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時事ネタって旬すぎると寒い

「絶対に豊崎さんだろ!!」


「いーや、伊藤かな恵さんだね」


「なにを馬鹿な事を……。日笠さんに決まってるじゃないか!」



 GWが終わってから初めての登校日。その日の放課後にて、俺、鳴海、それからなぜか知らないが『声優さんの話なら僕も混ぜろ』とか言って入ってきた、森和重――通称、ダメガネと声優さん談義に興じていた。



 ちなみに俺が豊崎さん。鳴海が伊藤さん。ダメガネが日笠さんだ。


 なんかメジャーな声優さんしか出ていないのは、勘違いである。


 俺がいくら豊崎さんの事を語っても、他の二人は耳も貸さない。仕方がないので、最初の説明をもう一度する。



「あの癒し系ボイスに勝てる奴がいるのかよ!!」


「ふんっ。あの程度でなにを言うか。それなら伊藤さんの方が和むわ」


「お前らは馬鹿か? 癒し系ボイス? 僕からしたら、なにそれ食えんの状態だな。落ちついたあの声こそ至高ではないか!!」


「てめぇは黙って、生徒会長キャラが出てくるアニメでも観てろや!!」



 こんな会話を放課後の誰もいなくなった教室でしている俺達は馬鹿だろうか。


 しかも超騒いでいる。


 そろそろ、止めておくか。



 俺は大声を出し過ぎて乱れてきた息を整えてから、この騒ぎを中断させるための提案をする。



「よーし、分かった。そこまで言うのならば、お前達のお勧め声優さんの出ているアニメを今日、買いに行くぞ。そして、みんなでそれを鑑賞しあい、それぞれの声優さんの評価を決めるんだ。これで文句ないな?」



 俺の提案に、二人は神妙な面持ちでコクリと頷いた。



「よーし、それでは街に行くぞ!!」


『おー!!』



 掛け声を出した、なんかテンションがハイになっている俺に続いて他の二人も声を出していた。


 銀行で金をおろした俺は、外で待っている二人の元へと急いだ。


 ちょっとした緊急事態があったが、それは後からでもいいだろう。


 曇り空の元、なぜか友達のように着いてきたダメガネと鳴海は、無言で俺を待っていたようだ。


 少しくらい会話をしてもいいのに。というか、なんでダメガネがここにいる。


 さっきは勢いであんな事を言ったが、鳴海とだけで来ても十分だったのに。


 

「僕を待たせるなんて、お前は何様だ」


「お前より顔も頭も運動神経も良い新藤様だ」


「死ね」


「そっちが」



 お互い、鼻で笑ってから歩きだす。


 

「そうだ新藤。これからどこに行くんだ?」



 鳴海が前を見ながら話しかけてくる。その視線の先には、帰り道を急ぐ女子高生がいた。


 仕方がないので、俺はその横にいる小学生らしき集団を見つめながら返す。なにが仕方がないのかはさておき、俺はロリコンじゃないので誤解はいけません。



「あー、ほら。駅前にアニメイトあるじゃん? あそこなら色んなものが揃ってるから、そこに行こうと思う」


「そうか」



 今の鳴海は少しだけ無口だ。いつもならもっと、話しかけてくるのに。そんなにダメガネが気に入らないか。俺もだけど。



「ほう……。アニメイトね。お前にしてはなかなか上出来な場所を考えたじゃないか」



 ダメガネハニワが帰路に就くOLらしき人を鼻の下を伸ばして見ながら、気持ち悪い顔で腹立つ事を言ってきた。



「警察呼ぶぞ」


「なんでだ!」


「公然猥褻の罪だ」


「どこがだよ!?」


「お前の存在そのものが猥褻物だろ。卑猥な顔面しやがって」


「少し酷くないか……」


「お前が俺にやってきた事を思えば、軽い軽い。羽根のようだぜ」


「僕はそれ以上の事をされたんだが」



 駅前にある背の高いビルとビルの間にある小さな建物。外装には『なんでも屋』とか書かれている怪しい古ぼけた建物なのだが、この中にアニメイトはあった。


 なんで、なんでも屋という名前なのかは、色んな店がこの中に入っているという意味である。


 なぜかこの建物にはエレベーターが無く、仕方無く俺達は非常階段らしきものを使って上まで行く。


 薄暗い階段を、非常出口の看板から発せられる緑色の光が不気味に照らし出していた。


 そんな階段を四階分上って行くと、踊り場の所に鉄製の扉が現れた。


 そこを押し開け、中に入る。中は素晴らしい光景が広がっていた。



「ここに来るの久し振りだ」


 

 前に来たのはいつだったか。確か、高校の最初の方だったと思う。



「あっちに行ってみようぜ、新藤」


「あっちって……お前が指差している方は、コスプレルームだぞ、鳴海」


「そんな事知ってるさ。だからこそいいんだろ!?」


「お前……確かにそうだけどさ!」



 ダメガネを階段の場所に残し、俺と鳴海は店の角にあるコスプレルームへと直行した。



「あっ、おいお前ら。ここに来た理由を忘れてないか……って、僕を置いて行くな!!」



 きゃっほーう!! と、鳴海と共に奇声を上げ、店員さんやカップルから冷たい視線を頂戴しながらなんとかたどり着いたそこは、天国と称するには程遠いが、それでも良い場所だねーとは言える。そんな所だった。



「うわ、すげぇぞ新藤。これ見ろって。こんなエロいコスプレする奴いるのかよ」


「うわっ、ハイレグじゃん。ていうか、それはなんのアニメの衣装なんだ……? つーか、すげぇな。それ、人気ランキングでトップ5に入ってやがる。みんなエロい奴ばっかだ!!」



 きゃっほう!! 

 まだまだ俺と鳴海のテンションは上昇していく。



「これ見ろ。神宮秋がメインヒロインの声優やってるアニメの制服だ。可愛いなぁ」


「なんだ、鳴海は神宮も好きなんだな。……そう言えばさ、彼女、この街に転校してきてるらしいぞ? 知ってたか?」


「マジでか!? サイン欲しーな」


「今度はコンサートもやるらしい。美優とか猫女とか誘って一緒に行ってみるか?」


「ああ、もう絶対に行く!! 死ぬまでお前に着いて行くわ!」


「あっははは。キモイわ」



「おい、お前ら、ここに来た理由を忘れてないか?さっさとアニメを探そうじゃないか」



 鳴海と一緒に盛り上がっていた所、それに水を差すような言葉が耳に届く。


 本当に黙っていて欲しい。こいつが喋るたびに、おそらくは南極にある氷河が崩れおちるに違いない。なんて迷惑なやつだ。


「なんだよ、黙ってろダメガネ」


「俺達は今な、コンサートの日になにを着ていくのかという話題で一杯なんだよ。帰れ帰れ。お呼びじゃねぇんだ」



「お前ら酷くないか!?」


『全然』


「ハモるな!!」



 ダメガネがぶつぶつとうるさいので、俺と鳴海は顔を見合せて大きな溜息を吐いてから行動に移す。



「仕方がない。アニメでも探すか」


「そうだな、伊藤さんの美声も聴きたくなった所だ。仕方がないから探してやろうぜ」



 やれやれと首を振りながら、ダメガネの横を通過する。



「なんか凄く泣きたくなったきたんだが」


「ぶつぶつ言っている暇があるなら、日笠さんがやっているアニメでも捜せノロマ」


「なんなんだお前は!!」



 アニメコーナーに移動する。ここにはいかにもオタクっぽい人がいるのかなー、とか思いながら棚の近くから覗いてみたのだが、学生しかいない。


 ちょっと拍子ぬけだった。


 しかしそんな事を言っている暇もなく、俺はさっさと豊崎さん出演のアニメを探す事に。


「鳴海……ついでにダメガネ、ちょっと来てくれ」


「なんだ?」


「本名を少しでいいから入れてくれ」



 豊崎さんがやっているアニメのDVDを発見した俺は、離れて探していた二人を近くに集めた。無論、ダメガネの申し出は却下する。



「どうせお前らは、豊崎さんイコール軽音楽部を題材にした、アニメの主人公としか思っていないだろう。しかし、それは大きな間違いだ。いや、あれはあれで好きだが、二期は認めない」


「新藤、なにが言いたいのかハッキリしてくれ。文章が支離滅裂すぎる」


「ごめん。俺がなにを言いたいかというとだな、豊崎さんが出ているアニメで一番好きなのは、これなのだ!!」



 二人の前にDVDのパッケージを突きつける。


 それは、なんか偉い役職を目指して魔法学校に入学したら、将来は魔王になると予言されてしまった、教室の一番後ろが自席である可哀想な少年の物語である。



「なんだこれ。こんなアニメあるのか?」


「甘いなダメガネ。声優の欄を見てみろ」


「はぁ? ……な、こ、これは!! 日笠さんが出てるだと!?」


「ああ、そうだ。サブヒロインだが、なかなか重要な役だ。なんだ、お前は知らなかったのか? 好きな声優が出てるのに? ダッサー」


「ぐっ……!」



 ちなみにこのアニメ、原作はラノベである。原作は好きだが、このアニメは正直、超展開すぎて面白くなかった。


 

 しかーし!! 好きな声優が出ていれば、最後まで見るのが俺の正義だ!! 


