002
森はまるで、生きているかのようだ。
自然の匂いが鼻に侵入してきて、奥を容赦無く擽る。 一緒に遊んでいる二匹の尾白鹿を目に捉え、足音を消そうとしているかのようにアイザックは足取りを緩め、心地よく微笑んだ。どこにでも魔物や危険そうな野生動物の気配はない。周りを支配しているのは、童話などによく見られる神秘的な景色だっだ。
夜はどうかな。
空を飛んでいる色とりどりの妖精とか森を彷徨っている衣をかけた精霊とか出てくるかも。
そう想像に耽ながら、はぁ~と深く溜息を零した。
「それにしても、この森は広いなぁ」
ちゃんと予防策を講じなかったらけっこうやばかったなぁなどと考えた。予防策というと、素材を採取してポーションを作ることっていう意味。
アマラはどんな森の中にでも生息する、いくつもの木の周りに絡み付かれたまま見付けられる苔状の植物で、除け系のポーションの限界成分の1つである。 コモミンタラはアマラと同様に、無臭で皮膚を刺激しない除け系のポーションの限界成分の1つであり、殆どどこでも見付けられる植物である。
魔物は人の魔力に反応するから、この2つを配合して作られた魔物除けのポーションを使うと、魔物からすれば人の気配がない。
こうやって、領土を保護する必要な措置を取った限り、魔の森にでも比較的安全な生活を送られるのだと、お師匠さまが教えてくれた。それは、家の屋根や垣根をアマラで覆ってコモミンタラを垣根の周りに植えることだ。師匠から受け継いだアイザックの小屋もこの造りになっていて、深い眠りに落ちたまでは、魔物に進入されることなく、静かに暮らしていられた。
ポッチに入っていた乳鉢と乳棒を使って、アイザックはアマラとコモミンタラを採取したあと魔物除けのポーションを作った。すると身体に振りかけた後、18歳以下にしか見えない錬金術師は出発することにした。これで魔物の近くにいない、それとあまり音を出さない限り、魔物に合わずに移動できるはず。
歩き始めてから三十分が既に経っていって、退屈凌ぎにポーションの素材を採取する事にしたけど、そのため腰に付けられていたボロボロのポーチは素材に溢れている。
いい加減収納魔術でも覚えた方がいいなぁ、などと考えながらアイザックは空を見上げる。目を細めて巨大な葉を通じて見れば、太陽はまだ高い位置にあることが見える。
つまり正午を回ったころだろうか? それとも10時くらいか? そんなことはやはり森にいる限り判らないことだが、それもまたなるべく早く森を抜けたいという気分を高めた。
「よし。ここからそんなに遠くはないだろな」
葉や枝を踏み潰しつつ自分を納得させようとするアイザックだが、彼でも知っている。
それは甘い考えであることを。
もうひとつの溜息を漏らし、彼は静かに森を進む。
そして時間が止まることなく、過ぎ去っていく。
半刻ばかり森を進んで、やっと道に出た。街道の向こう側に目をやると、田畑が視線に入ってきた。人影は無いが、誰かが早苗の世話をしていることは明らかだ。
首を振る。…………とにかく街でも探そう。と、そう決めると、街道を進もうとしたその時、近くで戦闘する音が聞こえた。
それを聞いてアイザックは途方に暮れることになった。確かに攻撃魔法は使えるが、目覚めたばかりそのせいか魔力は今現在めちゃくちゃだ。
もちろん、無視するという選択はあるが…… 多分、これは僕に有利に働けるかも。と、アイザックは考えていた。
簡単には発見されないようにアイザックは森と街道の合間を隠れながら進み、木の陰から様子を窺う。
(ゴブリン5体、フォレストウルフ15匹、そして………あれは馬車?)
襲われていたのは1台の馬車だった。それを見て、小さく笑みを浮かべるアイザック。
(やっぱり。これで歩かずに済む)
装甲馬車に2頭ずつ繋がれているのは、鉄鎧を纏っていた角蜥蜴と呼ばれる二足歩行の肉食獣で、獰猛な性格を持っている爬虫類である。
それを見て狼狽えるアイザック。
装甲馬車?
