約束は忘れたころにやってくるものです
月曜日になった。
まだ眠いと訴えてくる脳を叩いて覚まし、だるい体に鞭を打つ。
「ふぁ……」
欠伸しか出ないわ。だから月曜日は嫌いだ。
今日は目覚ましがうるさくなる前に起きてしまったので、時間は余っている。
しかし、ここで二度寝などをしてしまったら、遅刻する事はもはや分かり切っているので、体を布団から引きずり出し、のそのそと歩き始める。
洗面台に向かい、冷水で顔を洗い、歯を磨く。
右手に巻いてある包帯や、痣になってしまった腕などは、極力見ないように心がけた。
適当に朝ごはんを作って食べていると、美優が無言で居間に繋がる襖を開けて中に入ってきたではないか。
身支度等はピシッと済ませてあるが、その目はかなり眠たそうに、半分しか開けられていない。
とたとたー、と。地面に座って飯を食っている俺の背後に移動してきた美優は、くっついてくるわけでもなく、いきなり床にベターッとのびてしまった。
「宗、おはようぅ……。今日は早いねぇ」
「おはようさん。お前は凄く眠たそうだな。大丈夫か?」
「……無理、絶対むりぃ。学校行きたくないようぅ」
「……俺にそんな事を言われてもな。行かなかったら、恐い家政婦さんに怒られるんじゃないか?」
「あぅぅ……。久美ちゃんは怒ると恐いから嫌いだよぅ」
なんて子供みたいな嫌い方だよ。
眠い眠いうるさい美優の頬に、冷水で冷やした左手を添えて強制的に眠気を飛ばしてから、学校に向かう。
その道中で右手の包帯について尋ねられたが、包丁で切ったと適当に説明しておいた。
朝練に興じているサッカー部の横を通り過ぎ(鳴海が汗を流していた)、生徒玄関前で準備体操している野球部の前も素通りする。
靴を履き替えていると、声をかけられる。
「新藤さん」
「うん? ……誰だ、お前」
「やだな。サッカー部の後輩ですよ」
一目見ただけで爽やか野郎という印象を抱かせるルックスをした男が、鳴海の横に並んでいた。
「ごめん、全く知らない。それじゃ」
腕を掴まれたせいで、そこにある痣が痛む。後輩くんは、真剣な眼差しを俺に向けてきていた。
「待ってください! 新藤さんは、サッカー部に戻ってこないんですか?」
「……戻る気はないよ。顧問が許してくれないだろうし。本当は退部届を出したいのに、お前の横にいる主将さんが邪魔するだけ。気分は帰宅部だ」
「そんな……。俺は、あなたの中学時代のプレーに憧れて、あなたと同じ高校に進学したんですよ! 高校でも一年の時は活躍してたから、一緒にプレーできるって楽しみにしてたんですよ!」
そんな事、知らねぇよ。どうでもいいよ。
「目が節穴だと、自分だけじゃなくて他の人にも迷惑かかるから、早いとこ眼科行って来た方がいいよ。腕、離してくれる?」
いい加減、痛みが酷くなってきたから。
俺の指示を受けて、後輩くんは残念そうな顔をしながら手を離した。
俺に憧れていてくれたのは嬉しいけど、そんな無益な事はもう止めたほうがいいと思う。
「今度からは、俺じゃなくて鳴海を尊敬してればいいだろ。そいつの方が、あらゆる点で俺よりも上のレベルにあるんだから」
後輩くんはぶんぶんと首を横に振る。それ以上、速さが増したらちぎれ跳びそうだ。
「違うんです!! 鳴海さんは確かに凄いんですけど……なんていうか……そう、才能の壁があるんです!! だけど新藤さんは、頑張っていればいつか辿りつけると思えるような領域だからこそ、憧れるんですよ!!」
「だってよ、鳴海。良かったな、才能あるって」
「あははは。茶化してやるなよ」
でも、後輩くんが言いたい事は分かる。中学からよく言われていたかなぁ……。
鳴海は天才。俺は努力の人。
それが正解すぎるから、特に反論しようとも思わなかったけど。あー、いつだろ。悔しいっていう気持ちが消えたの。
……よし、ここで後輩くんの夢を壊してあげよう。
「いいか、良く聞け」
「はい!」
ビシッと背筋を伸ばして、後輩くんは耳を傾ける。
「俺は努力する事に疲れたんだ。さっき君が言ったとおり、鳴海には才能がある。その横で努力し続ける事が辛くなったんだ。だから辞めた。それだけ」
嘘だけど。
「では、さらば。行くぞ美優」
なにか言いたそうにしていた後輩くんから目を逸らし、下駄箱周辺を後にする。
二階にある教室にある階段を上っている最中に、隣を歩いていた美優が俺を見上げながら話しかけてきた。
「本当に、やらないの?」
「……お前まで言うか。やらないと言ったらやらないの。これは決定事項です。覆る事は、たぶんありません」
「そっか」
自分から話題を振ってきておきながら、美優は大して興味がないかのように、あっさりと俺の解答を受け入れた。
教室に入り、中心ら辺にある自分の席に座る。
美優も俺から離れて、女友達と会話し始めた。
俺はと言えば、鳴海がいないので話し相手いないし、やる事もないのでただ周りを観察したり寝ている振りをする事に熱中する。
「……おお」
滝川ニートがいない。
いつもはダメガネ他二人と一緒にいるのに、その輪の中にあいつはいなかった。
なぜか取り巻き組から、なにか、汚物を見るかのような視線を頂戴している。
「新藤宗太!! こっちに来るのじゃ!!」
突然の声に、肩が跳ね上がる。
心臓バクバクさせながら音源の方、教室の前方にある扉の近くに視線を向けると、ポニーテールのチビッ子会長が堂々と立っていた。
教室の前にまで歩いて行くことがなんだか面倒だったので、会長を凝視することに努める。
あわよくば、テレパシー的ななにかが都合よく発動しないかと思いもしたが、やっぱり人間の領域を踏み外す事は出来なかったです、丸。
そんな俺に痺れを切らしたのか、会長はこめかみら辺に青筋を浮かべる。なにをそんなに怒っているんだか。
「は・や・く。来い!!」
「恋?」
「なにを言っておる!! 早くワシの近くに来いと言っておるのじゃ!!」
「春が?」
「貴様、会話をする気がないみたいじゃな」
あんな小さな体のどこにこんな威圧感が隠されている。もう、ガクブルです。めっちゃ恐いです。
その小さな足で一歩踏み出すごとに、ズシン……!! という巨人のような足音が響く。
そうして俺の目の前にやってきた会長は、低い位置から俺を見下ろしてくる。
気のせいか、ポニーテールが逆立っているように見えてしまった。
「貴様にはお灸が必要のようじゃの。来い、生徒会室まで連行する」
「やだ」
「拒否しても力づくで引っ張っていくぞ。ワシに引きずられるのと、自分の足で歩くの、どっちがよいか決めるがいい」
「綺麗なお姉さんに引っ張られたいです!!」
「そんな願望は聞いとらん!! いいから来るのじゃ!!」
「いぃぃぃぃやぁぁぁ!! ケダモノォォォォ!!」
