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十年後

作者: 穹向 水透

56作目です。この作品は連載作品『黄昏を歩いている』のスピンオフ的立ち位置の作品です。



 私の身体は十八歳になった。高校を卒業して、ある私立大学の医学部に入学した。でも、もう中退した。半年の大学生生活だった。

 私の両親は今年の六月、冷たい雨の降る夜にこの世からいなくなった。私は学費の支払いに困窮した。親戚は両親の葬式まで私が顔も名前も知らないほどに疎遠だったので、学費の負担なんて頼めそうにもなかった。今は適当なアルバイトで食い繋いでいる。

 両親はよくある事故で死んだ。車の操作を誤って、ガードレールに衝突した。父は首の骨を折って即死し、母は頭を強く打ったことが原因で死んだそうだ。単なる自損事故だった。何処でも、いつでも起き得る、普通の事故だった。私は命の呆気なさを思い知った。普通に声を発し、動き、温度を持っていたのに、一瞬にしていなくなった。私が医学部を辞めたのは学費の問題だけじゃなく、命に対する価値観が揺れ動いたことだって大きな理由だ。命の貴さが麻痺したのかもしれない。

 そんな私は今日、アルバイトを休んで、電車を乗り継いで、この海辺の町を訪れた。この町には両親と二年前に病死した姉が眠っている。そして、その姉の命日が今日なのだ。

 私は隣町の駅で電車を降りた。駅の売店で昼ごはん代わりにスナック菓子とお茶を買って、バスに乗った。私は運転席に近い席に座った。バスは乗客がそれなりにいたが、みんな一様に浮かれているようだった。小学生らしき子供がゴーグルを頭にして、西瓜を模したボールを持っていた。

 海水浴か。

 私はそう理解した。そうか、もう八月か、と今更なことを考える。私の日捲りカレンダーはどうにも停滞しがちらしい。特に大学を辞めてから顕著で、曜日感覚なんて死に絶えた。姉の命日のことをどう憶えていたのか、それは私にもよくわからない。

 バスが停車したけれど、降りる客はいなかった。海水浴場前は次なので、乗っている客の殆どが海水浴客だとわかった。

 新たに乗って来たお婆さんが私の横に座った。

「今年もたくさん来ているのね」

 お婆さんがしみじみとそう言った。

「私は、誰かが溺れてしまわないかといつも心配に思うのよ」

「何故です?」

「そりゃあ……溺れ死ぬのは辛いだろうからねぇ。どうせ死ぬにしても安らかに布団の上で逝きたいものさね」

「それもそうですね。私も溺れて死にたくはありません」

 私はスナック菓子の蓋を開けて、棒状のそれを口に入れた。サクサクと軽快な音がした。赤いパッケージだからチーズ味だったと思う。

 バスは海沿いを走った。窓の向こうに海水浴を楽しむ人々がカラフルに見えた。みんなそれぞれパラソルを立てて、海へ向かう。誰も残っていないところもあるが、盗難を危惧してはいないのだろうか。

 バス停があるのは海の家の傍で、開いている窓から焼きそばか何かを焼いている匂いが入り込んできた。これもまた夏らしい匂いと言ってもいいのではないだろうか。乗客が一斉に降り始めて、私も興味本位で降りてみることにした。

「気をつけて泳ぐのよ」

 お婆さんがにこやかな顔でそう言った。私は頷いてバスを降りた。

 烈しい太陽光と優しげな潮風が私の身体に触れた。砂浜を歩いて後悔したのは、スニーカーで来たことだ。思ったよりも砂が入るようだ。私は記念に一度と汀に寄り、海の水と戯れた。結構冷たいんだな、と感じた。

 海岸を少し散歩していると、浮き輪を持って駆けていく子、波のギリギリ来ない場所で砂の城を作っている親子、浅瀬でボールを使って遊んでいる大学生くらいのグループなど、色々な人が観察できた。こういうのも意外と楽しいものなんだと私は知った。

「ねぇ、そこのお姉さん」

 不意に声を掛けられて振り返ると、ひょろひょろの青年が立っていた。彼は金髪だったが、あまりにも不似合いで、罰ゲームか何かでそうしたのかと思ったほどだ。全体的に覇気がなくて、恐らく、今も軟派を試みているのだろうが、それすらも罰ゲームに見える。