アイザックは見たことがない。
(ってか、角蜥蜴に操られる馬車? それはちょっと危なくね。‥‥‥いや、後で考える。とりあえず集中、集中。馬車に乗ってもらえるかもしれないが、まずはあいつらを手伝わなくてはいけない)
そう決めると、腰につけられているポーチに手を突っ込んで、薄紫色の光を放つ小瓶の3つを取り出した。
すると容赦なく、
(喰らえ)
掛け声とともに魔物避けのポーションを投げ込む。
「ギャウンギャウン!」
一斉に逃げ出すフォレストウルフたち。鼻が鋭いから魔物避けのポーションが放つその臭いは結構効くのだ。
フォレストウルフたちが去ったのを確認してから、アイザックは街道へと歩みでた。フォレストウルフと対峙していた騎士と魔法使い(?)の2人は、唖然とした様子でフォレストウルフの去った方角と、ポーション瓶を見た後、一人がアイザックに向かって問いかけた。
「今のは一体………?」
(ん? もしかして、知らんのかな?)
「あ? あれが魔物避けのポーションだったんだよ。助けが必要だったみたい」
「あ、やはり魔物避けのポーションだったんだな。どこで手に入れた? 良かったら教えてくれないかな」
(なんだ知ってるんじゃない)
「自分で作ったよ」
目の前の、革鎧を纏っていた少女の表情がまるで幽霊でも見たかのように固まった。
「自分で作ったって?」
「あ…あ?」
「あなたはもしかして…錬金術師…ですか?」
なんで訝げな顔で言ったんだかな、と考えながらアイザックが頷くと、少女はちらりと肩越しに振り返って見た。 その行動を観察すると、アイザックはもう一人の少女に目を向けた。目の前の少女と違って、彼女は茶色の髪が短くて瞳が青い。それに気づき、姿勢を正す騎士。
「あ、自己紹介はまだですね。私はエリス、騎士だ。そして、後ろにいる子は我が妹のリラ、アーチプリーストだよ」
(あ、アーチプリーストだったんだ)
「はじめまして」
アーチプリーストであるリラはそう囁くと恭しく頭を下げる。アイザックは頭を下げて挨拶を返す。
「貴方は?」
騎士のエリスの声を聞いて、アイザックは少女に視線を戻すとフレンドリーににっこり笑って返事をする。
「僕はアイザック。アイザック・クロス。君が言った通りの錬金術師である」
「やはりだわ! 本物の錬金術師ですね」
「あ、あ‥‥」
(なんか、目がちょっと怖いなぁ)
苦笑いしながら思わずあとずさりするアイザック。
「で、君たちなんでここに?」
アイザックは訊くと、何かに気づいたように目を大きく開くオレンジ色の髪の少女。
「あ、やべぇ! 私達、日が暮れる前に依頼を出さなきゃ。おい行こう、リラ!」
「は‥‥はい!」
そう言って、慌てて馬車に乗る姉妹。 それを見て声をかけようとするアイザックだが、エリスは、 「アイザックも乗るか? その服からするとここの者ではなさそう。道に迷ってるでしょ? 違う?」 と言った。
それにアイザックは首を振る。
「ほらな。アンブローズまで運ぶから乗ってもいいよ」
「なんか、ありがとうな。助かるよ」
そう礼を言うと、馬車に乗ったアイザック。 彼の言葉にエリスは笑みを浮かべて言う。
「いいよいいよ。せめてそれくらいはさせて。アイザックはさっき私達を助かってくれたし」
そう言って角蜥蜴に操られる馬車が動き始めた。
◇
2つの山に挟まれた迷宮都市、アンブローズは、高さが50メーターくらいある壁に囲まれて世界の貿易業界の中心である。世界各地から来た様々な種族を含めて人口は80000以上を数え、その八割は無論、人外の種族である。
ゆらゆらと馬車が揺れる。迷宮都市に近づくにつれ速度がどんどん遅くなっていく。それは恐らく、兵士のせいだろう。馬車を見掛けたか、大門を瞠っていた兵士達が止まれ!と言わんばかりに手を上げた。それを見て馬車を止めるリラ。 軽く尋問したあと、アイザックたちは都市に入ることが許可された。
