001
薄黒い研究所の片隅で、書類やポーションの材料に散らばっていた机に向かい、一人の老人は手にしたモノを見つめながらこう呟いた。
「ついに、ついに完成だ。問題は安定かどうか……と言っても、安定した光を維持しているが……」と。
手をほんの少し開くと、五指の隙間から薄明かりが漏れて、暗い研究室を明るくしていく。そのモノを見ながら、微笑まざるを得ない老人。
今、彼のその皺だらけの手に微かに光り輝いているのは、世界各地の錬金術師達が求める【賢者の石】という、錬金術における至高の物質である。
鉛などの卑金属を金にすることや、万病に効能のある薬を作ることなど、そういうことばっか夢想する結果、錬金術師を志した少年はよく、図書室に自分をこもって科学や数学に関する教科を熱心に勉強したり、錬金術を実践したりすることもやった。
それは、彼が4歳だった頃だ。 同い年の人には変なヤツと見なされたが、大人には天才の卵だった。それでも、孤児院の図書室にある錬金術に関する本は足りなかったそのせいか、彼はまだ満足していたわけではなかった。
けどあの日、新しい夢ができたという実現に変わりはない。 世界的に有名な錬金術師になるっていう夢だ。多事多難をよそに、その夢を現実にすると決心していた。そして何年も研究した挙句、彼がついに伝説の錬金術師の肩書きと不老不死の鍵を手に入れたのだった。
アイザックは既に70歳を越えており、地球というこの世から消え去るまではまだわからないが、伝説により、賢者の石を使えば不老不死になることができる。そんなことを夢想するだけでめくるめくような幸福感にならずにはいられないアイザックだが、失敗する可能性もあることを考えなければならない。それでも、ここまで来たからには疑うわけにはいかない。
人生を嗜む。
世界的有名な錬金術師になる為と、賢者の石の研究の為にアイザックは自分の生涯を費やしてしまったことを知っている。
だから諦めない。諦めるわけにはいかない。今諦めてしまえばそれまでだから。計画通りに進めざるを得ない。そんな気持ちになると、彼は《エリクサー》を用意することにした。
老後とともに、自分でポーションの材料を集めることが出来なくなったが、幸いなとに、エリクサーをすでに何年前に醸造した。あとは賢者の石をエリクサーに追加することだけ。時間さえ許すのであれば、本当に安定かどうか確認したいが、彼にはもう時間があまり残されていないかもしれない。
机の上に置かれていたポーションに硬化された粉薬のごく一部を溶かし始める。賢者の石はその力が強すぎるので、これでも十分なはずだ。やがて元は薄い赤色だったポーションが血のように濃い赤色に変わっていった。それを見ると、アイザックは「これでいいかな」と、自問する。
そんなことを尋ねても、賢者の石がちゃんと効いていることが一目瞭然。しかしどんだけ効いているのかは別の話なんだ。というものの、利用した材料はその【賢者の石】だ。その力を疑う理由なんかないでしょ。きっと…大丈夫だ。
ため息をつき、アイザックは瓶を拾った。
しかしまだ飲めない。全然怖くないと言ったら嘘になる。 きっと不味いよね、味が? でも、仕方がない。飲む。飲むに決まってるんだからさっさとつべこべ言わずに飲めよ、僕。
そう自分を促すと、アイザックは溜息を零して賢者の石をポケットに入れると、目を閉じ、神に祈りを捧げるように頭を上げて、決心とともに一気に瓶の中身を飲み干した。
その後は沈黙。 時の流れがまるで、完全に止まったかのようだ。
そして目の前には、暗闇が生まれた。
◇
意識の覚醒は世界の再構築とほぼ同じ意味合いを持っていた。心と体が離れていくような感覚を受けて目覚めると、すべての記憶を一瞬覚えなくなる。
息が止まり、溺れかけそうになる。 肺も、全身も、細胞も─やけに酸素を求めて苦痛に満ちた悲鳴を上げる。思考の冷静さなども保らえずに、目をぎゅっと瞑ってのたうち回る。
助けを呼ぼうとしても、声がまるで喉に詰まっているかのように口から言葉が全く出てこず、身体を支配する絶望的な痛みがまるで、止まらない。
けど彼は知っている。
これは夢だということ。……と言っても、本当に夢なのか? 否、間違いない。これは絶対に夢だ。
ガラスみたいに脆く、意志によって簡単に割れる、ただの悪夢に過ぎない。
出来ることはただひとつ。目覚めることだ。
目覚めたらすべてが消え、意識を取り戻すことができる。
世界でもう一度、生まれることができる。
......ドクン。
と、微かな音がした。
止まっていた少年の心臓が、急に動き出した。
徐々に、リズミカルに。
「ゲホッ、ゴホッゴホ、カハッ」
咳き込みつつ痛みに身悶える。
先ほどまで全身を支配していた寒さが消え去って、温感よりもむしろ触感に訴えてくる生ぬるさに変わっていった。
(息っ……苦しい……空気。新鮮な空気が……欲しい)
酸素が足りずガンガン痛む頭で最初に認識したのは、圧倒的な息苦しさだった。 激しく身体で流れる魔力に集中し、少年であるアイザックは一瞬、息を止めて朦朧とした頭で《換気》と囁いた。
喉はカラカラで、唇も舌もひりついて声が出なかったけれど、詠唱を明確に意識すれば、無詠唱でも魔法は発動する。なんとか魔法で、若き錬金術師が空気を入れ換えて、まともに呼吸ができるようになった。
息を吸って吐き出す。これを何回も繰り返すと、アイザックはやがて落ち着いた。
そして、ふと気づいた。
………自分はまだ生きていることに。
(ここは……どこでしょう?)
