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壁は乗り越える時が一番面白い。

 滝川の家からの帰り道。


 俺は寝ぼけから解放された会長に、さっきの事を報告していた。



「ふむ、なるほど。つまり、貴様が怒りに任せて色んな事を言って、結局はあそこに行った目的を忘れていたと。そういう事じゃな?」


「……面目ない」



 俺でも驚いてる。


 冷静になった今だから言える事だが、たかが反抗期であんなに頭に血が上るだなんて、ちょっと信じられなかった。



「はぁ、まったく、どうするんじゃ。貴様のせいで、変な隊を仲間にする計画が潰れてしまったではないか」


「あっ、俺今日、バイトあるんだった。ぞれじゃ、俺はここで」



 これ以上ここにいても、会長にグチグチ言われるだけだと思ったので少し速いけどバイトに行こうと思った。


 だけど、会長は走り出そうとした俺の腕をガッシと掴んで、ギリギリと力を込めてくる。



「痛い! なんだよ、俺がなにかしたか!?」


「貴様、アルバイトをしておるのか?」


「……ああ、一昨日から始めたけど」


「おい」



 いきなり低い声を発し始めた会長は、俺の胸倉を捻り上げるようにして掴むと、そのままズイッと体ごと近づいてきた。



「な、なんでしょうか」



 低い位置から凄まれているのだが、圧迫感ぱねぇっす。小さな会長が、かなり大きく感じてしまう不思議。


「神川高校は進学校だからアルバイトは禁止のはずなのじゃ。その辺をどう思う?」



 あっ、なんだそう言う事。ふふふ甘いな会長。そんなものには既に対策くらい立ててあるさ。


 俺は胸倉を掴まれたまま、会長を見下ろす。



「あれって、『原則』禁止だろ? 『全面』禁止じゃない。止むを得ない状況なら、バイトをする事は許されるんだ」


「貴様にそんな理由があるというのか?」


「ああ、実はな。親からの送金が全くなくて、今月はまだ大丈夫だけど、来月もだったらやばいんだ。だからバイトを始めた。分かった?」



 実際は、日曜日に念のために記帳しにいったら、普通に入金されてたけどね。


 だからバイトをする理由はもうないんだけど、せっかく見つけたんだから最後までやりたいじゃないか。


 もちろん、そんな事実は言わず、会長の様子を窺う。なにか考え込むような仕草をしていた彼女は、大げさに溜息を吐いた後、何度か頷いた。



「分かった。それなら仕方ない。まぁ、アルバイトも社会勉強になるから、そこまで目くじら立てる必要もないかもしれんの」



 俺がバイトを続ける本当の理由に気付いているのか気付いていないのか知らないけど、そんなに溜息を吐かなくてもいいんじゃないか?



 会長と別れた俺は、バイト場まで歩いて向かった。


 新聞社のビルの近くに来るとその裏にある雑木林が目に入って、そして駐車場にへと視線が移る。


 土曜日はあそこら辺で滝川にやられて、すぐにやり返したんだっけ。


 日曜日にバイト場に行ったけど、その時の光景を見ている人はいなかったし。


 俺の傷を偶然見た怠惰さんは、なんか面倒臭そうな顔しながらすぐに視線外してたし。


 ここで考えてても仕方ないか。もうすぐ時間だし、さっさと中に入っちまおう。




 まだ教えられていなかったバイトの仕事を引き継ぎしてもらったり、お客さんにお茶出しなどをしていたら、怠惰さんにもう一回倉庫整理して来いと言われたので、やって来ました倉庫。


 壁に設置された棚には、製本とか縮刷とかが収まっていた。今日、整理するのは過去の新聞とスクラップだそうだ。


 六ヶ月前の保管されていた神川新聞と、スクラップブックを、持ってきた台車に載せて下に持って行けばいいらしい。簡単な仕事だし、すぐに終わらせて報道部に戻ろう。


 棚の中段ほどにある新聞の、一番下のを抜き取って台車に置く。この作業を四回ほど繰り返すと、新聞は終わった。


 残りはスクラップブックだ。


 スクラップが収まっている段ボールの蓋を開けて、中を確認する。これで、一番年月が古い物を倉庫移動させるみたいだけど。


 試しに一冊取って、背表紙の辺りを見てみると、六年前の日付が記されていた。


 一番上でこれなのだから、下に行けばもっと古いのがあるかな。


 とりあえず全部を取り出して下のを取ってみる。しかし、これは三年前の殺人事件のものだった。なんだこれ、一番上が古いものなのかよ。


 記者さんが適当に取って、適当に仕舞ったせいかな。


 

「面倒だ」



 溜息を吐きながら、俺はスクラップを段ボールに戻そうとした。だけど、その前に、さっき目に入った殺人事件のスクラップの、表紙部分が視界に入ってしまう。



『昭和町一家殺人事件』



 ……これは、前に倉庫に来た時に見たものだ。あの時は大した興味はなかったけど、今は違う。ニートの言葉を思い出す。



『被害者』『殺人犯の身内』



 そして、前に俺が住んでいた街での殺人事件。それも家族殺しの。


 唾を飲み込み、震える手で、そのスクラップを取る。


 黄色の表紙を捲って、最初の一ページに貼ってある新聞の切り抜き記事が、一気に目に飛び込んできた。



「なん……だよ、これ……」


 

『平成十九年十月二十五日

昭和町に住む新藤寛さん(39)一家が惨殺されているのが発見された。妻の新藤みなみさん(39)、長男の幸一さん(19)が遺体となって発見。二男の宗太さん(14)は外出していたため無事だった。警察は生き残った次男に事情を聴く方針だ』


 寛……父さんの名前だ。みなみ……母さんの名前。でも、幸一。これには聞き覚えがない、かな。兄ちゃん? 俺に兄はいない。


 でも、次男の宗太って。俺の名前だし。



「どうなってやがる」



 思い出そうとしても、思い出せない。両親に最後に会ったのは三年前。――三年前?


 新聞の日付と同じ年。


 いやでも、毎月、入金されているし、それで生存確認しているわけだし……。


 だとすると、これは。



「まったく、世界は狭いな。同姓同名の家族が同じ町内にいたなんて」



 …………。



「いや、嘘。嘘嘘嘘嘘うそウソ。ないない、これはない」



『殺人犯の身内』



 滝川にこう言われたけど、もしこの記事通りだったら、俺以外全員死んでるし。流石に一家心中とかで、殺人犯の身内とかは言われないだろうし。


 そんな事を思いながらも、なぜかページを捲る手は止まらない。


 このふざけた記事が全部が全部、人違いだと確実に言える証拠みたいのが欲しいのかもしれないし、または――いや、やめよう。


 

「……」



 三ページ目を捲った時だった。左側のページに、気になる記事を発見した。してしまった。



『長女の新藤奈美さん(18)の所在が分からなくっている事が警察の調べで分かった。警察は奈美さんがなんらかの事情を知っていると考え、捜索している』


 奈美……? え、なにこれ。姉ちゃん? いやいやいや。良かったよ。これで、完全に俺とは無関係の家族だと立証できたわけだ。


 

「さて、と。とっとと作業終わらせよう」



 とりあえずスクラップブックはそのままにして、古い物を捨てに行く事にした。


 捨て終わった後は、倉庫の片づけをして報道部に戻って、コピーしてお茶出ししてたら終わりの時間を迎えた。





 午後九時。


 家に帰ってきた俺は、居間のソファに寝転がり、気になってコピーしてきていた新聞の切り抜きを読んでいた。


 

「ハッ、バカバカしい」



 何度読み返してみても、なにも思い出さない。だからこれは、俺の事じゃないのだろう。大体、兄ちゃんとか姉ちゃんは俺にはいなかったし。


 コピーした紙をその辺に放り投げ、腹が減ってきたので、コンビニで買ってきた弁当を食べる。


 それを半分ほど食べ終えた頃、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。そして、とたとたと歩く足音。美優かなー。


 

「宗、こんばんわー!」



 そう言いながら廊下と居間を塞いでいた襖を開けた美優が、入ってきた。



「元気だな、お前。眠気はもうないのか?」


「うん、大丈夫。心配してくれてありがとね~」


「別に心配はしてないけどさ」



 こんなやり取りをしている間にひっついてきた美優を引き剥がし、机の正面に座らせる。


「今頃、夕飯食べてるの? 凄く遅いね」


「ちょっとバイト行ってたからな。疲れて帰ってきたから、いつもより美味く感じる不思議」



 雑談をしつつ、弁当を完食。ゴミを捨てに行くのに、俺はソファから立ち上がって台所に向かった。


 ゴミ箱にゴミを押しつけてから居間に戻ってくると、美優がさっきの新聞の切り抜きを手に取って、不安そうな顔で凝視していた。


 

「ははっ、それ可笑しいよな。同じ町内に、父親と母親、それと子供の一人が同じ名前の家があったんだぜ?」


「え? ……あ、うん。そうだね。凄い偶然」


「あはは、そうそう。そう言えばさ、美優ってその家族の事をなにか知らないのか?」


「なんで僕が、この人たちの事を知ってるって思うの?」


「いや、あれだよ。俺と間違えてその家族に押し入ったって事はないのかな、と思って」


「宗」



 美優はそこで言葉を区切り、そして不安に揺らいでいるような瞳を、だけどそれを必死に押し隠そうとしている瞳を、さらにはどこか怒りを含んでいる瞳で、俺を見つめてきた。



「推測がついてるんだったら、はっきり言ってよ」


「推測? なんの事だ?」俺は両手を軽く広げて、おどけてみせる。「そんなの立ててないけどな」


「宗」



 今度はさっきよりもはっきりした声で、美優は言った。その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになっている。



「嘘は、嫌いだよ」


「……そうか」



 嘘だってバレてるなら、もう隠す意味はない。俺は美優の正面にあるソファに座り、俯いている彼女を見つめる。



「だったら、単刀直入に聞こう。お前は、この事件について、なにか知っているよな」



 この事件が起きたのは三年前。美優との付き合いは幼稚園の頃から。同じ町内で、何年も一緒に暮らしてきた。なのに、俺は、この事件についてさえ、さっぱりなにも知らない。


 同じ名字で、同じ町内で、名前もほとんど一緒。記事で見かけたら、嫌でも記憶に残りそうな事件なのに、俺の記憶にはそれに関するものがなにもない。これは、おかしい。



「僕を疑ってるの?」


「いや、疑ってはいない。だけど、なにか知っているんじゃないかって思ってる。お前とは昔からの付き合いだからな」



 というか、疑っているっていう単語が美優の口から出てきた時点で、なにか知っている……もしくは隠している確率がかなり高い。


 尋問してるみたいであまり良い気分じゃないけど、それでもなんだかこの事件は気持ち悪い。だから、全容を知りたいんだ。



「だから、教えてくれ。この事件って、俺になにか関係あるのか?」



 美優が持っている新聞の切り抜きを受け取り、はっきり見えるように眼前に突きつけた。


 美優は少しだけ肩を震わせ、顔を今まで以上に俯かせる。居心地が悪いのか、両足をモジモジさせたり、座り直したりを繰り返していた。


 少しの間だけ、無言の時間が流れる。


 そして、不意に顔を上げた美優の瞳には、先ほどのような揺らぎは感じられなかった。代わりに確固たる決意を感じさせる、強い視線を送ってくる。


 

