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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

戦争に行った人の話

祖父の背中 ーシベリア帰還兵の戦後ー

 大正生まれの祖父は、青い空を背景にノウゼンカズラのオレンジ色が映える暑い日に、亡くなった。

 平成になって数年が経っていた。


 祖父はシベリア帰還兵で、私にとっては優しい人だった。

 一度だけ怒られたことがあったが、それは外階段の雪を溶かそうとして、水をかけようとした時だったので、とっさの注意に近いものだった。

 怒鳴ることはないけれど、にぎやかなことが好きな人だった。



 ***


 祖父は農家の三男坊で、召集される前は、県外に出て働いていた。

 跡継ぎの長男以外は、外に出されるのが農家の常だった。


 一枚の写真がある。

 そこには体格のいい羽織袴を着た丸坊主の男を囲んで、たくさんの人たちが祝い事として集まって写っている。

 茅葺き屋根の真ん中ほどにまで届く高さの幟旗がいくつも掲げられていて、そこには「祝 入営」の文字。その下には墨痕鮮やかに、祖父の名前が大きく書かれている。

 おそらく、勤め先で祝われたのだろう。何人かの人が着用している法被の襟の部分には、店の名前が書かれており、集合写真に華を持たせるかのように、自動車が配置されている。

 祝い事ではあるけれど、当時としては日常化したものであったのか、全体的に気負った雰囲気もなく、当たり前のように送り出しているように見える。

 体格の良い祖父は、二十歳になって、ごく普通に徴兵検査に合格し、ごく普通に兵隊さんになったのだった。


 ちなみに、百五十センチ以下の男子は兵隊さんになれなかった。健康であり、誰よりも働きものであっても、認められなかった。

 軍国主義の日本の村社会で、それは成人男子としての尊厳を傷つけるには充分だった。もう一人の私の祖父は、身長が足りず、兵隊さんになれなかった人で、戦地に向かった祖父とはまた違った苦痛を抱えて戦後を生きたが、今回は触れずにおく。

 ただ、誰よりも働き者で、人を笑わせることに努めていた、尊敬できる人であったことは、ここに述べておく。



 さて、兵隊になった方の祖父は、大陸に行ったと思われる。

 思われるとしか書けないのは、誰も知らないからだ。

 生前に分かっていたのは、あの八月に朝鮮半島にいたこと。そして、シベリアに抑留されたことだけだった。


 祖父はシベリアから日本に帰還した後、農家の婿養子に入り、働いて、子どもを作り、孫と晩年を過ごした。


 生前、祖父は祝い事や宴会の席があると、歌って踊っていた。残念ながら、証拠の写真が大量にある。

 小さな白黒写真から、L判サイズのカラー写真まで、多種多様な宴会芸をしている祖父が写っている。

 一例として、安来節をしているものを見てみよう。昭和三十〜四十年代だろうか。その頃は頭にかぶった手ぬぐいの端を捻り合わせて、鼻に当てている。

 次にカラー写真になっているどこぞの旅館の宴会場では、安来節をしている祖父は、浴衣姿で手ぬぐいをかぶっている。しかし、その鼻には紐を通した五円玉がきちんと穴のあたりに当たるようにして装着されていて、祖父が宴会芸の道をたゆまず精進し、進化させていたことが分かる。



 他にも風呂敷を身にまとって、花売り娘みたいな格好をしては口を開けて踊っていたり、ドテラを袴に見えるように巻きつつ、禿頭にねじり鉢巻をしてカラオケをしていたりと、本当に枚挙に暇がない。ある写真では、鼻メガネをかけた近所の若かりし頃のじいさんと肩を組んで、ご機嫌に酔っ払っていた。鼻メガネをかけて笑っている人を初めて見て衝撃を受けたので、蛇足ながらここに書いておく。


 ちなみに、娯楽のない戦地や船の移動中、ならびにシベリアでの抑留生活では、こういった芸は大変もてはやされたらしいと、一応それらしい理由をつけておくが、晩年に至るまでこんなんだったのは、単に祖父の嗜好もあると認めざるを得ない。