「黙れ」
「ぐふっ」
拳骨で頭を殴られた。
結局、会長に引きずられてやってきました生徒会室。最初に腕を掴まれた時、痣の部分を触られたからめっちゃ痛かったです。
この前と同じく、俺は接客用のソファに座る。座らせられた、と表現しても間違いではない。
「お茶を持って来るから……逃げるでないぞ」などと凄みのある声で言われたら、小心者である僕は言われたとおりにするしかなっかたのであります。
恐い、会長恐い。
なにを言われるのかとビクついていると、お盆に湯呑を二つ載せて、会長がやってきた。
「ささっ、飲むのじゃ」
「ありがとう。……自白剤とか入ってないよな?」
「そんなもの、入れるわけがないじゃろうに。なんじゃ、ワシに聞かれたら困る事でもしでかしたのかの?」
「こんな、優等生を絵に描いたような少年を捕まえてなにを言うか」
とりあえずお茶をすする。味で分かったが、安物だった。前は高級だったのにな。なんだこの差は。
会長はその小さな両手で包みこむように湯呑を掴み、ズズーッと年寄りくさくすする。
「むっ」
「どうかしたか?」
「安物を淹れてしまったようじゃな。まぁ、今のお主にはこれで十分かもしれんが」
俺の評価はいつのまにそんなに落ちたのでしょうか、別に悲しくないけど。
会長はお茶を啜り終えると、湯のみを机に置いてこちらを見据えてくる。止めてくれ、照れるとは冗談でも思わない。
「話すなら早くしてくれないか? 一時間目の授業が始まっちまうだろ」
「うむ、それなら早速本題に入るかの。お主、この前、言ったよな?」
「なにをだ?」
「変な隊を一緒に潰そうというものじゃ」
「……ああ」
すっかり忘れてた。
あの、名前を口に出すだけでも恥ずかしくなるようなネーミングをした隊ね。
会長がピッ、と人差し指を立て、少し首を傾げながら提案してくる。
「あの約束を、果たしてもらおうと思ってのう」
「……なんでいきなり」
「ぬぅ? 知らんのか? この前の金曜日に、校内で怪我をした奴がおるのじゃ。そいつが言うには、トイレで煙草を吸っていたらいきなり複数の男に襲われた、という話じゃ。もちろん、煙草を吸っていた馬鹿者は停学じゃ。退学、退学と騒いでいた他の奴を抑えるのは苦労したんじゃぞ?」
「へー、お疲れさん」
「で、今日は滝川が学校を休んでおる。怪我をしたとかそういう理由でな。ワシの推測では、報復されたと思っておったんじゃが……」
そこまで言って、俺の体を舐めまわすように見てくる。さっき会長に掴まれた際に痛みに呻いてしまったのが、疑いを生まれさせてしまったのだろうか。
「あー、約束を果たすのは構わないけどさ」
なにも言わなかったら色々と追及されそうだったので、こっちから本題に入ってみる。
「なるべく、暴力はよそうな」
「? なにを言ってるんじゃ、お主。ワシはそんな気などない。暴力を使うというのは、お主が勝手に言っていただけじゃろうに。しかし、力を使うのがいけない事だと気付いたのは良い事じゃ」
そう言って、机から身を乗り出し、俺の頭をポンポンと子どもをあやすように会長は叩いてきた。
これはどっちかというと、会長がやられる方だと思うんだけど、容姿的な意味で。
「お主にどういった心境の変化があったかが気になる所じゃが……今は方針を固めておこうかの。なにか良い案はあるかの?」
「とりあえず、色仕掛け……は無理だな、うん。そんなもんやっても、誰も興奮しなグハァ!!」
「なにをいきなり言うか、失礼な奴じゃ」
「だからって、殴る事はないんじゃないの!?」
「黙れ、貴様のような奴には鉄拳制裁がお似合いじゃ」
「暴力使ってるじゃん。言ってる事が矛盾しすぎだろ!」
「あぁ?」
「ごめんなさい!!」
恐い恐い恐い。冷静な顔してるくせに、青筋を浮かべているのが恐い。ギャップ恐い。
「もう一度聞くが、良い案はないかの?」
「仲良し作戦なんてどうでしょう?」
かなり適当に言ってみた。
「仲良し作戦? ……貴様、まだふざけておるのか?」
「め、滅相もございません!! これはれっきとした作戦だ」
ブワッと小さな体から怒りのオーラ的なものが見えたきがしたので、基本的に小心者である俺は必死に、適当に言った作戦名の中身を考える。
骨組みを完成させて、それに肉をつける。うむ、これでいこうか。
「仲良し作戦ってのはさ、あれだ。生徒会を護り隊とかいう気持ち悪いやつらと仲良くなって、ていうか仲間にしちまえばいいんだ。あいつらは会長のためとかほざいてるんだろ? だったら、会長が歩み寄って、仲良くなって、説得しちまえばいい。簡単じゃないか」
「そうは言ってものぉ……。そのメンバーが誰か分からないから、そうしたくても出来ないのじゃよ」
「いやいや、一人いるだろ?」
あまり気は進まないけど、しょうがない。俺もそいつしか思い浮かばないのだから。
「滝川か?」
椅子に座り直してお茶を啜り始めた会長だが、視線は俺から外さない。逃げようなんて思わないっての。
「まぁ、そうだな。滝川だ。あいつの家は分かるのか? 分かるんだったら、今日の放課後にでも行こうぜ」
どうせやるのなら、早いとこ片付けておきたいし。俺って夏休みの宿題とかも、最初の三日で終わらせる性質なんだよ。
「そうじゃな。善は急げじゃ。では早速、今日の放課後に行くか」
「おう、頑張ってくれ」
「お主も行くのじゃ!!」
「ちっ……」
自分でも驚くぐらいの爽やかスマイルを浮かべたのだが、会長には全く効果がなかったようだ。バリアーでも張ってあるのだろうか。
やって来ました放課後。
六時間目のチャイムが鳴った瞬間に逃亡しようとした俺の目の前に、会長は瞬間移動をして現れた。恐ろしや。なんでもありな会長は人間の壁を本格的に越えてしまったらしい。
是非とも俺に、人間の壁の越え方と、空の飛び方を教えてほしい。
「……貴様、今、逃げようとしたかの?」
「め、滅相もない」
「もしやと思い、見に来てみればこの様か……。貴様には約束を守ろうという人間らしい感情がないのかの?」
「瞬間移動できる人に言われたくない」
「あれは高速で移動しただけじゃ。本家にはかなわない」
「人間が出せる速度の限界を明らかに超えてたぞ」
「ふざけるのもいい加減にしておくのじゃ。ほら、さっさと行くぞ」
「凛ちゃん? 宗をどこに連れて行くの?」
おお、美優。ナイスあだだだだだだ。腕を引っ張るな。会長も逆の腕を思い切り引っ張ってるから、縦に引き裂かれそうだっつーの。
美優が俺の右腕を引っ張って、会長が俺の左腕を引っ張って。うんとこしょ、どっこい……やめようか、こんな妄想。
ていうか、裂ーけーるー。縦に裂けるチーズみたいになるー。痛い痛い痛い!! 痣を握りつぶすな!!