「時間空いてる? 僕らさ、今からバーベキューするんだけど、お姉さんも一緒に来ない? 他にも女の子いるし……」

 彼は早口でそう言った。

「ごめんね、私、もうお昼は済ませたから」

「えっと……」

「他を当たってね」

 私がそう言うと、青年は何処かへ行ってしまった。素直に引き下がってくれたのはありがたかった。単純に手持ちのカードが尽きただけだったのかもしれないが。

 バス停に戻る前に海の家に寄った。ログハウス風の洒落た内装で、如何にも夏といった感じを醸し出す店員が暑そうにトウモロコシを焼いていた。私はレジにいた明るい茶髪の店員にソフトクリームを注文した。

「今年も盛況ですか?」

「ぼちぼちっすねー。去年もここでバイトしてましたけど、雨降りが多かったから客は少なかったっすね。それと比べるなら多いかなって」

「そうなんだ」

「お姉さんは、この辺の人?」

「昔、隣の町に住んでたの」

「そうなんですねー。おれ、あっちって何があるのか知らないなぁ。お姉さんは何があるか知ってるの?」

「実は私も知らないの」

 私がソフトクリームを受け取って外に出ると、ちょうど、さっきの青年とその仲間が歩いているのが見えた。彼のようなひょろひょろ、或いは彼とは逆の肥満体が五人。金髪なのは彼だけだった。彼は私に気付いたようだったが、眼を逸らして、仲間とともに海の家に入ってしまった。

 私はバス停でソフトクリームを舐めながらバスの到着を待った。バニラの風味が口の中で広がると、不思議と太陽の熱も緩和されるように思えた。ただ、じっくり味わっている暇はない。ソフトクリームが溶け出して、手がベトベトになるのは避けないといけない。

 バスが来る三分前にコーンの先端を口に入れた。手はサラサラのままでいられた。私はバスに乗り込み、また運転席に近い席に座った。窓が開いていて、バスが動き出すと熱を孕んだ風が入り込んできた。その風がバスのクーラーと溶け合って不思議な心地好さを作り出した。

 これが夏か。

 そんなことを思った。

 海水浴場を離れると人をめっきり見かけなくなり、町外れの交差点を過ぎて、緩やかな坂を下ると観光客らしき人は誰もいなくなった。

 思えば、バスの乗客も殆どいない。私と五十代くらいの男性だけがいて、男性は窓の向こうで雄大に広がる海原、或いは同様に縫い目のない青空を眺めている。彼の雰囲気は観光客のそれではなく、何か遠くに想いを馳せる巡礼者のように見えた。

 バスは海沿いの一本道を走る。左には海と空があり、右には住宅と山、そして、病院が見える。今も昔も静かだ。

 私は海側の席に移動し、彼と同じように景色を眺めた。砂浜にはパラソルのひとつも見えず、波が押し寄せて砕ける瞬間を遮りはしない。この町には海水浴客が来ない。昔からのことだ。理由はわからない。少なくとも私は聞いたことがなかった。

 砂浜が終わり、コンクリートで舗装されると、船着き場が現れる。そこには五艘の船が浮かんでいて、その傍で漁師らしきふたりが煙草を吸っていた。その上を鳥が飛んでいる。窓に流れ込んでくる風に乗って、その鳥の、海猫の啼く声が届く。ここらには海猫がたくさん棲んでいる。だから、さっき通り過ぎた病院の名前は「海猫病院」だったりする。

 船着き場を過ぎて、坂を上ると、漸く目的地だ。私は鞄の中から財布を取り出して小銭を探す。バスが止まって、私は運賃を支払って降りた。クーラーによる行き過ぎた冷却空間と夏の世界の境界線を越える時のむず痒い感覚。私の足はコンクリートの大地に立った。

「……思ったよりも暑くないかも」

 ここは風がよく通るので、八月の暑さも大したことはない。

「……ありがとうございました」

 後ろでそう声が聞こえて振り返ってみると、さっきの男性が降りてくるところだった。彼は花束を持っていた。それは百合のようで、セーラー服の少女のように思えるほどに清らかな白だった。私が彼とその花を見ていると、彼は「あなたもお墓参りですか?」と私に訊ねた。