 孫としては面白いの一言に尽きるが、父親であったら嫌だなと思う。幼かった私は祖父の宴会芸を見た記憶は特にないので残念ではある。


 酒が好きで、いつも片手に煙草を燻らせ、農作業に勤しみ、時々出稼ぎをしていた祖父は、とても道具を大事にしていた。

 手先が器用だったこともあるが、とにかく物を大事に使う人だった。

 職人とは違う道具の手入れと管理の良さで、これは一体何故なのだろうと、奇妙な違和感をずっと私は抱えていた。それが、圧倒的な物不足のシベリア抑留生活が長いゆえだったと私が理解したのは、近年のことだった。

 有り合わせのもので、必要なものを作る。

 それを作るために必要な道具は、きっちりと手入れをして保管する。

 命のかかった生活で身につけたものだったのだと、戦争関連の書籍やテレビ番組を見て、記憶に残る祖父の姿と照らし合わせて、ようやくに理解した。


 記憶に残る祖父の姿は、友達の祖父たちとは違う何かがあった。はっきりとは言葉にできないが、背中が違っていたように思う。年寄りだったので、それなりに曲がっていたが、幼稚園のバスの停留所に向かう祖父の背中は、何か筋が通っていたように思う。五歳児の記憶だから、何が引っかかったのかは分からないが、その違和感が子どもながらに私の中に残り、長い年月をかけて、少しずつ消化する羽目に陥っている。


 祖父は、なんの金にも名誉にもならない、誰かがやらなければならないけれど、とにかく面倒な役職ばかりを引き受けていたように思う。

 その役職への感謝状が大量に残っていた。逆に言うと、その賞状以外は特に報酬がないとも言える。

 それを祖母は苦々しく思っていたようだが、祖父はなんだかんだとやっていたようだ。土地が絡む話の仲介役など、朝早くから怒鳴り込むようにして近所のおじさんたちが来ていたらしい。農家のおじさんたちの声は普通でも大きいので、どこまで脚色された話だかわからないが、早朝から来ていたというのは本当だろう。それだけ面倒くさい役割をやっていたのは間違いない。


 そんな祖父が病にかかり、晩年になって入院した。

 その時分かったことが、マラリアにかかっていたことだった。

 終戦時に朝鮮半島にいたことしか知らなかった父たちは驚いた。もっと南の戦地に行っていたのだろうか? それすらも祖父は話したことがなかった。

 私が成人してから父に聞いた話によると、一度除隊になり、そのまま帰国しても居場所がない農家の三男坊は、朝鮮半島(当時の満州)でうろうろしていたところ、再招集されたのではないかということだった。

 結局、祖父は最初の出征に関することは一言も言わないままに亡くなった。

 シベリア抑留生活については、「正午までまっすぐに歩いて種を蒔いて、そのまま折り返してまた種を蒔いて帰った。あの国は広いところだった」などと、無難なことは話していたので、最初の出征については、言えないことがあったのだろうと推測している。それこそ文字通りに墓まで持っていくことだったのだろう。

 正直、孫としてはあまり突き詰めて考えたくはないが、当時の戦争に関する書籍を読んだ後は、うっすらとそれなりの推論を幾つも抱えることにはなった。


 ただ、答えはもうどこにもない。


 そして、それは私だけではなく、今、令和を生きている人たちの祖父や曽祖父など、たどれる先を持つ人すべてに言えることだと思う。


 さて、タイトルにある通りの祖父の戦後が分かったのは、亡くなった後に集めた戸籍謄本を見てからだった。

 何度も言うが、祖父は農家の三男坊で、跡継ぎではない。どこか他所へ行って、生計を立てなければならない。

 しかし、シベリア抑留を経て、帰還した祖父はそのまま実家に居座っていたようだ。そして、比較的近いところに住む女性の婿になる結婚をした。

 この時点で私が疑ったのは、シベリア抑留生活での心の負傷が大きく、外に働きに出ることができなかったのか、もしくは、大量の復員兵の帰国による職の不足で無職だったのかの二つだった。