見渡す限り人だらけの石畳の道路は果てしなく手足を伸ばしているようで、雲の上に聳え立つ夥しい数のビルが建てられた。
それは、秋というのにとても天気のいい日だった。
ガタガタと目の前の角蜥蜴に操縦されている馬車が音を出した。古めかしい石畳の上を進む度、ボックス型の車体が小刻みに揺れるように見えるが、勢いが衰えず、遠くに見える黒点になったまで進んで行く。大体において、迷宮都市アンブローズはとても賑やかな都市だと、アイザックは結論を付けた。
「ここは凄いなぁ」
風景を観察しながら思わず言うアイザック。
それを聞いて頷いたエリス。
「そうだな。あたしらの故郷には敵わないけどね」
「あたしらの故郷? この都市の者ではないか?」
「うん。アナシテェジアの街。ここから距離的に遠く離れている街だよ」
「アナシテェジアの街かぁ?」
(やはり聞いたことがないなぁ。)
エリスとリラ曰く、今年は1609年。アイザックがエリクサーを飲んだのは1409年、ぴったり200年前のことだ。200年前にはアナシテェジアという街は存在しなかったので聞いたことがないのが当然だ。
「それよりさ、アイザックはどこに住んでいたのですか?」
アンブローズの迷宮都市を進むにつれ、そわそわと落ち着かない様子を見せるアイザックに、リラが声をかける。それを聞いてアイザックはリラに微笑みかけると、返事をする。
「森の中に住んでたんだけど」
「森の中?」
「うん。素材は多くてさ」
「あ、なるほどねぇ。錬金術師ですもの」
「まあ、森に住み始めた前にアザリックっていう小さな村で師匠様と一緒に暮したんだけど」
「アザリック? 聞いたことのない場所ですね」
(まあ、そりゃそうなんだけど。聞いたことあったら逆にびっくりだぞ)
「この大陸のものじゃないから」
真っ先に頭に浮かんだことをとりあえず言ってみた。 信じてくれたのか、エリスとリラは頷いた。
「ところで、どこへ向かってる?」
話題を変えようとし、アイザックが訊くと、それを答えてくれたのはリラだった。
「私達は冒険者なので、ちょっとギルドに立ち寄ります」
「そういえば前は、私達、日が暮れる前に依頼を出さなきゃてエリスさんが言った気がするんだが、まさか二人ともは冒険者だったなんて予想外だな」
(と言っても会った時にすぐ冒険者だったことがわかったけど)
「その後はそうだな‥‥帰る前に商品とかお土産とか、買っちゃうかな。アイザックは? 街に着いたからにはどうする?」
訊いたのはエリスだった。 それにアイザックは考え込み、こう返事した。
「さあな。ここら辺はあんまり知らないからちょっとこのせ...大陸の習慣や地理を研究しながら旅をするかもしれないかな。まだ確定ではないけど」
(危なかった)
「あ、じゃあ、あたしたちとアナシテェジアに行かないの? せっかく旅をするつもりだから。勿論、習慣もできる限りこの大陸の地理も教えるので。その代わりに、ここの者ではないことが明らかだから良かったらちょっと自分について聞かせてください。あたしに言わせれば良い取引でしょう」
こっちを見ながら提案するエリス。
装甲馬車を操縦しているリラも可愛いらしい顔をしながらこっちを見ている。 それにアイザックは黙り込むと、考えることにした。
(確かに良い取引だが……いや、よく考えれば別に断る理由なんてないな。この世界についてもっと情報を集めるには、むしろエリスさんの提案は誘惑的だ)
「うん、わかった。むしろ助かるよ。ありがと」
正直にお礼を言うと、エリスとリラはニカッと笑った。
(それにしても、200年間か。あのエリクサー、そんなに強かった?)
とは言っても、効果が強いに決まっている。だって効けるには、あの伝説の賢者の石が必要だったから。流石は賢者の石。その力、恐るべし。と、アイザックは思ったと同時に、不安に包まれた。彼は思わずズボンのポケットに手を入れると、そこにある賢者の石を触れる。そんなスムーズな感触を感じると、アイザックは少しだけ震える。