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睡魔が襲ってくるころに

 我が家であるアパートに帰ってきた。……だけど、美優が当たり前のように俺の横にいるのはなぜだろうか。


 いや、まあ、分かってる。これはいつも通りなんだよ。

 勝手に家に入ってきては、好き勝手やって帰って行く。


 俺はこいつのせいでいつも安眠できない。



「なあ、美優。今日も俺の家に居る気なのか?」


「当たり前だよ。僕は宗のお嫁さんだからね~」



 ――俺は突っ込まないぞ。なんか爆弾発言をしたやつが横にいるけど、これは突っ込んだら負けなのだろう。


 それにしてもこのアパートボロイな。いや、安いから文句は言うまい。


 このアパートは玄関から入って右を向けば、すぐの所に便所がある。


 左を向けば、浴室と洗面所。前に少し歩けば、和室と洋室が二部屋あるという、中々いい物件なんだな。


 洋室の部屋にはゲーム機、テレビなどの娯楽用具が置かれている。


 和室の方は寝室なので、本棚や敷布団、タンスなどが置かれている。


 俺は美優を無視して、制服から着替えるために和室へと向かう。



「おい、美優。着いてくるなよ。俺は今から着替えるんだ。お前も着替えてきたらどうだ?」


「え? 僕が着替える姿見たいって? もう、宗はえっちなんだから……」


「待て待て!! 誰がそんな事言った! 脱ごうとしてるスカートから手を退けやがれ!」



 本当にこいつは疲れる。


 とりあえず美優を和室から追い出し、襖を閉める。


 さらに襖と壁との間につっかえ棒を入れ、外からは開けられないようにした。


 だが、これでも心配だ。あいつは目的のためなら結構無茶する奴だからな。


 なにが来ても、すぐに対応できるようにしなくては。




 そんな俺の懸念も無駄に終わり、制服から私服……といってもジャージなのだが、とりあえず着替える事に成功。


 美優がこんなに大人しくしてるなんて、なにか起こったのか? いや、なにかが起こる前兆なのか。


 どちらにしても、この襖を開ければ、なにが起こっているのか分かるだろう。


 つっかえ棒を外し、襖を少しだけ開く。目の前に見える範囲には美優の姿はない。


 さらに開けてみるが、見えるのは廊下と、それを挟んだ向こう側にある洋室へと繋がる扉だけ。


 俺は和室から出て、洋室の扉を開ける。


 ここに美優はいた。テレビの前にあるソファに腰を下ろし、俯いている。


 泣いてるのか? 一瞬、そんな思いが頭をよぎったが、すぐにそれは否定される。



「すーすー……」



 美優の規則正しい寝息が俺の耳に届いた。


 これが意味するものは、寝ている。考えなくても分かるけど。 このまま寝かせてたら風邪ひくよな。四月になったとはいえ、まだ寒い日がある。


 それに俺の家には、暖房器具はコタツしかない。ストーブなんて買う金がないぜ。


 このまま美優をここで寝かせてたら、多分、風邪ひくよな。


 そしたら、俺のせいになるわけで、責任取ってよとか言われる可能性大なわけだから――布団でもかけてやるか。


 俺は和室から持ってきた掛け布団をソファに座っている美優にそっとかぶせる。



「宗~、僕は……ずっと……」


「え? なんだって? ……なんだ寝言か」



 さてと、なにをするかな。美優が家にいる間は下手な事はできない。というかしたくない。


 美優も一応、女の子であって、そんな姿を異性に見られたくないと思うのが男の心理だろう。


 暇だし、美優でも観察してるか。


 俺は美優が座っているソファの正面に行き、美優を見つめる。


 長いまつ毛に、潤いを持った赤い唇。そして白い肌。


 改めて見ると、可愛い。なんか照れるわ。


 それにしても、柔らかそうなほっぺだな。無性に触りたくなってくる。


 俺は欲望に負けて、美優の頬を指で軽く突っついた。


 すっげー、柔らかい。なんだろこれ、プリンを突っついた時みたいに、すぐに形が元通りになる。弾力も素晴らしい!



