煌めく涙は女友達のダイヤモンド
『クラウン・アソシアプラザホテル』のロビーラウンジ『ヴィヴァーチェ』内で
「元気そうで良かった」
と、真南に言われた円華は柔らかい笑みを零した。
「昔から元気だけが取り柄よ」
「円華はすっかり既婚者よね。幸せママっていう感じ」
「真南は私と真逆でバリキャリよね。そのグレーのワイドパンツスーツ、クールで素敵!」
二人はソファ席に座って話している。
緩く巻いたロングの巻き髪を後ろで一つに括っている真南はエスプレッソにザッハトルテ。一方、ストレートのショートボブの黒髪を軽く耳にかけながら、円華は温かいお紅茶と季節のショートケーキをオーダーした。
「今日、紗樹ちゃんはどうしてるの? まだ小さいんでしょう?」
「ええ、やっと四つになったばかり。今日は紗樹は功志が見ていてくれているわ。たまには一人の時間を満喫しておいで、て功志が」
「相変わらず優しいのね、功志さん。円華は幸せね」
真南が言った。
「真南は立派な一流の仕事を持ってて、完全に勝ち組じゃない。真南こそ選ばれた人間で羨ましいわ」
円華が言う。
「あら、冗談でしょう? 円華、幸せいっぱいって顔しちゃって」
二人はお互いの顔を見つめ、笑った。
「仕事はどう?」
円華が問うた。
「とにかくやり甲斐がある。去年の人事で業務部に異動になったの。憧れの部署で、大手の顧客相手に取引に携わっているの。忙しいけど、毎日『生きてる』っていう実感があるわ」
「さすがね! 真南は。私なんか仕事は中途半端なまま、たった三年で寿退社でしょ。何の為に大学出たんだか。私はお気楽な専業主婦しかできそうになくって」
「でも、功志さんと紗樹ちゃん、元気にしてるのよね?」
「ええ、おかげさまで」
円華は、運ばれてきたティーカップにミルクを注ぎ、そっとかき混ぜると、カップを口元に運びながらそう答えた。
レディグレイ独特の強い香りが、真南の席にも漂ってくる。ザッハトルテを一口食べると、再び真南が問うた。
「子育ても大変なんじゃない?」
「そりゃあもう。大変なんてものじゃないわ。紗樹は女の子なのにそこらじゅう走り回って、擦り傷だらけ。一時も目が離せないのよ。でも、確かに幸せ。我が娘がこんなに可愛いなんて、紗樹が生まれてきてくれるまでは想像できなかったわ。……私、紗樹と功志のいない日常なんて、考えられない」
そう呟いた円華に
「今度またゆっくり二人で旅行でもしない? そうね、韓国なんかいいわね。海外て言っても近いし、食事やエステがすごく安いのよ。そんなにお金をかけずにリュクスな気分を味わえるわよ」
と、真南が言う。
「韓国ってそういう所だったの?」
「そうなのよ。私が穴場を案内してあげる。久しぶりに円華と一緒に遊びたいわ」
「いいわね。私も」
二人はまた顔を寄せ合い、笑った。
***
『大和物産』業務部にて。
「大門本部長。野村商事の件、例の企画書です」
「ご苦労」
デスクに座ったまま大門は、書類に目を通した。
「うむ。よく出来ている。この調子でなんとしてもこの件、円滑に進めてくれたまえ」
「承知しております」
「よろしく頼む」
大門は企画書をデスクの上に置くと、真南に言った。
「君には期待しているよ」
「ありがとうございます」
そう言うと、真南は大門に一礼した。
大和物産に女性総合職として入社した真南は、若手エリートの花形部署『業務部』に配属されて二年目。
残業も休日出勤もこなす毎日に、三十歳の誕生日を過ぎた最近、疲れも覚えるが、それ以上にやり甲斐を感じている。
去年から任された野村商事との営業取引の仕事をうまくさばきかけている今は、何とも言えない充足感がある。それは、入社して以来の努力と忍耐が報われる何にも代え難い貴重な瞬間。
そして、いずれゆくゆくは自分も女性管理職へという思いもある。
何にせよここ大和物産で今後も定年退職まで働き続ける覚悟だ。
でも。
真南は思わず知らず溜息をついていた。
原因はわかっている。
先日、街で偶然円華と再会したからだ。
円華だとわかった時、真南は彼女の笑顔に釘づけになっていた。
紺のワンピース姿の彼女は、大学時代よりもふくよかで、それは愛する人の妻であり、娘の母親である幸せに包まれている何よりの証拠のようだった。
円華は真南の知らない世界で、未だ真南が手にしていない、この先も手にするのかどうかわからない幸福を享受しているように真南には思えた。
真南には、円華がなんだか羨ましかった。
***
深夜十一時三十分過ぎ。
円華はダイニングテーブルで、家計簿をつけていた。
その手をふと止め、冷めてしまった紅茶を啜りながらぼんやりと円華は思う。
優しくて真面目で自分と相性もいい功志とは、間違いなく結婚して正解だったと思うし、自分のお腹を痛めて産んだ我が子・紗樹は何より可愛く愛おしい存在だ。
それは嘘偽りない。
でも。
結婚前は、もっと『結婚生活』というものに夢や憧れを抱いていた。
毎日、のんびりと趣味の音楽を聴きながら編物を編んで、一戸建ての庭では家庭菜園。取り立ての新鮮な野菜を毎日の食卓に乗せ、好きな料理を作る。学生時代から打ち込んでいるテニスと英会話のレッスンにも通い、そして、結婚記念日には夫婦水入らずで功志と二人、独身時代のような贅沢なディナーを……。
漠然とそんな生活を思い描いていた。
しかし。
そんな生活はしょせん幻想に過ぎないということに気付くのに、そう時間はかからなかった。
現実は、どんなに遅く寝た晩でも毎朝必ず五時起きで、功志と紗樹の朝食とお弁当を作らなければいけない。慌ただしく功志を送り出し、紗樹を幼稚園に連れて行く。ゴミ出し、洗濯、掃除に、他にも家事はやり始めたら、それこそ際限がない。
お昼を朝食の残りのありあわせで簡単に済ませ、やっと珈琲で一息ついていると、もう紗樹のお迎えの時間になる。紗樹を連れて買い物から帰ったら、休む間もなく夕食の支度だ。功志は大抵帰宅が遅いから、紗樹と二人だけの夕食をとると、また汚れた食器を洗う。
それから、紗樹と一緒に入るお風呂。紗樹はお風呂が苦手で、怖がらないよう丁寧に髪や体を洗ってやらねばならず、ゆっくり湯船に浸かる暇もない。紗樹をパジャマに着替えさせたら、絵本の読み聞かせ。
紗樹をようやく寝かしつけると、その日の家計簿付けが待っている。
そうして、あっという間に一日が終わる。
それが、『妻』であり『母親』である円華の日常。
それは、まるで『幸福』とルビを振った『平凡』。
円華は深い溜息をつく。
私は本当に幸せなの?