 つーかね、メインヒロインを豊崎さんがやっているんだが……かなり和むんだよ。あれは良かった。


 つまり、アニメの出来が悪くても、俺は声優さんさえ好きだったら最後までみるのだ。


 俺のアニメ談義が終了した後、ダメガネは、あのDVDの一巻と二巻を買った(強制)。金が入ったら、続巻も集めるという約束を平和にとりつけたのである。


 俺には交渉の才能があるのかもしれない。最後の方のダメガネは、俺の談義に感動したのか涙を流しながらレジに向かっていたからね。


 

 さて、次は鳴海の番だ。


 鳴海は棚の前で二つのアニメのパッケージを見比べながら、悩んでいた。


 

「なんだ、まだ決まってないのか?」


「ああ、ちょっとな。俺が好きなのは最近、アニメになった奴なんだけど、さすがにDVDはまだ出てないみたいだ。だから他のアニメにしようかと思ったんだけど、結構悩むな」



 いつまでもうだうだと悩んでいる鳴海に痺れを切らしたのか、ダメガネがアニメイトの袋を持っていない方の手で別の棚を指差す。



「先に僕のを紹介してもいいか?」


「帰れ」


「やっぱり酷くないか!?」


「いいから、帰ってそのアニメを観てろ。ここにいて、友達だと思われたら一生の恥だ」


「そこまで言わなくてもいいだろう!! なんだよ、さっきから!! もうこうなったら意地でも僕お勧めのアニメを紹介してやる」



 うわぁ……ちょっとウザい。嫌なものに火を点けてしまった。こういう扱いをされるのは慣れていると思ってたのに。


 結局、まだ決まらない鳴海の代わりに、ダメガネのお勧めアニメ談義を聴く事に。



「僕のお勧めはこれだ!」



 そう言って眼前に突き出してきたアニメは、北海道のどこかにあるファミレスで、様々な変態達が賑やかに日常を過ごす、四コマ漫画を原作としたものだった。



「ほう……。これにお前、お勧めの日笠さんが出てるのか?」


「出てる出てる。メインキャラではないが、主人公のお姉さん役で出てるんだな、これが」


「ほう。初耳だ」



 実際、こいつのはどうでもいいので、適当に聞き流しておこうと思っていたのだが、パッケージの裏にある作品説明を読んでいると、なかなか面白そうだ。



「買って、観て、笑え。絶対にはまるから!」


「分かった。じゃあ、んっ」


「なんだ、この手は。僕になにを求めている」


「金くれ」


「なんでだ! さっきだって、僕は自分のお金で買ったんだから、お前だって自分のお金で買うべきだろう!?」


「お前がお勧めしているアニメを、貴重な時間を割いてまで観てやろうとしているんだ。これくらい、当たり前だろう」


「いい加減にしないと、泣くぞ」


「泣いてみろ。ダメガネハニワ」



 鼻を鳴らし、ダメガネを見下す。「くっそー」とか言いながら目をゴシゴシ擦っているこいつはさておき、俺はとりあえず一巻だけを持ってレジに向かった。



「新藤、お前……」


「勘違いするなよ。面白そうだから買うんだ。お前の説明が必死だったからじゃない」



 男にツンデレもどきをしてどうする、俺……。


 俺がDVDを買った後、鳴海はいつまで経っても決める事が出来なかったので、また後日という事になった。


 怪しいビルの中から出て、入口付近で話し始める。ここは駅前にあるので、電車組はここで別れた方が早いのだ。


 鳴海はここから三駅ほど離れた位置にある、俺が中学生まで住んでいた街にいる。


 ダメガネのは全然興味なかったのだが、なんか相手の方から勝手に語ってきた内容によると、二駅しか離れていないらしい。


 金の無駄なので自転車で来いよとか言いたいが、それは個人の勝手なので、冷たい視線を投げかけるだけで済ました。



「じゃあな、鳴海。あとダメガネ」


「おう、また明日な」


「なかなか楽しかった。できればまた一緒に行こうではないか」


「ダメガネは駄目だ。ニートと一緒に行けばいいだろう」



 俺の言葉に鳴海は吹き出し、ダメガネは若干落ち込む。


 少し一緒にいたくらいで、仲良くなったと思うとは、まだまだだね。


 


 鳴海達と別れてから、自宅への道を歩く。空が赤くなり始めた時間帯、カラスの鳴く声が、少し遠くに聞こえてきていた。


 ポケットに入れておいた通帳を取り出し、記帳していた残高を確認する。


 預金残高、三万円。


 どうしよう。いつもなら、六日とかいう中途半端な日にちに、両親からの送金があるのに。今月はそれがなかった。


 事情があって少しだけ遅れているだけかもしれないが、それでもなんか不安だ。


 毎月、決まった日にちに金を入れてくれるから、両親が生きているという証拠になっていたのに。


 なにがあったんだろう……?


 いや、それよりも今は生活費が大事だ。


 家賃やらなんやらは、何か月分も先まで払ってくれてるから、今月はこの三万円でどうにかなるとしてもだ、それでも来月が困る。



「……バイトでもしようかな」



 今までやった事はなかったけど、何事も経験が必要である。


 ということで、帰りにコンビニに寄り、バイト求人誌を購入。


 家に入り、居間にあるソファに腰を下ろしてから、いくつか確認してみる事に。



「コンビニ……新聞配達……接客業……飲食店……結構あるもんだな」



 まだ時間は午後六時前だ。なので、最初に目に留まったコンビニに電話をしてみる。


 番号を間違えないように注意しながら携帯に入力し、耳に当てる。


 何回目かのコール音の後に、女性の声が響いた。



『はい、セブンセブン神川店です』


「あっ、求人情報を見て電話したんですけど」


『あー、ごめんなさい。もう決まっちゃったので』


「そうですか。失礼します」 だったら、いつまでも広告に載せてるんじゃねぇよ。



「まぁ、いいや。次々」



 広告にはまだまだ募集中がある。この中から、一つぐらいは採用してくれるだろう。



「そうですか、ありがとうございます」



 十件目の店も断られた。


 なんでここまで不景気なんだよ。というか、断るくらいなら、求人情報に載せるな。



「もう、いいや! バイトなんて知らん!!」



 雑誌を投げ出し、ソファにもたれかかる。


 前の机に置いてあった新聞を手に取り、適当にページをめくっていくと、ここにも採用情報は載っていた。


 これで最後にしようかな。



 とりあえず一番最初に目に留まった、新聞社内で働くというバイトに電話をしてみる。



『はい、神川新聞です』


「バイトの求人情報を見て電話したんですけど」


『なるほど。それでは、履歴書を持って、明日の……何時くらいなら来れますか?』


「午後六時ぐらいには行けると思います」


『では、その時に。失礼します』


「失礼します」



 おお、面接を受ける事が決まったではないか。今までは電話で断られていたのだから、これは凄い進歩だ。


 早速、雑誌と一緒に買っておいた履歴書に記入を始める。


 それがもう少しで終わりそうだと思ったら、いきなり玄関の扉が開く音がした。


 幽霊? いや、美優か。


 居間へと繋がる廊下を歩いてくる音が聞こえる。そして、襖がガラッと開いた。


 そっちの方向を見てみると、パーティなどでよく使われるような、細長いとんがり帽子を被っている奴がいて、そいつは両手になにか四角い箱を持っていた。


 そこにいたのはやはり美優で、なぜかすっごく、にこにこしていた。



「宗、こんにちは~」


「不法侵入者さん、こんにちは」



 最大限の嫌みを込めて言ってみたが、「あはは」というふうに笑って誤魔化された。


 美優は襖を閉めてから中に侵入してきて、俺の目の前にある机に持っていた箱を置いてから自分は床に座った。



「なんの用だ?」



 これ以上、嫌みや皮肉を言っても通じないだろうと思い、さっさと話を展開させる。そして、早く帰ってくれ。履歴書の続きを書きたいから。



「ほら、宗、宗。これ持って持って」


 

 これでもかっていうぐらいの満面の笑みを浮かべている美優は、スカートのポケットから取り出したクラッカーを俺に渡してくる。


 

「……? なにこれ」


「クラッカーに決まってるじゃん。そんな事も分からないの?」


「いや、そういう事じゃなくて……いや、もういいや。これで俺になにをしろと、おっしゃるんですかね?」


「いいからいいから。僕の合図に合わせて、一緒に紐を引こうよ」


「え、やだ」


「だ~め。今日の宗に、拒否権はないんだから」


「えー」



 なにこれ。なんでこんな事させられんの。俺なにかした?



