悪魔は身を潜める
背中や額からは止めどなく冷や汗が溢れ、
寒くもないのに膝が小刻みに震える。
あまりにも強く握りしめた拳からはじんわりと血が滲んでいるがもう自分のものではない気がして痛みすら感じない。
主張したいことは沢山あった筈なのに目の前の威圧感に伯爵はただただ深く頭を垂れることしか出来なかった。
「はぁ…もういい。顔を上げろ。ノートランド伯…いや、グレゴール」
心底呆れきった、と言わんばかりの声が頭上遥か上から降ってくる。
それでも恐ろしくて顔を上げることが出来ない。
「…お前には初めから期待などしていないのだから何も気負う必要はない。
どうせ令嬢はまだ見つからないのだろう?そんなことは分かりきっている。」
その言葉は伯爵を気遣うようなものにも聞こえたが
玉座の肘掛けに置かれた指先は先程から神経質にトントンと音鳴らしており、言葉とは裏腹の不機嫌さが伝わってくる。
国王ルキウス・フォン・シルヴァスタ
彼の恐ろしさは底知れない。
…少なくともグレゴール・ノートランドはそう感じていた。
何がそんなに恐ろしいのか。
…何を考えているのか全く分からないからだ。
果たして何が彼を喜ばせ、何が彼を憤らせるのか。
(…いや。そもそも私なぞに陛下のお考えが解せる筈もないのだが…)
「…ふっ。お前は昔から何も変わらない。王宮に初めて来た時のことは覚えているか?」
「は、はい。たしか父に連れられて…」
「ああ、そうだ。ガスパルの影に隠れて震えていたな。あの頃からお前は少しも進歩がなくて笑える。」
「は、ははは…」
「……残念だったな。娘はお前に似なくて。」
陛下の重く低い声がやけに冷んやりと鼓膜をついた。
「お前に似て平凡で臆病で愚鈍ならこうはならなかったのに…な?」
「………」
「まぁそう心配するな。お前達を処断するのは容易だが、今日呼んだのはそういう話ではない。」
そう言うとルキウスは意味ありげに嗤った。
「お前が令嬢を持て余しているように私もまた大層持て余している者がいてな。
口ばかり達者で軟弱なアレに国を導く才があるか測り兼ねているところだ。
だがしかし…足りないものは補うのもひとつ。」
(…陛下が仰っているのは王太子殿下のことだろうか?
たしかアリエルと年も大して変わらない…直接お会いした事はないが噂ではとても優秀な方だと。軟弱という印象はなかったが…)
「どうせお前の力では一生かかっても令嬢は見つからないだろうし
見つけたところで殺されるだけの運命を黙って見ているのも辛かろう?」
「…そ、それは」
ーその通りだ。避けられないことと理解していても気は果てしなく重い。
「これは取引だ、グレゴール。お前はもう令嬢の事から一切手を引け。
その代わりこの一連の不祥事については誰も罪に問わぬと約束しよう。」
「は…陛下、一体それはどうゆう…」
…ー意図がわからない。
アリエルは間違いなくこの国の脅威だ。
それを私的な感情により生かし続けた挙句、逃がしてしまったのだから私自身の罪も計り知れない。
爵位剥奪程度で済むような話ではなく
良くてお家断絶…
下手すれば私やアリエルだけでなくノートランド家に関わる全ての者の首が跳んでもおかしくはない。
(それを不問とするなど…陛下は気でも触れたのか。)
「……どうした?これほどまでの好条件、お前に肯定以外の選択肢はない筈だが?」
闇のように深い漆黒の瞳が鋭く伯爵を睨む。
(私如きがその真意など知る必要はない、と言うことか…)
「……陛下の御心のままに。」
伯爵はそれ以上発言することを諦めた。
最初から話し合いの場ではないのだ。
「それで良い。つくづくお前の浅慮な判断に感謝するよ、グレゴール」
ルキウスは伯爵の後頭部を眺めながら満足そうに微笑んだ。
******************
グリンヒルには今日もとても穏やかな風が吹く。
鮮やかな緑拡がる草原と眩しいほどに光溢れる碧い海ー…
アリエルの思い描いた平和はここにあるかのように思えた。
ーーそう。
アバリスのお説教さえなければ。
「アリエルさんっ!!いけません!!」
アリエルがコルラッド神殿にお世話になってからなんだかんだでもう2年弱の月日が流れていた。
最初は体力も魔力も充分に回復したらすぐにでも神殿から去るべきだ、と考えていたけど
「その必要はありません!」と全否定するアバリスのありがた〜いお言葉に甘えて、現在まで至っている。
実際、神殿内は安全な上に居心地も良く
アバリスも丁度いい話し相手になってくれるもんだから
最近じゃぁもう一生ここで神に祈りを捧げる人生も悪くないんじゃない!?…なんて思い始めている。
…でも。
安全なのはあくまで神コルラッドの加護が及ぶ《神殿内》だけの話。
息抜きがてらこっそり外に出ようものなら先刻のとおりアバリスからきつーいお説教を喰らう、というわけだ。
(いや〜…にしてもアバリスのこの過剰な反応を見る限り…私は神殿から少しでも出たらサクッと殺されちゃう運命なのかもしれないなぁ…)
それだけの事をしたのだ…何が起こっても正直おかしくはない。
何度も言うが《神殿内》は絶対的な安全地帯だ。
ここに居れば命の保証もまず間違いないだろう。
…だけどもし、
もし万が一のことが起こったら?
相手は禁忌である【黒魔法】を平気で使うような頭のイカレた国王陛下。
神殿が幾ら王権不可侵であろうと彼がその気になれば何をしでかすかなんて判らない。
そしたらアバリスは?
神殿で働く他の人たちだって無事が保証出来ない。
果たして現状に甘えたままで良いのだろうか。
(もしも私のせいでこの平和が崩れ去ってしまったら?……ううん、そんなの絶対に嫌だ!)
「…さん、アリエルさん!聞いてますか!?」
「…へっ?あ〜…あはは、ごめん。全っ然聞いてなかった」
「はぁ〜…貴方という人は相変わらず…まったくもうっ!」
アバリスはほんとーに口煩くて…正直めんどくさい男だ。
それは2年前からずっと変わらない。
けれど若くして俗世から隔絶された神殿の司祭を担っている彼は
これまで孤独に過ごしてきたアリエルの良き理解者でもあった。
彼はアリエルがどんなに強い魔力保有者であろうと特別扱いは一切せず、
普通に叱り、普通に褒めて、普通に話をして、話を聞いてくれる。
それがアリエルにはとても嬉しかった。
今日も彼はご自慢の栗色の髪をオールバックに綺麗に纏めて
銀縁の眼鏡を光らせながら饒舌にアリエルを叱りつける。
…なんだかそれに無性に安心してしまう。
面倒くさいけど、大好きだ。
(少し歳の離れたお兄様がいたらこんな感じ、なのかもな…)
この日常がいつまでも続いてくれたらいいのに。
アリエルはいつからか毎日そう、願うようになっていたー…