「……話すけど、その前に一つだけ言わせて」


「なんだ?」



 心臓が高鳴る。


 これから、なにを聞かされるのか予想はついているけど、それでももしかしたら違うかもしれないという希望と、やっぱり同じじゃないのかという諦めにも似た絶望感が一気に襲ってきた。


 美優はゆっくりと、花が開くように、微笑む。それは俺がいつも見てきた彼女の笑顔で、少しだけ安心させてくれた。


 

「僕は、宗の味方だからね。例え、なにがあっても、なにが起こっていたとしても」


「分かった」



 俺の言葉を聞いた美優は、嬉しそうな笑顔になり、そして何度か深呼吸した後に、ゆっくりと、ポツリポツリと、言葉を紡ぐ。



「まずは……そうだね。宗が持っているその記事。それに書かれている事は、全部事実で、全部宗に関係していて、全部宗自身に振りかかった事件なんだよ」



 グニャリ、と。


 美優の言葉が鼓膜を通じて脳に伝達された瞬間、世界が歪んだ。


 ソファが、机が、テレビが、ゲーム機が、空間が、全て歪に原型を留めないくらいどうしようもなく、歪んでいく。


「僕も、あの時の宗に聞いたから、詳しくは分からないんだけどね」



 と、美優は前置きしてから話を続ける。



「三年前。宗の家庭は壊れたんだよね。あの日、宗がサッカー部の練習が終わって家に帰ったら、両親と幸一くんの遺体が転がっていたらしいんだ。そして、お姉さんの奈美ちゃんがどこにもいなくて……宗は彼女がみんなを殺したって言ってた。僕としては、そんな事をする人には見えなかったんだけどね」



 最初ははっきりしていた美優の声が、徐々に震え始める。


 美優はその光景を見たのだろうか。いや、聞いただけと言ってたいたのでその可能性は低い、けど……。



「あ……」



 声を出そうと思った。だけど、なぜか出ない。掠れた声が、息とともに吐き出るだけ。



「それでね。それからの宗は酷かった。中学三年生の十月頃って言ったら、高校受験とかで忙しいのに、ロクに学校にも行かないで、ずっとずっと、喧嘩ばかりしてた。宗の家――警察の人が掃除していったから、血とかはなにもなかったんだけどね、そこで宗を心配して、僕はずっと待ってた事もあったんだ。だって、傷だらけで帰ってくるんだもん」


「……」


「人を殴るとスッキリする。血を見ると興奮してやめられない。あの頃はそればっかり言ってた。僕が話しかけても、なんも反応してくれなかったし」



 美優の表情に陰りが見えた。俺を見つめてきていた大きな瞳には涙が溜まり、それを見られたくなかったのか、目を伏せる。



 あの時、滝川を殴った時の話だけど、やっている最中は興奮したし、血がざわついて抑えきれなくなっていた。


 あれは、中三の時の名残なのかもしれない。



「それでね、結局、奈美さんは見つからなくて、そのせいで宗はどんどん荒んでいって……。僕はどうしたらいいのか分からなくて、傷の手当しか出来なかった。喧嘩なんかやめて学校行こうよっていう当たり前の言葉すら、言えなかったんだ」


「……ちょっと待ってくれ」



 やっと声が出た。だけど、随分かすれていて、震えていて、本当に自分の声かどうか一瞬疑ってしまった。



「あっ、話すペース速かった? だったらもう少し遅くする……」


「そうじゃない」



 気になる事があった。


 さっきから美優の話を聞いていると、俺は喧嘩ばかりしていたという事らしい。


 だけど俺は……。



「喧嘩弱いのに、毎日のように行ってたのか?」



 俺の言葉に、美優は頷く事無く、ただただ悲しそうに、自虐するように、自嘲するように、ふるふると首を左右に振る。乱れた髪の毛の間からは、誰かを軽蔑するかのような視線が見えた。



「違うよ。宗は喧嘩強かった。――だけど、これは後で話すね。大事な場所だから、先に話すべき事じゃないから」


「……分かった」


「話を戻すけどね」



 美優はソファの上で座り直してから、続きを言った。



「あの頃の宗は、恐かった。喋らないし、喧嘩ばかりしてたし、目つきも凄く悪かったから。でもね、それだけじゃなくて、色んな専門的な本を読んだりしていたんだ。読んでるだけならいいんだよ? 良い事だよね、それって」



 美優は「でもね」と、言葉を付け足した。



「これを使えばあいつを、その……殺す事が出来る――とか。こうすれば、俺は捕まらないかもしれない……とか。物騒なことばっかり言ってた」


「……」



 あの、日常生活には全く必要ないようなウンチクみたいな知識の事か?


 でも、ああいう知識はミステリー小説とかテレビとかで得ただけ……ああ、そうか。ミステリー小説は、昔から家にある奴だ。昔の俺が読んでてもなんら不思議じゃない。


 そういった用途で使う事は、一度も考えた事がなかったけど。


 そう言えば。森の中で迷わないようにする方法とか、罠の設置方法とか。ああいうのって、かなり凶悪に使えば、昔の俺が考えていたっていう使い方に応用できるかもしれない……。


 森の中でのやつは、夜に隠しに行った時、切株を見つけて、地図を持っていれば迷う事はないしな……。


 だけど、そんな事にこの知識を使おうとか考えるなよ。


「それでね、宗は奈美さんを捜してたんだ。警察は信用できないから自分で捜すって言って。それでも、見つからなかった。どこにいるのか、そのヒントさえ見つける事は出来なかったんだ。でもね、僕はそれで良かったと思う。だって、宗が人殺しにならずに済んだんだから」



 確かにそうかもしれないけど。……それでも、その時の俺は納得しなかったんだろうな。



「そして事件から一週間ぐらい経ってから、宗は……壊れ始めた。街でぶつかっただけで、その相手に殴りかかったり、いきなり叫び始めたり、電気も点けてない自分の部屋でずっとなにか呟いてたり」



「そんな状態の俺と、よく一緒にいられたな」



 言葉が簡単に出てくる。さっきまでは受け止める事が出来なかった現実を、今は正面から受け止めているからか。それとも、もう押しつぶされてしまって、どうでもよくなったのか。自分で自分が分からない。


 だけど、頭の冷静さは取り戻せた。


 美優はコクリと頷くと、俺を見据えてくる。涙がこぼれ続けているその瞳を、笑顔によって細めながら。



「約束したからね……。あの時の宗と。ずっと一緒にいるからって。僕だけはなにがあっても味方だって。……絶対に離れないって」



「そんな約束してたのか……?」



 全く覚えてないんだけど。なんでだろう。そんな事を言われたら、忘れるはずがないと思う。



「うん。でも、宗は覚えてないよね」


「いや、覚えて……」


「さっきも言ったけど、嘘は嫌い。宗は覚えているはずがないんだもん。絶対に」



 なんで美優にはそこまでの確信があるのだろうか。いつもなら適当な嘘でも信じてくれるのに。こういう時に限って、信じてくれない。


 

「なんで、そう言い切れるんだよ。覚えてるかも知れないじゃないか」


「ない。絶対に」


「だからなんで!」



 美優の絶対と言い切る態度に、なぜか頭に血が上ってしまい大声を出してしまった。



「その理由を今から説明するから。まずは落ち着いて僕の話を聞いて……?」



 とりあえず、言われたとおりに心を落ち着かせる。これからが、美優がこの話題で一番、言いたくない場所なのだろう。


 目を伏せて、嫌そうに顔を歪めて、なにかに耐えるように歯を食いしばっていた。



「さっきの質問の答え……喧嘩が強かったっていう話のことなんだけどね。それが関係してる。なんで宗は、自分が喧嘩弱いって思ってたの?」


「いや、だって、喧嘩とかした事無いし。やっても負けるに決まってるし」


「……それだけ?」


「ああ、そうだ」


「学校のトイレで滝川くんと喧嘩したり、公園に行った時、僕を変な男の人から守ってくれたよね? その時、なんて感じた? 恐かった? 恐ろしかった? 負けると思った?」


「……」


 あの時はほとんど負ける気がしなかったのが本音。だってあいつら、馬鹿そうだったし、実際に馬鹿だったし。


 だから俺の穴だらけの言葉責めとかを恐れて、逃げだしたり、簡単に罠にかかってくれたりもした。


 だけどそれはあいつら限定……ってちょっと待て。なんで美優は、俺が滝川と学校のトイレで喧嘩をした事を知ってるんだ。


 あの時俺は、嘘をついてトイレに向かった。確か、鳴海を迎えにいくとかそんな感じの言葉で。だけど、なんで、美優は、事実を知ってるんだ。


 美優は俺の表情から疑問を読み取ったのか、微かに笑ってからそれに対する答えを言ってくる。



「なんで僕が知ってるのか、ていう事が疑問なんだよね。それの答えは簡単だよ。僕は、あの時、男子トイレの近くにいたんだから。宗が嘘をついてるって、すぐに分かったから。そして宗が嘘を吐くのは、なにか変な事をするのを誤魔化すためだって知ってるから。僕を巻き込まないようにって、そんな心遣いで。でも、ね。どんな形でも嘘は嘘。さっきから言ってるけど、嘘は嫌い。嫌いなのに、宗がついた嘘にはすぐに気づいちゃう。騙されたままでいたいのに。だって、ほら。宗がついた嘘でも、僕が信じれば、それは僕にとっての真実になるからね」



 本当に、宗は嘘が下手だよね、と、美優はからかうように言ってきた。


 という事は、美優は俺がついた嘘をすぐに見破って、それを怪しんで俺の後をつけてきたのか。


 そこで、トイレの中から色んな音が聞こえてきたり人が飛び出したりしたので、大体は予想がついたのだろう。


 でも、あの時、近くにいた会長は、美優がいたなんて一言も言ってなかった。美優もそうだけど、会長も大した役者だな。全然気付かなかった。


「それでね、話を戻すけど。宗は、喧嘩が弱いって思ってた。うぅん、少し違うかな。弱いと思わされていたんだ」


「思わされていた? 誰に? なんの理由で」


 

 心臓がドクンと大きく跳ねた。ここからだ。ここからが、この話の本題なのだ。だからこそ、美優はこんなにも言い難そうにしている。



「うん。これはね……宗の記憶が無い事と関係しているんだ。さっきも言ったけど、宗は壊れていて、僕だけじゃどうしようもなかった。だから他の人の力を借りて、宗を、事件が起こるより前の宗に戻した」


「戻した?」



 そんな、リセットなんて出来るはずがないんだから、その戻したっていう表現方法はどうなんだ?