「はい、行くよ~? 1、2、3、ハッピーバースディ、宗!!」


「イェーイ!!」



 パンパンと、二個のクラッカーが同時に音を鳴らした。



 いや、しかし、言いたい事がある。



「……美優」


「なに?」



 美優はトンガリ帽子を被ったまま、子供にも見える仕草で首を傾げた。


 さらに、その笑顔も無邪気なもので、これまた子供のようだ。出来ればこれは言いたくないのだが、ツッコミを入れなければ後々、妙な事になる。



「……今のノリに乗ってみたんだけどさ」


「うんうん」


「俺の誕生日は二月だ。五月じゃない。しかも、六日じゃなくて、十四日だ。ていうか、これって高校生になってからずっと言ってるよな」


「……あははは。間違えちゃった。まぁまぁ、別にいいよね、宗? せっかくプレゼントも持って来たんだし、一年間に二回、誕生日があるって思えば、それで万事解決だね!!」


「そうだな」



 なんかもう、突っ込むのが面倒だった。だからここは、美優のペースに任せて、早々と切り上げて貰おう。



「ささっ、宗。僕が持ってきたプレゼントを開けてみてよ」


「そうだな」



 俺は美優が持ってきて机の上に乗せていた、白い四角い箱の赤いリボンを解いた。


 そして、箱をパカッと開けてみると。



「ケーキ……なのか?」


「僕の手作りなのだぁ~」



 無邪気な笑みを作る美優。それは裏表がないもので、不覚にもアレだった。


 しかし、なんだこれは。本当にケーキなのか?


 色は……茶色い。これは多分、チョコレートだからだろうけど。


 その上に乗っているバナナやキウイフルーツなども別におかしくはない。



 しかし問題なのは、ケーキの土台――つまりはスポンジ部分だ。


 なんだろう、これ。なんて表現したらいいだろうか。


 崩れ落ちた氷山。


 これが的確な喩えかな。


 美優が持ってきたケーキ。それは匂いからも色からも推測できるチョコレート味だ。おそらくはビターチョコレートだろう。俺は甘い物が苦手だからね。


 茶色い塗装が剥がれ落ち、地肌が見えているスポンジ。さらには、先ほどの喩えのように、崩れおちた氷山のように、綺麗な円を描いていたであろう輪郭は、デコボコでグチャグチャになっていた。



「……美優、これはケーキだよな?」


「さっきからそう言ってるよね?」


「そうか」



 だったら、これはなんなのだろう。


 普通のケーキなら、スポンジとスポンジの間にはイチゴなどのフルーツを入れるはずである。


 だけど、この赤い白菜っぽいものが、果物の代わりに敷き詰められているんだが。



「……キムチ?」


「せいか~い!」



 パチパチと拍手をしてくる美優だが、こいつは俺の事を馬鹿にしているのだろうか。


 ケーキにキムチって。甘い物に辛いものって。携帯電話のCMに出ているお父さん犬が、土佐犬に代わる事ぐらい有り得ないことだぞ。

 

 こいつは一体なにがしたいんだ。


 あれか? 罰ゲームか? だったら鳴海を呼び出すから、あいつに食べさせてくれ。俺は断固断る。


「美優、これは一人で作ったのか?」



 ケーキもどきを見て冷汗をかきながらも、それを悟られないようにポーカーフェイスを頑張る。


 そして俺の問いに、美優は少し残念そうに首を横に振った。



「ううん、違うよ。本当は僕一人で作りたかったんだけど、どうしても上手くいかなかったから、毛利さんに手伝ってもらっちゃった」


「あの、お手伝いさんの?」


「うん」



 なるほど、あの人か。だったらこの形状は、十中八九あの人の仕業だな。


 昔から俺にはなにかと嫌がらせ……というか、少し手の込んだイタズラをしてくる人だったから。


 美優が俺のために作っているとか聞いて、昔の血が騒いだんだろう。


 しかし、なんで。



「これで納得しちまうんだよ」


「ふぇ?」


「いや、なんだよその驚き方。だっておかしいだろ? ケーキにキムチって。常識的に考えて」


「韓国の人達はこうやって食べてるんじゃないの?」


「そんなアクィテブな人はいないだろう。わざわざケーキにキムチ入れるような冒険心を持ち合わせている人なんて、いないと思うぞ」


「……だって、毛利さんが、『こうしたら、宗太さん超喜びますよ?』とか、笑顔で言ってたんだよ? そんな人が嘘をつけると思うの?」


「思う。すっごい思う。あの人の笑みほどうさんくさいものはない。お前も、あんまり毛利さんが言う事を真に受けるな。変な影響受けるぞ」


 俺がそう言うと、美優は、しゅんとなってしまった。そんなに落ち込まなくてもいいじゃないか。


 いや、だけどな。このケーキを美優は一生懸命――おそらくは学校から帰ってきてからずっと、作ってくれていたのだろう。


 だとしたら、どんなに不味そうでも食べなければいけないのは、もはや必然なのだろう。


 ……こんなの食って、別世界に旅立ってしまったらどうしようか。とかなんとか、結構本気に悩んでみる。



「……包丁持って来るから、少しここで待っててくれ」


「え? い、いや、こんなの食べなくてもいいんだよ? 僕の料理知識がなかったせいだから。今度は本当の誕生日の時に、頑張って作るから」



 焦っているのか、美優は両手を顔の前で何度も振る。



「いいから、ここで待ってて」


「食べなくてもいいって。無理しないでいいよ」



 そこまでして、これを食べさせたくないのか。俺も本心で言えば、食べなくてもいいの? ヨッシャ、ラッキー!! ていう感じだけど、流石にこの場では言えないわ。


 しかし、食べると決めたら食べなくちゃ気が収まらない。なので、ここは美優の説得にかかる。



「さっき、自分で言った事を思い出してみろ」


「え? え? なんだっけ……誕生日が一年に二回あると思えばいいねっていうやつ?」


「そう、それ。分かってるじゃないか。いいか? 一年に二回あると言っても、誕生日は特別なものなんだ。例え、間違えから生まれた誕生日でも、誕生日には変わりない。なにを言いたいかというとだな、今日の誕生日も一年に一回だけ。祝ってくれた美優がいるんだから、今日も立派な誕生日だ。さて、今日の主役は誰でしょう?」