「凛ちゃん、宗は僕と一緒に帰るの~。だから持ってっちゃダメ」
「別にワシは持って行くつもりはない。言う事を聞かないようなので、拉致をするだけなのじゃ」
「めっ。凛ちゃんに宗の扱いは早すぎると思うよ~?」
「ふんっ、こんな奴の扱いなんて簡単なのじゃ。ほれほれ、骨をあげるからこっちにこい」
「違うよ! 宗はキャットフードだもんね」
……なんだこれ。
俺はついに人間扱いされなくなりました。犬とか猫とか。ふざけんなって。アハッ。もうどうでもいいっす。
ていうかいい加減離せ。ブチッていく、ブチッて。
ここは俺が美優を収めるしかないのかね。
「ごめんな美優。俺、いまからさ、会長に付き添ってもらって、参考書を買いに行くんだ。だから美優は先に帰ってて……」
「僕も行く!」
「エロ本だぞ。えっちぃのだぞ。参考書って言ってもそっちの参考だからな。俺が勉強するなんて思うなよ。保健体育で習わない部分まで描いてある参考書を買いに行くんだからな?」
「そ、それなら……僕の……ね?」
なーんで頬を赤らめるのっ。なんで上目遣いしてくるのっ。なんでモジモジしてるのっ。
嘘を交えて美優を説得し、俺と会長は滝川の家に赴く。
俺の横を歩いている会長は、小さな手に赤いバツ印が記されている地図を持って、曲がる道などを教えてくれる。
このままの道筋でいくならば、住宅街に行くな。俺のいる場所とは住んでいる人の裕福率が天と地ほどの差があるんだけど。
つまりは、高級住宅街だ。
どんよりとした鉛色の空を見上げながら、二日前の事を思い出す。
あいつは大丈夫なのだろうか。
二日前に、なにがなんだか分からなくなってボコボコにしてしまったが、それが原因で学校を休んでいるみたいだし……。
やっぱり、結構な傷を与えてしまったのだろうか。
いや、でも、俺だってメッチャ殴られたし、蹴られたし。おあいこ……ってわけにはいかないよなぁ。
「うりゃ」
「うぎゃっ!!」
いきなりなにをする。なんで腕を突いてくるんだ。しかも痣の部分を的確に狙ってくるし。
俺の反応を見て、会長はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。そんな笑い方をする奴はお嫁にはいけない、などと言ったらどうなるんだろうか。
「なにをそんなに痛がっておるんじゃ? ワシはそんなに強く突いておらんぞ?」
「……だいたいは察しがついてるくせに、そうやって探りを入れてくる性悪な会長にはなにも教えん」
「次は右じゃな」
「ほう」
「なぜ左に行く」
「反抗したい年頃なんだ」
「そんなもの、親にでもしてるがよい」
「親なんて三年以上会ってねぇよ」
「それはそれは。寂しいじゃろう?」
「べっつにー」
嘘じゃないよー。本当だよー。なんか語尾を伸ばして言うと、嘘っぽくなるのを発見したぜー。
そのうち帰って来るだろうし、どこかで生きているんなら、俺はそれで満足なのだ。
まぁ、たまには連絡してこいよ禿げかけた父さんとか思うけど、便りがないのは良い便りという言葉を信仰対象にして奉れば、不安は消えるというものです。
左右を住宅の塀に挟まれた細い道を歩く。後はここを真っ直ぐ行けば高級住宅街に到着するはず。
しかしその前には、廃れた地域があるはずなので、俺的には滝川の家はその変だと勝手に思っている。
そうでも思わなければやっていけねーよ。なにを? という疑問はさておき、横を歩いている小さな会長に話しかけてみた。相変わらず、見事なポニーテールで。
「でさ、滝川の家族構成とか分かるのか?」
そう言うと、会長は少し悩むように目を瞑ると、地図を持っていない方の手でこめかみを突き始めた。
「分からんのじゃ。さすがのワシも、他人のプライベートに関しては全く分からん。お主はなにか聞いておらんか?」
「俺が知るはずないだろう? あんなどうでもいい奴の事なんて、好き好んで調べたりしねぇよ」
「それもそうか……。というか、知っても知らなくても、今からやる事には全く関係ないんじゃないかの?」
「いや、会長が滝川の事をどこまで把握してるのかを知りたかったんだ。俺もそんな情報欲しくねぇし」
「そうか」
会長は目を開けて、視線を前に向ける。今まで歩いたまま目をつぶっていたので、結構危なかった。今更だけど。
ここは交通量が多くないから、車に轢かれるなんて事はまずないだろうけど。
スッタスタと曇り空の下を歩き、アレルギーだったのを忘れて道端を歩いていた猫を抱きあげてみたり、そのせいでくしゃみを会長にぶっかけて二分の一殺しにされたり、道中でばったり会った猫女になぜか蹴られたりしながらやってきました高級住宅街。
やっぱり貧しい家庭じゃなかったのかと、少しばかり妬みながら周囲を見渡す。
右側にはでかい庭のくせに綺麗な芝生が広がる緑の大地に、みるからに清潔そうな白い壁。
左側には三階建のくせに屋上まであるでかい家。うーむ、世の中は不公平なのであります。
後ろを見てみる。
今は見えないけど、何百メートル先には、ボロボロな平屋があったり、昔の家が建ち並ぶ地域がる。
それを想像し、前を見る。……うーむ。
卑怯だ。やっぱり世の中、金なのか。金でなにもかも買えるというのか。命も買えるのか。
……買えるか。食糧がなければ人は生きれないし、それを買うのには金が必要だもんな。
命よりも金が大事なんて、しょせん、綺麗事か。
「あっちじゃな」
「あっちって……あの、でかい家か?」
地図の×マークと現地を見比べながら、少し意外そうな顔をした会長が目的地を指差す。
さっきの場所より数分ぐるぐると歩き、でかい日本家屋とかプール付きの豪邸等が俺達を見下ろしてくる道の中でも、一際目立つ外観の家が、どうやらそれらしい。
あれだ、何年か前の野球監督の言葉を借りるなら。
「シンジラレナーイ」
だな。
他にもシンジテーマシターという言葉もあるけど、それは今は全く必要がない。
そしてあいつの家を描写するならば、そうだなぁ……西洋風のお城っていう感じだ。
あれを二十分の一くらいの大きさにして、西洋に少しだけ和風を混ぜましたっていう感じの家。
あー、思い出した。確か、あいつの父親が政治家だか大企業の社長だとかいう噂があったな。それで裏口入学したとか、不祥事をもみ消しているとか。
「いやー、でかいなぁ」
「ああ、確かに隣の家はでかいのぅ」
んむ? 今、なんとおっしゃいましたか? 隣の家?
「あの、和洋風(和風と洋風を合体させてみた)の家が滝川の家じゃないのか?」
「なにをいっておる。あやつの家は、その隣にある、ここら辺ではまだ小さい方の家屋じゃ。ほれ、隣にあるじゃろ? 隣が山だとしたら、小さな丘みたいな感じの家が」
確かにある。
俺が勘違いしていた家とは天と地ほどの差があり、それでも俺のボロアパートと比べれば、亀と兎の競争で、亀がスポーツカーでぶっちぎってゴールするぐらいの差がある。
うむ、ちょっと伝わり難いですな。
「うーん……でかいんだろうけど、あれの隣にあると霞むよな」
「そうじゃな」
これ以上、無駄話をしていても意味がないので、俺達はその家に向かって歩き出した。
二階建てのそこそこ大きな建物の門の前に来ると会長は辺りを窺いだす。なにかいるのだろうかと、俺も首を左右に振るが、なにも見えない。
ただ鉄格子の冷たい門が俺達を拒絶するかのように閉められていて、他には庭の中に木が見えるだけだ。
まさかあの木の裏に隠れているのかと思ったのだが、忍者じゃあるまいし、そんなことないよね。
「会長? インターホンを押しても大丈夫か?」
「あ、ああ。大丈夫じゃ。よろしく頼むぞ」
会長の言葉を受けて、俺は相手からはこっちの顔を見る事が出来るタイプの呼び鈴を鳴らす。
ピンポーン、と。外側にも少し聴こえてきてから数秒待っても誰も現れないので、もう一度だけ押してみる。
すると、優しそうなおばさんの声が、インターホン越しに応答してくれた。声の感じからして、四十代ぐらいだろうか。
『もしもし、どちら様?』
「あっ……えーと、その……」
なんていえばいいのだろうか? お宅の子供をボコボコにした者ですが? いやいやいや。それはマズイだろう。
『ちわーっ、三川屋です』
なんか、こんな事を言えばどうにかなるという天からの声が聞こえてきたが、俺はそれを拒絶するかのようにみせかけて快く受け入れた。
声が出てくる場所に口を寄せて、その言葉を言うと思ったら「ぐえっ」後ろから会長に襟首を掴まれて、相手のカメラ越しに見えない場所まで移動させられると、ヘッドロックを極めてきた。
平坦な胸の辺りに顔を押し付けられているが、会長はその事を気にする素振りを見せない。俺も、こんな幼児体型では……。
「あだだだだだだだ!!」
ミシミシって言ってる!! やばいやばい!!