 俺がその事を言うと、美優は緩やかに首を横に振った。そして、先ほども見せた、あの誰かを軽蔑するかのような視線――いや、違う。あれは自分自身に向けられているのだろう。


 

「違うよ、戻したっていう表現は正しいんだよ。自然に治ったんじゃなくて、人の手を加えて過去の状態に戻したんだから」


「……でも、どうやって」


「簡単だよ。宗なら、もう予想はついてるんじゃないかな」


 今度は俺が首を横に振る。自分の口からは言いたくない。できれば、美優の口から聞きたい。それがどんなに最低な結果だとしてもだ。


 美優は一度、胸を上下させて大きく息を吸った。それから気持ちを落ち着かせるように、焦る気持ちを全て吐き出すように、ゆっくりと、その小さな口を動かして、その言葉を、告げてきた。



「宗の記憶はね、催眠術で封印してあるんだ」


「催眠術……?」



 それって、あの、五円玉を揺らして暗示をかけたりする、あれだよな。



「そう、それで閉じ込めているんだ」


「それは、俺が望んでそうしたのか?」


「……ちょっと違うかな。提案したのは、僕。そうする事で、辛い過去を忘れる事ができるって言って」


「そうか……」



 美優が勧めてきたとしても、それを選んだのは俺。つまり過去の俺は、その過去から逃げた事になる。……それでも、しょうがないか。


 美優は座り直して、そして嫌な事を言うために心の準備をしているのか、胸の前で握りこぶしをギュッと作った。その拳は、少しだけ震えている。なにかに怯えるように、なにかから逃げ出したいとでも言うように。



「記憶を閉じ込めた宗は、昔の宗に戻った。優しくて、たまに変なこと言って、時々、毒舌を披露したり。学校にもちゃんと行くようになったんだ。……一応言っておくけど、宗が喧嘩をしていたっていう事実は、学校側は知らないんだよね。誰にも見つかりそうにない場所で喧嘩してたみたいだから。だから、高校への推薦もとれたんだと思う」



 まぁ、それは置いといて。美優は話を続ける。



「そんな宗の姿を見ていて、あぁ、僕は間違った事をしてないんだって、安心してた。安心できてたんだ。それでもね、やっぱり心の奥底では、そんな感情とは全く違うものがゆっくりと広がっていったんだよね」



 美優はギュッと目をつぶる。震えが激しくなってきた握りこぶしを、もう片方の手で包み込んだ。



「僕は、宗の傍にいてもいいんだろうか、って思うようになった」


「宗の記憶を閉じ込める時に、術師さんに言われた事があるんだ」



 俺と視線が噛みあうのが恐ろしいのか、美優はまた目を伏せた。下の方を見て、出来る限り、震えを抑えようと努力しているようにも見える。


 それでも、ポツリポツリと、道端を照らす電柱のように頼りなく、機械的に、人工的に、感情を無にするように心がけているような声音で、先を話し続ける。



「なるべく、過去を想起させるような事をしないほうがいいって。過去を思い出させるようなものは、捨ててしまった方がいいって。――最近、アルバムとかって見た事ある?」


「……ないな」


「探しても三年前の写真だけは見つからないはずだよ。本当は、こういう新聞記事も全て無くしたかったんだけど、それは無理だったからね」



 彼女は、俺が持っている記事を恨めしそうに見つめる。



「それでね……その術師さんの言うとおり、昔の事を思い出させるような物は、なるべく捨てたんだ。そしたら、最後に残ったのは、者だった。そう、人だね。僕と、坂井くん。それと、地元の中学から同じ高校に進学した人達」



 あはは、と、自虐的に美優は笑う。



「本当は、僕の事も宗の記憶から削除してもらって、引っ越しにもついていかないで、違う場所に行くべきだったんだよね。その方が……宗の未来は安泰だから。安定しているから。少しでも、昔を思い出すような不安要素はなくしておきたかった」


 それでも。美優は。


「出来なかった。宗の目の前からいなくなる事が、宗の中から僕がいなくなる事が、本当に怖くて、恐ろしくて、想像しただけで泣きたくなって……。自分勝手で、ごめんね」


 伏せた目の間から、雫が零れ落ち机を円状に濡らしていく。


 俺はそんな美優に声をかけようとして……しかし、なんて言っていいのか分からずに閉口した。


 

「僕の自分勝手な考えとは別にね、記憶を無くす前の宗と約束もしてたから……」



 ずっと、傍にいるからって。美優はさっきそう言ってた。そしてこの言葉は、この前、彼女が寝言で言っていたものでもあった。



「ねぇ、宗。覚えてる? ……覚えてるわけないよね。昔ね、『僕』は自分の事を、『私』って言ってたんだよ? つまり、一人称が今とは違っているんだけどね」



 そして。



「宗の事は、『宗ちゃん』って呼んでた」


「……ああ」



 そこで思い出すのは、昨日、滝川の家で犬に襲われた時に、走馬灯っぽいものが流れた時の記憶。


 あの時、確かに美優は『私』であって、『宗ちゃん』って呼んでた。


 この名称の違いも、もしかしたら。



「宗がなるべく昔の事を思い出さないようにするために、僕……違うね。私がわざとしていた事」



 少しでも、脳の奥に封じ込めた記憶が蘇るのを防ぎたかったから。それゆえの、苦肉の策。


 

「私は『僕』になって、『私』を消したつもりになっていた。『宗ちゃん』を閉じ込めて、『宗』で納得しようとしてた。本当に、ダメだよね……」


 そう言って、先ほどから何度か見せてきている、自分を軽蔑するかのような目になる。その瞳からはまだ、涙が零れ落ちていた。


「これで、お話は終わり」



 美優は震えた声で、過去話に終了を告げた。


 俺は……一時的に冷静になっていた頭が、混乱の渦の中に入り込むような感覚を覚えていた。


 一度、消えた不安や焦燥感などが、水に垂らした墨汁のようにゆっくりと広がり、そして心の中を満たしていく。


 だけど、そんな中で、思い出す事があった。


 ゴールデンウィークの初日、北島に無理やり連れられての山登りをしていた時。


 暑さとかで頭をやられた俺が歌い出したのを見て、美優はかなり引いていた。


 あれは、俺の主観からしたらそう見えただけであって、本当は三年前の俺と少しだけ重なった部分が見えて、怯えていたのかもしれない。


 ……記憶が少し戻って、前の状態に戻ってしまったのかも、って。



「は……あはは……」



 もうどうしたらいいのか分からなくて、泣いていいのか笑っていいのか怒ったらいいのか、それとも哀しんだらいいのか……本当に分からなくて。それほど頭がぐちゃぐちゃで。


 気付いたら、掠れた笑い声が漏れていて。それを見た美優が、不安そうに俺を見てきていて。



「ゴメン。……今日は帰ってくれ」



 これ以上、美優がここにいたら、この感情に流されて八つ当たりしそうで怖かった。だから、帰って欲しかった。


 だけど。


「そ、宗! 大丈夫だよ、絶対。記憶が戻る事は、そうそうないって、術師の人も言ってたし」


「だから、心配しないで? 過去の事は過去だから。もう覚えてないんだから、それは他人みたいなものだし、ね?」



 ――分かってる。


 美優が今言っているのは、俺に対してのものと、自分自身が抱えている罪悪感を少しでも無くそうとしているものだっていう事は。



「大丈夫。今までだって、なにも起こらなかったんだし、これからだってなにも起こらないよ」



 ――美優が抱えている罪悪感は、俺の記憶を無くす切っ掛けとなった事を提案してしまった事。


 それから、その後三年間、俺にその事を全て隠していたという理由からくるものだっていう事も知っている。



「もし……もしもだよ? 記憶が戻っても、僕は僕のまま。宗から離れない」



 ――分かってる。


 その罪悪感やらなにやらの他にも、……いや、それこそが美優の一番の行動理由だっていう事も。



「いいから――」


「だから、ほら。明日になったら、いつも通りの生活が戻って来るから……戻って来るから……だから」


 

 その行動理由が、優しさからくるものだっていうのも、理解している。だけど――だけど今は……。


「本当に、いいから――」


「だから昔には……」


「――ッ出てけぇぇ!!」



 ――その優しさすら、煩わしい。


「ご、ごめん……」


 

 肩を小さく震わせた美優は、今にも消え入りそうな小さい声でそう言った。



「本当に、ごめんなさい」



 ゆっくりと立ち上がり、何度も俺の方に振り向きながら、居間の出口に向かって行く。



「――そうだ」


 襖を開ける途中で首を回して俺を見てきた美優は、その瞳を揺らしながら、本当に不安そうな声で、


「これだけは約束してくれる? 昔の宗に戻ったら、嫌だよ……?」


「ああ」



 脳内で渦巻いているどす黒い感情を押し殺し、短く返答した。これが精一杯だった。


 俺の答えを聞いた彼女は、少しだけ安心したのか、その顔に笑みを浮かべ、そして部屋から出て行った。




 独りになった室内。


 美優が教えてくれた俺の過去話が何度も何度も、壊れたレコーダーのように再生される。


 頭がぐちゃぐちゃで、思考が纏まらなくて、なにも分からなくて、なにも考えたくなくて――だけど整理しなくちゃいけなくて。


 

「信じらんねぇよ……」



 本当に、父さんと母さんは、もういないのか……?