 美優は顎に手をあてて、考え込む仕草をとる。そんなに悩まなくても、今の問いの答えは、カレーの発祥地を答えるより簡単だろうに。


 やがて、美優の頭の上に、ペカッと小さな豆電球が灯ったような気がした。



「分かった、僕だね!!」


「いや、そういうボケはいいから」


「うにゅ? ……じゃあ、宗だね」


「正解。あと、なんでもかんでも突っ込むと思うなよ」



 美優から視線を外し、台所に向かう。その最中に、俺は美優の方を見ないで言った。



「だからさ、今日は俺の言う事を聞くように。主役は俺なんだから」


「う……うん。分かったよ」



 また少しだけ落ち込み始めた美優だったが、今の声には喜びも混じっていたような気がする。少しは気が晴れたか。



 包丁と二人分の平皿を持って居間に戻る。



「宗」


「ん?」



 皿を机に置き、箱からケーキみたいななにかを慎重に取り出しながら、俺は返事をする。



「今日の主役は、宗だったね」


「そうだな」


「じゃあ、僕を押し倒してもいいんだよ?」


「えいやっ」


「いたっ!」



 変な事を言い始めた美優に、ケーキに傍らにあったロウソクを投げつける。


 それは見事に美優の額にヒット。俺はコントロールがいいのかもしれない。



「変な事を言ってないで、さっさとケーキ食べるぞ」


「その後に……?」


「なにを期待しているかしらんが、この後は履歴書に貼る証明写真を撮りに行くつもりだ」


「履歴書? バイトでもするの?」


「言ってなかったか? まぁ、決まったのは今日だからな。明日、新聞社の社内で働くバイトの面接があるんだ」


「でも、なんで? 毎月、おばさんとおじさんから生活費が送られてくるんでしょ? それだけじゃ足りないの?」



 なぜか質問攻めにされている。そんなに珍しい事だろうか。バイトくらい、誰でもするだろ。



「いや、なんか、今月はまだ送金されてこないんだ。あの親の事だから、忘れてるんじゃないか?」


「あっ、そうなんだ。……でも、言ってくれれば僕がお金貸すよ?」


「いや、それは駄目だ」


「なんで?」



 美優は首を傾げ、本当になにも分かっていないような表情をする。


 理由はある。


 美優の家は結構な金持ちだ。親が共働きしていて、しかも二人とも大企業の中でも良いポストに就いている。


 だけど、親と美優は別。


 美優から金を受け取ってしまったら、俺はそれ目当てでこいつと一緒にいると思われても仕方がない。そんな事絶対に思われたくない。


 だから、俺は美優からは金を借りないようにしている。


 だけど、この理由を語るのはなんだか嫌なので、適当にはぐらかす。



「そこは、ほら、男の意地だ。女から金を借りるなんて言語道断です」



 こんな感じの嘘でも美優は騙せる。



 俺のその考えに間違いはなく、美優は「そっか」と軽く頷いていた。


 これ以上、追及されるのは嫌なので、俺はさっさとケーキ切りに専念することにする。



「美優はどのくらいの大きさがいい?」



 とりあえず、直径が二十センチくらいあるケーキを八等分にしてみる。



「……」



 美優は俺の包丁さばきに感激しているのか、少しだけ沈黙している。最初の方は冗談なんで。



「美優?」


「え? あっ、そうだなぁ。じゃあ、一切れでお願いします」


「あいよ」



 包丁の腹を使い、崩れかけのケーキを上手く運んで皿に載せる。


 今更だが、切り分けている最中からキムチの匂いが凄まじい。これを今から食べると思うと、気が重いや。


 

「……美優、鳴海を呼んでもいいか?」


「なんで?」


「いや、この残ったケーキを全部一人で食べるのは、ちょっとキツイかと思ってさ」


「ダ~メ。さっき言ったもん。今日の宗に拒否権はないよ。僕が駄目と言ったら駄目なのです」


「いや、主役は俺だろう。だからここは俺の発言が優先され」


「ない」


 るよな。という言葉を言う前に、美優に遮られた。なるほどなるほど。長年一緒にいる事によって、俺が次に言う言葉を予測できるようになったか。


 嘘は簡単に信じ込むくせに、こういう場所は扱いにくい奴め。


 とりあえず俺の分である一切れを、皿に移す。


 

「いただきます」


「どうぞ」



 後光でも射すんじゃないかと疑いたくなるほどの笑顔を浮かべる美優。


 フォークを崩れた部分に突き刺す。柔らかい感触の中に、なにか硬いものがあった。おそらくはキムチだ。目をつぶっているので俺には分からん。


 少し力を入れて、それも貫く。なんでこんな事をしているんだろうか。


 後は鼻で息をするのを止めて、口をゆっくり開けた。


 口の中に入れ、閉じる。


 そして、モグモグと噛み砕く。スポンジの触感の中に、シャリシャリしたものがあった。


 味は……ベターチョコレートの味がキツくて、正直よく分からん。


 ほろ苦さはあるが、辛くはない。ケーキにシャリシャリしたものが入っているだけ、みたいな感じだ。


 思ったよりも酷くないかも。



「美味しい?」



 不安そうに俺を上目遣いをしながらも、小動物のような瞳を潤ませる美優。


 味は微妙。


 とは言えない。



「うん。思ったより美味いよ。ありがとな」



 手を伸ばして、美優の頭を軽く撫でた。


 美優は「えへへ」と幸せそうな笑みを浮かべた。不覚にも、可愛いとか思ってしまった自分を殴り倒したい。


 頭を撫でるついでに、美優の髪を触ってみる。サラサラとした細い髪の毛が、俺の手を障害物とも捉えずに、重力に従って下に垂れる。



「うーむ……」


「どうかした?」



 髪を触られながらも、首を傾げる美優。小動物を想起させる仕草だ。


 しかし、なんだろうこの気持ち。モヤモヤと靄がかかっているみたいに実体がないんだけど、確かに自分の中に存在しているのが分かるという不思議な物体。


 なんだろう。……実感はないけど、たぶん、アレかなぁ……。



「美優、ちょっとしたお願いだ」


「なに?」


「ポニーテールにしてくれ」


「……なんで?」



 若干、引いたような目で俺を見るな。可哀想な物体Aになるだろうが。



「いや、美優の場合はポニーテールじゃないか。ショートポニーか? どっちでもいいや。というわけでしてくれ」


「どういうわけ?」



 今日は突っ込みを入れてくれるんだが、こういった時だけそんなスキルを発揮しないでもよし。



「多分な。多分だぞ? なんか美優の髪を触ってたら、ポニーテールが見たくなった。会長ので見慣れてるはずなのに、なんでだろうか。いや、理由はどうでもいい。俺が見たいからなんだ。そして言ってしまうと、俺は多分、ポニーテール萌えなんだ!」



 いや、実感ないけど。



 俺は昔の少女漫画みたいに、瞳の中に星を入れるよう努力してみた。出来る訳ないけど。


 そんな俺の痛い視線を真っ正面から受け続けている美優は、難しい顔をして天井を眺めていた。


 数秒の間、瞳から発せられるキラキラ光線を向け続けていると、美優が顔を戻し、見つめ返してくる。



「宗は、ポニーテールも好きなんだね」


「たったいま気付いた、事実というにはなんか納得できない事実だけどな」


 

 うん、自分でもなにを言っているのかさっぱり分からん。大丈夫か、俺の頭。


 ちょっと労働させすぎたか。そのせいで、脳みそがストライキを行っているのかもしれない。


 

「う~ん……宗の頼みだから聞いてあげたいんだけど、僕にポニーテールは合わないと思うんだよね」


「そうか……残念だ」



 本心では全く落ち込んでいないが、態度ではかなり落ち込んでいるかのように見せる。膝と掌を地面につけガクーン、うなだれるポーズ。



「そんなに落ち込まないでよ~。じゃ、じゃあこういうにはどう? 夏になったらお祭りに行こうよ。そしたら浴衣を着るから、髪型もポニーになるかも」


「うん? いや、まぁ、別にいいけどさ」



 まさかここまでの効き目があるとは。いや、この結果はそんなに望んでもいなかったのだが。でも、祭りに行けるんなら、それでもいいか。


 ケーキを食べ終わり、少しだけくつろぐ。


 少しだけ眠くなってきた目を擦り、今日の内に果たしておく目的を思い出した。



「証明写真撮りにいかないと……」



 重い腰を上げ、首を軽く回す。膝の上でゴロゴロしていた美優が地面に落ちたが、気にしないでおこう。



「痛いよ~」


「そんなに泣きそうな声を出すな。デコピンするぞ」


「最近の宗は、Sさんになってきたね」



 ……Sさん? 佐藤さん? 斉藤さん? スミレさん? いや、Sと聞いて一番最初に思い浮かぶものだろう。


 俺は昔からこんな性格だったけどな。美優の前では出してなかっただけで。


 ……なんでだろうか。


 自分でもその理由が分からん。


 こいつに隠しておく理由など存在しないはずなのに。


 別にいいや。気にする程度でもないだろう。その時の気分で、人に接する態度なんて違うからな。


 一度だけ欠伸をしてから、俺はその辺に放り投げておいた制服の上着を羽織る。


 証明写真なんだし、制服の方がいいだろう。まさか、私服で撮るわけにもいかないしね。



「んじゃあ、俺は外に出て来るから。美優は早い所、自分の家に」


「僕も行く!」


「はいそうですか」



 もう、慣れました。


 近くにある家電販売店の前に設置されている、証明写真の機械に俺は入っていた。


 ――俺はいいのだが、なんでかしらんが美優まで入っていた。



「おい、邪魔だ。証明写真なんだから、一人で撮らなければ意味ないだろ。早く出て行け」


「固い事言わないで。もうすぐ写真撮れるよ~。ささっ、ハイ、ポーズ」



 カシャッ。



「あー! おい、止めろって!! タイマー式だからって変なポーズ取らせようとするんじゃねぇ。くっそ、撮り直しだ、撮り直し」


「これでOK」


「馬鹿!! お前馬鹿!! なに勝手に押してんの!? ねぇ、俺が撮り直しって言ってたの聞いてた!? ねぇ、なんで邪魔するの!! だー!! くっそ!! 金が無いからバイトしたいのに、これだったらバイトする前に餓え死にしちまう!!」