「宗~、なにしてるのさ~」



 あっ、やべ、起きた。


 目をうっすらと開けて、俺を見てくる美優。


 ここはどうしようか。なんて言い訳すれば事無きを得るのか。『いや、蚊がほっぺについてたからさ』これで行くか?


 いや、待て。まだ四月だ。蚊は出現していないはず。ならどうする。どうするんだ俺!!


 俺が一人悩んでると、美優は俺の人差し指を軽く握り、それを見つめる。


 

「この指で僕になにをしようとしてたの~?」



 笑っている。笑っているのだが、邪な感情を含んでいるかのような邪悪な笑みだ。


 ここで素直に、『ほっぺ柔らかそうだから突っついてた、テヘッ』とか言ってみろ。美優は『お返しだー』とか言って俺に襲いかかってくるだろう。


 それだけは免れたい。なんとか良い策を……誰か俺の脳に力をくれ。


 

 するとピカーンとかいう擬音が鳴って、豆電球が頭の上にでたような気がした。


 閃いた。これならなんとかなるかもしれない!



「いやー悪いな。布団をかける時についつい手が滑っちまって、てへっ」



 舌を軽く出すと同時に、頭をコツンと殴る。我ながらキモイと思った。


 寝起きの美優には、これぐらいでも十分通じるだろう。


「なーんだそっか~」



 案の定、美優は騙された。こうも簡単に騙す事ができるとは、寝起きとは恐ろしいものだ。


 美優も起きた事だし、なにか二人でできることをやろうかな。



「美優、なにかやりたい事あるか?」


「え? ヤりたいこと? それなら、今すぐ布団に……」


「却下!!」



 たくっ、こいつは頬を赤らめてなにを言うかと思えば、頭の中はそればっかか。


 俺はそう言う事を言わない女性が好きなのにさ、まあ、女性がエロくてもいいんだけどね。


 いや、エロい方が大歓迎さ!! でも、エロくてもそう言う事は口にしない、そんな女性がいないものか。


 おっと、話しが脱線したな。二人でできること。


 今この家にあるものは、漫画、小説、テレビ、ゲーム、人生絶望ゲーム、トランプ、オセロ、チェス。


 うん、なかなか遊べるものがあるじゃないか。俺のお勧めは人生絶望ゲームだ。


 これは普通の人生ゲームとは違い、とにかくプレーヤーを絶望に陥れることをテーマにした、大変いらつくゲームだ。


 ゴール前の三十マスなんて、金を支払わせる奴と、子供が事故に遭って他界、借金取りに追われる、家が全焼する。こんな負の要素しかない。


 でも、これが楽しいんだよな。相手が不幸のマスに止まると、その反応が面白い。


「じゃあ、人生絶望ゲームをしよう!」


「いや」



 へ? 今なんと……人がせっかく二人で遊べるものを提案したというのに、我がままというのか、なんというのか。



「じゃあ、なにがしたいんだよ」


「うーん、宗の部屋探索とか?」


「それなら、勝手にやってるだろ、お前」


「むぅー」



 美優は顎に手をつけてなにやら考え込んでいる。


 それから何分経っただろうか。美優は俯いたまま身動き一つしない。もしかして……と顔を覗いてみると、やはり寝ていた。


 まあ、さっきは俺が途中で起こしちまったからな。


 できればこのまま安眠させてあげたいのだが、いかんせん、時間が時間だ。


 時刻は午後五時になろうとしている。外は暗い。暖かくなってきたからと言っても、昼の時間がまだ圧倒的に短いのが春。


 それになんだか肌寒くなってきた。夜になると、気温が一気に下がるというのも、春の特徴。


 そして、頭のおかしい人が現れるのも春だ。


 こんな真っ暗な時間帯に、美優を一人帰らせる訳にはいかない。


 かといって、泊まらせるわけにもいかないだろう。美優だってお年頃だ。両親が黙っているわけがない。


 さーて、どうしたもんか。とりあえず、腹減ったし飯でも食うかな。


 美優の事は二の次で。


 自分で作った飯を食い、腹を満たしたので、美優の寝ている洋室に移動する。


 美優はまだ寝ていた。


 こんなに眠るほど疲れていたかどうかは知らないが、恐らく、朝にあんなに走りまわったんだ。疲れたんだろう。


 まあ、一緒に走ってた俺はどうなの? とかそんな疑問は置いといて、美優をどうするか、これに限る。