「送金は誰がしてたんだよ」



 あれがあったから、俺は生きているという風に考えていた。もしも一ヶ月毎に、入金されていなかったら、俺はとっくにこの可能性に気付いていた……いや、違うか。


 うすうす、勘付いてはいたんだ。


 その上で、親は生きているって、思いこもうとしてた。信じたくなかったから。


 膝を抱えて、天井を仰ぎ見る。無感情な天井は、ただ俺を見つめ返してくる。


 なんとなくそれをボンヤリと感じながら見続けていると、視界が霞んできた。


 靄がかかったかのように視界に入るもの全てがぼやけて、喉の奥がツンとした痛みを発してくる。



「くそ……」



 眉間をつまんで、あれが流れ落ちないようにしながら、天井を注視する。そうでもしなければ、今すぐにでもダムに亀裂が入りそうだった。


 頭を何度もよぎるのは、新聞に書かれていた記事と、美優が話してくれた内容。


 親が、見知らぬ兄が、もうこの世にいないという、どうしようもなく、抗いようもないほどの、厳しい現実。



「……じゃねぇよ」



 思い出してきたのは、何年か前に家族で行った旅行。父さんが笑っていて、母さんも笑っていて、俺も笑っていて……。


 その幸せそうな姿を、遠くから眺めている悲しそうな目をした現実イマの俺がいて。出来る事なら、今すぐにでも戻りたい場所。



「死んでんじゃねぇよ……」


 

 だけど、絶対に戻れない過去。


 それを認識した途端、それが切っ掛けとなったように、今までギリギリ持ちこたえていたダムに亀裂が入り、そして、中の水が溢れだす。


 

「本当に、もう……」

 

 

 会えないのか。


 頬を伝った水が、顎の先から滴り落ち、ズボンやソファを濡らしていく。


 腕で顔を隠した。


 嗚咽だけはどうにか殺そうとしたけど、やっぱり無理だ。キツク閉めたはずの唇の間から、何度も何度も何度も、勝手に声が漏れる。


 目が覚めた


 いつの間にか、ソファの上で寝ていたらしい。


 不格好な体勢で寝ていたため、所々、痛い体を引きずりながら、洗面所で顔を洗う。


 

「ははは……」



 鏡で見えた自分の顔を見て、苦笑するしかなかった。いつも眠たいから、そのせいで半分ほど閉じられていた目は赤く充血していた。


 久し振りに泣いたから、なんか頭がぼんやりする。整理なんてできるはずがない。


 

「……なんか」



 体ダルいなぁ……。


 学校に行く準備をしようと思ったけど、やる気が起きない。なんかもう、どうでも良かった。


 美優が言ってた過去の自分に戻る気はしないけど、今回はある意味、それ以上に酷いかもしれない。


 こんな事を本気で考えたかもしれない。


 人によっては最低な考えた方だと罵倒されるに決まってるし、まだまだそうなりたくない人たちだって何千人、何万人、何百万人、何千万人――それ以上いる事だって理解している。


 だけど、俺には、その行為がかなり魅力的に思えてしまい、それをやった後にはどんな風になるのかに興味がそそられる。


 死にたい。


 本当に、人生なんてどうでもいいから。


 死んだ後の世界ってものがあるのを信じて、そこに行きたい。そこでなら、父さんや母さんがいるかもしれないから。


 本当に、最低だ、俺。



 なにもやる気が起きないまま、テレビをボーッと見つめる。何気なく時計を見てみると、もうすぐ正午だった。


 腹減ったとかは思うけど、動きたくない。このままここから動かなかったら、餓死するだろうなー。……それでもいいかな。


 生きる気力が湧かないや。


 過去の俺も、こんな感じだったんだろうか。こんな状態から抜け出すために、喧嘩とかに逃避していたんだろうな。


 それに、実の姉が犯人だなんて、信じられないし。……いや、信じてたんだっけ? 昔は。


 どうしようか。本当に。

 

 どうすれば、いいだろうか。この無気力から抜け出すのにはどうしたらいいんだろう。



「……昔を思い出そうかな」



 そうしたら、少しはマシになるかもしれない。


 そう思い、力の入らない足を無理やり動かしながら、押入れにしまってあったアルバムを引っ張り出す。日付は三年前から五年前くらいのもの。


 ソファに戻って、目の前にある机にアルバムを置いてから表紙をめくってみたら、いきなりの白紙だった。


 写真が一枚も挟まってない。


 そういえば、美優が言ってたっけ。三年前のものは捨てたって。じゃあ、ここには、昔の俺とか母さん、父さん、兄ちゃん、もしかしたら姉ちゃんが写ってたかもしれないんだ。


 どういう顔だったんだろうか。


 その後もペラペラとページをめくっていくと、分かった事があった。


 三年前よりも前の写真について。


 このアルバムは一ページに四枚ほど――無理をすれば五枚くらい収める事が出来るものなのだが、明らかに他のページと異なり、枚数が少ないページが何ページかあった。


 例えば、普通のページならば、四隅に入れてある写真が、左上、真中、右下にしかないこと。


 そしてよーく見てみると、写真がない空きスペースに、写真がはがれないように塗ってあった、ノリの跡が残っていたりしていた。


 つまり、このページには、通常通り四枚、もしくは五枚貼ってあった事になる。しかしなぜないのか。それは、少し考えれば分かる事だ。


 はがされた写真があり、そしてその写真には、兄ちゃん、もしくは姉ちゃんが映っている。


 はがしたのは美優で、俺の記憶が戻る手がかりのようなものをすべて捨てたいがためだろう。



「どーでもいいけど……」



 いまさらこんな事実を突き付けられても、どうしろというのだ。犯人を名指ししておいて、証拠が全くない時の探偵みたいな心境だ。


 だけど、ここに残っている写真に写っている俺って、なんか仏頂面ばっかだ。母さんとか父さんは笑っているのに、なんで俺はこんな不機嫌、ていうか無表情に近い顔をしているのだろうか。


 もう、この三人で撮る事はできないんだぞ……。


 昔の事を思い出そうとしても、蜃気楼のように揺れたり、ぼやけていてなかなか鮮明に思い出せない。


 美優とか鳴海と遊んだ事は簡単に思い出せるのに、その途中で父さんとか母さんが出てくると、一気にぼやける。


 なんでだろう。


 これも催眠術の影響なのか? 兄ちゃんとか姉ちゃん、それと過去の記憶を閉じ込める時になにか手違い的なものがあって、父さんとか母さんに関するものも不鮮明になっているのか?


 そう言えば、鳴海も俺の過去を知ってるんだよな。なのに、よく一緒にいれたもんだ。それもなにも知らない顔をしながら。


 俺の周りって、なんか凄い奴ばっかりだ。


 

「それにしても……」



 本当に、父さんと母さんは見てるこっちが気持ち良くなるような笑顔を浮かべてる。そんなに楽しい事でも一杯あったのかな。


 こんななんの意味もない事を思考しながらも、心の片隅では一つの疑問が浮かんでくる。


 

「なんで、この人たちが殺されなきゃいけなかったんだよ……。それも、実の娘に……」



 なにも悪い事なんてしてないだろうし。なのに、なんで。


 次のページを捲ってみる。


 このページは普通に四枚貼ってあり、やっぱりそのどれもが笑顔で写っている両親ばかりで……。



「ん?」



 その中の一枚。右隅にある写真が剥がれかけていた。


 なんとなく、本当になんの理由も無く、その写真をアルバムから外してみる。


 写真は、京都に旅行に行ったときのもののようで、両親と俺の背後に金閣寺が写っていた。


 写真の右隅にある日付を確認してみると、約三年前の八月になっていた。


 ……美優の話によると、事件が起こったのは三年前の十月頃。ということは、これは事件が起こる前に撮られたということは簡単に分かる。


 この写真を見ていると、また目頭が熱くなってきた。この二ヵ月後にこの人たちがいなくなるなんて、想像できたはずがない。


 手が震えて、徐々に力が入ってこなくなる。


 やがて、写真を掴んでいられる力すら失われ、過去を写している紙はヒラヒラと地面に落ちていく。


 霞み始めた視界の中、裏返しになった写真が床に着地する。


 

「……?」



 そこで気付いた。


 写真の裏側に、なにか小さな文字が書かれている。


 不思議に思い、それを拾い上げて、目を袖で拭ってから文字を確認する。


 

「……はははっ」



 こんな状態なのに、思わず笑みがこぼれる。



『宗太をほったらかし過ぎたので、それの穴埋めとして京都旅行。親にしか分からないほど、ちょっとだけ宗太の機嫌がよくなったみたい』



 さっきまでとは別のものが、胸の内に込み上げてくる。それは温かくて、とても安心できて、優しい気持ちになれるものだった。


 他の写真の裏にも、母さんと思われる筆跡のコメントは書かれていて……。


 さっきも感じた嬉しい気持ちとか悲しい気持ちとか、様々な種類の気持ちがごちゃ混ぜになって、なんか複雑だ。


 写真を次々に剥がして、一枚一枚の裏を確認していた所、来客を知らせるインターホンが鳴り響いた。


 動く気が無かったのでこのまま居留守を続けようと思ったのだけれど、音の残響が消えると同時に繰り返し鳴らされるので、しかたがなく出る事に。


 襖を開けて、奥の方に見える玄関の方に歩き、扉は開かないで覗き穴から外を見る。


 