「大丈夫。僕が養うから!」


「そういう問題じゃねぇ!! 元はと言えばお前が悪いんだ!! 早く出てけー!!」


「むー」


「頬を膨らませたって、俺は騙されないぞ。お前の演技には絶対に騙されないからな!! 拗ねているように見せかけて、本当は笑っているんだろ!? 魔女狩りされた時の魔女ぐらい爆笑してるんだろ!」


「なにを言ってるの?」


「首を傾げるな!! 小動物風に見せようたってそうはいかねぇ! もう、お前って本当にアレだよな……アレ……えっと……うん、アレだよ!!」


「ごまかしたね」


「シャラップ!!」


「近くで叫ばないでよ~。耳が痛い」


「あっ、ごめ……えいやっ」


「痛っ! なんでデコピンするの!」


「お前が出ていけば万事解決なんだよ!!」


 そんな事はあったが、なんとか写真を撮影する事に成功。美優を引きずって自宅に帰してから、俺はようやく帰路に就いた。


 履歴書の右端に疲れた顔をしている俺の写真を貼れば、完成だ。




 で、次の日。


 学校が終わってから、俺は新聞社に直行する。


 一度、家に帰るのならば間に合わなくなり、直行すれば早く着き過ぎてしまうような中途半端な場所にそれはあるのだ。


 新聞社は背後に人工的に造られた雑木林がある、大がつかないまでも中々の自然がある場所に建っていた。


 ここまで来るのに約四十分を費やした。


 どうせなら自転車で登校するべきだったか。


 歩き疲れて汗が滲んでくる。それを少しでも逃がすために、制服の上着を脱いで、シャツ第二ボタンまで外す。


 約束の時間である六時まではまだ時間があるため、新聞社の前に設置されているベンチに腰かけた。


 

「改めて見るとでかいなぁ……」



 コンクリート造りの六階建て。正面の壁には、四角い窓が並んでいた。


 横にある駐車場に目を向けると、満車になっていた。そんなに社員さんがいるのだろうか。


 そう言えば、今日は美優がくっついてこなかった。そろそろ暑くなる時期だから大歓迎なのだが。


 なんだろ……少しだけ気味が悪い。なにか企んでいるのだろうか。


 異世界になんだか分からない内に飛ばされて、これまたなんだか分からない内に最強魔法使いにされて、チートな能力で魔王をボッコボコにしていると、時間は六時少し前になっていた。


 衣服を整えて、俺は新聞社の中に入って行く。


 正面扉の自動玄関をくぐると、寒いのか暑いのか生暖かいのかよく分からない温度に保たれていた。


 内装はさすが新聞社。色んな人が訪れる場所だから、清潔感溢れるものだった。


 玄関のすぐ近くに設置されている、受付の女性に面接にきた者だと伝える。


 面接所は五階にある小会議室だと言われたので、エレベーターを使ってそこまで昇って行く。


 上下する箱の中に設置されていた鏡を使って、みだしなみを整える。


 少しでも印象をよくするために天パの髪を撫でつけたが、やはり効果はない。どこまでひねくれてやがる。


 チン、という軽快な機械音が鳴り、俺は外に出た。


 左右に伸びた廊下をくまなく見渡す。


 すると、左手側の最奥部に、曇りガラスに小会議室と書かれている場所を発見。でかでかと書かれていたので、遠くからでもよく分かった。



 一回だけ深呼吸をして、そこまで歩いて行く。足音が虚しく響く。


 そしてやってきました、面接所の前に。


 その前に立ち、扉を二回ノックする。



「どうぞ」



 年配の人の声が扉の奥から聞こえてきた。


「失礼します」



 扉を開けて、中に入る。そこには応接用のソファと、細長い机があるだけの質素な部屋だった。


 少人数用の会議室なのだろうと適当に解釈し、俺は勧められるままにソファに腰を降ろした。


 持ってきた履歴書を見せ、それを面接官が読んでいる最中、少し寂しくなってきているその人の頭頂部を眺めていた。


 もちろん、そんな場所を見ていると知られたら面接をするまでもなく、ドカンされると思うので、その奥に見える窓の外の景色を眺めていると思わせる。


 やがて、俺の個人情報が多分に書かれている紙から目を離したオジサンは、メガネの奥に覗かせる瞳をイタズラっぽく細めた。



「うん、合格。明日からこれますかね?」


「は?」



 こんな簡単に合格を通達されるさずがない。だからなんかのドッキリなんじゃないかと思わず、辺りを見渡してしまった。



「いやね、前まで勤めてくれてたいた子なんだけど、急に辞めちゃったんだ。だから、なるべく早く決めたかったんだ。残っている子たちから聞いた採用基準に、君は当てはまっているようだし。……うん、合格」


「はぁ……ん? え? マジっすか?」


「マジマジ。大マジ。あっ、でも、一応試験をしてみるか。ちょっと待っててくれ」



 そう言うと、面接官はこの部屋から出て行った。


 バイトが早々に決まるのは嬉しいんだけど、なんだか危ない香りがする。こんなトントン拍子に進む人生なんて、絶対におかしい。



 本気でなんかの企画なんじゃないかと疑い、机の下などにカメラを探しながら待つ事、数分。


 さっきのオジサンが、アルミ製のお盆にジョッキとお猪口、オレンジジュースを載せて戻ってきた。


 

「なにをしているのかな?」


「……いえ、別に」



 カーテンの裏に、変な男が出てくる準備をしているんじゃないかと捲った瞬間に、その人は来たので、俺は意味もなくバッフォバッフォして埃を発生させてから席に着いた。


 オジサンも俺の向かいに座り、お盆も机に載せた。



「それはなんですか?」


「ん? いや、ちょっとね。君がどれくらい察しがいいかを確認しようと思って」


「なにか意味はあるんですか?」


「ない。ただの暇つぶしみたいなものだから。気にしないで」


「はぁ」



 オジサンは、お猪口にペットボトルのオレンジジュースを目一杯注ぎ、次に大ジョッキ二本にも並々注ぐ。


 そんな意味不明な作業が終わると、俺の目を直視してくる。メガネの奥には、子供のようにキラメク光があった。



「さて、ルール確認だ。今から、どっちが早く飲めるかを競う。一人はお猪口のみ。もう一人は大ジョッキ二本だ。あっ、一応言っておくけど、大ジョッキを選んだ人は、先に一本だけ飲める権利を得る。だけど、相手のお猪口に触れるのは絶対に禁止。俺もジョッキには触らないから。OK?」