 美優の家は両親共働きで、兄弟はいない。


 一人で家にいるのが嫌で、俺の家に来ているのだと思う。まあ、俺も一人でいるのは少し寂しいので、嬉しいのだが。


 こんな事は本人の目の前では言えないけどね。


 それにしても気持ち良さそうに寝ているな。



「僕は……ずっと一緒だよ」



 はははは、また寝言か。ずっと一緒だよ……か。それは俺に対する言葉なのかな。


 まあ、なんにしても、こんなに俺の事を想っていてくれるんだ。もう少し優しくしようかな。



「宗の馬鹿~」



 前言撤回です。 


 こいつは起きてるのか? いや、起きてなくてもいい。もう叩き起こすから。


 一瞬でも優しくしようと思った俺がバカでした。


「おいこら、早く起きろ」



 俺は美優の頭を軽く叩きながら何度も呼びかけるが、美優は一向に目を覚まそうとしない。

 

 どうしたものか。


 美優を起こそうと試みてから一時間。時計は午後六時を指している。


 一時間も美優の頭を叩いていた俺の事は置いといて、一時間も叩かれているのに、全く起きない美優はおかしい。


 叩くっていっても軽くだから、そんなに効果ないのかもしれない。


 うーん。ここはしょうがない。あの有名な起こし方、あるゲームでは必殺技にもされているあれをやるしかないみたいだ。


 俺は台所に行き、目当てのものを二つ持ってきた。


 そして美優の座っている椅子の正面に行き、一気に両手を振る。



「秘技! 死者の目覚め!!」



 こう……なんかガーンガーンという金属同士がぶつかり合う音が部屋中に響き、やってるこっちが耳を塞ぎたくなるほどうるさい。


 これなら美優も起きるだろうと思っていた俺は驚愕するはめになる。



「すー……すー……」



 なんと美優のやつはこの音を鳴らされてもなお、夢の世界から帰って来ようともしない。


 それどころか、さらに安眠しているかのように思えてならない!

 

 くそ、どうなってやがる。これじゃあ俺の頭がおかしくなっちまうじゃないか。


 頭がおかしくなる前に、俺は両手に持っていたフライパンを後ろに放り投げる。


 すると、後ろでなにかが砕けた音がした。


 嫌な予感しかいないのだが、恐る恐る振り返ると、そこには粉々に砕け散ったガラスのコップがあった。


 忘れてた、後ろには机があったんだ。そこで水を飲んで置きっぱなしにしてたコップが昨日からあったじゃないか。


 カッコつけたのが間違いだった。不幸中の幸いは、その奥にあるテレビには傷一つついていない事か。


 つーか、美優のやつはこれでも起きないか。


 秘技を食らった後に、今のやかましい音を聞いたはずなのに、美優は微動だにしない。


 こいつの耳はなんのためにあるんだよ。あれか? 飾りか? 馬鹿なの? そしてコップは誰が片づけるの?


 コップの事は後回しにして先に美優を起こそうと、そんな考えが浮かんだ。


 俺はそんな考えに背く事無く、一歩美優に近づく。



「あいだっ!!」



 ガラスの破片を踏み、俺の右足に痛みが走る。と、同時に体勢が一気に崩れ、美優の方へと倒れる。



 倒れゆく中、俺の頭はフル回転していた。



 これはどこぞのラブコメ小説でよくあるパターンだ。倒れて、その先にいる人の唇を奪っちまったぜ、テヘッて感じの。



 だがしかし!! 俺はそんなへまはしない! 


 俺は体を横にひねり、このままでは美優の顔に当たる軌道上から俺の顔を外す。


 してやったり!! 俺はやればできる子なんだ!! 不可能はない。


 そんな事を思っていたのも束の間。美優の目が……開いた。


 いや、そこまではいい。開いただけならなんら問題はない。


 だけど、美優の野郎はそこから一気に俺が倒れるであろう場所に顔を移動させてきたのだ。



「ばかっ……美優。そこをどけろ!」


「ふぇ? きゃっ!」



 俺は美優を座っていた椅子ごと押し倒し、あろうことか、俺の……俺の……くくく、唇ぐぁぁぁぁ!! 美優のそれに触れている。


 なんだよこれ!! お約束かよ! 俺に抗う術なんて存在しなかったんだね!