 しかし、兵隊になれなかったもう一人の祖父は、戦時下に奈良県の軍需工場に従事していたが、戦後は上京してだるまストーブを鋳造する仕事についていたらしい。その後結婚のために帰郷したが、終戦後は県外で働いていたのだ。

 ということは、シベリアから帰った祖父は、近場で婿入りを探すくらいには不安定な状態だったのではないだろうか。

 戸籍に異動がないだけで、どこかに就職していたのではないかという可能性もあるのではと、読んでいる方は思うかもしれない。

 だが、祖父はこの後一年も経たない内に離婚されており、行き場に困った三十過ぎの祖父の身柄を祖母の婿として斡旋してきたのが祖父の友人なのだ。

 つまり、シベリア帰りの祖父に残された唯一の身の処し方は、結婚して農家の婿に入ることだったのだ。

 生きるためには、ごちゃごちゃ言わずに労働力の必要な家の婿に入って、馬車馬のように働く。そうしなければ、居場所がないのだ。いつまでも兄夫婦のいるところにいるわけにもいかない。国のためにと兵隊になり、戦地に赴き、シベリアに抑留され、命からがら帰国し、実家に戻るが身の置き所がない。しかも、一度除隊した後に再招集されてシベリアに抑留されて帰ってきていたので、若くもない。それがシベリアから帰った祖父の現実だった。


 そもそも、父たちも祖父が初婚ではなかったと知ったのも、相続の手続きで戸籍謄本を見た時だったらしい。

 祖父が生前話していたこととその事実を繋ぎ合わせると、婿になって籍を入れて家を建てて、その家が出来上がった後に離婚したようだった。つまり祖父は家を建てるためだけに結婚したのではと思ってしまう話なのだが、実際、祖父と別れた相手の方はすぐに別の男性と再婚して、すぐに子を成していた。

 計算してみた結果、初婚の相手の子は、祖父の子には当てはまりようがなかったので、父たちはかなり大きな安堵の息を吐いたことと想像する。

 戦前に大陸の方にいた身であれば、残留孤児の父親である可能性もある。何かの折りに、生前の祖父はそこについては否定していたので、その言葉を信じてはいるのだが。


 そうしてなんとか祖母と結婚して婿に入ったのだが、無情なことに婚姻届の出された日は、長子である父の出生届と同日だった。

 父が生まれなければ祖父はなんだか分からない存在のまま、婚家から追い出されていたのだろうかと、祖父について語り合っていた叔父と私は、酒を飲みながら震えたのだった。


 言葉は悪いが、ほぼ家畜のように婚家に扱われていたシベリア帰還兵の祖父だが、それなりに適応していたようだ。

 祖父が生前言っていたそうだが、「兵隊になったら、料理ができなくともできるといえば、調理方に配属されて食べ物に困ることにはならない」らしい。

 それは祖父の実体験によるのか、「今まで食べるものには困らなかった」と本人は言っていたらしい。あくまでも死なない程度ということだとは思うが、そのぎりぎりのラインを守ることができたからこそ、口にしていたのだろう。

 その祖父の経験からできていたのではないかと思うのが、料理の采配だった。

 自宅で冠婚葬祭をしていた昭和の頃、大人数の料理を用意するための采配を祖父はよく担当していたらしい。実際に資格のある人を表に出しつつも、現場の指揮を取るということを何度もやっていたようだ。

 祖父の手料理の腕は謎だが、冬になると川からとってきたドジョウをホロホロになるまで煮込んで食べる酒の肴は美味しかった記憶はある。


 それと、戦後すぐの頃に婿に入った場合、婚家で酒を呑むことは御法度だったそうだが、祖父は普通に毎日飲んでいた。出稼ぎの時にメモしていたノートにも、はっきりと日本酒の購入履歴は残っていた。

 単に祖父が酒好きだったというだけかもしれないが、残されている宴会芸に勤しむ祖父の大量の写真を見ていると、それなりに早く、婿に入った先の地元に溶け込んでいたのではないかと思うのである。