「……はぁ、なるほど」



 なんの意味があるんだろう? ああ、意味ないんだっけ。


 だったら、やらなくちゃいいのに。


「さぁ、新藤くんはどっちを選ぶ?」



 面接官のオジサンが、俺の反応を窺うように目を細めた。


 どっちを選ぶ……ねぇ。いや、こんなの悩む必要ないし。



「俺は大ジョッキを選びますよ」



 お盆の上から大ジョッ二本を手に取り、自分の前に持ってくる。


 今度は俺がオジサンの反応を窺う番だ。右の人差し指と親指で顎を挟み、様子を確認する。


 オジサンは少しだけ目を見開いていた。俺がこっちを選ぶとは思わなかったのだろうか。



「なんでそっちを選んだ?」



 首を傾げて尋ねてくるオジサンだが、中年の人がこんな事をやっても気持ち悪いだけだ。



「いや、ただの勘ですけど。それでは、先に一本だけ飲ませてもらいますよ」


「どうぞ」



 これはルール内だから、オジサンはなにも言えない。反論なんて出来るはずもない。


 ジョッキを傾け、一気に飲み干す。ゲップが大量に出そうになったが、それを頑張ってこらえた。



「ぷはぁ。美味しいオレンジジュースでした、と」



 言いながら、俺はジョッキを逆さにして、オジサンが飲むはずだったお猪口に被せた。


 ジョッキに飲み込まれたお猪口を見て、オジサンはおかしそうに笑った。



「正解。百点満点。言う事なしだ」


「では、残った一本をゆっくり飲ませてもらいますよ」


 このオジサンが持ちかけてきた勝負は、ジョッキを選んだ人が絶対に勝つようになっている。


 

「この正解に行き着いた経緯を話してもらってもいいかな?」


「ええ、もちろん」



 飲み終わった二本目を机に置き、袖で口元を拭う。


 

「まず初めに疑問に思ったのが、あなたが持ち出したルールです。ジョッキを選んだ人は、先に一本だけ飲む権利を得る。おかしくないですか? そんなルールつけるぐらいなら、最初から一本だけ持ってくればいいんですから。そしてもう一か所。なんで片方はお猪口なのかな、という部分です」


「ほう」


「それを答えに導くのは簡単でしたよ。ジョッキの中に入るくらい小さいものが良かった、ていう所でしょう」


「ふむ」


「一目見れば、この勝負はお猪口の方が圧倒的に有利。だけど、あなたがつけたルールによって、お猪口は最初から負けているようなものです。『ジョッキには触れない』っていうやつですね。こうやってしまえばいいんですから」



 逆さにしたジョッキの中に入っているお猪口を指差す。



「うん。正解正解。今まで面接してきた人は、ほとんどお猪口を選んでたから、つまんんかったんだよな。たまーにジョッキを選ぶ変わり者もいたけど、君みたいな方法を取ってくる人はいなかった。はい、という事で採用です」


「……ありがとうございます?」



 こんな感じの面接なんてありなんだろうか。そんな心境が働き、ついつい疑問形になってしまった。


 陽が完全に沈んでしまった帰り道を、欠伸をしながら歩く。


 脇に挟んであるのは、なんか色々の書類だ。親のサインとかが必要になる場所もあるらしいが、そこは偽装しちまっても気付かれないだろう。


『じゃあ早速、明日から来てねー』



 などと言われてあの場は解散となった。本当にいいのだろうか。


 こういっちゃなんだが、バイト経験ゼロの俺を雇っても、不利益しかない気がする。


 あんな大きな会社なのだから、他にも希望する人は山ほどいただろうに。



「まぁ、いいや」



 深く考えるのは止めよう。バイトは決まったのだから、それでいいじゃないか。


 うん、前向きに行こう、前向きに。


 左右を住宅に挟まれ、真っ直ぐ伸びているこの道は、この時間帯に通れば夕飯の良い匂いが嗅覚を刺激し、家族の楽しそうな会話が聴覚を刺激する。


 暖かい家庭っていいなぁ……とか他人事に思いながら、両親の安否をちょっとだけ心配してみる。


 昔から連絡が少ない親ではあったが、金を入れる事だけは忘れた事はなかったのに。どうかしたのだろうか。


 こちらから連絡を取りたいものだが、メルアドも携帯の番号も知らん。


 それどころか、今、両親がいる場所さえ把握できていない。


 

「…………」



 まぁ、その内、ひょっこりと現れるだろう。便りがないのは良い便りだ。


 んでもって次の日。

 今日は土曜日というせいもあるのか、バイトが始まる時間は朝の九時からだった。


 俺の仕事場があるのは、三階ある報道部という場所らしい。名前から察するに、紙面作りをしている部署なのだろう。


 チャリを新聞社のビルの指定地に置いて、正面玄関からは入らずに西口から中に入った。


 正面の方は、まだ鍵が閉まっているらしい。


 西口にある質素な玄関を潜ると、右手側に防災室なるものが存在していた。


 無視して通り過ぎようとしたが、ガラス窓から俺を見ていた警備員らしきオジサンに呼び止められる。


 

「新しくバイトに入った者ですが」



 この言葉を伝えると、不審者を見るような目がいくらか緩和される。


 やっぱり無視するべきじゃなかったか。面倒だ。



「ここを真っ直ぐ行って、突き辺りを右に曲がればエレベーターと階段があるから、好きな方を選んで三階に行ってください。どっちを選んでも、その正面に扉があるので、そこに入れば報道部ですので」


「ありがとうございます」



 訊いてもいないのに教えてくれたオジサンに礼を言いつつ、頭を下げる。


 俺が進んでいる細い道は、社員の人しか通らない場所なのだろう。正面の方よりも、薄汚く所々、塗装が禿げている場所があった。



 警備員さんの指示通り、階段を使って三階へ。


 階段を上りきると、道は左右に分かれていた。



「目の前って言ってたよな?」



 しかしその目の前には、給湯室らしきものがある。


 この給湯室に隠し扉があるのかと真面目に考えてしまったが、それはあり得ないだろうという理性によって、大変遺憾ながらもその案は却下されました。


 廊下に足を着け、左右を見渡す。すると、左手の方に報道部とガラスに書かれている扉を発見。


 あれかな?


 とりあえず、近づいて扉を開ける。


 扉の先は、そこそこ広い。ホワイトボードや机などが何組もあるせいで、少しだけ狭く思えるが、それら全てを撤去すればかなり広くなるだろう事は容易に想像出来る。


 

「失礼しまーす」



 中に入って、誰かいないか確認してみたが、勤務時間外なのか、まだ誰も出社してきていなかった。


 

「うーん……」



 なにをすればいいのだろうか。


 誰も来ていないし、電気が点いてないせいで薄暗いし。それに寝不足だし。


 とりあえず、扉の近くでボーッと突っ立ってみる。


 そんな感じで時間が過ぎ、廊下の方から足音が聞こえてきた。


 後ろを向いて、その発生元を見る。


 ボサボサした髪型で、よれよれのスーツを着込んだ中年のおじさんが、こっちに向かってきていた。



 その人は俺を見つけると、なんだか嫌そうな顔をして、露骨に舌打ちをしてくる。



「あー、君が新人?」


「そうですけど」



 初対面なので、笑顔を顔面に貼り付けた。第一印象が大切なのです。



「チッ。んだよ、部長には可愛い女の子を採用してくれって言ったのによ」



 聞こえてるんですけど。


 可愛くない天パが来て、すいませんでしたね。


 

「あー、まぁ、よろしく頼むわ。俺は君の先輩になるやつだから、可愛い女の子を紹介してくれ」



 ギャルゲーでもやってろ。



「はははっ。可愛い女の子がいたら、俺が紹介してもらいたいぐらいですよ」


「黙れ、微妙にイケメンが。いいか、俺が嫌いな生き物を教えてやる。一にイケメン、二にイケメン、三、四がなくて五に男だ」


「……そうですか」


 

 ただ単に、男嫌いなだけじゃねぇか。もう、本当に嫌だこういう人。



「んじゃま、そういう事だから早速、仕事を教えてやる。いいか? 今から言う事をちゃんと覚えろよー」


「はい」



 持ってきていた手帳と鉛筆を構える。やるからには失敗なしでいきたいからね。


 しかしこのオッサン。なんでこんなにやる気ないんだ。怠惰っていう単語を、そのまま擬人化したような人だ。


 この人とはウマが合いそうにない。



「で、これが、記者の人たちが来るまでにやる事だ。分かったか?」


「はい」



 今、教わったのは、コピー用紙の補充や電気点け、送られてきたファックスなどの処理の方法だった。



「んで、次が」



 男の人(名前聞いてない)は、スタスタ歩いて報道部の端にあるポットなどが置いてある場所に移動する。


 