そんな疑問を抱くようになったのは、先日、街で偶然真南と再会してからだ。
真南は円華の親友。高校時代、二年間クラスが同じだった真南とは目映い青春のひとときを共にした。
とはいえ、紗樹が生まれてからは日常の多忙さにかまけLINEもほとんどせず、逢わない月日が流れていた。
真南と逢うのは、紗樹が生まれて間もない頃、出産祝いに真南が駆けつけて来てくれた時以来だから、約四年ぶりになる。
あの日、ホテルのショーウインドゥ前でばったりと真南と出くわすなんていう偶然がなければ、未だお互い年賀状以外の近況など知らずにいただろう。
円華と正反対のタイプの真南は今でも独身で、バリキャリらしく垢抜けていた。痩せた頬をして彫りの深いくっきりとした美しい顔を持つ真南は、あのホテルのラウンジの中でも間違いなく誰より一番輝いていた。
円華には、真南がなんだか羨ましかった。
***
「真南!」
「円華」
声をかけられて真南が振り返ると、紗樹をつれた円華が立っていた。
まさかまた、よりにもよってこんな所で会うなんて……。
真南は自分の不運を呪った。
とあるレディースクリニックから出てくるところを円華に見られたのだ。
「円華……ひょっとしておめでた?」
「うん、ようやく二人目」
円華は、ベージュのマタニティワンピースの上からふっくらとしたお腹に手を当て、それは嬉しそうに笑った。
「真南こそまさかおめでた?」
「私は……」
言えない。こんなに幸せそうな妊婦の円華を目の当たりにして。
避妊薬をもらいに来ているなんて。
でも、今、妊娠するわけにはいかない。
恋人がいるからこそ今、判断を誤るわけにはいかないのだ。少なくとも野村商事との取引が完全に起動に乗るまでは。自分は大和でキャリアを積んで、仕事を続けていくのだから。
「ねえ、円華。この前言ってた韓国旅行、一緒に行かない?」
「え、ええ。でも……」
行けるわけがない。まだ幼い紗樹がいて、二番目の子が生まれるというのに、どこにそんな時間や経済的余裕があるというのか。
円華は思案に暮れた。
微妙な空気が流れる。
「ごめん。今、身籠もってるし、産まれたら産まれたで、時間もお金も全くないから」
結局、円華は白旗をあげた。
「私、真南には敵わないわ……」
ぽつりと呟いた円華に真南が言った。
「……円華」
「何?」
「ごめん」
「ごめんて、何が?」
「韓国旅行だなんて無理なこと言って。小さい紗樹ちゃんがいて、二人目のママになる円華がそんな簡単に海外旅行なんか行けるはずがないことわかってるのに……ごめんね」
途切れそうな程、か細い声で真南は続けた。
「私こそ円華の幸せには敵わない。いかにも仕事が楽しくて仕方ないバリキャリですみたいなこと言って粋がってるけど本当は、円華のこと羨ましかった。結婚・出産して私とは違う人生を歩んでいる円華の笑顔が、あんまり輝いているから……」
円華はゆっくり息を一息吸うと口を開いた。
「真南……。私も精一杯、幸せな演技してるの。家でただくすぶってるだけの私には、社会の第一線で活躍している真南に誇れるものなんて何一つなくて」
「円華……」
二人は暫し、言葉をなくしていた。
しかし、真南が口を開く。
「ねえ。今度本当に、韓国旅行なんかじゃなくって、学生時代によく行ったカフェ『シエルア』覚えてる? あそこにお茶飲みに行かない? 今度こそ本音で語り合いたいわ」
「ええ、ええ……」
その時。
「ママー。なんで泣いてるの?」
円華の手を握っていた紗樹が不思議そうに言った。
円華の頬をひと筋、大粒の涙が光って落ちたのだ。
それは、煌めくダイヤモンドよりも更に硬い、女同士の友情の絆の証だったのかもしれない。