「……鳴海」



 そこには夏用の制服を着た鳴海が立っていた。


 警戒を解いて、解錠してから扉を押し開ける。



「よっ」


「……なんか用?」



 外の明るい陽射しのせいで目を細めながら鳴海にたずねると、彼は肩を竦めて、冗談っぽい軽い口調で理由を言ってきた。



「どっかの誰かさんがさ、真実を知って泣き虫になってんじゃないかって思ってな。まぁ、誰かさんの顔を見てみると、もう泣きやんだみたいだけどさ」


「そうか。じゃあ、今日は帰ってくれ。俺に構う暇があったら、サッカーの練習でもしてろよ。もうすぐ最後の高体連だろ」


「いやー、暑いなー。せっかくここまで来たんだからさ、麦茶ぐらい飲ませてくれよ。さっ、どいたどいた。お邪魔しまーす」


「あっ、おい!」



 俺の言葉になんて聞く耳持たず。鳴海は俺を押しのけて、勝手に部屋に入ってしまった。



「おい鳴海!!」



 なんの迷いもなく俺の部屋に向かっていた鳴海の肩を掴み、無理やりこちらに振り向かせる。


 振り向いた鳴海の顔には、いつものような親しみやすい――というか馬鹿っぽい笑顔は浮かんでおらず、無表情に俺を見つめてきていた。


 しかしそんな顔も一瞬だけ。すぐにあの笑顔になると、しかしなんの感情も含まれていない声を出してきた。



「お前も、俺になにか聞きたいことがあるんじゃないのか?」


「……」



 俺の無言を肯定と受け取ったらしい鳴海は、声も通常通りに戻した。



「んっ。それじゃ、改めてお邪魔します。お前の部屋と居間、どっちがいい?」


「じゃあ、居間で」


「おっけー」



 右側の扉を開けた鳴海は、そのまま居間に入っていく。俺もその後に続いて、中に入った。


 彼をソファに座らせてから台所に行き、とりあえず麦茶をコップに入れて持っていく。


 一つを鳴海の前に置き、もう一つは俺の。


 外が暑かったのは本当なのか、鳴海は麦茶を一息で飲み干し、おかわりを要求してくる。



 この後に聞くことを頭の中で整理しながらおかわりをコップに注いで、また前に置く。


 鳴海は今度は一気に飲む事はなく、ジッとガラスコップの表面を眺め始めた。


 このまま黙っていても進展が無さそうなので、俺は話を切り出す。



「そろそろ聞いてもいいか?」



 俺の言葉に頷いた鳴海を見て、今まで頭の中で整理していた内容を言葉にしていく。



「お前も、俺の過去を知ってるんだよな?」


「もちろん」



 それがなにか? とでも言いたげに鳴海はあっさりと言い放ち、そして爽やかな笑みを浮かべる。


 あまりにもあっさり返答された事に少し困惑しながらも、緊張のせいで乾いてきた唇を舐めてから次の質問に移る。


 この質問に対する鳴海の答えが最悪なものしか思い浮かばない。だから本当は聞きたくないけど、それでもこれだけは聞いておきたい。


 速くなってきた鼓動を落ち着かせ、鳴海を見据える。



「……恐いとか、思わないのか?」



 間が空いた。


 なにかを考え込んでいるような鳴海を見るのが嫌で、恐くて、思わず目を瞑る。


 実際には数秒しか経っていないはずなのに、俺には十分以上に感じられた時間が、終わりを迎える。



「恐い? なんでだ?」



 その言葉を脳が認識した途端に、一気に目を開く。


 やっぱり、いつもの馬鹿みたいな笑顔を浮かべて、そしていつもよりも優しい口調の鳴海。


 その笑顔を見たら、なんだか安心できて、最悪な答えしか予想できていなかった自分が情けなくて、馬鹿みたいで、悲しくて。


 また、視界が霞んできた。


 だけどそれを表に出さないように努めながら、俺は声を振り絞る。少しでも震えを抑えようと試みた。



「だって、俺って、殺人者の身内かもしれないんだぞ? そんな奴と一緒にいて、恐くねぇのかよ」


 鳴海は笑顔のまま、なにかを考え込むような間を空ける。


 やっぱり本音では恐いとか思っていたのだろうか。……もしそう思っていたとしても責めるなんて事は出来ないに決まっているけど。


 そんな本音を隠して、今まで俺と一緒にいてくれたんだ。感謝の言葉しか出てこない。


 こんな後ろ向きな事ばかり考えていたからだろうか。次に鳴海が言ってきた言葉の数々が、春の暖かい風のように俺の心を優しく包み込み、不覚にも嬉しさで涙が出そうになってしまう。



「泣き虫は去ったけど、今度は弱虫に寄生されているみたいだな。お前らしくもない」


「は?」


「なんでお前を恐いとか思わなきゃいけないんだよ。確かに新藤の姉は犯罪者かもしれない。けれど、お前とは関係ないだろ? ただ、血が繋がっていたり、姉弟だったりするだけだ」


「いや、でも……」


「学校の奴らは裏でこそこそ言ってるけどさ、お前はなにもしないって事は俺がよく知ってる。付き合い長いからな」


「けど……」



 俺の事を信じてくれてるのは嬉しいけど、それでも納得できなかった。昔からの友達だっていう理由だけで、そいつを完全に信用なんてできるのだろうか。



「あー、うっさいうっさい。弱虫新藤には、使い古されたこの言葉をプレゼントしよう」



 立ち上がった鳴海は腕を水平に広げて、言葉の一つ一つを強調するように言う。



「お前はお前だ。俺の昔からの親友である、新藤宗太。それ以上でも以下でもない」


 目頭を押さえる。

 

 今の言葉を直接、脳にぶち込まれたみたいに、スゥーと簡単に脳に記憶され、そして染みわたる。



「だから俺は恐くない。恐いはずがないだろ? だってお前は、新藤宗太なんだからさ。新藤の事なら、相崎の次によく分かってると自負してるんだ」



 なんていうか、もう……。



「ありがとう」



 って言うしかないじゃないか。


 自分は自分。

 他人は他人。


 家族の事を他人ていうのは少しおかしい気がしたけど、それでも俺と姉ちゃんは別人。


 鳴海は長年一緒にいた俺の人間性とかを考えて、殺人者にはならないって考えたんだと思うんだけど……。


 でも、過去の俺は確かに、殺人を行おうとしてたみたいだし。いや、精神が弱っていれば、ああいう行動に出る人もゼロとは言い切れないのかもしれない。


 事件が起きる前の俺と、今の俺。美優の話を聞く限りだと、性格にはそれほど違いがないみたいだから、言える事。俺は人を殺そうなんて思わない。当り前だけど。


 そこら辺を、鳴海は感じとっていてくれたんだと思う。


 俺の家族が犯罪者になっている可能性もあるのに、それでも親友と言ってくれる鳴海に対して、礼を言うくらいしかできないのか。 


 情けない……。


「んじゃあ、俺は帰るかな」



 鳴海は居間の出口に向かって行く。


 さっきの言葉をを言う為に、わざわざ俺の家にまで来たのだろうか。


 あっ、最後に聞きたい事があったんだ。



「俺が落ち込んでいるっていうのを、誰に聞いたんだ?」


「もちろん、相崎にだ」



 振り返って、ニカッと白い歯を見せながら笑みを作る。


 ああ、そうか、美優か。そうだよな、美優しか知らないもんな。


 襖を開けて廊下に出た鳴海は、その場で歩くのを止めて、首だけ振り向いて俺を見つめてくる。



「一つ、言い忘れてた」


「なんだ?」



 それまでの笑みを無くした鳴海は、真面目な表情になった。



「死にたい、なんて考えるなよ」


「……」



 なんで分かるかな、俺が考えていた事が。エスパーかお前は。


 それから鳴海は、親指を立てて、その先を自分に向ける。



「お前が死んでも誰も悲しまないなんて馬鹿な事を考えるなよ。少なくとも、俺は泣くぞ。めっちゃ泣くぞ。洪水になるほど泣くぞ」



 あと、相崎もな。鳴海は小声でそれを付け足した後。



「だから、生きろよ。死にたいとか思ったら、サッカーでも一緒にやろうぜ。体動かしてたら、嫌な事なんて忘れる事ができるからさ」



 ……鳴海の優しさに少しだけ感動しながら、俺は小さく頷いた。



 鳴海が帰った後、特になにをする事もなかったので、ずっと天井を見上げていた。


 ……ようやく、なにかする気力が湧いてきたので、俺はコンビニに弁当を買いに行く事にした。


 ボーッとしながらどこのコンビニに行くのか決めずに歩いていると、自然と足は結構遠くのコンビニまで向かっていた。


 そのコンビニの前に着いた時、軽く辺りを見回してみたら、この通りをまっすぐ行けば、滝川の家の近くに出る道だった。


 何日か前に、ここを会長と一緒に歩いていたっけ。


 滝川は学校に行く気になっているのだろうか。



「……どうでもいいけど」



 呟きながらコンビニの中に入る。




「ありがとうございましたー」



 無気力な店員さんの挨拶を背中に受けながら、俺はコンビニから出る。


 右手には、弁当が入っている袋を提げていた。


 滝川の家に背を向けるようにして歩く。そうすると、自然と貧乏な人たちが住む区域に足を踏み入れる事になる。


 一階建ての長屋みたいな家が何軒も連なっているその地域は、子供のはしゃぐ声がよく響き渡っていた。


 その声を聞きながら進んでいくと、不意に、声をかけられた。



「あら、あんた、こんな場所でなにやってんのよ」



 嫌な予感がしながらも後ろを見てみると、やっぱり彼女が立っていた。



 ムカつくほど輝いている太陽を背にして立っているのはどっからどう見ても北島咲だった。


 俺が振り向いた瞬間、それまで上機嫌そうだった顔が、一瞬にして不機嫌になった。


 舌打ちをしながら髪をかきあげ、猫のような大きな瞳を細めて威嚇してきている。



「なんか、今日のあんたはいつもよりもムカつく顔してるわね。どうしてかしら?」


「知るか」


「あー、駄目だわ。なんか今日はその声さえムカつく。なんなのあんた。なんでそんなに人をイラつかせる事ができる容姿してるわけ?」


「ほっとけ」



 そんな事いったら、お前は同性の妬みの的にされそうな容姿してるじゃないか。こんな事は言わないけど。


 これ以上、話していても今よりももっと頭がぐちゃぐちゃになるだけだと思ったので、俺は前を向いて歩き出す。


 すると、北島は走って俺を追い抜き、進行方向をとうせんぼするように立ちはだかった。


 少しの間、こいつがなんでそんな行動を起こしたのか分からず、彼女の長い髪が風になびくのを黙って見ていると、なんかもうテンション最悪、とでも言いたげな声を発してきた。


 

「待ちなさいよ。なんで、あんた、そんな目してるのよ」


「……目?」



 なんだろ。昔の少女マンガみたいに、星でも入っているのだろうか。それともスポ魂マンガみたいに、炎でも灯っているか?



「……その目、止めなさいよ」


「どういう目だよ」

 北島はなにも言わない。


 ただ、俺を恨めしそうに、だけどどこか懐かしそうな瞳で見つめて……というか睨んできている。


 本当にこいつは、俺と会ったらすぐに不機嫌になるんだよな。理由なんて知らないけど。



「…………」



 ボソッ、と。北島がなにかを呟いた。


 だけどそれは少ししか離れていない俺にも聞こえないほど小さいもの。


 

「用がないんだったら、俺は帰るけど。そこをどいてくれ」



 ふるふると首を振る。

 この仕草は、いつもの北島からは考えられないほど、弱気なものだった。


 舌打ちをしながら、俺は彼女の横を通り抜けようとする。


 北島の横を通ってもなにもされなかったので大丈夫かなとか思っていたら、唐突に右手を掴まれた。


 そのせいで、少しだけ体勢が崩れた。右手に持っていたコンビニ袋も落としそうになる。



「なにすんだよ」



 彼女の手を振りほどき、肩を掴んでこちらに向かせる。


 

「あんたが悪いんでしょう!!」


「なんもしてねぇだろ!!」



 いつもの強気に戻った北島は、再び目つきを鋭くしながら見上げてくる。



「本当にあんたってアレよね。良いのは見かけだけよね! サッカーは途中で辞めるし、人を弄る時だけは楽しそうだし、弱い奴としか戦わなさそうだし、普段はクール装ってるくせに、いざという時になりきれてないから全体的にキモイし!!」


「う、うるせぇ!」


「本当にあんたの良い所ってどこなのかしらね!? 前に美優先輩に言われて探してみたけど、それでも今のあんたには見つける事なんて出来ないわよ!!」


「じゃあ、それでいいじゃねぇか。無理に良い所なんて探そうとするなよ。嫌いな奴のそんな場所を見つけようとしても、時間の無駄だぞ」



 俺の考えではね。嫌いな奴の良い場所を探そうとしても、見つける事なんて出来ないに決まってる。だって、そいつに興味なんてもてないから。


 北島はぶんぶんと頭を横に振る。さっきとは違って、今度のは力強さがあった。



「あたしだってどうでもいいわよ! でも、探さなくちゃいけないって、なんかそんな使命感みたいなのに無理やり動かされてたのよ。なんでか分かんなかった。それでも、さっきあんたの目を見て分かった。あたしを動かしてた理由はこれなんだって」