「この近くの台に食器がある場合は洗うんだ。ポットはお湯を入れ替える。分かったか?」


「はい」



 怠惰さん(仮)は、面倒臭そうに欠伸をしながら俺にものを教えていた。



「本当なら、この作業は三人でやるものなんだけど、今日は一人休みだから。そいつは明日、紹介する」


「はい」



 面倒だなー。


 あっ、俺も怠惰さんみたいになっちまった。いやしかし、現実味のない話をするのだったら、この人、絶対になんらかのウイルス撒き散らしてるって。


 さっきまであんなにあったやる気が、ロウソクの火を消すようにフッとかき消えたもん。やる気無くす病だな。


 その後も朝にやる仕事――怠惰さんが言うには、『朝の仕事』。そのまんまだな――を教えてもらっていると、九時三十分近くになっていた。


 もう少しで記者の人たちが出社してくる時間帯らしい。


 しかし、そんな事は怠惰さんには関係ないみたいだ。スーツを今まで以上にだらしなく着て、頭皮をぼりぼり掻いていた。


 よく、こんな人が採用されたもんだ。



 その後、出社してきた記者さん達に自己紹介を兼ねた挨拶をする。ここの部署は、男よりも女の人の方が多い。


 美人かどうかと言われれば首を百八十度ひねるけども、みんな良い人そうだ。


 で、あいさつが終わったので、早速、次の仕事に取り掛かる。


 今日は少し遅い月初めの仕事をするらしい。どうやら俺が入ってくるので、引き継ぎと合わせてやるつもりだったようだ。


 で、今は三階にある倉庫にいた。


 窓から入ってくる光が埃を浮かび上がらせ、息をするのを若干、ためらわせる。


 大きな棚には製本と呼ばれる、過去の新聞をまとめたものが並んでおり、縮刷という名前の、新聞を小さくして本にしたものもあった。

 

 後は、過去の記事をスクラップしているものだけか。


 

「今日は、このスクラップ記事を整理する。面倒だから、俺の指示に従ってお前がやってくれ」


「……はい」



 指示された段ボールの蓋を開けると、一気に埃が襲いかかってきた。



「ハックション!!」


「アクションみたいな発音のくしゃみをする奴だな」


「……すいません」


 

 鼻をすすり、作業再開。


 段ボールの中でおしくらまんじゅうをしているスクラップ帳を取り出し、地面に広げた古紙の上に置いて行く。


 どうやら、この段ボールに入っているスクラップ記事は、ここ数年で起きた殺人事件のものばかりのようだ。

 

 昔、住んでいた家の近くで起こった事件のものもあり、興味を引く。表紙に書かれているのは、昭和町殺人事件。昭和町というのは、俺が住んでいた町だ。


 その他にも、銀行強盗殺人事件だとか、強盗殺人などが色々あった。暇な時にじっくりと読みたい記事だ。



「おらおら。手を休めるな」


「あっ、すいません」



 お前はいつまでサボってる気なんだよ。働け、おっさん。


 その後も指示だけしてくる怠惰さん(決定)に従い、俺は仕事をこなしていく。


 さっき地面に広げたスクラップ帳の表面をふきんで軽く拭き、日付が一番古いものを破棄していく。残ったものはまた段ボールに詰め込む。


 こんな単純な作業だけど、それだけにキツイ。単調なものほど、意外と体力的に来るもんだ。


 サッカーの練習もそんなんだった。地味なやつほど疲れるとかね。


 その作業が終わると、後は報道部に戻って届いたFAXなどを指定の場所に持って行く。客が来たらお茶を出し、コピー機などが故障してないか逐一確認する。


 うむ、面倒だ。



 そんな事が終わり時間は昼に。休憩の時間だ。


 

「休憩室は五階にあって、食堂は四階にあるから。好きな場所で休め、分かったな?」


「はい」



 休憩は交替で入るらしい。まずは俺からだ。


 持って来たおにぎりなどを食べて、残り時間を寝て過ごしたら休憩は終わった。

 

 携帯のアラームを消し、休憩室から出て報道部に戻る。


 そして、俺の休憩中にあった事を引き継ぎしてもらったら、怠惰さんは休憩に入った。


 自由に使っていいと言われた椅子に腰を下ろし、報道部の方を確認する。


 俺が今いる場所は、報道部の端にある、前方以外を壁に囲まれた小さな部屋だった。


 ここからは報道部が一望でき、デスクと呼ばれている偉い人たちとも席が近いので、すぐに駆けつける事が出来る。


 この部屋には三つの机と椅子があり、他にはFAX機とコピー機がある。


 よくもまぁ、こんなに詰め込んだものだというのが第一印象だ。


 怠惰さんから渡された引き継ぎノートを読み、仕事のおおかまな内容を頭に入れていく。


 このファックスがきたらあそこに持って行けだとか、コピー機が故障したらこうしろとかいうのが詳細に書いてあった。


 俺が思っているように、あの人は怠け者じゃないかもしれない。こんなの作れるなんて、頑張りやなんだなー、とか適当に感想を持とうと思ったら、背表紙に数年前の日付が記されていた。


 つまり、これは、代々使われてきたものであって、怠惰さんが作ったものではない。いや、だからどうしたという話なんだけどね。


「お先に失礼しまーす」



 午後四時。やっと、初めてのバイトが終わりを迎えた。

 

 今まで働いた事がなかったから、色々と新鮮な部分はあるにはあったのだが、やっぱり疲れる。慣れない事はするもんじゃない。


 欠伸を噛み殺してから、怠惰さんに挨拶をしてから帰路に就く。


 

 駐輪場に停めてあった自転車にまたがり、日が落ちるのが遅くなってきた空を見る。


 とりあえず、凄く眠い。


 早く家に帰って寝よう。


 そんな決意をして自転車をこぎ出したのだが、そこで予想外の人物を見かける。


 そいつは新聞社のビルの裏側にある、雑木林の近くに立っていた。


 俺に背を向けて、林の中を凝視しているようにも見える。



「なにしてんの、あいつ」



 出来れば関わりたくないので、俺は颯爽と自転車をこいでその場を離れようとする。


 そこで、チャリのチェーンがキィ、という小さな悲鳴を上げてしまった。


 それに反応した大滝信二――糞ニートは、俺の方に顔を向けてきた。


 

「あっ! てめぇ!! こんな所でなにしてやがる!!」



 くそ、気付かれた。


 ズカズカと地面を大げさに踏み締めながら歩み寄ってくるニート。相変わらずの素晴らしいガキ大将ぶりで。


 なんか逃げるのも癪だったので、自転車にまたがったままニートを待ってみる。



 そして俺の目の前にやってきたニートは、ただでも悪い目を、さらに悪くして睨んできた。



「てめぇ、こんな場所でなにやってるんだよ」


「そっちこそ」


「俺は……」


「なるほど、リサイタルの場所を確保してたんだな。あんまり音痴を晒すなよ、みんなが迷惑する」


「誰もそんな事、言ってねぇ!!」


「お前が歌うとさ、『ボエ~ッ』ていう、なんとも表現し難い音が流れるけどさ、あれはなんでだ?」


「知るかっ!! なんの話をしてるんだ、てめぇは!!」


「あっ、もうこんな時間だ。じゃあ、俺はこれで」


「おう、じゃあな。……待てぇい!!」


「なかなかのツッコミの才能があると見た。鳴海あたりと組んで頂点でも目指して来い」


「いい加減にしろよ、てめぇ!!」



 からかいすぎたか。


 ニートが俺の顔面目がけて、拳を突き出してきた。


 チャリにまたがっているままの体勢の俺は、満足にかわす事も出来ずに、見事に鼻へとクリーンヒットを頂戴する。


 首から上だけがその衝撃で後方に弾き飛ばされ、それを追うかのように体は自転車から転げ落ちた。


 体の右側を舗装されている道に叩きつけ、慣性に従って少しの間、滑りまくる。


 少し後に、チャリが地面に倒れる音が聞こえてきた。



「……いたたたた」



 鼻を押さえながら、地面と短期的にキスをしまくってた右腕を見つめる。


 シャツが少し破けていて、素肌に傷がついていた。


 その肌は皮が破けて肉が見えていた。血も出てきているし、これは帰って手当しなくちゃ。


 しかし、なんだろう。なんだか懐かしい感じがする。血がざわつくというか、気分が高揚してくるというか。


 この赤い水を見ていると、気持ちが収まらなくなってしまいそうなので、俺はニートのバカ面を凝視する事に視神経を使う。


 鼻から手どかして、今まで被せていたそれを見てみると、こっちにも赤いものが付着している。鼻血とか、情けねぇ……。


 とりあえずそれは地面に拭いて、俺を見下ろしてくるニートを無視して自転車に近づき、起こす。


 今は、喧嘩をしている場合じゃないんだ。早く帰ってゆっくりしたい。

 


