3.羨望表裏
大悪党の子として産声を上げたではない。
だが菱沼丹佐は、生まれついての凶賊であった。他者が幸福を喫する様を見れば、憎くて憎くて、矢も盾も堪らなくなる性根なのだ。
奪って己が物にと目論むならばそれは欲だ。まだ人の理解の範疇である。
しかしこの男の羨望は違う。気に入らないから打ち壊す。ただそれだけに終始している。
暖かに笑い合う家族が憎いと皆殺した事がある。
楽しげに飴細工を舐める子供が憎いと腹を裂いた事がある。
赤子の疳の虫が騒ぐように、丹佐のこの羨望は折に触れ激発した。
暴虐の程度が増したのは長じてよりであるが、幼い時分から、丹佐はそのような男だった。
異様な体躯と膂力を備えた息子が、外道としか思えぬ理由で泣き喚くのだ。これを父母が愛そうはずもない。
丹佐の成長につれ母が実家に通う日は増え、父は妾宅を訪ったきり帰らなくなった。
双方ともが、そこでそれぞれの幸せを育むように見えたので。
元服を過ぎたある日、丹佐の羨望が爆ぜた。
抜き身をぶら下げて妾宅に押しかけ、父と妾の首を取った。持ち帰ったそれを母の眼前にごろりと転がし、「喜べ」と詰め寄った。
「お前を捨てた男の首だ。何故喜ばぬ」
丹佐は泣き伏せる母の頭を掴んで「喜べ、喜べ」と繰り返し地べたに打ちつけ、やがて生みの親が動かなくなると、そのまま藩を逐電した。
辻斬り押し込み火付けに拐い。
以来気の向くまま赴くままに好き放題を、悪事の限りを尽くした。
いつしか彼を頭と立てて、付き従う者たちができた。
──菱沼丹佐は刎ね首丹佐。
天狗の剣と呼ばわられ、恐れられたのはその頃である。
生来の剛力はますます盛んで、彼が抜き打ちに斬った首は、そのまま三間先まで飛んだという。
丹佐の暴力を軸に、一味の仕業は上手く回った。回り続けた。
我が世の春を謳歌する、彼らが実に幸福そうであったので。
ひと仕事を終えたある夜、丹佐の羨望が爆ぜた。
気まぐれのように徒党の全てを鏖殺し、握れるだけの金子を握って、丹佐は郷里に舞い戻った。
別段、何の目論見があったではない。
だがそこで遊女の噂を耳にした。顔にひきつれ火傷を持つ、訳あり女を抱える妓楼があるのだという。
覚えのある話だと見物に行けば、大当たりだった。
おこうというその女が、随分と周囲に馴染んで明るく過ごすようだったので。
丹佐は、舌なめずりしてそれを買った。
女の反応は、丹佐の期待以上だった。
驚愕に体を強張らせ、次いで逃げようとした細い肩を掴んで組み伏せた。片手のひらで口を封じ、
「騒げば来た者から順に殺す」
そう囁いてやると、おこうの体からは虚脱したように力が抜けた。
そうして肢体を弄りながら、丹念に昔話をした。
硬く、必死に作り上げたであろう女の殻を砕き、生のままをさらけ出させ、じっくりと心を折り砕いて、蹂躙をした。
屈辱と屈服が入り混じる表情を楽しみ、その後、思う様に犯した。幾度となくその体を貫いて、身も世もなく泣き叫ばせた。
ひどく、愉快だった。
あまりの愉悦に、今すぐに壊しては長く楽しめぬと、珍しくも自制までした。
それがしくじりであったかと、丹佐は思う。
次の夜に妓楼に顔を出すと、おこうはもう他の男に買われた後だとにべもない。火傷女の分際で、店に泣きついたに違いがなかった。
その場は苛立った丹佐であったが、ちょうど良いとやり口を変える事にした。
金ならばある。これからはあの妓楼に日参して、おこうを求め続けてやろう。
店の者が、さて遊女ひとりをどこまで庇うかが見物である。
いずれ丹佐の圧に辟易し、屈する時が来る。頃合を見て身請け話を持ちかけてやれば、二つ返事で乗るに決まっていた。