「あ、はい。お墓参りです。今日が命日なんです」

「そうですか。よく晴れたいい日ですね。やはり、晴れていた方が誰にとっても嬉しいものですから」

 私は空を見上げる。大きめの影が空を旋回していた。

「そうですね。私も来てもらうなら晴れの方がいいかも……」

「私もです」

 彼は優しく微笑んだ。

 彼は「深海(ふかみ)」と名乗ったので、私も名前を言った。

 私たちが今いるのは青風寺(しょうふうじ)という場所である。青風寺は海沿いの高台にあるので、遥か遠くの水平線まで遮るものはなく、景観が悠々と美しく広がっている。

「相変わらず、素晴らしい景色だ。このようなところで眠れるなんて羨ましいものだと思うよ」

 彼は歩きながらそう言った。

 桶に水を組んだら、深海がそれを持つと言った。お礼を言うと彼は「こういうのは男が持つものですから」と微笑んで言った。私は彼の持っていた百合の花束を代わりに持つことにした。その百合の爽やかな色と香が私の感覚を擽った。何だか心に穴が空きそうだった。

「お墓はどちらに?」

 深海が訊ねた。

「そこの角を曲がったところにあります」

「ちょうど海が見える場所ですね。それなら先に雲崎(くもさき)さんの方に行きましょうか」

 彼がそう言ったので、私は墓に案内した。二ヶ月振りに訪れた家族が眠る墓は大して汚れてはいなかった。両親の葬式の際に親戚が供えた花は依然として艶やかに咲いていた。それは造花だから当然といえば当然ではある。プラスチックでできた艶やかさだと思うと、美しさも半減だ。

 造花は枯れないから美しい、とは私は思わない。終わりがあるからこそ美しい。命にしろ何にしろ。けれど、私は造花を持ってきた。来るまでにきっと萎れてしまうと思ったからだ。

 私は意味がないとわかっていながらも花立に水を注ぎ、いくつかの種類を寄せ集めた造花を挿した。

 線香に火を点けようと思ったけれど、ライターも何も持っていなかった。でも、深海が点火棒を貸してくれた。優しい人だ。

 潮風で消えないようにしながら火を点けて、素早く線香皿に置いた。そして、墓石に水を掛けた。ふと、これに順番はあるのだろうか、果たして合っているのだろうか、と疑問に思ったけれどどうでもよかった。

 墓石の正面に立って手を合わせた。

 お父さん。お母さん。お姉ちゃん。

 何とか生きているよ。どうにか生きていくよ。

 見守ってたりはしなくていいから。好きなように。

 不意に涙が出そうになる。まだ心の何処かに寂しさが花を咲かせている。もう枯れたと思っていたのだけれど、そんなに浅く薄いものでもないらしい。こういうものは一度考え出すと止まらないもので、遂に右眼から一筋の涙が零れた。それは頬を伝い、輪郭をなぞって落下した。

 私は眼を擦った。深海は気付いていないようだった。良かった。私は涙を流すところを人に見られたくはないから。

 深海を見ると、彼は腕を組んで空を眺めていた。空には一羽の鳶がひたすらに旋回している様が見える。私は空を飛びたいとは思わない。落ちるのが嫌だからだ。

「終わりました」

「もういいんですか?」

「えぇ。そんなに言いたいこともありませんから。数ヶ月前に来たばかりで、大して変わったことはありませんし……」

 私の頭には大学を辞めたことや、その日暮らしのような今の生活が浮かんだけれど、私はそれをゆっくりと確かに飲み込んだ。

「今はひとり暮らしをしてるのですか?」

「え?」

 私は深海の唐突な質問に戸惑った。

「そうですけど……どうして?」

「いや、ちょっと墓誌を拝見させてもらいまして……勝手な推測なんですが、今年の六月にご両親も亡くしているのかと……」

「あぁ……そうですね。深海さんの仰る通り、今年の六月に両親は亡くなりました。何の変哲もない事故でした」

「それでは、現在の生活は……」

「アルバイトをして生きてますよ。どうせ養うのは自分ひとりですから、そんなに苦じゃありません。私って少食ですし」

 私は微笑んで言った。少し不自然だっただろうか。深海の表情がそうだと言っている。私はこういう誤魔化しが苦手なのだ。昔からそう。嘘を吐けない脳味噌を持って生まれたらしい。

