4.浮世歯車
その夜のうちに傷の手当てを終え、方治は翌朝から、素知らぬ顔で妓楼に居た。
切り刻まれた着物も血糊を帯びた脇差も、後の始末は全て志乃に一任をしてある。あの女が片付け上手であるのは知れているから、これにて一件落着と、方治はすっかり呑気を決め込んでいた。
「よう、おこう。聞いたかね?」
だから行き違った女に、ふと迂闊な声をかけてしまったのは、安堵からの気の緩みか、金瘡が発する熱ゆえだろう。
「何をですか、先生」
きょとんと振り向いた顔に、方治は己のしくじりを悟る。昨夜の斬り合いを、この明けに妓楼の女が知るはずもない。
しまったと臍を噛んだが、今更吐いた言葉は飲み込めない。
腹をくくって、方治は続けた。
「例のあの客、な」
「……あ、はい」
「ちょいと人をやって探させてたんだが、今朝、川に浮いてたってよ。斬り死にだ。恨みの数が多かったのかねェ」
おこうは寝耳に水の報に目を白黒させ、それから深く思案に沈むように目を閉じる。
自らの両手を胸で重ねて、やがて、
「そっか。そっかぁ」
ため息のように呟いて、それを心の区切りとしたらしかった。
様々な色が通り過ぎた細面に、常の笑顔を浮かべて見せる。
「教えてくれてありがとうございます、先生」
「いやいや、なーんもしてねェよぅ。ちょいと早耳だっただけさね」
「でも、私の為に人を使ってくれたそうですし」
「ん? ああ、そりゃまあ、なァ」
出任せの言い繕いに感謝を告げられ、方治はしばし居心地悪くへどもどし、それから怪訝におこうを見つめた。
「……? どうかしました、先生?」
「おう、なんてェのかよ。あんまり、喜ばねェんだなと思ってな」
諸手を上げて快哉を叫ぶか、もしくは他所に仇を盗られたと嘆くか。
喜怒哀楽いずれの体を取るにしろ、激情の表出はあって然るべきと方治は考えていた。そうあれと望んだわけではないが、些か肩透かしの心地である。
けれど娘は静かに笑い、
「片が付いたのだったら忘れてやります。あんな奴の事、綺麗さっぱり。だっていつまでも憎んでいたら、まだあいつがこの世にのさばってるみたいじゃありませんか」
「なるほどねェ」
「だからもう、なんとも思ってやらないんです。それに」
言葉を切って、おこうはふわりと方治に寄った。手の甲を摘んで抓る。
「私が恨んでるのは、目下せんせの事ですから」
「おいおい、そいつはきっと濡れ衣だぜ?」
「いーえ。せんせは私に買われたくせに、夜中どこかに消え失せてしまうひどい人です。寂しかったんですよ?」
「せんせ」ともう一度、舌っ足らずに甘えるように呼ばわって。
おこうは指と指を絡ませた。
「少しでも悪いと思ったなら、今度はちゃんとせんせのお金で、私を買ってくださいね?」
「……」
「……」
たっぷりとひと呼吸、二人の視線が濃く絡む。
「おいおい、おいおいおいおい。居残りに手管を使ってどうするんだよぅ。そういうのはもっと、甲斐性ある若旦那ににしな」
「ざーんねん、です。見破られてしまいました」
けれど方治がそう返したので、おこうもまた節をつけて歌うようにおどけてみせて、この話はそれで終いになった。
それでひとまず、冗談という事になった。
*
妓楼の二階から町並みを見下ろしながら、方治は考える。
母の死に際しての無感動から、彼は己を虚ろと断じて生きた。
だがおこうのように、忘却こそを処方とする心があるのなら。
あの日の自分も、そうであったのではなかろうか。折り重なった喪失を堪えるのに、目を閉じ耳をふさいでやり過ごす他なかったのではなかろうか。
何も思わなかったのではなく、何も感じなかったのでもなく。
古い文箱を探るように、方治はゆっくりと記憶を辿る。
仇討ちばかりを望まれたとはいえ、親は親である。いい思い出ばかりではないが、決して思い出がないではなかった。蓋をせずにはおれぬほどに、胸に迫る郷愁があった。
で、あるならば。
己もまた、確かに幸福であったのだ。
どうした弾みか、ふと合点がいった。
「そーうだよなァ」
妬み羨み欠けて満ち。
その凹凸で歯車のように噛み合って、人と世とは回りゆく。
そうしたものであるのやもしれぬ。
己の姿を、有り様を。人は存外知らぬものである。
なればこそ気づかぬうちに、満たし満たされる日々がある。
例えばもしもこの店が、人為によって失われたなら。
自らは下手人を、暗く鋭く憎むだろう。いつまででも憎み続ける事だろう。
──つまるところ、この心地こそが証左なのだ。
淡く笑んだ方治の空で、笛めいて高く木枯らしが鳴った。