「俺を殴ってスッキリしたか? それじゃあ、俺はこれで。また学校でな」



 ペダルに足を載せてこぎ出した直後に「ぐえっ」、襟首をニートに掴まれた。


 

「なにすんだよ、離せよ」


「てめぇ、俺に殴り返さないのか?」


「お前なんか殴り返しても、俺の手が痛むだけだろうが。それに、できればお前には触れたくないんだぐふっ」


「まだそんな減らず口を言うか」



 鳩尾殴られた。


 痛さのあまり、頭がぼんやりとしてきたが、自分で頬を叩く事によって意識の端を掴む。



「な、んだよ。今日はやけに絡んでくるじゃないか。なんだ? 俺と友達になりたいのか? だが断る」


「ふざけんじゃねぇ!」


「あだだだだ!」


 

 またもや自転車から引きずり降ろされてしまい、終いには胸を何度も踏まれる。痛さを少しでも遠ざけるために、俺はうつ伏せになった。しかし、そんなものお構いなしに攻撃は続く。


 あかん、これ。呼吸困難に、なる、ぞ。肋骨折れ、るかもしれない。


 殴り返したいけど、殴り返せない。俺がやり返しても、その倍の事をやられるだけだ。


 前にも言ったと思うが、喧嘩は絶望的に弱い。だからこそ、トラップやらなんやらで撃退しているんだが。



「なぁ、新藤」



 ニートがうつ伏せになっている俺の前髪を掴み上げ、無理やりに顔を上げてくる。そのおまけとでも言わんばかりに、背中を殴ってきた。


 あー、だいぶ、痛みに慣れてきた。



「げほっ!」


「げほっ、じゃ分かんねぇよ。ちゃんと返事してみろ」


「なん、だよ、糞ニートめ」


「まだ言うかよ、この野郎!!」



 掴まれてた髪を力の限り下に引っ張られ、額を地面に打ち付ける。コンクリートの冷たい感触やジャリジャリしたものとは別に、なにか温かいものを感じた。


 しかもその後には、追いうちをかけるためなのか、腹部をサッカーボールを蹴るかのような気軽さでシュートしてきやがった。



「おぁ……くそっ」


 腹を押さえながらダンゴ虫のように丸くなり、息を短く吐き出す。込み上げてきた吐き気を、そのまま飲み込んだ。


 ていうかさ――


「はぁ、これだから被害者は駄目なんだよな。思考が狂っていやがる。ははは!」



 ――お前、やり過ぎなんだよ。



 ばっこんばっこん餅つきだ。目の前にある肉目がけて拳を振り下ろせ振り下ろせ。ばっこんばっこん呻き声。餅の上の方にあるなにかが変な音を出している。ばっこんばっこんうるさいな。路上にあるコンクリの割れたものを掴んで音封じ。ががうfsjんfそあhdsf。あっははははは。変な声になったよ。止め止め止め止め止め止め止めてくれ? あはははは止めたら面白くない。ばっこんばっこん自転車の後輪で叩きつける。餅のはずなのに固いものにぶつかるな。あれ? あれれ? なにかポキッていう軽い音が聞こえた。なにかな? なにかな? あはっはははは。醤油の代わりに赤い液体で味付けだ。うぬぅ? おかしいな。変なくぼみみたいな場所から透明な液体出てきた出てきた。なんでお前がそれを流すのかな。あ、そう言えば被害者ってなーに? なーに? 誰の事? fしhしんふぉうさんぢff。餅のくせに言葉を喋っちゃ駄目じゃないか。あれ? あれれ? 餅がなにか言葉を叫びながら逃げていく。ここで逃げられたら二度と聞けない気がしたから、チャリで追いかけよう。あはははは。横を通り過ぎるつもりだったのに、間違えてひいちゃった。きみが逃げるからいけないんだよ? 俺は逃げなかったのに。あはははは! なにをそんなに謝ってるのかな? 俺にはなにも分からないなにも聞こえないなにを言っても無駄無駄。あっははははははははははははははははは!!




 気付くと、ニートがコンクリートの上に横たわり、嘔吐を繰り返し、むせび泣いていた。


 顔からは血を流し、服は所々破け、そこから見える皮膚は剥げ落ち、赤い液体を絶賛放出中だった。



「いつっ!?」



 走った痛みに目の前のニートから視線を外し、自分の右拳を見る。


 こちらも皮膚がなくなり、赤い肉、その奥には少しだが白いなにかが見えた。


 

「――なんだよ、これ」



 俺が、やったのか?


 どんな暴行を加えれば、人をこんな風にする事が出来るんだよ。


 知らず知らずのうちに手が震え、さっきとはまた違う意味で吐き気が込み上げてくる。


 それを体を丸めて口に手を当て、涙が零れ落ちそうになりながらも必死に抑えつける。


 すぐ近くには自転車が倒れており、車輪にはなにか赤黒いものがはっきりと見てとれるぐらいこびりついていた。



「と、とにかく警察を……

いや、救急車か」



 携帯を取り出して電話をしようとした所、滝川がゆっくりと起き上がる。



「お、おい。動くな。今すぐ救急車を呼ぶ……」


「ひっ」



 滝川は俺の声が聞いた途端、肩をビクッと震わせて、縮こまる。



「だ、大丈夫だ。このくらいの傷なら慣れっこだから、一人で家に帰れる」


「そ、そんな事を言うなって。早く」


「う、うるさい!! 俺に触るな、犯罪者の家族が!! やっぱり本性を隠してやがったな、この野郎!!」


「……え?」



 それだけを言うと、滝川は走ってどこかに行ってしまった。


 家に帰ってきた俺は、滝川が言っていた事を居間にあるソファに座りながら思い出す。



『犯罪者の家族が』



 犯罪者? 誰が? 家族? 誰の?


 俺の両親は普通の仕事に就いて、普通に生活している、ごく普通の一般人。そう、認識している。


 いや、実際、そうだった。


 俺の記憶がそう物語っているし、父さんや母さんが犯罪など起こせる勇気がない事も重々承知している。


 あっ、そう言えば、結構前にも滝川に言われたな。トイレで罠にかける前にあいつは、俺の事を『被害者』って言ってた。


 そしてさっきも言っていた。なんの被害者だ? 俺には犯罪に巻き込まれた記憶なんてもんは存在しない。


 

「……あー」



 考えても分からない。


 頭を右手でかこうとしたけど、痛みによって気付かされる。病院に行こうかと思ったけど、なんか色々訊かれそうだから止めておいた。


 傷口に消毒液をかけて(かなり痛かった)、包帯でぐるぐる巻きにしておいた。これだけでも十分だろう。


 だけど、なんだろう。滝川を殴っていた時の記憶がかなり曖昧だ。


 血を見て興奮して、殴られすぎたせいで頭がボーッとなって、体が知らないうちに――それこそ、誰かに操られているかのように勝手に動いてた。


 あいつを殴っていた時、止めてくれという声は聞こえていた。だけど、心底、止めたくないと思ってしまった。


 ――楽しかったから。


 

「どうなってるんだよ……」



 人を殴って楽しいとか、異常者じゃねぇか。俺はいつから、こんなにおかしくなっちまったんだ。


「……」



 自分の胸の内に、そんな異常者がいる事に気づくと、途端に体が震え始めた。


 今度は恐かった。


 そんな、もう一人の自分が存在している事が。


 そいつがもたらした結果が。


 この右手の傷が。


 全部が全部、恐かった。


 意識すればするほど、そいつは自分の中で勢力を拡大していく。


 今までの俺が、消されてしまうのではないかと、そんな事さえ考えてしまった。


 

「寝よう」



 あの時の自分は殴られすぎて、少しの間だけおかしくなってしまっただけだ。


 そう自分に言い聞かせ、夕食も摂らずに布団に入り込む。



 もう二度と、あの自分が外の出てこない事を祈りながら、目を閉じる。


 夢の中の自分は、いつもの自分である事を願う。もし違っていたら……。


 ははっ、幽霊以外にも寝不足の原因ができそうだ……。


 考える事を放棄して、頭の中を無にする。あとは、眠りにつくのを待つだけ。

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