「よかったじゃないか。それでも、俺の良い場所なんて探せるのかよ。さっきお前が言ってた、悪い場所ならいくらでも出てくるけどな」



 また、ぶんぶんと強く頭を振る。そんなにやったら、脳がシェイクされるぞ。



「今気付いたけど、前までのあんたにはあったのよ!! それでも今のあんたにはそれがないの!! そんな馬鹿みたいな目をしてるせいね!!」


「……良い場所ってのはどの辺だ?」



 馬鹿みたいな目と言われた事よりも、俺はそこが気になった。他人に俺の長所を聞ける時なんてそうそうない。


 しかし北島は。



「うっさい!! 今のあんたにはなにを言っても無駄よ!! 自分で見つければいいじゃない!!」


「教えてくれたっていいだろ」


「嫌よ!! 絶対に嫌!!」


「なんで」


「そんな死にたいとか思ってるような目をした奴には、なにを言っても無駄だからよ!! それ以外に理由なんてあるわけないでしょ!!」



 エスパー再び。一日のうちに二人に会えるとは、俺は結構ついてるかもしれない。


 ていうのはもちろん冗談で、さっきから北島が言っていた目とは、そんな事を物語っていたのか。


 それにしても……。なんか北島も、その目についてなにか知っているみたいな感じだし。


 うーん。こいつとは、前に会長とこの辺歩いていた時に会っているし、もしかしたらこの辺りに住んでいるのかもしれない。


 この、貧しい人たちが住む地域に。なにか、そこら辺に関係あるのかね。


 なんかこいつには、本音を見抜かれたくなかった。いや、もう見抜かれてるんだけど、それでもなんとかはぐらかす方向で行こう。


 無視して歩いて行っても、無言の肯定と捉えれそうだし。だったらここは嘘をついて、と。



「誰がそんな目してるかよ。俺なんて希望ばりばりだぜ? 夢を追いかけてる三十代ぐらい希望持ちまくってるのに、死にたいなんて考えるかよ」


「嘘、絶対に嘘!!」


「俺嘘つかない」


「それも嘘」



 む……。

 美優に嘘をつくのが下手だと言われた事を思い出した。なにか嘘をつく時に癖なんかあるのだろうか。


 相手の目を見て言ってるつもりなのだが。分からん。



「この……嘘つき天パ!!」


「天パ関係ないだろ!! なんだ、天パだと嘘つきだと言いたいのか!? 全国の天パに謝れ!!」


「うっさい!! 本当に今日のあんたにはムカつくわ!! なんなのよ、バッカじゃないの!! あんたなんてずっと、天パを無造作ヘアーって言い張ってればいいじゃない!!」



 む、無造作ヘアーだもん!!


「天パは天パらしくてんぱってればいいのよ!」


「……お前、そこまで俺の事、嫌いか?」


「何度も言わせないで。大っっ嫌いよ!」


「奇遇だな。俺もだよ」



 額を突き合わせ、間近で視線のバトルを開始する。



「大体、あんたはね、全然先輩らしくないじゃない。せめて敬語使いたくなるような長所の一つぐらい持ってなさいよ。鳴海キャプテンとか美優先輩みたいに!」


「あいつらは別格だろ。一緒にすんな!!」


「はぁ? そんな事言ってるから、あんたはいつまで経っても天パなのよ。努力止めたあんたなんて人間じゃなくて天パそのものよ」


「まさか天パ自体になるとは予想外の侮辱だよ!! それにな、お前だってさ、もう少し後輩らしい態度とったらどうなんだ? あ?」


「あら、こんなにも後輩らしい態度とってあげてるじゃない。М天パには極上の接待じゃないかしら?」


「誰の事だそれは!! 俺はマゾだけにはならない自信はあるぞ!!」


「ハンッ。そういう事言ってる人に限って、そっち方面に目覚めるのよ」


「お前な……」


「あっ、もうこんな時間じゃない。あんたなんかに構ってる間に、タイムセールが始まっちゃったじゃない!! どうしてくれるのよ!」「知るか!! とっととどっか行け!!」


「言われなくても行きますー。べーっだ」



 最後に舌を出してから、北島は走って俺から離れていく。


 あー……なんか騒いだら、頭の中スッキリしてきたかも。


 家に帰って弁当を食って、テレビを見ていたらもう夕飯時になっていた。


 

「……なにか作ろうかな」



 ゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫の中を確認しにいく。


 チャーハンでも作ろうかと思って材料を適当に取り出していると、重要な卵がない事に気づく。


「……」


 少し悩んだ後、卵を買いに行く事にした。





 今度は家の近くにあるスーパーに行って、卵を一パック買う。やっぱり卵は高い。


 レジに持って行って会計を済ませ、五円で買ったレジ袋に卵を入れて歩き始める。


 出口の近くにある自動販売機の前を通ろうとした時、自販機の前に見覚えのある姿が立っているのを発見した。


 そいつはお茶を取り出し口から取り出すと、蓋を開けて飲み始める。


 俺はそいつに近づくと、空いている方の手で軽く脇腹をくすぐる。



「ひゃわっ!」



 そんな声を発しながら少しだけ飛び跳ねたそいつの動きに合わせて、ポニーテールの髪も一緒に跳ねる。



「な、なにをする!! ……って、なんじゃ、お主か」


「よっす」



 今日はよく知り合いに会う日だ。


 まさかこんな場所で、会長と出会うなんて思いもしなかったよ。


 会長は、くすぐられたせいで少し零したお茶を取り出したハンカチで拭って行く。


 それが終わると、ゆっくり俺の姿を見てきた。



「ふむ。随分と手抜きじゃな」


「ジャージのなにが悪い。動きやすくていいじゃないか」


「いやいや、ワシが言っておるのは、その髪型の事じゃ。いつものお主よりも、数倍ひねくれておる」


「なんだと……? ついに天パが限界突破したか」



 会長が笑って、俺は自分の前髪を摘んでそのひねくれ方を確認してみる。いつも通りに見えるが。


 グイッと一気にお茶を飲み干した会長は、近くにあったゴミ箱に缶を捨てる。


 それから何度か背伸びをした後、うんうんと何回か頷いた。



「夕飯はいつも自分で作っておるのか?」


「たまにだけどな。なんか今日は、自分で作りたい気分だった」


「卵を買っておるのを見ると……オムライスとかなにかかの?」


「いや、チャーハンだ。お手軽だからな」


「ふむ」



 また頷いた会長は、そこで俺の目をジッと見てきた。昼の北島に言われた事を思い出し、俺は目を逸らす。



「うーむ、なんか今日のお主は、いつもよりもマシな目をしておるの? いつものやる気なさげで、眠たげな瞳はどうした? なにか良い事でもあったのか?」


「え……?」



 いつもよりマシな目をしてるって、マジでか? 昼には死にたいとか思ってる瞳だって言われたのに。



「いや、特になにもなかったけど。本当にいつもよりマシな目をしてるのか?」


「うむ。ワシは嘘はつかん。なんか、普段よりはいきいきとしておる。……それでも、そんなにやる気は感じられないがな」


 

 うーむ? なんでだろうか。


「そうじゃ、今度こそ、あの変な隊を仲間に引き込むぞ。そうしなければ、被害はいつまで経っても止まらんのじゃ」


「そうだな。気が向いたらその内やろうぜ。この前、滝川を怒らせたから、もう少し時間経ってからのほうがいいだろ?」


「それもそうだ。では、今度の放課後で暇な時に生徒会室に来るのじゃ。分かったか?」


「分かった分かった」



 会長は満足そうに笑いながら頷く。



「そうだ。一つ聞きたいんだけどさ。会長は親と仲は良い方か?」


「いきなりなにを言い出す」


「いや、ちょっと気になって」



 俺の唐突な質問に会長は少しだけ首を傾げながらも、すぐに答えを返してくる。



「比較対象が余りいないから確実な答えは出ないが……それでも仲は良い方だと思うぞ。休日には両親とどっかに行くこともあるのじゃ」


「そうか。親孝行とかはしてるのか?」


「なにもしておらん。家事の手伝いとかそんな事しかしておらんよ」


「へー」



 家事の手伝いも親孝行といえるのではないだろうか。家事なんて一切しない高校生もいるだろうし。



「それにしても、なんでそんな事を聞く。おかしな奴じゃな」


「いや、だから、気になっただけだって。会長の私生活が。いつもなにしてんのかなーってな」



「……お主に興味を持たれると、なんか不気味じゃな」


「失礼な」



 なんか俺の周りの女子は失礼な奴が多い。類は友を呼ぶ。なんかこの言葉が脳裏に浮かんだが、類って誰の事だこの野郎。



「まぁ、いい。この話は置いておこうか。それよりもさ、相談したい事があるんだけど」


「なんじゃ、言ってみろ」



 会長が胸を張る。分かっていたが、小さいな。



「うん、ありがとう。立ち話もなんだから、そこのベンチに座ろうぜ」


「うむ」



 ベンチに二人並んで座り、ついでに自販機で買ったお茶を会長に渡す。二つ目のペットボトルを渡された会長は苦笑いをしていた。


 俺の分の紅茶を開け、少しだけ口に含む。甘い。ストレートにすれば良かった。



「それで、相談とはなんじゃ?」


「あー、あの、あれだ。これはな、俺の父さんの父さんの兄弟の息子のそのまた息子の話なんだけどさ」


「いまいち分かりづらいのじゃが」


「俺との関係はどうでもいいんだよ。内容を聞いてくれ。それでな、そいつが言うにはさ、最近になって両親が死んでいる事に気付いたんだって。その両親はさ、よく海外に仕事にいったり、息子をほったらかしにしてたんだ。で、その息子はずっと生きているもんだと思ってた。だけど、本当は事故で死んでたんだ。その事をつい最近、人づてに聞いて、自分も死にたいとか考えていたんだけどさ。どう思う? それっていけない事なのか?」


「そうじゃな……」



 会長はしばらく黙って、考えを巡らしている。


「これはワシの考えだからあまり鵜呑みにはしないで欲しいのじゃが」



 そう前置きした会長は天井を見上げた。ポニーテールの髪がわずかに揺れて、なんかこう……グッジョブ。



「まず最初に言いたい事は、考え方が甘すぎる。親が死んでるから死にたい。死んでどうなる。死後の世界があるとでも思うのか? もし仮にあったとしても、そんな世界で会ってどうするのじゃ。それにの、おそらく親という生き物は、子供には死んで欲しくないじゃろう。子供が死んだ理由が自分達にあると分かったら、どれだけの罪悪感に苛まれるか。まぁ、事故で死んでしまったのだから、親たちには責任なんてないんじゃが」



「でも、今まで親が生きているって思ってたのに、いきなり死んでるなんて現実を突きつけられたら、なにもかも全部嫌になって当たり前じゃないのか? だって、家族がいないんだぞ。独りぼっちなんだぞ?」


「確かにそうかもしれんが……。考えてもみろ。世の中には親を不慮の事故で亡くす子供なんていくらでもおる。その人たち全員が、お主の親戚みたいな考えを持つと思うのか? 少数派か多数派かは分からんが、それでも強く生きようと思うやつもいるはずじゃ」「なんで?」


