悪魔は思慮する
邸内2階、長い長い廊下の南側の突き当たり。
これまた一際大きな扉の目の前で少年はピタリと足を止める。
(あ、目的地はここなんだ…?)
ようやく堅く握っていたアリエルの手を解放すると
少年はくるりと体を向き直して真剣な眼差しでアリエルの目を捉えた。
「…天使様」
廊下の窓から差し込む陽光がまるで後光のようで
むしろ君の方が天使だよ、とアリエルは思う。
「どうか…どうか!お母様をお救いください。」
「え?」
予想外の展開に思わず声が漏れる。
(救う、とは…?)
「…お母様がご病気に倒れられてからもう5年近くの月日が経ちます。
先日、主治医からもついに治る見込みはないだろうと告げられてそれで…」
淡々と説明する少年の声が微かに震えているのが分かった。
「…っとにかく。僕はもう一度お母様の心からの笑顔が見たいのです…!
お願いですからどうかお母様を忌々しい病からお救いくださいっっ!!」
そのままバッと頭を深く下げられてアリエルは困惑した。
(ちょっと待って…予想していたよりもヘビィな展開)
私を【天使】だと信じ込む少年ー…
今このタイミングでそれを否定したら酷く傷つくだろうことは容易に想像がついた。
(…なんでさっさと否定しなかったのよ!!私のバカ!!)
かと言って彼の願いは軽い気持ちで引き受けるには重すぎる。
(…【治癒魔法】。)
【魔法】というものはある意味チートだ。
怪我や病気を治すこともたしかに出来る。
それこそ禁忌ではあるが死者を蘇らすことすらも。
(…いやいや。軽いものならいざ知らず
お医者様もお手上げの大病なんて治すのは…)
きっとこれだけお金持ちの貴族なのだから
雇っているお医者様も最高の技術を持っているだろうし
もしかしたら王国の【魔法使い】にも既に色々依頼した上での神頼みなのかもしれない。
そう考えれば考えるほど少年の母親の症状は最悪の状態なのだと想像できる。
…あるいはアリエルならばその病気を治すことも出来るかもしれない。
とはいえそう簡単な話ではない。
不治の病を治すなんてレベルになるとその難易度は限りなく【超上級】だ。
【治癒魔法】とは簡単に言えば患者の身体に魔力を注入することで症状を緩和させるという【魔法】
症状が重ければ重いほどその魔力量は増え
術者にとっても患者にとっても負担は大きい。
しかもコントロールを少しでも間違えば体内を暴走した魔力によって最悪患者は死ぬー…
つまるところある一定以上の【治癒魔法】にはとにかく【強い魔力】と【高い魔法技術】が必要で
たとえばさっきアリエルが【瞬間移動】をした時のような失敗は絶対に許されない。
この世に【治癒魔法】が存在しても医者という職業が消えない理由はそこにある。
時間がかかっても薬や手術などで治療する方が普通は遥かに安全だからだ。
(失敗したら私は人殺しになる…)
サァーっと血の気が引く。
…しかも成功したらしたで、だ。
名医ですら治せず、
もしかしたら王国屈指の【魔法使い】でも治せなかった大病を1人の少女があっさり治してしまうことになる。
(…まずい。たぶんそれも絶っ対まずい!!)
そうなればこの少年はともかくとして…大人たちはアリエルが何者なのか見逃すことはできないだろう。
運良くうまく正体を誤魔化せたとしてもそんなことができる存在をみすみす放っておくわけがない。
おそらく”自由”の保証はもうないだろう。
いずれにせよ、
今日会ったばかりの少年を
そんなリスクを冒してまで助けてあげる義理もない。
(…でも)
チラッと横目で頭を下げたままの少年を見る。
(勝手に勘違いされたとは言え
こんな幼気な少年に【天使】だと信じ込ませたまま
ろくに抵抗もしないでここまでついてきたのは私だし…)
この状況を作り出した一人としてこのまま逃げ出すのは流石に良心が痛んだ。
(なるべく傷つけないようにやんわり断る方法は…)
「天使さま…?」
考え込んで何も反応できないでいるアリエルの様子を伺うように少年がそろりと顔を上げた。
思わずビクっと身体が跳ねる。
アリエルの顔にはまるで戸惑いの文字が描かれているかのようだった。
「…やはり。無理なお願いなのでしょうか。」
高揚していた少年の顔が次第に落胆の色に落ちていく。
(あ…失望された)
ふとその瞬間、アリエルのプライドが揺らいだ。
(…ほんと《世界最強の魔法使い》が聞いて呆れるよ)
ゴチャゴチャ考えて保身に走る。
たしかにそれも時には大事だけど…
(なんか今私すっごくカッコ悪い気がする。)
…やれる事があるのに
結局何もしないで逃げたら絶対に蟠りが残る。
平穏平和に暮らすのに少しの翳りもいらない。
今日この子と偶然出会ったのも
本物の【天使】と勘違いされてここまでノコノコ来ちゃったのも
全て私の運命なんだと受け入れよう。
「…る。」
「え?」
「君のお母さんのこと、私が救ってあげる!」