頼る相手に売られたと知ったその時、あの女がどんな顔をするのか。
今から、楽しみでならない。
それゆえに。
今宵眼前に立ちはだかる総髪の剣士は、耳元を飛ぶ夏の夜の蚊の如く、丹佐にとって疎ましくあった。
*
「あの店の差し金か」
「知ーらねェよう」
節をつけて返しながら、方治は背筋に冷たいものが這うのを感じている。
侮ったつもりはない。
だがこの猪はやすやすと、夜道をすれ違いざまの方治の居合を躱してのけた。
腕の一本も頂戴できようという目算が狂ったのもある。だがそれ以上に、丹佐の身ごなしが尋常を逸脱していた。
不意打ちで己が身に迫った白刃の腹を、後から振るった拳で打って逸らすなどという芸当など、方治はこれまでに見た覚えがない。
「いいや。その顔、覚えがある。お前、あの妓楼にいたな」
ぞろりと隙なく佩刀を抜き放ちながら、丹佐が呟く。
初めておこうを買った折、妙に機敏で間合いのいい見世番がいると目に留めていた顔だった。野の獣めいた警戒心も、また丹佐の生まれ持ちである。
「夜目も捨て目も利くこった。めーんどうくせェなぁ」
ぼやいた瞬間、丹佐が動いた。
巨体からは思いもよらぬ、恐るべき速度の踏み込みだった。大岩の転落めいて押し寄せながら丹佐の太刀は大上段へ翻り、雷鳴の気合と共に振り落ちる。
受けつつ、またしても方治は舌を巻いた。
ただのひと打ちと見えて、刃は数度鳴り散らした。凄まじい剣速であり、剣圧である。体躯と膂力を利した暴風の如き乱打は、方治に身動ぎすら許さなかった。
得物の差は、無論ある。
方治が屋内での立ち回りを意識した長脇差を握るのに対し、丹佐の得物は巨躯に見合った大太刀である。しかしそれ以上に、丹佐の腕が長い。丹佐の間合いは、刀を用いつつも長柄かそれ以上に深く感ぜられる。
致命の傷こそ避けてはいるが、方治の体は忽ちに赤く染まった。
まるで剣を返しようのない天空から降り注ぐ、雨霰に切り刻まれるかのようだった。
この攻めの剣を、猪突と蔑する事はできよう。だが対峙して阻めぬならば、それは破竹と敬するよりないものなのだ。
まさに天狗風のような蹂躙の剣法──否、殺法であった。
防ぐ一方の方治の手が痺れ、膝が震える。
だが丹佐とて真正の怪物ではなく、また方治も二流どころの剣客ではない。
一瞬の呼吸を盗み、臆さずに懐へ潜る。前へ出さんとしていた丹佐の膝を蹴り止めるや、わずかに生じたその停滞に方治は刃を滑り込ませた。
銀光一閃。
真っ当な相手ならば首へ、この怪物に対しては右の首へ斬り込む形の横薙ぎを、丹佐の太刀が割り入って受ける。
無論、方治の狙いはその太刀にこそにあった。
刀そのものを標的とする斬撃により防ぎの剣を打ち払い、跳ねるように突きへと変じて喉首を裂く秘剣──即ち、犬笛。
だが、しかし。
存分に力の乗ったはずの方治の剣は、丹佐のそれにがつりと受けられた。受け切られていた。
大人と子供ほどに。渾身を片手間であしらえるほどに。
二人の膂力には差があったのだ。
これより脇差を跳ねさせたところで、切っ先は虚空に逸れるばかりである。首へは届きようもない。
袖無しの羽織から覗く瘤の如き両肩。左右の首に例えられるそれが、声もなく笑ったようだった。
「なるほど、三ツ首丹佐──!」
思わず漏らした直後、丹佐の前蹴りが炸裂した。方治は鞠のように蹴転がされる。
図らずも生じた距離を、しかし丹佐は容易に詰めない。
その心中には、わずかながらの警戒と興味があった。