「……貴様、今、ふざけたことをぬかそうとしたじゃろ?」
「そんな事しようと思ってない、思ってない!! 本当だってあだだだだだだ!!」
「ふんっ。次、変な事をする素振りを見せてみろ。我が家に伝わる暗殺術の実験台にしてやるからの」
「分かりました、すいません!!」
拘束を解かれて、不様に地面に尻もちをついた俺は、恥や外聞などなにも関係なく、迷いなく土下座を決行した。
容姿だけみたら小学生みたいな奴に、俺は一体なにをしているのだろうか。
「土下座などするな。男じゃろう?」
「男だからこそ、土下座をするんです」
額を地面にこすりつけ、絶対に抵抗の意思を見せない。だって、暗殺術の実験台にするって言った、この子。
痛いのは嫌い。死ぬなら楽に死にたいです。
会長に腕を掴まれて無理やり立たされると、もう一度カメラの前に屹立させられる。
『もしもし? どうかしましたか? イタズラですか?』
インターフォン越しに聞こえてきている声は、訝しんでいるような感じを含んでいた。
「すいません。滝川……」
あれ? 下の名前なんだっけ? 高一老? ライト? うーむ?
「信二じゃ。滝川信二」
「ああ、なるほど。ありがとう」
後ろに立っていた会長が、小声で名前を教えてくれた。その名前を脳に刻んで、簡単には忘れないようにする。
こうでもしなければ、どうでもいい奴の名前なんて三歩、歩けば忘れてしまう。
「滝川信二くんのお宅ですよね? 僕は信二くんの友達でして、今日、学校を休んでいたので心配して来てしまったんです。良かったら、会わせてくれませんか?」
「よくもそんな嘘が、ペラペラと出てくるもんじゃな」
うるさいな。
俺だってつきたくてついている訳じゃないんだから、黙っててくれ。
『信二のお友達? あらあらまぁまぁ。どうぞ、お入りください。今、鍵を開けますので』
カチャリ、という音がして、門の鍵が開く。そして、自動的に門が口を開けた。
「最近では、こんな事も出来るんだな」
「そうじゃな」
勝手に開く門を見つめながら、再び金持ち達に嫉妬する。
庭に足を踏み入れると、手入れされた芝生の気持ち良い感触が、靴底を通しても伝わってきた。
あー、やばい。
めっちゃ、この上で寝転がりたい。または、霜が降った日の朝に、思い切り駆け回りたい。
あれ、凄く面白いんだよな……。天然の楽器というか、こう、踏んだ瞬間にザクとか気持ち良い音が鳴って、爽快感!! 溢れる!! 素晴らしい!! よっしゃー!!
……テンション下がってきたー。
「こんな庭見たらな、やる気下がるわ」
なんだよこれ。本当に金持ちは腹立たしい。俺のように質素な生活を送っている人間を見習って、少しは金の使い方を抑えるべきだ。
そして余った金を全部俺にくれ。そしたらもう妬まないから。
「どうだろうか、課長」
「誰が課長じゃ」
「どうだろうか、会長」
「なんの脈絡もなしに尋ねられても、矯正してやるとしか言えんな」
「へぇ」
やっぱりね、金持ちには貧乏人の気持ちは分かりませんよねー。会長もなんだか、上流階級っぽいし、あーあ、やだやだ。
そんなくだらない考えを抱きながら、チェス盤のように深緑と緑のマス目がある庭を、舗装されている道をたどって突っ切る。
そして、でかい玄関の前に来た所で、指紋認証システムでも付いていそうなインターホンを押してみた。
ビュン!
冷汗がドッと押し寄せ、我先にと体外に出てくる。
髪を何本か引きちぎって通過していったものを、ぎぎぎぎという音がするほど錆びついてしまった首を動かし、確認する。
「ほほー、ボウガンの矢みたいじゃな」
「殺す気か!!」
視線の先にあるものは、壁に突き刺さり、いまだにビィィィンと震動している矢だった。よくみると、その壁にはいくつかの穴が空いている。
「ワシに怒鳴られても困るんじゃが……。とりあえず、歓迎されていないみたいじゃのう。時に、少し間違えれば死んでいたという状態の心境はどんな感じじゃ?」
「うるせぇ!! こちとら九死に一生を得たんだぞ!! 生きててよかったー、ていう普通の安心も覚えねぇよ!! 『え? なんで?』こういった感じだ、この野郎!!」
「うむ、元気そうでなによりじゃ。お主にここで死なれても目覚めが悪いからの。どっちかというと、生きている方がまだ良い」
「俺が生きている事を、どっちかというとで済ませるな!! 会長、これ、絶対犯罪だろ!? 警察行こうぜ、警察!!」
「……そうしてもいいんじゃがの」
そう言って、会長は庭の方を指で示した。こんな時に余裕の態度でいる彼女は少しだけ気に食わないが、指示通りにそっちを見てみると……。
「わーお」
もう、こんなリアクションしか出てこない。
シェパード、ドーベルマン、ハウンドドッグ、ゴールデンレトリバー、ラブラドール、秋田犬、北海道犬、土佐犬、チワワ。
一匹だけ番犬にはやや不向きな体格をしている犬がいたが、他のは大型犬や中型犬ばかりで、しかも俺と会長を餌かなんかだと勘違いしているような視線を熱心に送ってきている。
さっきまではどこにもいなかったはずの犬の大群は、少し離れた位置にある木の根っこらへんから出てきていた。
「うーむ、嫌な予感はしていたんじゃが……」
「だったらさ、なにか策ぐらい考えておこうぜ」
門に入る前に、会長が少し落ち着きなかったのを思い出す。犬から放たれている、殺気的なものを敏感に感じ取っていたのだろうかねー。
ていうか、なんで木の下から……ああ、なんか階段的なものが少し見える。地下室にでも繋がっているのかな?
「あっはっはははは」
「なにを笑っておる」
「いや、犬は好きなんだけどさ」
「うむ」
「今、この瞬間に大嫌いになりそうです」
ちゃんとお呼ばれされたじゃん。奥さん的な人と会話して、門を開けてもらったじゃん! なのに、なにこれ。なんてプレイですか。
「ワシは猫の方が好きじゃな。好かれとると、膝の上にちょこんと載ってくるのが、なんとも可愛らしくての」
「そうかそうか。俺はアレルギーなんだぜ」
こんなくだらない会話をしている間にも、俺と会長を取り囲む包囲網は徐々に狭まってきていて、なんだかもう、昔の光景がフラッシュバックしてくる。
『宗ちゃん、宗ちゃん』
『どうした、美優』
『私ね、数学で百点とったのだ~。見て見て、宗ちゃんに教えてもらった場所、バッチリでてた』
『さすが俺。神様もびっくりなくらいの頭脳だな』
『うん、さすがだね!』
『……頼むから、今の発言に少しくらい突っ込みを入れてくれ』
いやー、懐かしいな。中学一年くらいの時の記憶かな。……あれ、でもなんだか違和感。なんだろ?
「なにをボケッとしておる!! 食われたいのか。内臓グチャグチャになるぞ!」
「簡単な思考さえさせてくれないとは、節操無い生き物だぜ」
なんとなく髪をかきあげてみた。なにも状況は変わらなかった。当り前だった。会長からの視線が少しだけ痛かった。
「会長、ここは、犬が嫌う周波数をだして、逃げるように仕向けようぜ」
「そんなもの出せるはずがないだろう」
「じゃあ、犬笛で指示だそう」
「教育されているかどうか、分からないじゃろうに」
あっは。絶対絶命。うーん、食われる。大腸をウインナーみたいに食われる。脳みそをすすられるかもしれない。おえ……グロ。
犬どもが今にも襲いかかって来そうな雰囲気を醸し出し始めたその時、唐突に玄関の扉が開き、俺の後頭部を急襲した。
「痛っ!」
一時的に歪む視界の中で、犬が歪な格好をし始めたと思ったら、虫を蹴散らすようにどこかに去っていくのが見えた。
「なん……?」
疑問符を一個といわず何十個も頭の上に浮かべながら、後ろを振り返ってみる。
ぐにゃぐにゃに歪んだ化け物が立っていた。
というのは、俺のバカな視界が見せた有り得ないものである。
世界が通常の奥行と幅を再構成し始めると、扉を開けた人物がはっきりと見えてくる。
白髪が混じっている髪を横に流し、優しそうな瞳をはっきりと外に出し、細い体なのに、しっかりとした印象を持たせる、四十代前半ぐらいの女性が立っていた。
「あらあら、すいませんね。侵入者迎撃システムを解除するのを忘れておりましたの、おほほ」
「気にしないでください。ワシは無事でしたので」
会長が、いつもの口調をなくして敬語を使い始めた。それは別にいいとしてもだ、俺は存分に気にして欲しいのだが。だって、一歩間違ったら死んでたし。あの矢、本物だし。髪の毛ちぎったし。禿げたらどうするんだこんちくしょー。
「あらあら、そうでしたか。それでは、中にお入りください。信二も喜ぶことでしょう」
「では、お邪魔します」
信二って誰だっけ……? ああ、滝川ニート。だめだ、どうでもいい奴の名前なんてそう簡単に覚えられない。
忘れちゃ駄目だ! 傷つけた相手なんだから!