 地面に押し倒されている状態の美優は、このいきなりの状況に困惑しているようだ。


 って、冷静に解説してる場合じゃない。早く美優の上からどけなければ……あ、あれ? 体が動かない。


 見ると美優の腕が、俺の腰をがっちりとホールドしているではないか。



「この野郎……離せよ」


「先に襲ってきたのは宗だよね。僕はそれに応えただけだよ~?」


「いや、襲いたくて襲ったわけじゃない。とにかく離せ!!」



 俺の腰を掴んでいる美優の手をなんとか外そうと躍起になるが、全然外れる気配がない……。


 こいつなんなの。この小さい体のどこにこんな力が隠されてるの?



「宗~もっかいチューしようよ~」


「い、や、だ!! 顔を近づけてくるなー!」



 こうなったら仕方がない。幼い頃に見つけた美優の弱点を攻めるしかないのだ!



「あは、あははは! ちょっと宗、あはははは待ってよ。止めて~!」



 美優の弱点はわき腹だ。ここをちょっとでも触られると、今のように笑いが止まらなくなる。



「どーだ。止めて欲しかったら、この手を離せい!」


「あははは、止めてくれなくても……いいもん。あははは、もっともっとやってよ~」


「すいません!! 止めるから、そっちの世界に行かないでくれ」


「むぅ~、僕はあのままが良かったのに」


「まだそんな事言ってるのかよ。ほら、送ってあげるから美優の家に行くぞ」


「そしてそこで愛の営みを……」


「誰がするか!!」



 その後もぐちぐち言い続ける美優を半ば強引に引きずり、俺達はアパートの外に出た。


 外は凄く寒い。出てくる時に冬用のジャンパー着てきて本当に良かった。


 でも、俺の横は美優が寒そうに手を擦り合わせたり、何度も息を吐きかけている。


 そんな姿を見てしまったら、俺が着ているジャンパーを美優に渡すしかないだろう。


 いや、でもな。これ渡したら、俺ジャージになっちまうんだよ。シャージといったらさ、風がよく通るじゃん。


 そして今は結構風が吹いてるわけ。今の状況でも寒いのに、美優に渡したら、俺は凍え死ぬぞ。



「くしゅん」


「………………はぁー、ほら、これでも着てろよ美優。そのミニスカートじゃ寒いだろ?」


「本当!? わ~い、ありがとね宗。お礼にキスしてあげる~」


「やめい!」



 さっきの一件があってから、美優がまたもや積極的になってしまった。あれは俺に悪い個所はないはずだ。


 あっ、体勢崩すきっかけになったコップの破片。あれ割ったの俺か。


 美優の家は俺のボロアパートから歩いて十分ほど先にある。


 美優の家から行くと、ちょうど学校へと行く道のりに俺のアパートがあるもんだから、美優は毎朝迎えにきている。


 と、まあ。美優の家に着いたのだが、いつ来てもでかい家だ。


 なんかもう、サッカーグラウンドが三つくらい軽く入るんじゃねぇの? 的な程に広い。


 庭だけでもグラウンド一つ分くらいあると思う。


 そして家が問題だ。なんか、どっかの借金執事が住み込みで働いている家みたいにでかい。


 三階建てに、大雑把に数えただけで軽く五十は超えるだろう窓の数。


 かなりでかい玄関には、指紋認証システムやら、声紋認識などがいくつもある。


 ここまで防犯システムをつけなければ、いつ泥棒が入るかわからないのだろう。


 本当に世界は理不尽だ。なんでこんな豪邸に住める人はいるのに、俺はボロアパートなんだよ。


 世界の理不尽さを感じるのはここまでだ。


 さっさと美優を家っつーか、城の中に入れて、俺は帰って寝たい。



「ほら、早く家に入れよ」


「いやだ~。僕は宗と一緒がいい」



 駄々をこねる美優の襟を鷲掴みにして、門にあるインターフォンを押す。



「はい、どちらさまで?」


「あっ、新藤宗太です。美優……さんをお届けにまいりました」


「宗太さん? 久振りですね。少々お待ち下さい。今、お迎えに上がりますので」


 インターフォンとの接続が切れ、静寂が訪れた。


 あの声は……家政婦さんの声だな。今日は家政婦さんが来る日だったのか?