 この脳味噌は私のものだろうか。

 理性を装備してから、私はそれを考える。

 この十八歳の外装とひとつ年下の中身のぎこちなさは決して些細なものではない。私が私をあまり好きでないのは、私が純粋に私ではないからだと思う。私は何なんだろう。

「次は深海さんのところに行きましょうか」

 私はそう促した。彼も頷いた。普段なら心地好い夏風がちぐはぐしている。通路の脇に置かれたブーゲンビリアが揺れる。供えられた生きている花が柔く揺れる。作られた花は揺れない。

「深海家の墓」と刻まれた墓は海がよく見える場所にあった。飛び込んでしまいたいくらいに清々しい青空と海に灰色の墓石が投影されているが、その不思議な組み合わせは不思議なことにマッチしていた。墓誌がちらりと眼に入ったが、そこに名前はひとつしか刻み込まれていなかった。

 彼は前回に供えたらしい萎れた花を、新たに持ってきた百合と交換した。そのセーラー服みたいな可愛らしい無垢な白が眩しかった。

「これはカサブランカという百合なんですよ」

 私が百合を眺めていると彼はそう言った。

「セーラー服みたいですね」

 私がそう言うと、彼はカサブランカに眼をやってから微笑んだ。

「いい表現ですね」

 彼は線香を供え、墓石に水を掛けて、手を合わせた。長いこと彼は手を合わせていた。きっと、伝えたいことがたくさんあるのだろう。

 その間、私は空を眺めていた。まだ鳶が空を旋回している。

 そこから何が見える?

 何処まで見える?

 水平線の彼方まで見える?

 そんな問い掛けなんて知らないと、鳶は我が物顔で空を巡る。あいつはきっと落ちることなんて考えていないし、未来も過去も大して考えていない。今現在から前後に数センチだけ。きっとそうだ。

「ありがとうございました」

 深海はそう言った。

「もういいんですか?」

「えぇ。私もあまり伝えることはないですから。どちらかと言うと、仕事の関係で命日に来てやれなかったことを謝っていました」

 彼は微笑んで言った。

「あいつは十年前の七月に亡くなりましてね。まだ梅雨も明けてない夏の入口でした。病院の屋上から飛び降りたんです。少し前に病院を移動したのが良くなかったのかもしれませんが……移動前は海猫病院にいたんです。この町の穏やかさの方が良かったんですね……」

「……後悔していますか?」

「勿論です。後悔しかありません。良いと思ってすることが裏目に出るのはこの世の必然なのかもしれないですね」

 深海は遠くを眺めていた。視線の先の水平線をなぞるように船が進んでいる。乾いた風と湿った風が混ざり合って頬を撫でる。魔法を散らしたような空の下、私は深海と同じように遠くを眺めるだけだった。

「そろそろ私は行くとします」

 深海は言った。

「わかりました」

「雲崎さん。あなたの日々の安寧を願っています」

「ありがとうございます。深海さんも……」

 深海が去ると、潮風が木々を揺らし、墓と墓の間をすり抜ける音だけが残った。鳶はまだ旋回している。

 私も浮かべたらいいのに。鳥の視点で世界を眺められたら、それはどんなに気持ちの良いことだろう。重力がなければ、落ちることはないのに。悲しいことに地球は重力に支配されている。

 私は深海家の墓の前に立ち、揺れるカサブランカを眺めた。そして、私は雲崎家の墓前に立って、揺れもしない造花を眺める。次に来る時は作られていない花を持ってこよう。私は姉の病室に飾られていた花を思い出そうとした。けれど、思い出せない。思い出す気がないのかもしれない。

 バス停に向かって時刻表を見たところ、次にバスが来るのは三十分ほど先らしかった。待つのも悪くはないけれど、私は歩くことにした。時にはヒトらしく歩いてみようと思ったのだ。

 坂道は夏の陽を受けて焦がされたアスファルト。その熱に汗が出てきて滴り落ちる。真っ白なガードレールに沿って歩くが、どうしてか異国情緒を感じてしまう。水平線まで遮るものが何もないからかもしれない。昔は小島があったような記憶があるが、気のせいだろうか。

 足取りが軽いのは空が青いからか、海が青いからか、風が青いからか。翼がなくとも空は飛べるのかもしれないと錯覚できるくらいに軽い。思わず転びそうになるのを何とか防いで、坂を下りきった時、急に海猫の声が聞こえてきた。

 強まった潮の香りに頭を振ったら微弱ながら鈍い痛みが生じた。

 船着き場で船が揺れている。

 さっきのふたりの漁師はいなくなっていて、ただ、海猫の声ばかりが響き渡っていた。海と反対の山の方からは蝉の声も聞こえるが、それはあまりにも弱く遠い。私は足を止めて耳を傾ける。こうしていると何もかもが遠くにあるように思える。

