝罪も出来ない。
明確に司法からテロが否定された後でも、彼らは山上被告の人権を無視し、とにかくテロだったと全ての力を使い連呼し続けるでしょう。
テロでなければ、自分たちの行いこそが諸悪の根源だという事になってしまうからです。
個人の人権も考えられなく、人権の侵犯について謝罪も出来ないなら、議員など辞めてしまえ。
私は断言してしまいます。
山上徹也、君は良くやった。
抵抗権と法制が、国家のガバメントレベルで競合する時、そして図らずも市民の犯罪で国家のガバメント問題が解消してしまった時、国家は、そして市民は、必然的に起きてしまう犯罪に対し、どのように判断すれば良いのだろうか。
私はよく権力の暴走に対しては、必ずしも法の原理原則を持ち出さなくて良いと指摘しています。
例えば法の不遡及。
法の不遡及は、権力の暴走を抑止するための目的であって、権力の暴走を助長する目的に使われてはならない。
アイスランドは金融危機の際、国民投票の決める遡及法によって、不正に関わった国家の中枢に罰を与えました。
一方で日本の、日本人の認識はどうでしょうか?
不遡及は、法の原理原則だから、権力側が責任を取らないで済む事を良いことに、仮に権力が暴走しても遡及法は適用せず、法の不遡及が権力の暴走を助長しても良いのだと思ってはいないでしょうか?
推定無罪。
本来推定無罪は、暴力装置を独占する国家が個人に対して証拠もないのに有罪と決めつけてはならないとする物です。
この推定無罪を、強力な暴力装置を独占する国家権力に厳密に適用すれば、国家は無謬であり続けようとして暴走してしまう。
これらの法の原理原則を国家に適用しようとする限界は、立ち止まり、少し考えるだけで解る議題です。
山上被告の裁判で、我々が問われているのは、いったい何でしょうか。
私は裁判の終わった後で、自民党議員が開き治る事によって、日本という国家の持つ限界が露呈してしまう気がするのです。
自民党側が国家のガバメント問題レベルで、手続きを破った以上、無罪は無理であれ、自民党が統一協会を利用し、破滅させた家族の数だけくらいは減免にするしかないのではないか。
本来単純な構図であるハズなのに、政治家の私利私欲からくる欺瞞に乗せられてしまっている市民を見ると、戦後の国民主権は正にひっくり返る寸前のように思うのです。