 金にもならない役職をいくつも引き受けていたのも、婿入り先での生活に馴染んでいた結果なのだろう。


 それと、集団生活であり、人と人との繋がりが重要になる兵隊生活と抑留生活で、祖父はそれなりに信頼できる人間関係を保てていたからなのではないかと私は考えている。

 食糧も物資も足りない生活がいつ終わるとも分からないまま生きていく時、生命線を握っているのは周りの人間たちとの信頼関係だと思う。互いに助け合うことで精神的に最後の一線を越えずに、帰国することができた復員兵たちの体験談は多い。

 祖父も上司に恵まれていたことはあったようで、初めての我が子の名前には、その世話になった上司の名前を使っていると、名前をつけられた父本人から聞いている。


 祖父は、人との繋がりによって生きて帰ってきた。そして、人との繋がりをもって、戦後を生きていったのだ。


 酒の力を借りていたという可能性もあるけれど、そこは兵隊あがりだからということで誤魔化しておこう。


 最後に、大人になってから理解した祖父の背中の話をして終わりたいと思う。


 その日、私はとにかく暇だった。

 学校は休みで、外に出られる天気だというのに、遊びに出かけてもいけない。

 つまらない、つまらないと、ブラウン管のテレビをじっと見つめて座っている祖父の背中を寝っ転がって足蹴にしていた。

 骨ばってはいるが、農作業をしている祖父の背中には筋肉があり、少し強めに蹴り続けた。

 いつもなら、そこまでやれば祖父が反応して、私の相手をしてくれるはずなのだが、その日は全く振り返ってくれなかった。

 姿勢を変えず、じっとテレビ画面に顔を向けたままの祖父の背中に、いつもと違う雰囲気を感じて、私は蹴るのをやめた。

 静止画のように同じ風景ばかりを映しているテレビ画面には、石で作られた橋とレトロな洋燈がぽつんと立っていた。

 カラーテレビのはずなのに、モノクロ画面を見ているような印象を受けた。

 その日は、昭和天皇の葬儀の日だった。

 大人になってからこの日の祖父の背中を思い出し、学校が休みだった理由も遊びに出かけてはいけない理由も理解した。

 祖父がその時、何を考えていたのかは分からない。

 戦争で死んだ人間には遺族金が支払われ、生きてシベリアから帰ってきた祖父には、内閣総理大臣の名が書かれた賞状と銀杯ひとつ、それと支払われるあてのないルーブル単位の金を示す一枚の紙が送られてきただけだった。


 大正に生まれた祖父の中にあるものはすべて昭和の時代。

 その昭和を表す天皇の死。


 この世にある全ての本を読んでも、映像を見尽くしても、この時の祖父の心中を知ることは出来ない。

 それは私の想像の域を越える。


 祖父の背中は、戦争と抑留と戦後を経てできたものだった。

 私はそこに違和感と共に、尊敬と畏怖を抱いている。同じ背中を持ちたいとは思わないけれど、忘れることは決してないと確信している。


 今年もノウゼンカズラの花は咲き誇り、夏の青空の下、私は祖父に手を合わせた。








関連作品


『シベリア抑留兵の祖父を想う』

https://ncode.syosetu.com/n9516ia/


『戦争に行った山彦おじさんの日章旗』

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[良い点]  戦争の記憶がどんどん風化していく昨今、お爺様の戦争の記憶、影が丁寧に描かれおり、とても勉強になりました。近年の有り様は目を背けてはいけないことなのに背けている事が多いように感じます。過ち…
[一言] 私の母方の祖父は特攻隊員でした。 最後の招集組で、訓練中に終戦を迎え帰還しました。 小学生の時、夏休みの宿題で祖父母の戦争体験を作文に書くというのが出されましたが、父方の祖父母は軍需工場で…
[一言] 人とのつながりの中で生きるとは、これまた心に残るお言葉でした。 確かにその通りだと思いました。 苦しみの中に身を置いた時に、最後に救いを差し伸べてくれるのは神でも仏でもなく、一緒にいる仲間な…
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