中に入ってみると、意外にも普通だった。
もっと、こう……西洋風の甲冑とかが溢れかえって歩く場所もないんじゃないかなぁ……とか妄想していた俺としてはガッカリだぜ。
それでも広い。
俺のボロアパートの一部屋が入るんじゃないかというほどの廊下に、バカバカしいほどでにでかい扉。
とりあえず殺人未遂奥さんの後をついていき、廊下の突き当たりにある部屋に到着。
「こちらが信二のお部屋ですの、おほほほほほほほ」
『ほ』が多い。なにをそんなに笑っているんだこの人は。
「今日、あの子はこの部屋か一歩も出てませんの、ええ。なんか恐い目にでも遭ったんでしょうか」
「ただのヒッキーになったんじゃないんでグッ!?」
「余計な事は言わんでよい、愚か者」
会長のエルボーが腹にきまり、内容物を全て吐き出しそうになってしまう。それを必死にこらえると、涙が出てきました。
「ではでは、あの子をお見舞いしてくれるかしら? 気分が悪くて寝込んでいるらしいので」
「分かりました」
会長が威勢よく頷き、扉に手をかける。
と、そこで――。
「それにしても、あの子に小学生の知り合いがいたなんて、ワタクシ全く知りませんでしたの」
奥さんが余計な事を言い始めた。
会長の体勢がシルク製の取っ手を掴んだまま瞬時に凍ってしまったかのように固まる。
そして、なにか変な威圧感が全身から噴出させ始めた。
「今、なんと言いましたか?」
無理に平静を装っているかのように、感情を押し殺した声。俺でもそれぐらい感じ取れるのに、奥さんはまったく分からないらしい。
手を頬に当てて、首を傾げた。
「それにしてもあなた、なんで高校の制服をきていらっしゃるの? 小学生なんですから、その格好はちょっと有り得ないですわよ」
――クルリ。会長がポニーテールの髪をなびかせながせながら無言でこちらに振り向き、顔を俯かせる。
「ワシは高校三年生なんですが」
「あらあら。背伸びをしたい年頃なのは分かりますけど、いくらなんでもそれは背伸びしすぎなのですわ」
ブヂッ!!
普段、絶対に聞こえるはずがない擬音が、鮮明に耳に届いた。
「新藤宗太。貴様だけで滝川を説得しているのじゃ。ワシは、ちょっと野暮用ができた」
「え? ちょい待ち。俺にそんな役を任せられても……」
「黙れ馬鹿者!! 元はと言えば、貴様が余計な事をしたから悪いのじゃ!! だったら自分の尻ぐらい自分で拭け!!」
「……はい」
やっぱり恐い、会長。猫女以上の鋭い眼光なんて初めて見た。これが睨むだけで人を殺せる視線なのね。
「奥方、ちょっと話があります。居間の方に案内してもらってもいいですか?」
「あらあら。それでは美味しい紅茶でも御馳走しますわ。それともココアの方がよかったかしら」
この奥さん、悪気はないんだろうけど……一々、会長の神経を逆なでする言葉を吐き出すな。
「できればブラックコーヒーでお願いします」
「あらあらあらあら」
会長に引っ張られるまま、奥さんはどっかに連行されていった。
で、残されてしまった俺は、どうするべきか一瞬だけ悩んで、結局、ドアノブに手をかける。
どうせ、いつかは嫌でもこいつと顔をあわせる事になるのだから、今のうちに色々と済ませてしまった方がいい。
バイトが始まるまでの短時間でどうにかすべきだ。まぁ、大丈夫。いつもの調子でいこうか。
とりあえず、ドアノブにてをかけたまま、逆の手で扉をノックしてみる。しかし返事はない。
もう一度ノック。しかし返事はない。
……ああ、これはあれか。
ヘッドフォンをつけてネトゲに熱中しているに決まっている。そこまで引きこもり生活を満喫しているとは。
もう一度ノックをしてみたが、屍のように返事がなかったので、俺はノブをひねった。 鍵がかかっていなかったので、簡単にそれは回転し、部屋の中に通じる道を開けてくれる。
中に入ってみると、電気が点いておらず、しかもカーテンが閉まっていた。廊下の明るさに慣れていたせいで、かなり暗く感じてしまう。
「滝川ー」
とりあえず扉は閉めず、廊下から漏れてくる四角い光の中に立って、名前を呼んでみた。しかし、屍だった。起き上がる事はなさそうだ。
近くの壁を探り、電気のスイッチを手の感触を頼りに探しあて、ONにする。
パッと一気に人工的な白い光が室内を明るく照らし出し、その全容を露わにした。
「きったねぇな」
思わず出てしまった言葉がこれ。
十畳は軽くありそうな広い室内の床には、様々なものが散乱していて、足を踏み入れる場所さえないように感じる。エロ本を探そうと思っても、これでは骨が折れる。
窓際にはダブルサイズのベッドがあり、その近くには大型のテレビが置いてあった。恐らくは地デジ対応だ。羨ましい。
そして、そのベッド。小山のように膨らんでいる。たっきーはあそこにくるまっているのだろう。
近づこうと思ったけど無理ですな。だって、汚いもん。ネズミでもなければ、この障害物を全て避けていくのは無理だろうし。
踏んでもいいのなら、わざと遠回りして全部ぐちゃぐちゃにしていくけどさ。
「たっきー!!」
とりあえず、もう一度呼んでみる。これでなにかが変わるといいのだが。
どうせなにも変化なんて起きないだろうと高をくくっていたのだが、なんと滝川が少しもぞもぞと動き始めた。
たっきーっていうあだ名に反応したのか。
お前なんてタッキーの足元どころか地下百メートルにも遠く及ばないというのに、そんなのに反応するな。
「ニート!!」
お前にはこっちの方がお似合いなんだという意味を込めて、通り名(俺しか使わない)を呼ぶ。
足があるであろう部分が膨れ上がり、ガン!! という音を出しながらベッドにかかと落としを決め始める滝川。
「その名で呼ぶんじゃねぇ!!」
「……やっと反応したか。部屋の中に入ってるぞ?」
「せめて許可を取るような言葉を発しろや!」
「うるせぇな。ボッコボコにすんぞ」
「…………」
あれ、黙っちゃった。冗談なのに。まぁ、この前の展開を思い出したのかもしれない、便意を覚えて必死に我慢しているのかもしれないし。どっちでもいいや。
「そっちに行きたいんだけどさ、どうやったらいける? この部屋、散乱しまくりでさ、歩ける場所がないんだけど」
「帰れ!!」
「エロ本発見!! うわっ、マニアック!! お前ってロリが好きなんだな、この変態!!」
「うるせぇ、嘘つくな!! この部屋にロリ専門のエロはねぇ!!」
「なにがあるんだ?」
「小悪魔系だこの野郎!!」
「さて……探そうか」
「止めろや!!」
ここでやっと、滝川が布団から顔を……というか体を出す。掛け布団を巴投げするように投げ飛ばしたせいで、壁にそれが激突した。
さて、ニートさんが布団から体を出してきたので、ここからが本題だ。
ぶっちゃけて言ってしまうと、本当にこんな奴がどうなろうと知ったこっちゃない。
だけど、一日とはいえ引きこもってしまっているという現実に、俺が関係しているというのならば、少しくらいは罪悪感も芽生えてくるものだ。
「さて、本題に入ろうか。なんでお前は引きこもったんだ? あれか? 自分の殻に閉じこもりたいお年頃なのか? 閉じこもってしこしこと毎日なにかをやっているのか? うわぁ、引くわ……」
「お前、なんでそんなに人を侮辱する事に生きがいを感じてるんだ?」
「生きがいなんてとんでもない。これは俺が生きる目的であり、生きる理由であり、生きるために欠かせない存在なだけだ。そうだな、空気みたいな感じ?」
「さらにタチ悪いな、おい」
「といっても、誰彼構わず言っている訳でもねぇし。あれだ。自分以下だと認識……おっと、これ以上いってしまうと、ニートが本当のニートになって、某大型掲示板に時報うぜとか書きこみそうだから止めておくわ」
「お前は人生を終わらせろ、馬鹿野郎」
「お前の人生を終わらせて、俺はさっさと逃げるよ」
「ただの殺人者だよな!?」
「だって、捕まるの嫌だし」
「うっわぁ……いつもなら邪悪な笑みとか思うのに、今は清々しいほどの笑顔だな、本当に……」
おっと、また脱線してしまった。そろそろ本題に入らなくては。
滝川はベッドの上に胡坐をかきながら、俺の方を鋭くした目で睨んでくる。