「それは……今まで育ててくれた親に恥をかかせないようにしたり、ただ単に死ぬのが恐いとか……まぁ、ワシには分からぬが」



 会長は一度、咳払いをしてから話を続ける。



「とにかくじゃ。ツライ事があったら、死にたいと思うかもしれぬ。だけど、死んだらなにもかもがお終いじゃろう。今までその人が培ってきた努力も友情も愛情も、その人が育ててきた様々な可能性も。ネガティブになってしまうかもしれぬが、それでも、そういう時こそポジティブに。マイナスな考え方に思考を占拠されてはいかぬ」



 そんな状況に陥った事がないワシには分からぬが、と会長は付け足す。



「それでも三つだけ言っておこう。希望を捨てるな。未来にはなにがあるか分からぬ。親の代わりにはならないかも知れぬが、支えてくれる人は、近くにいる」



 ……支えてくれる人。

 俺には、いる。記憶が無くなってから、つまり中三の終わりから今までずっと傍にいてくれた人が、俺にはいる。


 ずっと傍にいてくれて、笑ってくれていて、俺が寂しくないように、俺との約束を守るために、俺を独りにしないように家にまで上がってきていた幼なじみが。


 いつも誰もいない家に独りでいなくてよかったのは、美優がいたから。


 彼女がいたから、俺は寂しくなかった。一人で飯を食べる機会も少なかった。


 ……俺は、美優に支えられていたんだ。


 それなのに、美優に八当たりをして家から追い出してしまって。


「ワシに言えることはそれぐらいかの。さぁて、ワシはもう帰るかの」



 立ち上がった会長は、自動ドアを潜って夜の冷たい風が吹き始めた外に出る。


 俺はその後ろ姿を見送って、少ししてから溜息を吐いた。



「なんかなぁ……」



 会長に相談して正解だったかもしれない。自分だけでいつまでもうじうじ悩んでいたら、答えなんて出なかったかもしれないから。


 うん、人に頼るのも悪くない。


 会長に話を聞いてもらって、俺は独りじゃないって事がようやく理解出来たし。今まで支えてくれた人が身近にいることも分かった。


 その人のためにも死ぬのは勘弁だし、今まで通りの生活を続けていこう。


 それが、約三年間、俺に嘘をつき続けてくれた美優への感謝として。それが、あいつが一番望んでいる事だろうから。


 だったら、俺は今まで通り。それしかない。それでいい。そうしたい。


 うん、決意も決まったし。後はやるべきことをやるだけ。残っているのは二つだけか。


 じゃあ、まずは一つ目から行きましょう。



「謝りに行かなくちゃ」


 

 まずは反抗期のおぼっちゃんから。


 ……思えば、反抗期と聞いただけであんなにもムカついたのは、反抗出来る存在がいるあいつに嫉妬してただけなのかもしれない。


 一度、家に戻って卵を置いてきた俺は、滝川家の前に来ていた。


 周りがでかい家なので小さく見えるが、やっぱり高級住宅街だけあって立派な外装だ。


 なんとなく空を見上げてみると、今にも泣き出しそうな天気だった。


 ……なるべく早く終わらせよう。あっ、バイトにも行かなくちゃいけないんだ。


 遅刻したら牧田(あだ名・怠惰さん)さんになんて言われるか。



「よしっ」



 両頬を手で軽く叩き、気合いを入れる。


 これから、滝川に会いに行くんだから、なにをするか考えなくちゃ。


 まず最初にこの前の事を謝ろう。それからの話はその時に俺に任せる。


 よし、決まった。


 俺は門を開けて、庭の中に入る。相変わらず、チェス盤のマスのように色がはっきり分かれている芝生を歩き、玄関の前に到着する。


 そして少し屈んでからチャイムを押した。



「……」



 この前のような仕掛けが飛んで来ることはなかった。そういえば、犬も出てこないし。


 危険だと分かって、侵入者迎撃システムは廃棄したのだろうか。


 

『はい』



 滝川母の声がインターフォンから聞こえてくる。



「あっ、どうも。先日はお邪魔しました。新藤宗太です。覚えてますか?」



 言ってから思ったが、俺ってあの人に名乗ったっけ。まぁ、名乗ってなくても分かると思うけど。



『えと、この前、小さな女の子と一緒に来た男の子ですの? それでしたら、今鍵を開けますので少々お待ちくださいな』


「はい」



 うむ、分かってくれた。だけど少し不用心な気がする。


 鍵が自動的に外れる音が聞こえてきたので、ドアを開けた。


 

「お邪魔しまーす」



 玄関の中に入ると、右側の方から滝川母がゆっくりと優雅に歩いてきている。


 俺は彼女を待ちながら、滝川になんていうかをもう一度だけ確認しておく。



「こんにちは。先日はお構いもできずに申し訳ございませんですの」


「いえ、お気になさらず。それで……信二くんは今日も部屋にいるんですか?」


「ええ、今日も部屋から一歩も出ていないのでいるはずですわ」


「そうですか、ありがとうございます」



 頭を下げて、前回来た時の記憶を頼りに滝川の部屋を探す。


 相変わらず、絨毯の感触が靴越しでも伝わってきてとても気持ちいい。



「あった」



 記憶通りの場所に部屋があり少し安心する。


 とりあえず近づいてノックしてみる。返事はない。もう一度。返事なし。滝川母の声真似をしてみる。返事なし。


 面倒になったので、ドアノブを掴んで回してみたら抵抗なくドアが口を開ける。


 鍵をかけるという習慣がないのだろうか。


 ドアが開いた隙間から体を滑らせて中に入る。その瞬間、鼻をツンと刺激する変な臭いが漂っている事に気づく。


 下の方を見てみると、食いかけのカップ麺が放置されていた。あれは一体、何時間くらい放置されているのだろうか。その他にも、なんだろ……イカ臭い。スルメでも食ったか。


 そこまで確認して、また膨らんでいるベッドに声をかけてみる。



「滝川ー。元気か?」


 ピクッと滝川がいると思われる布団が少しだけ動く。


 近寄る。少しだけ心臓が速くなった。


 この前、あんな事をしておいて、なんで来てるんだこの野郎とか滝川は思っているのだろうか。そう思われても仕方ないけど。


 床に散乱している服を避けて歩きながら、ベッドに近づく。



「帰れ!」



 ベッドの中からくぐもった声が発せられた。



「まぁまぁ、そう怒るなよ。俺は今日、謝りに来たんだ」


「謝罪なんて聞きたくないから帰れ」


「いいからいいから」



 ベッドの近くに着いたので、掛け布団をはぎ取った。ガキ大将みたいな滝川の顔が露わになる。



「座ってくれ。ちゃんと話そうじゃないか」



 そんな俺の言葉に、滝川は嫌な顔をしながら従う。中々、素直な奴じゃないか。


 俺は頭の中で考えていた言葉を言おうと思ったが、その前に滝川が怒鳴る。



「謝りに来たってなにをだ? この前の事か? 暴力奮ってすみませんでしたとか言うつもりか!?」


「は?」


「その事を謝りに来たんならさっさと言って帰れ! てめぇと話してる時間なんてないんだ!」


「お前、なに勘違いしてんの。俺が、暴力を奮った事を謝りに来た? なにを妄想してるんだ。そんな理由で謝りに来ると思ったのかよ。あれはお前が先に殴ってきたんだろうが。それなのに全部俺が悪いとか思ってんのか? あれは両方とも悪いだろう? 五分五分くらいじゃないか? 俺は、その件について謝りにきたんじゃない」



 滝川の顔が呆ける。俺が言った内容を理解しきれていないという感じだろうか。


 そんなに難しい事を言った覚えはないので、すぐに理解するだろうとか思って黙っていたら、滝川の顔が徐々に赤くなってきた。



「てめぇ、どの口がそんな事を言うんだ! 俺は結構、怪我をしてるんだぞ!? それなのに五分五分だなんてどういう神経してんだ!」


「怪我なんて俺もしてるよ」



 袖を捲って包帯を巻いている腕を見せる。それでも滝川は納得していないような表情をしていたので、包帯を解いた。


 現れたのはカサブタになって赤黒くなっている患部。所々、黄色い部分があり、なかなかグロテスクだった。



「ほら、怪我してるだろ?」



 滝川の顔が一瞬だけ歪み、すぐに視線を壁際に逸らす。



「まぁ、別にこの怪我についてどうこう言うつもりはないよ。挑発した俺も悪いんだしな。それで、この話は置いといて」



 本題に入りましょうか。



「俺が謝りに来たのはな、お前の考えを壊してしまう事をだよ。つまり、今から謝る理由は、今からお前の思考を打ち砕くからだ。先に言っておく、悪いな」


「なに言ってんだ、てめぇ?」



 滝川が不思議そうに首を傾げ、俺を見つめてくる。その視線を受けながら、袖を元通りにする。



「つまりだ。前、俺がこの家に来た時にお前が言っていた事が間違っているていうのを指摘しにきた」


 滝川は頭上にハテナマークを浮かべるという漫画的な表現をしながら、ベッドにふんぞり返るという行動に出る。



「なに言いたいのか分からん」


「そう焦るな。今から説明するから」



 とりあえず近場にあった椅子に腰を下ろして一息つく。


 そして、込み上げてくる感情を抑えつけて、いつも通りを意識しながら声を出す。



「お前、俺が部屋から出た後に言ってたよな。俺が羨ましいって。変わってくれって」


「……ああ」



 少しの逡巡の後、滝川は控えめに頷く。それを横目で確認してから、とりあえず気を逸らすために前髪を弄る。



「あれってさ、どんな意図があって言ったんだ? まずはそこから聞かせてくれ」



 滝川は肩を竦めた。



「そのまんまの意味だよ。てめぇには親もいねぇし、相崎みたいな可愛い女も近くにいるし、勉強できるし、スポーツもそこそこ出来るし。顔も悪くねぇ。言っとくけど、変わって欲しいとか思ってるのは俺だけじゃないと思う。クラスの奴らの中にだって何人かいるはずだ」


「まずはそこからか。勉強は前も言ったよな。家に帰ってからちゃんとやってるって。だから成績良いって。スポーツだって小中って頑張ってたからだ。それでも、鳴海みたいな奴には敵わない。……顔は先天性のものだから仕方ない。でも、別にイケメンってほどでもないだろ?」