目の奥が痺れるような感覚になって、ふっと目を醒ますと、そこは、彼の知らない場所だった。
目の焦点が合わず、ぼんやりと頭上から差し込む儚げな光を感じるばかり。随分と永く眠っていたらしい。起き上がろうとすると、固まってしまった関節が悲鳴を上げる。
痛くて歯を食いしばらずにはいられなかったが、それでもアイザックは気合いを入れてなんとか起き上がって、自分のいるところを認識しようとする。
しばらく辺りを見回す。そして何かが視線に入ってきた。よく見たらそれが、ボロボロの茶色のポーチだった。いや、正確に言えばそれが、自分のボロボロの茶色のポーチだった。
1秒も無駄にせず、全身を奔る痛みを無視しつつ慌ててポーチまで四つんばいはって、その中に手を突っ込んでしばらくあさった。取り出したのは、淡い薄青色の光を放つ小瓶だ。ポンと音を立てて栓を抜き、憚らずに液体を飲み干した。
治癒のポーションだ。
その名の通り、全身疼痛や傷を治せる癒しのポションのひとつである。アベカス根とアムライ薬草と蜻蛉の羽根、この3つを配合して醸造すれば、容易く作られるが、ポーションの効果は作った人のスキルに掛かっている。つまり、素人の錬金術師や一度もポーションを作ったことのない人であれば、ポーションの質や効果が非常に低くなるが、アイザックのような上級錬金術師であれば逆だ。
一瞬、痛みが過ぎ去る記憶のごとく消え、頭をすっきりさせた。そして活力を新たに、アイザックはこの24時間以内にはっきりと何が起こったのか、すべてを思い出した。
次々と心に蘇ってきた、この出来事の原因。
(そうだ……僕はエリクサーを飲んだよな。ということは……)
ふと、考え事からハッとわれに返り、アイザックは身体に大きな変化が起きていたことに気付いた。 身体は18歳くらいに若返り、枝葉に覆われる、意外と柔らかい地面から立ち上がった時にも、以前と違い全く苦労しなかったし、歩き回るのも非常に楽で、まさに全盛期の頃を超えるくらいに感じさせた。
健康体だ。鏡は無いが、そんな気がする。
「やっぱり若返られた。不思議な感覚だが、嫌…じゃない。しかも記憶や経験を維持したまま? これで、僕は自由に生きられる。……第二の人生をちゃんと嗜める」
そう呟いた瞬間、何か甘い香りがした。その香りを知っていることに気付いたのは、数秒後。
解毒用ポーションの限界成分であるアマリアと呼ばれる花の種類のしめやかな残り香が漂い、鼻を擽ってくる。
「そうだな。森だから。にしても、いい匂いだなぁ」
そう言いながら空気をクンクンするアイザック。
(? ………この匂い?)
近くに、慣れた匂いがする。 下から。地面を見下ろすと、何かが見えた。身を屈め、アイザックは鋭敏な視線で草を観察する。
「これは…僕の薬草園で育ててた薬草だよね……」
薬草を引き抜き、解析魔法を発動した。
「重さは……約0点5グラム。やはり同じだ」
普通の薬草は約0点1グラムである。治癒のポーションやマナ・ポーションの強力さを高めるために、1000年前世界を徘徊した錬金術師が、アムライと呼ばれる草の種類を魔力で注入して繁殖したのだ。その追加された魔力のおかげで、草の重さがほんの少し上がったのみならず、草の構造全体も完全に変わっていった。こうやって治癒のポーションなどの限界成分となった。
「つまりここは、僕の研究所の残骸か? 見たところからすると、弾道弾にでも破壊されたかのように見えるが、それは有り得ないでしょ。だって僕はあの爆破に殺されたに違いないから」
そう考えるアイザックだった。
(まぁ、それはさておき。薬草を一応取っておくか。念の為にさ)
深く考え込まないことにすると、アイザックは腰に付けられていた茶色のポーチを開き、しばらく漁ると、その中から小さなビニール袋を取り出し、再び身を屈めて一握りのアムライ草を引き抜いてビニール袋を開封して中に入れた。
それが終わったら、ビニール袋を封じ直してボロボロのポーチに再び入れると、立ち上がった。
鬱蒼とした枝葉に覆われる風景を観察すると、どこにも動物の姿や輪郭が見当たらない。けど見当たらないのだとしても、聞こえる。走る足の音や森中に鳴り響く鳴き声が耳に侵入する。今いる場所を正確に示すほどにはっきりと聞こえる。
それが、純粋な自然だ。
何年に亘って世界に晒せず、アイザックは郷愁の感傷に襲われた。湧いてくる幸福感に意識が鈍くなると、彼は久しぶりに破顔した。
(さてと……どうすればいいのだろう? この辺はよく知らない……とは言ってももしこりゃ僕の研究所の残骸なら、魔の森にいるじゃん)
両腕を組み、考えるような顔をした。
(まぁ、とりあえず………森を抜こう。その後はどこへ向けばいいのか、そのときに考える………それでも最悪だなぁ、この状況は)
欠伸を漏らし、アイザックは微笑む。
(でもそりゃ仕方ない。そろそろ行くか)
そう決めると、振り返ることもなく彼は、歩き出した。