 船着き場を過ぎて、私は砂浜に降りた。隣町と違って静かな砂浜はただ白かった。どうして人がいないのか、私は昔から不思議に思うだけで、それを確かめようとはしなかった。そういうところが私の悪い部分だ。眼の前にある明瞭なものだけを食べてきた。私は無知だ。

 難しい公式や化学式を知っていたって、人間の気持ちを知らない。他人であれ、自分であれ、私は真っ白なほどに知らない。興味がないというと言い訳に聞こえるかもしれない。けれど、実際のところ、興味がない。私は自分自身の境遇を知っている。だからこそ、私は誰に対しても最低限の繋がりしか求めることができない。

 肉体的に血の繋がりがあっても、精神的に繋がりのない人々を果たして家族と呼んでいいのだろうか?

 私は私の秘密を知った時、どんな風だったろうか? 狼狽えていた? 笑っていた? それとも、何もなかった?

 私は海岸の石段に腰掛けて、遠い水平線を眺めた。海には魔力がある。私はこの海岸から入水自殺をした人を知っている。私も魅入られてしまいそうだ。海の底に横たわる死のイメージに。

 実際、これから先に明るいイメージなんてない。

 私はそんなことを考えて心の中で笑う。

 空も海も風も青い。いい日だ。

 不意に煙草の香りがして、私は振り返る。

「珍しいね。観光客?」

「ちょっと違います。青風寺にお墓参りをしに来たんです」

「あぁ、なるほど……」

 その人は白衣を着ていた。顎に無精髭を生やし、長めの髪を後ろで結んでいた。サンダルを履いていたので、何処か近くから一服のために外に出てきたようだ。

「隣いいかい?」

「どうぞ」

「ありがとう。墓参りね……。青風寺はいいところだろう? 僕も死んだらそこで眠りたいものだよ」

「私からしたら少し景色が良すぎますね。私には勿体ない」

「そんなこと言ったら、僕にだって勿体ない景観だ」

 彼はそう言って煙を吐いた。

「えっと……あなたは?」

「あぁ、名乗り遅れたね。僕は玻璃野海晴(はりの かいせい)。見ての通り研究者だ。あそこにあるサナトリウムに務めてる」

 玻璃野は指差した。その先には海猫病院があった。

「サナトリウム? 今はそうなってるのですか?」

「あー、海猫病院のことを知ってるのか。そうだね、今は療養所だ。と言っても、元々、海猫病院も療養所みたいなものだけどね。意外と患者は多いんだ。ほら、この町って景色がいいし、静かだから」

 私は静かに頷いた。

「私は昔、海猫病院にいたことがあるんです」

「ほう。そうなのか……。君、名前は?」

「雲崎天子(あまね)です」

「あぁ、知っているよ。その名前なら。そうか、君が天子ちゃんか。端島(はしま)先生からよく君のことを聞かされたよ。天真爛漫で笑い袋のような子だとね。でも、話に聞いていたよりも大人しそうだ」

「もう、子供とは言い難いですから」

「そうか。いくつなんだい?」

「十八です。ただし、身体はですが。中身はひとつ年下です」

「あぁ、そうか。君は『黎明』だったね。いやぁ、懐かしい響きだ。なかなか口にすることはないからね。笹伊(ささい)主任とかの研究なら使うかもしれないけど、僕の研究では使わないんだ」

 知っている名前がいくつか出てきて、私は懐かしく思った。さっき出た端島というのは、幼い頃の私の担当医だった人物だ。

「玻璃野さんは何を研究しているんです?」

「僕? 僕は『黄昏』と『魂の鏡』の因果関係の研究をしてるんだよ」

「『魂の鏡』?」

「そう。天子ちゃんも聞いたことがあるかもしれないけれど、ここらの海は白く光るんだよ」

「初めて聞きました」

「そうか。まぁ、光るんだ。それは海底の不可思議な鉱石から放たれているようなんだけど、どうも『黄昏の子』と関係があるらしいんだ。彼らが増えれば、その分、光の範囲と強度が増える。色々調べていたら、光が最も強くなるのは、新たな『黎明』が誕生した時、つまり、ひとりの『黄昏の子』が死んだ時らしいんだ。だから、僕らは『魂の鏡』は『黄昏の子』の弔いを担っていると考えているわけなんだよ」