それに対して、俺は肩を竦めながら壁にかかっているポスターなどを眺めてから、ようやく本題に入る。
「それで? 結局の所、引きこもった理由はなんなんだ? といっても、まだ一日目だから、完全に引きこもりだとは言えないわけだけどさ」
ニートは黙って、俺から視線を外し、それから天井を見るかのように頭を上に向けながら言った。
「お前にボコボコにされたからだ。お前と一緒の教室になんか、恐くていられるか。またいつ、逆上されて殴られるか分かったもんじゃない」
「はい、嘘」
「嘘じゃない」
「だったらこっち見ろよ」
俺の言葉を聞いて、滝川は面倒臭そうに視線をこちらに向けてくる。
「ちっ、本当にお前は気色悪いな。なんで分かるんだよ」
「簡単な事だろ」
勘だよ。
「さぁ、本当の事を言ってもらおうか。俺のせいにしてもらっちゃ、困るんだよ。俺にだって罪悪感があるんだからよ」
滝川は顔を嫌そうに歪めて、水虫が蔓延している父親の足を見るかのように、俺を見つめてくる。
「この前のゴールデンウィークの後にさ、前期中間テストあったよな?」
「ああ、あったな」
先週の木曜と金曜にあったやつだ。
「あれで俺さ、点数めっちゃ酷かったわけ。で、その点数について親……限定するなら父親に酷く叱られたわけだ」
「ほう……なるほど。それで反抗するために、ひっきーになったと、そういう事か?」
「ああ」
……甘えんじゃねぇよ、馬鹿野郎。
どこまで馬鹿だったら気が済むんだ、こいつは。そんなことで反抗するものなのかよ。
「お前の父さんってなんの仕事やってんだ? こんな良い家に住んでんだから、かなりいい職業なんだろう?」
「政治家だ。お前もニュースとかで見たことあるはずだ。滝川進ってな」
滝川進……ああ、今一番、首相に近いとか言われてる人だ。なるほど、滝川の父さんだったか。噂もあてになるものだ。
「なるほどなるほど。それだったら点数悪くて怒られるっていう理由も納得だ。政治家――次期首相候補の息子がバカだなんて知られたら、傷がつくかもしれないもんな」
「本当にお前は、言いにくい事をズバッというよな」
「なんだ? オブラートに優しく包んだ後に、リボンでもつけて贈れってのか? そいつは無理な相談だな」
滝川はここではぁ……と大きなため息を吐き出し、そしてさっきから睨んできている目を更に鋭くする。
「ほら、もういいだろ。さっさと帰れよ。本当の事を話したんだから、満足だろ?」
「いや、まだだ」
「まだ虐め足りないのかよ」
「そういう事じゃねぇよ。本当の事を教えてもらってねぇから、帰るわけにはいかねぇんだ」
「なに言ってんだ。さっきのが本当だって……」
「ダウト」
「……」
「大体さ、そんなに親しくもない……ていうか、憎んでいる相手や、避けたい相手に、そんなペラペラと本当の事を話すわけねぇだろ。つくんなら、もっとバレにくい嘘をつけ」
俺がそう言うと、滝川は黙ってしまった。
これ以上、声が枯れてしまったガキ大将の如くなにも喋らなかったら、別の方法を取ろうと思っていた。しかし、滝川は案外、簡単に口を開く。
いつものように人を見下すような感じの声で。
「うるせぇよ、被害者」
通算三回目となるこの言葉を言った。
被害者って言われても、俺にはなにがなんだか分からない。なのでここは、適当に受け流し、さっさと本題に入る。
「はいはい分かった分かった。それで、引きこもった理由は?」
「犯罪者の肉親にボコボコにされたからでーす」
「……犯罪者の肉親?」
え、なにこれ。肉親って誰? 俺? いやでも、俺の親はどっかで生きてるし、兄弟はいないし、姉や妹もいないし。
「なんだ? お前、忘れてんのか? 忘れるわけないよな? 三年前、俺達が中三だった時の話だもんな」
「……でたらめ言うな。俺の親は生きてるし、兄弟はいないぞ」
「ははっ。お前こそなに言ってんだ。親が生きてる? はははっ、バッカじゃねぇの!?」
「……一人で盛り上がっている最中悪いが、なにを言っているかさっぱり分からないんだ。だから、話を戻そうか」
そう言ってもニートの言葉は終わらない。だから俺は、こいつを残して、ひとまず部屋から出て行く。
滝川の部屋から出た俺は、無駄に広い家の中を歩き回り、どうにか居間に続く扉を発見する事が出来た。
木製の扉にはめ込まれたガラスから中を覗くと、高そうなソファに座った会長と滝川のお母さんが向かいあっていた。
会長は小さな手でバンバンと机を叩き、その姿を滝川母が微笑ましそうに見守っている。まるで小さな我が子を見る母親のようだった。
そしてその姿に余計にイラつきを募らせているのか、会長の怒りメーターがもう少しで振り切れそうだった。
なので俺は、暴走が始まる前に居間の扉をノックしてからゆっくりと引き開ける。
一早く俺の存在に気付いた会長が鋭くした目で睨んできて、いかにも機嫌が悪そうに「なんじゃ」とぶっきらぼうに言ってきた。
「もう、滝川信二との対話は終わったのか? 成果はどうじゃった」
「いや、それがさ。いきなり訳の分からん事を言い始めたから、部屋に置いてきた。別の情報源から聞き出そうと思ってさ」
ふわふわした絨毯の上を歩いて、空いていた会長の横に腰を下ろす。
「会長も、母親からなにか聞き出したんだろう?」
「まぁ、そうじゃ」
「そうかそうか。それで、なにを聞いたんだ?」
「それがの……」
「どうやったら背が大きくなるのかとか、スタイルが良くなるのか、とかか?」
「今のワシはとても機嫌が悪いのでな。もしかしたら手が滑って、机の上にある熱々の紅茶が吹っ飛ぶかもしれん。気を付けるのじゃぞ」
「……ああ」
コホンと咳払いをしてから、会長は深刻そうな表情になる。
それにつられて、俺も表面上だけはシリアスを取り繕うにした。
「実はの、滝川信二は少し遅い反抗期のようなのじゃ」
「はぁ?」
俺が必死につけたシリアスの仮面が一気に外れた。それは氷河が崩れるよりも一瞬だったように思える。
少し遅い反抗期ってなんすか。今頃、反抗期って……。
「そんなやる気をなくしたような顔をするでない。これは結構、重要な事なんじゃぞ」
「反抗期が?」
「そうじゃ。このままでは家庭崩壊の危機なのじゃ。ここはワシ達でどうにかしてやるぞ」
「えー」
どうでもいい。
滝川の家庭が崩壊しようが、崩落しようが、壊れようが、蒸発しようが、バズーカで破壊されようがどうでもいい。あいつの家庭環境なんて知るか。
だいたいだな、俺は反抗期ってもんがまるでなかったんだぞ。当り前だけど。だって、中学時代にも親はあまり家にいなかったし。
反抗したくてもできなかったのですよ。別に反抗出来る滝川が羨ましいわけじゃないけど。
「ええ、そうなのですわ、恥ずかしながら……」
ゆっくりとした口調で滝川母が口を開く。よくこんな親からあんな暴力男が生まれたもんだ。
「ほら、言ってみて下さい。あなたの息子が毎日、家でなにをしているのかを」
「あらあら、なんだか恥ずかしいな……でも一応、言ってみようかしら」
滝川母は、言葉とは裏腹にそれほど照れている様子はなく、淡々とその時の話をしだした。俺の意思は思いっきり無視なんですね。
「高校二年生になったあたりのはずですわ。あの子がいきなり暴力を奮うようになったのは」
「滝川……信二がですか?」
「ええ。息子以外、どなたがいらっしゃるの」
「……そうですね。すいません続けてください」
一応、聞いてみただけなのに、露骨に嫌そうな顔された。この親でもそんな顔できるんだ。
「それで、暴力を奮うようになったのですけど、私ばかりで……ほとほと困っておりましたの。おほほ」
そう言って滝川母は、白い清楚なワンピースの袖をまくって腕を見せてきた。
青痣がいくつかあった。
これが反抗期の少年がやるもんなのか? 俺のイメージと少し違うんだけど。
「私を殴るだけならまだいいですのよ、ええ。だけど、最近では家の物を壊すようになってきましたの」
今度は部屋の隅を指さす。
新しく塗り直したかのように、一部だけ壁の色が変わっている。あそこを壊したのか。なにで? ハンマーとかそういう鈍器でか?