 美優の家は両親共忙しいため、週に二回家政婦さんを雇っていて、家の事を任せているのだ。



「なあ、美優。今日は家政婦さんが来る日だったのか?」


「え? うん、そうだよ。それがどうかしたの?」


「いや、お前はさ、一人でこの広い家に居るのが嫌で、俺の家に来てるんじゃなかったのかな? と思ってな」


「一人でも僕は平気だもん。ただ、宗と一緒にいたかっただけだもん」


「そうか」



 美優との会話も終わり、少し待っていると重たそうな玄関が開いた。


 俺達のいる門の扉も開き、庭に入る事ができるようになった。


 美優がいるんだから、門の扉は美優に開けてもらえばよかった。



「宗太さん、お久し振りです。私を覚えていますか?」


「当たり前じゃないですか。毛利久美モウリクミさんでしょ?」



 今、現れたのが美優の家で雇っている家政婦さんの、久美さん。


 メイド服を着用していて、腰まである黒髪のストレート。メガネをかけているが、伊達メガネと本人は言っていた。



 姿勢がよく、背筋をいつもピンと伸ばしている。しかし、年は十九歳と俺と一つしか違わない。


 なのに、落ち着いた雰囲気が全身からあふれ出ているのが見える。


「ささっ、美優さん。早く家の中に入りますよ?」


「いやだ~。僕は宗と一緒がいいの」


「我ままは駄目ですよ。ご主人様に、甘やかしてはいけないと言われていますので」



 久美さんは結構強引に……というかかなり強引に美優を連れて行った。


 なんか、手を引っ張ってるとか思ってたら、次の瞬間にはお姫様だっこになってたり、早技すぎて見えなかった。



「美優、また明日な」



 俺は抱かれている美優に向かって、大声でそう言う。大声で言わなければ、この広い庭では届かないだろうし。


 さーてと、帰りますか。さっさと帰って寝たい。今日はなんか疲れてしまった。


 考えてみれば、ダメガネと一戦交えたり、ニートには一方的に殴られたりと今日は散々な目にしか会っていない。


 あっ、でも、美優の泣き顔が見れたのは良い事かもしれない。


 あいつの泣き顔なんて、ここ数年は見てなかったからな。


 最後に見たのは……あれ? いつだっけかな。確か中学の頃で……。


 うん、思い出せない。まあ、いいや。


 その後、家に着いた俺は風呂に入ってからさっさと布団を敷いて寝る事にした。


 今日は家政婦さんがいたから、安眠できるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら。


 月明かりが窓から差し込んできているため、真っ暗とはいわないまでも暗い和室。


 そこには、時計の時を刻む音と、俺の息づかいだけが響く。


 蛍光塗料が塗られた時計の針は深夜十二時を示していた。


 俺の脳の思考回路が段々と低下していく。つまりは眠くなってきた。


 あともうちょっとで寝られる、という所で、玄関から誰かが入ってくるような音が聞こえた。そう、パタンと扉が閉まったあの音だ。


 余談だが、このアパートは古いため日常的にラップ音が鳴る。それは酷い時には朝夜関係なくずっと鳴っている。


 朝に鳴る分には一向に構わない。だけど……夜に鳴るのは勘弁してほしい。


 幽霊なんて非科学的なものを信じてるわけじゃないが、こんな暗い部屋で一人で寝ていると、敏感になるもんだ。


 だがしかし、今回はラップ音じゃない。それよりもレベルが高いポルターガイスト現象だ。


 だって鍵を閉めたはずの玄関が勝手に開くんだよ!!


 こんな事を考えてる間に、玄関から俺の寝ている和室まで移動してきている足音が聞こえてきた。


 やべー、恐い。恐いよ。もういいよ、いや、ホントにもういいからさ、現れるんならさっさと現れろよ。


 恐くて失神しそうなのに、逆に失神できないという異常な状態から速く解放してくれ!!