「その鉱石は調べないんですか?」

「海水から一度でも出すと、普通の石英と何ら変わらない物質に変わってしまうんだよ。それに、ここ最近は光が見られないんだ」

「何故です?」

「さぁね? でも、ひとつ考えられるなら、沖合の小島が消えたことかな。君も見たことがあるんじゃないかな。夕夏島(せきかとう)って島のこと」

 私は頷いた。やはり、小島はあったのだ。

「夕夏島が突如として消えてから発光現象はぱたりと観察されなくなった。僕らとしても夕夏島なんて特に何もない島だと結論付けていたからびっくりだよ。実際、幾度か上陸して探査もしたけど、本当に何もないんだよ。また近々、付近の探索をするけどね」

「探索……」

「ん? 興味ある? 僕は君が研究に参加するのは大歓迎だよ。君は何も知らないかもしれないけれど、本当は僕たちが知らないことを知っているかもしれないんだから」

「それは私が『黎明』だから?」

「そうだね、そういうこと」

 彼は澱みない口調で言った。

「天子ちゃんは今何をしてるの? 大学生?」

「大学なら辞めました。学費が払えなくなったので」

 私がそう言うと玻璃野は数秒間黙っていた。しかし、すぐに理解したようで口を開いた。

「そうか。君の今の生活次第だよ。僕が思うに、君にはポテンシャルがある。でも、今、君は不幸によりそれを放棄せざるを得ない状況に陥りつつある。それはとても勿体ないことだ。君が自身の可能性を捨ててしまおうとでも考えていない限り、僕は君に研究を手伝ってもらいたい。どうだろうか? 生活環境は変わってしまうけれど、この提案は君にとっても決して悪くはない筈だ」

「私は……」

 私は考える。

 今のその日暮らしの生活に未来があるのだろうか? そこに可能性の三文字があるというのだろうか?

 今、私には何もない。私の後ろ髪を引くものはひとつもない。ならば、私のこの(からだ)が役に立つというのならば、そうであった方が私にとっても、亡き家族にとってもいいのではないだろうか。

「私は、その提案に乗ります」

「お、本当かい? それは本当に嬉しいよ」

 彼は煙草を灰皿に押し付けて言った。

「これで研究に変化がありそうだよ。そもそも、人手不足でもあるんだ。本当にありがたい」

 彼の表情を見ると、本当に嬉しそうだった。一途な人なんだなと思った。変わり者ではあるのだろうが、悪い人ではないのだろう。

「この町に住むのは十年振りってことですね」

「へぇ、そんなに経つのかい。でも、変わってないだろう? この町はずっと静かだ。まるで世間から取り残されたか、或いは別の時間軸で動いているのかもしれない。そんなことを思わせるほどだろう?」

「本当に……砂浜に誰もいないですね」

「そうだろう。ある歴史書によると、ずっと昔、五百年以上前に(まじな)いが掛けられたそうだ。僕はその中のある言葉を憶えているんだ」

「どんな?」

「昔の巫女が言うのさ。『異人は何者であれ誰そ彼の海に手は出せぬ。海は鏡。魂の鏡。水底に隠れし鏡は子供たちの歓ぶ声なり』とね」

「そのお呪いが今も人を寄せ付けないと?」

「そうだったらいいね」

 彼は微笑んだ。

 私はふと時刻を確認する。

「あ、そろそろ行かなきゃ……」

「そうか。じゃあ、連絡先だけ教えとくよ。引っ越しとか、君の都合のいい時に連絡してくれ」

「はい」

「じゃあ、君と研究をすることを楽しみにしてるよ」

 彼はそう言って、煙草を咥えた。

「では、また」

「うん、じゃあね」

 私はバス停に向かって歩く。振り返ると、彼が遠くを眺めながら煙を吐いていた。彼が見ている方には絶え間のない青が上にも下にも広がっていて、それを刳り貫くように雲が浮かび、海猫が飛んでいる。

 十年間。本当にこの町は変わらない。本当に世界の時間から置いていかれているように、変わらない。人の命だけが移り変わっていく。

 私の身体は十八歳になった。

 私の精神は十七歳になった。

 私は私の齟齬を愛していこう。

 そして、次は本物の花を持っていこう。

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