しかし、よくこんな高級そうな家を破壊しようとか思えるな。俺だったら、恐くて壁に触れられそうもねぇよ。高そうなソファには普通に座るけどね。
「その他にはなにもしていないんですか?」
なんかいつの間にか、この家の事情を聞いているが、これは決して解決するためではない。暇だからだ。
滝川母は俺の言葉を聞いて、天井を仰ぎ見る。思案顔をしてみせた。
「そうですわね……。ああ、最近は街の方で喧嘩をしてくるそうで、この前は小さな女の子にボコボコにされたそうですわ。全く、なにをやっているのかしら」
小さな女の子? なんとなく会長を見てみる。彼女は不快そうに俺を睨んできた後、「ワシがそんな事をするはずがないじゃろう」と言い、滝川母に続きを促した。
「えーと、他には……ああ、そうそう。同じクラスの男が憎い憎い言ってましたわ」
同じクラス。ああ、俺の事? 憎いとかなに言ってんの。あいつが変に絡んでくるから悪いんじゃん。
というか。このお母さんは、反抗期の息子の状態をよく把握してるんだな。探偵でも雇っているのか? で、尾行して状況を教えてもらってるとか? 自分で言っといてなんだけど、そこまでするのか?
「なんでその男が憎いんですかね?」
どんな理由があるのか気になって、なんとなく聞いてみた。
「さぁ、分からないのですわ。ただ、羨ましいとか、なんであいつはああなんだ、とか言っているのを聞いた事がありますの」
羨ましい? なにが? 憎んでるんじゃないの?
「羨ましいってなにがですかね?」
この母親がそこまで知っているのかどうかは疑問だったが、一応、聞いてみる。もしかしたら知っているかもしれないし。
滝川母は頬に手を当ててしばらく悩んだ後、「うーん、分からないんですの」と軽い調子で答えてきた。
「なんであの子が、その子を羨ましがっているのか、私には分かりませんわ」
「そうですか」
期待していなかったので別に落胆はしないが、かなり面倒な事になりそうだ。だいたい、なんであいつは俺を羨ましがる。
いや、もしかしたら俺ではないという可能性もあるのだが、それではなんだか釈然としない。
「新藤宗太。もうそろそろいいんじゃないかの?」
会長が飽きたとでも言わんばかりに大きな欠伸をしながら、そう伝えてきた。もうおねむの時間なんだな。
容姿だけではなく、こういった場所までも小学生並みとは。
それはさておき。
「なにがそろそろいいんだ?」
「決まっておるじゃろ。さっさと滝川信二の部屋に行って、とっとと反抗期を治してくるのじゃ」
「いや、反抗期って自然になくなるんじゃないのか? それを治すってどうやって」
「知らぬ」
「無責任な」
「いいからとっとと行ってくるのじゃ」
「いだだだだ!」
会長の小さな手に腕の肉を摘まれ、予想以上に強い握力に驚かされる。これはちぎれる。
ちぎれるというか、俺の脳内ではすでにちぎられた腕を見ながら、俺は再び滝川の部屋の前に来ていた。
あれだけの話しか聞いてないってのに、どうやって反抗期を治せというのだ。
要はあれか? 反抗期がいかにバカバカしいかを耳元で念仏を唱えるかのように、しつこく言い続ければいいのか? いやでも、馬の耳にも念仏っていうし。
あっいや、あいつは馬じゃない。ニートだ。このままでは立派な屋内警備員になりそうだし。
それでも、あいつがどうなろうと本当に知ったこっちゃねぇし。
「……考えてても仕方ねぇか」
このまま帰っても、会長になに言われるか分かったもんじゃないし。ここは嫌な事をさっささとやって帰るに限る。
そう決めた俺は、滝川の部屋のドアノブに手をかけて、押し開けた。
部屋の中を見渡してみると、滝川をすぐに見つける事が出来た。あいつはまた、ベッドの中に潜っている。またフリダシに戻ったのか。
とりあえず、亀の歩く速度に合わせるほど面倒臭い、滝川亀頭ピョッコリ作戦をやるのはもう嫌なので、床に散らばっている本やらゲームやらを踏みながらベッドに近づく。
「起きろコラ」
そしてなんの遠慮もなく掛け布団をはぎ取って、上に放り投げる。
布団にくるまってぬくぬく生活を堪能していた滝川は、掛け布団がなくなった影響なのか、ぶるるっと体を震わせて俺を睨んできた。
「なんだよ、帰れよ」
「断る」
いまいましそうに舌打ちをされたが、そこはスルーしよう。こんなのにいちいち反応してられるか。
「いいから帰れよ!!」
「嫌だね」
「なんでだよ。お前なんて関係ないんだからとっとと帰れよ!」
「関係ないけど、帰るわけにはいかないんだ」
俺だって会長さえいなかったらこんな場所に来ていないし、見てるだけでなぜかイライラする、今のこいつと一緒にいたくもない。
「なんなんだよ、説教でもしにきたのか? どうせ、あのクソババァから俺の事を聞いたんだろ?」
「母親だろ? その呼び方は感心しないな」
「うるせぇよ! 自分の親の事をなんて言おうと、俺の勝手だろ! 部外者が口出してんじゃねぇよ!! 両親もいない奴になんて、俺の気持ちなんて分からないんだ!」
「確かに俺はお前の事なんて死ぬほどどうでもいいし、お前の事を分かろうとも思わねぇし、分かりたくもねぇし、うん、本当に無関心なんだわ。俺の気持ちなんて分からない? ははっ、なに言ってんだよ。どこの被害者ですかーこの野郎。他人の気持ちも分からない奴が、自分の気持に気付いてもらおうなんて虫がよすぎるんだよ」
とりあえず言いたい事をちょっとだけ言葉にしてみると、ニートの顔が真っ赤になってきた。
今までも俺に対する嫌悪感やら怒りやらその他諸々の感情で、いつもより顔は赤かったが、それ以上になるとは。
これだったら、タコは軽く超えるな。坊主頭もタコを強く意識しているがゆえか。
滝川は俺の言葉を鼻で笑うと、また見下すような視線を送ってきた。
「ハンッ。なに綺麗事抜かしてんだよ、バッカじゃねぇの! 他人の気持ちに気付けないし、気付きたくもないんだったら、少しは気付けるように、少しは気付きたくなるように努力でもしてみろや!」
「お前こそなに言ってんだよ。気持ち悪ぃな。気付きたくない奴の気持ちなんて本当にどうでもいいに決まってるだろ? それを努力してみろって、おかしくねぇか? あれだぞ、ゴキブリを好きになるように努力しろって言ってる事と同じだ」
「いやいや、むしろ、人の気持ちをないがしろにする奴がゴキブリなんだろ! お前は自分を好きになれば、誰の気持でもくみ取れるようになるんだよ!」
「ますますなにを言っているのか、分からなくなってきたな。頭大丈夫か? 嫌いな奴の気持ちなんて知る必要がないじゃないか。いいか? お前みたいに人に責任を全て押し付けるような奴が、一番人の気持ちも分かってねぇし、一番、どうでもいいとか考えてるんだ。だって、そうだろ? 自分の意見さえ通ればそれでいいんだから」