「ふんっ」



 滝川は鼻で笑った後、坊主頭をガリガリ掻く。


 少し待ってみたけど、続く言葉がないみたいなので、俺は咳払いを一つしてから口を開く。



「それと、あれだな。親がいないってやつ。……お前は本当に、親がいなくて羨ましいとか思ってるのか?」


「当たり前だ。親がいなければ好き放題できるだろ。口うるさく言う奴もいないし。最高じゃないか」


「それは……間違ってる。お前だって本当は、分かってるんだろう? 親が口うるさく言うのは、子供を心配してるからだって」


「別に心配しなくてもいいっつーの」



 滝川の言葉を聞いて、腹の底から黒い感情がふつふつと沸騰し始めるのを感じていた。それでも、手近にあったCDケースの文字を読む事で気を逸らす。


 

「そんな事を言うもんじゃねぇよ。お前だけの体じゃないんだから。お前が傷ついたら、親だって傷つくだろ? 心配するだろ?」



 お前の母さんはあんなに優しそうじゃないか。その言葉はあえて言わずに、口の中で転がした。



「俺は親がいるから……クソ親父がいるから、自由になれない! テストの点数が少し低かったくらいで、目くじら立てて怒鳴られる。それに比べて、てめぇはそんな心配ないもんな。だから羨ましいんだよ!」



 滝川の姿を視界にいれたくなかったので目を瞑って、深呼吸する。



「……そうか。でも、そんなに俺の事を羨ましい羨ましい言ってるけどさ。俺は、お前が羨ましいよ」


 本当に。


「あ?」



 滝川がねめつけてくる。



「どういう事だよ。俺のどこが羨ましいんだ、てめぇは」


「決まってるだろ」



 俺はなるべく感情を押し殺し、内心が声にも含まれないように努める。



「お前にはあって、俺にはないもの。それを考えれば、すぐに答えが出てくる」


「――親、か?」


「そうだ」


「それのどこが羨ましいんだよ」


「よく言うだろ? 大切なものは、無くさなくちゃ分からないって。――いや、この場合は、亡くさなくちゃ、か」


「さっき言っただろ。親がいても口うるさくて、良いことなんてないって。それでもお前は、欲しいのか? あんな奴らが」



 滝川は呆れたように溜息を吐く。しかし俺は真剣そのものだ。この差が、亡くしたものと、亡くしていないものの差。


 感情を押さえるために、自分の二の腕をつねる。痛みによって、込み上げてくるなにかを押さえこむ。


 声を出そうとした。だけど、なかなか出てきてくれない。だから咳払いを一回だけした。それで、声が出るようになる。



「お前に……分かるのかよ。お前言ったよな。親がいてもうるさいだけだって。でも、それすらも愛おしいって思うやつの気持ちが分かるのかよ。そういうことをして欲しいって、どうしようもなく望む奴がいることを知っているのかよ」


 滝川はなにも言わない。しかし、さっきまでの怒り顔ではなく、俺の話を真剣に聞いているような表情になっている。



「お前には一生、分かんねぇよ。反抗できる親がいるお前には、絶対、分からない。お前の場合、飯はどうしてるんだ? 朝とか夜は母さんが作ってくれるのか? それとも全部コンビニの弁当かなにかか? どっちにしても、お前は親がいなければ駄目だろ」


「そうでもないぞ。最近は自分でも作ったりはしてるからな」



 滝川は坊主頭を何度かかいた後、俺を嘲笑するように軽く笑う。

 

 対して、俺は平静を装う。だけど、装いきれていないのは、自分でも分かってしまう。徐々に声が震えてきたから。



「……それでもさ、その料理の材料――もっと言えば、その材料を買う金はどこからきた? お前はバイトなんてやってないんだろ? それなのに、どうやってその材料分の金を用意した? どうせ、小遣いとかそんな感じのを親から貰ってるんだろ? ――だったらさ、親がいなかったらお前は料理も出来ないわけだ」



 俺もそう。


 毎月、送られてきた生活費。


 あれがなかったら今まで生活なんてできなかった。それでも、あれの元手は、小遣いとかそういう優しいものじゃないっていうのは予想がついてるけど。



「つまりお前は、親に反抗しながらも、――いや、反抗している時点で既に親にすがっているって事だ。あーあ、羨ましいよ、お前」



 俺の最後の言葉には嫌みは含まれていない。本気でそう思っている。



「そうでもないだろ」


 滝川は眉間に皺を寄せて、不機嫌さをアピールしてくる。



「あんな奴らにこれ以上、育てられたくないから、俺は頑張って自立しようとしてるんだ。バイトだって探すさ」


「じゃあさ、もう一つだけ言ってやる。お前に、独りでいる寂しさが分かるのか?」


 

 高校生になってからの俺にだって、独りで家にいたことくらいはある。美優がなにかの用事で帰ったか……または俺が家に帰した時がそうだ。


 あの時はまだ大丈夫。親がどこかで生きているって思ってた。だから一人で家にいても寂しくはないって言えてた。


 それでも、やっぱり本心では寂しく思ってたし、その寂しさを紛らわすために小説とかゲームとかをやりまくったりもした。


 独りでテレビを観ながらご飯を食べたり笑ったり、誰もいない家に部活で疲れた体を休ませるために帰ったり。


 家で誰かが待っていてくれたり、飯時に近くに誰かがいたりする事がどれだけ幸せな事なのか。やっぱりそれは失ってみなければ分からない。


 だから。



「お前に分かるはずがねぇ。近くに親がいるお前には、どうやっても分かる事じゃねぇんだよ」



「例えば、お前がアルバイトをして一人暮らしをしたとしよう。だけどそれは、一人であって独りじゃないんだ。一人ってだけで、孤独ってわけじゃない。この違い、分かるよな?」



 滝川にそう尋ねるも、彼は首を回して音を鳴らしながら明後日の方を向く。



「さっきからなんなんだよ、お前。偉そうに! てめぇなんかに説教なんてされたくないんだ! さっきから失って分かるとか言ってるけどさ、本当にその通りだよ!」



 全く違う方向を見ていた滝川の視線が、俺の両目を捉える。そこには嘲笑ともとれるような色が浮かんでいた。

 


「失ってない俺にはそんな事分かるわけない! クソ親共は、いつまでも最低評価のままだ! なんなら代わってやろうか? 羨ましいんだろ? 俺の事が!!」



 その言葉に、俺は唇を噛み締める。強くやりすぎて血の味が口内に広がっても、お構いなしに噛み続けた。


 だけど、もう限界だった。


 今まで押さえこんできていた様々な感情が、我先にと体を支配し始める。


 もう、考えるのが面倒になっていた。だから、この感情に流れを委ねる。



「……そうしてもらおうかな」



 俺は低い声で答えるとゆっくり立ち上がり、ふらふらと滝川に近寄る。


「な、なんだよ」



 滝川が少し驚いたように、上ずった声で言う。


 彼の正面に来た俺は、肩を強く掴んで視線を合わせた。



「……代わってくれよ。代わってくれるんだろ? だったら速く今すぐ代わってくれ。そしたらお前にも分かる。どんなに寂しい気持ちになるのか。学校帰りに家族と一緒に歩いている人を見て、どんな気持ちになるのか。独りで飯を食べてるときに、隣室から家族の談笑が聞こえてきた時どんな気持ちになるのか分かるから。速く代わってくれ」



 心臓の鼓動が速くなり、それに合わせるかのように口調の速度も上昇する。



「なんだよ。いきなり気持ち悪いぞ!」



 滝川の顔がなにかの感情で歪みながら、それでも俺から目を逸らさない。



「滝川だって俺が羨ましいんだろ? だったらいいじゃねか。ほら、速く代わろうぜ。どうやったら代われるんだ? ……なんて、代われるわけねぇよな」



「……は、はははっ。当たり前だろ。やっぱり、犯罪の被害者は頭のネジでも外れてやがる。あんな冗談ゲッ!?」



 気づいた時には、滝川の頭を蹴り飛ばしていた。それまでベッドに座っていた彼の体は、突如与えられた衝撃に耐えきれず、倒れこみ、摩擦を起こしながら少しだけ滑る。ベッドがみしみしときしんだ。



「ふざけんじゃねぇよ!」


 倒れこんだ滝川の胸倉を掴み、仰向けにさせてから怒鳴る。



「被害者だとかネジが外れてるとか! お前にそんな事言われたくねぇんだよ! あんな事件とは一切無関係のお前が、そんな言葉吐くんじゃねぇよ!! 本当、なんなんだよお前。あんな優しそうな母親に暴力奮ったり、テストの点数が低かったから怒られただけなのに引きこもったり!! 馬ッ鹿じゃねぇの!」



 俺の目から昨晩、散々流したはずの涙がまた溢れ出す。溢れ出し、頬を伝い、顎の先あたりで零れ落ち、滝川の頬に滴り落ちる。


 

「そんな事……ちょっと頑張ったら叱られなくなるレベルの……問題じゃねぇか。なのになんで、人のせいにして……自分は悪くないって思いこもうとしてるんだよ……」



 声が震えて、上手く発する事が出来ない。でも、それでも、言葉は止まらない。言いたい事が次から次へと思い浮かぶ。


 それはまるで、いくら地上に降り注いでもやむ事がない雨のようだった。



「努力しろよ……。他人を羨む暇があるなら、少しでも自分の欠点を探して直すようにしろよ……。そうじゃなきゃ、お前はいつまで経っても、そのままだ……!」



 これは俺自身にも向けた言葉だった。

 

 本当は、お前だってこれくらい分かってるんだろ?


 それまで黙っていた滝川が、俺を突き飛ばす。少し息を詰まらせながらも、ベッドから落ちる一歩手前で止まる事が出来た。


 立ち上がった滝川は激昂する。今まで自分の胸の内に溜めてきた言葉を全て発散させようとでもするかのように、大きく息を吸う。



「親がいないお前になにが分かるんだよ!! 俺だってやめたいよこんなの。でも、どうやって接していいか分からないんだよ!! 昔みたいに接していいか分かんないんだよ!! だから、だから……」



 分かっている。だけど、どう接していいか分からない。だから止め方が分からない。そんなジレンマを、滝川は抱えていたのだろう。



「だからって……暴力を奮っていいって理由にはなんねぇだろ。それにお前らは親子じゃねぇか。だったら、そんなのなんとかなるよ」



 俺も立ち上がる。それでも、滝川と向き合う事はない。そのまま出口に向けて歩を進める。



「なんだよ、言いたい事だけ言って帰る気かよ!!」


「……どうして欲しいんだよ」


「せめて、なにか言ってくれ。今の俺に出来る事を」



 その言葉に、俺は滝川に振り返って、そしてここに来て初めて笑顔を浮かべる。



「知るか。自分で考えろそんな事」


 俺に親はいないから。反抗期になる前に、親がいなくなってしまったから。どうしたらいいかなんてわかるはずがない。


 その後、滝川の口からなにか発せられる事はなかった。


 俺は扉を開き、そして出ていく寸前に、横目で滝川の様子を窺う。



「まぁ、その、なんだ……。一緒に考えることぐらいはしてやる。……明日の学校でな」


「ああ……」



 微かに声が聞こえた直後、俺は扉を閉めた。


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