 足音が近づいてくる。古い床を踏むと出てくるあのギシ……ギシという音が段々大きくなってきた。


 なにこれ。初めての体験なんですけど。なんで俺がこんな心霊現象体験しなくてはいけない。


 だいたい、幽霊なんているはずがないんだ!! そうだ、そうだよ。なんで俺は今までこんなに怖がってのか、それが不思議でならない。


 今聞こえているのも、幻聴だ。明日病院に行かなくては。


 と、とりあえず……押し入れで寝ようかな、うん。いや、怖い訳じゃないよ。


  ただ単に、なんかこの布団寝づらいというか、いきなりネコ型ロボットの心情になってみたいとか思っただけなんだ。


 決して怖い訳じゃない!


 俺は掛け布団を持ち、押し入れの襖を開ける。


 と、同時にあの青いハリネズミもびっくりなくらいの勢いで回転しながら、その中に入った。


 廊下から和室へと繋がる襖が、ゆっくりと開く。


 まだ暗くてよく見えないが、背は小さいな。女の子のお化け……いやいや! お化けなんていない。

 

 そうだ、きっと寝ぼけて隣の家の子が入ってきただけなんだ。


 そうに違いない。――あれ? なんか足元が透けてるような、その奥にある扉がはっきりと見えてる気がする。


 あっれー? なにこれ。やだこれ、おかしいよこれ、なんなの? 幽霊なの? 馬鹿なの? 俺が失禁してもいいの?



 得体の知れないそれは、ゆっくりと先ほどまで俺がいた布団に近づいていく。


 全く、上下に動かずに移動していた。地面が勝手に動いているかのように水平に。


 俺の布団の上に到達したものの顔が、月明かりによって照らし出される。


 生気のない青白い顔に、紫色の唇。目には光が宿っていなく、生きているとは到底言えない。服は着物を着ている。


 額に嫌な汗が浮き出てくる。ここにきて俺は、ようやく恐怖を感じた。

 

 さっきまでは、美優の奴がこっそり侵入してきたのかと、心の底で考えていたから、ここまでの恐怖はなかった。

 

 だけど、今は違う。距離にして三メートルにも満たない距離に、異界のものが存在している。


 俺の口が勝手に震えて、歯同士がぶつかりあいカチカチという小さな音をたてる。


 その音が鳴らないように必死に手で抑えようとするのだが、手が震えて上手く動かせない。


 女の視線と、俺のそれがぶつかった。


 見つかった。どうしよう、俺まだ未練があるので死にたくないのだが……。



 女はまたもや水平に移動して、俺の方に近づいてくる。


 近づいてくるたびにさっきよりも、顔がはっきりと見えた。



 額から血を流している。


「……けて」



 は? 今、喋った?



 いやいやいや、空耳だ空耳。だってさ、幽霊にしてはハッキリしていて、透き通るような声だぞ?



 まあ、声が小さいからあまり聞こえなかったけど。



「……た……けて」



 また……聞こえた。なんなの? 『た……けて』って。足りない文字を入れるとしたら、『たすけて』。



 『助けて』? この幽霊は助けを求めてる? いや、だけど、なんで俺なんだ。



 このボロアパートには、俺以外にも住んでいるはずだ。



 なんで俺なの? 俺じゃなきゃできない事なのか?



 もしそんな事だったら、協力しないでもないけどさ。


 ……でもあれだぞ。魔王を倒してとかだったら、全力で断る。


 この得体の知れないものに対しての恐怖は完全に拭いとれたわけじゃない。


 けども、この幽霊は助けを求めている。


 ならば、助けるのが人間として当然だろう。


 と思うのだが……思うんだけど!! やっぱり怖いので言葉が出ないです、テヘッ。



「助けてよ……」



 今度はハッキリ聞こえた。『助けて』って。確かに助けを求めてきている。


 よーし、いっちょ一肌脱ぐかー。


 とか思ってたら、目の前にいる女は空気に溶けるように消えてしまった。



「はれ?」



 それと同時に玄関の扉が開く音と、なにかが走ってくる音が聞こえてきた。


 さっきの恐怖がカムバックしてきやがった。心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。


 やはり、その足音は部屋の前で止まり、ゆっくりと襖が開いていく。


 そして勢いよく開け放たれた。



「そ~う~!!」



「ぎゃあああああああ!!」



 俺は死んだ。


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