「俺がいつ、人に責任押し付けたよ」
滝川は、赤くなった顔を今まで以上に赤らめた。こいつには限界がないのだろうか。もしそうだとしてもだ、こんなどうでもいい場所で限界突破なんてするなよ。
「押しつけてるじゃねぇか」
もはや布団の上で立ち上がっている滝川に、指を突きつける。
「学校休んで引きこもって、その理由をテストの点数が悪かったからだとか、または俺のせいにしてるだろ? それって責任おしつけるどころか、もう投げてるじゃん。丸投げじゃねぇかよ」
「テストの点数が悪くて休んだってのは嘘だって、てめぇが言ったんじゃないかよ!! ……だけどな、テストの点数が悪かったのは事実で、クソジジィに怒られたのも事実なんだよ!! それをてめぇが勝手に嘘にしたんだ!」
「だからどうしたよ。そうやって、親に怒られたから、お前は引きこもったんだろ? 俺が嘘にしようがしまいが、その事実は変わりねぇんだ。それによ、俺が嘘にしてた時点でも、お前は親のせいにしてただろ? だったら、親に責任押し付けてるじゃねぇか。そのくせに反抗期? ははっ、お前は俺の腹筋崩壊を誘っているのか?」
「うるせぇよ!! お前みたいになんでも出来るような奴に、そんな事言われたくねぇんだよぉ!!」
「……俺は別に、なんでも出来る訳じゃねぇよ」
それはむしろ、美優とか鳴海。会長の方で。
俺はあいつらに負けたくないから、勉強とか頑張ってるし。それでも、どれだけ頑張っても勝てないものはあるわけで。
「なんでも出来るじゃないかよ! 羨ましいんだよ、お前! 大して努力もしてないくせに、最初からなんでも出来るんだろ!? なんでだよ、なんで俺はお前にテストでも勝てないんだ!」
「そんなの、最初から諦めてるだけだろ。俺は天才じゃない。才能にも恵まれてないから、ただただ努力する馬鹿だよ」
「嘘つくな! だってお前、授業中とか寝てる時もあるじゃないかよ! なのになんで、お前のテストの成績は良いんだ! 才能あるからだろ!? 元の作りが俺とは違うからだろ!!」
唾を吐き散らしながら、滝川は俺に詰め寄ってくる。
俺はそれに物怖じせず、真っ正面から睨み返した。
「俺の成績がいいのは、家で勉強してるからだよ。いつまでも遊んで、疲れたら家に帰って、寝て食ってを繰り返しているお前とは違うんだ」
「お前、勉強してるのかよ。嘘つくな! この前だって、勉強全くしてないって言いながら、テストの成績上位三十位の中にいたじゃないか!」
「……あんな嘘、信じるなよ。俺はな、他人に努力を見せるのが嫌いなんだ。だから学校では怠けてる振りをする。その代わり、家では結構、勉強してるぜ」
「くそっ!! いいからもう帰れよ!! お前と一緒にいると腹立つんだよ!!」
「それはこっちの台詞だ。反抗期なんていうバカバカしい状態に陥っている馬鹿を見てると、反吐が出る。お前に言われなくても、出てってやるよ」
「帰れよ、早く帰れ!!」
「分かってるつってんだろ」
そう言いながら、滝川が投げてきた目覚まし時計をサイドステップでかわす。あれが当たったらどうするんだ。最悪、頭割れるぞ。
手近にあるもの全てを投げようとしている滝川に背を向けて、一直線に扉の方に走る。途中でなにかを踏みつぶしたけど、知らないふりをする。
「これだから被害者は嫌いなんだ!! いろんな場所のネジが吹っ飛んでやがる!! 二度と俺の前に姿現すな!!」
また被害者って。なんの事だよ、本当に。
「でも良かったよなぁ!! お前だけは生き残ってよ!! あれか? ぶるぶる震えてたお前を、両親がかばってくれたのか!? あははは、なっさけねぇぇぇ!!」
なにを言っているのかいまいち分からなかったので、俺は近くにあったCDケースを滝川目がけて投げる。
綺麗に横回転しながら突き進んだそれは、滝川の右頬を少しだけかすめて後ろにある壁に激突した。
「お前が喋るとさ、地球温暖化が十倍の速さで進みそうだから、一生喋んなくそったれ」
「うるせぇよ!!」
滝川の怒鳴り声に押されるように、俺は部屋から外に出た。
そして扉を閉める間際、ぼそっと呟く声がする。
「本当に、羨ましいよ、お前。変わってくれよ……」
……この声は聞かなかった事にして、扉を乱暴に閉めた。
居間に戻ってくると、会長がソファで横になって寝ており、無防備な寝顔を晒していた。
とりあえず近づき、その顔を拝見する。普段の凛とした空気のようなものを纏っていなく、本当に小学生のようにしか見えない。
どこをどうしたら、こんな子供が生まれるのだろうか。
「あらあら、信二はどうなりましたか?」
声のした方――台所の方を見ると、滝川の母親が料理を作りながら俺を見てきていた。
「説得に失敗しました。すいません、力になれなくて」
「あらあら、いいですのよ気にしてくださらなくても」
そう言いながら微笑みを携える滝川母を見ていると、良い年の取り方をしたんだなと思ってしまう。
というか、特に説得するつもりはなかっただけに、これではなんだか悪い気がしてきた。
もう少し粘ってみるべきだったか。いや、あれ以上あいつと一緒にいたら、絶対に喧嘩になってたし。 俺がまだ優勢になれるのは、口喧嘩まで。殴り合いだったら駄目だ、即死する。多分。
過ぎてしまった事を考えても仕方がない。
「じゃあ、俺達はここで失礼しますので」
「あら? いいのよ。夕飯でも食べてゆっくりしていってください」
「いえ、そういうわけにはいきません」
そんな事をしたら、滝川と顔を合わせる事になるかもしれないし。
ここはさっさと帰るに限る。
「それでは。おい、会長、帰るぞ。起きろ」
滝川母の誘いを断り、会長の頬をペシペシ叩く。
「う……うぅ……ん」
うっすらと目を開けた会長が、俺を見つめてくる。
そしてゆっくりと起き上がり、俺に向かってダイブしてき――えぇ!?
「おわぁ!?」
「ぬぅ……ぷにぷになのじゃー。えへへへ」
いつもの笑みではなく、幼い子供のように無邪気な笑いを浮かべ始め、何度も頬ずりしてくる。
「ちょ、頬ずりやめろ! 目覚ませ会長!! こら、おい!!」
「ぷーにぷに」
「ぷにぷにじゃねぇ!!」
何度もしつこく頬ずりしてくる会長の頭を、軽く小突く。
今度こそ目を覚ましたはずの会長は、俺の顔を確認すると少しだけ目を見開いた。
「ぬ……。なんじゃ、新藤宗太。夜這い……いや夕這いか? 節操のない男じゃ」
「お前が悪いんだろうが!」「ワシはなにもしとらん。目が覚めたら、貴様の顔が目の前にあっただけじゃ」
「寝ぼけたお前が悪いんだろうが!」
……疲れる。
髪の上をなにかが通過して、後方にある壁に激突する音が聞こえる。