丹佐の渡世において初めてだったのだ。これほどにまで長く打ち合った剣士も、これほどまでにしつこく食い下がった人間も。
「何故お前は俺を斬りたがる? 義憤か? あの女を哀れと思っての助太刀なのか?」
だから知りたかった。
これが、何を源に動くのかを。
──違う。
問われて、方治は思う。
おこうの為かと問われれば、断じて違うと己は返す。
実のところ、自分は羨んでいる。嫉妬しているのだ、あの娘を。あの娘の上にある、明確な不幸を。
おこうに買われた夜、方治は彼女の瞳を見た。
それは冷たく憎悪に澄んでいた。未だ絶えぬ瞋恚の炎を滾らせていた。
黒く純化した殺意の量は、幸福の裏返しだと方治は考える。
奪われたものが、亡くしたものが愛おしいからこそ、傷は癒えずに血を流す。忘れられずに、いつまでも覚えている。いつまでだって、覚えていられる。
憎しみを抱き続けるのに、かつての幸福は欠かせぬのだ。
けれど、自分は違う。
方治は、武家の嗣子として生を受けた。
だが物心つくその前に、父が死んだ。
仕事の上での、同僚との諍いであったという。口論はやがて刃傷の沙汰に至り、父は斬られて命を落とし、仇は逐電をした。
過程の仔細を方治は知らぬ。
双方の家禄が削られ、しかしやはり双方ともに家の存続が許されたところを見れば、喧嘩両成敗としていいような経緯であったのだろうと思う。
けれど母は、仇を強く、深く憎んだ。
朝餉夕餉に、方治は顔も定かならぬ父の遺恨を語られ育てられた。
大人に混じって剣を学ぶを強要され、元服が済み次第で仇討ちに出るのだと告げられていた。
我と我が身を鍛え上げ、やがて長じて免状を得て藩を立ち。
絵草紙の主役気取りで、すぐに出会えるはずだとひと月、ふた月。
やがて疲れが出て始めて三月、四月。
仇の姿どころか噂にすら出会えぬままに光陰は過ぎ、いつしか旅先へ届く仕送りは絶えた。
恥を忍んで郷里に戻った方治は、そこで母が儚くなったと知った。そうして、肉親の死に何の感慨も湧かぬ己の心に驚いた。
分家の者が入って家を継いだのだとも聞き及び、方治はそれで苗字を捨てた。
親の愛を覚えずに、恨みばかりを詰め育てられ、さして望まぬ旅に立ち。
気づけば帰る場所すら失って、路銀も希望も尽き果てて。
道を踏み外したのは、さて、いつの頃からか。
そのように中身のない己に比せば、おこうは幸福であると方治は羨む。
父が居て母が居て弟が居て。それぞれ愛し愛されただけ幸福である。
父が死に母が死に弟が死に。憎きその仇に生きて巡り会えただけ幸福である。
こんな醜い感情が、義理人情であってたまるかと方治は思う。
「まあ、いい」
黙りこくって立った方治へ、丹佐は飽いたように吐き捨てた。
問うて答えぬならば解体するまでだと思っている。どこまで刻めば命乞いを始めるか。それを試せばおおよそ気は済む。
「どういう理由であろうと、俺を阻む輩は野晒しだ。これまでもそうしてきた。お前もそうなる」
宣告して、丹佐がまたしても上段に構えた。じりじりと爪先で間合いを狭める。
刀を地へと垂らし、荒い息をついたまま、方治は動かない。
一足一刀の間境を越え、丹佐が怒涛の如く押し寄せようとしたその寸前で、方治が動いた。それは、丹佐の予想だにしない動きだった。
くるりと身を翻すや逃げの姿勢に移ったのである。
晒された背に丹佐は激昂した。嘲弄されたのだと感じ、八つ裂きにせんと吠えて追い──その肩に衝撃が走った。
「何──!?」
思いもよらぬ痛覚に、丹佐の思考が刹那止まる。状況も忘れて己が身を確かめ、それが方治の剣によるものだと悟ってもう一度愕然とした。
まるで背なに目玉があるかのように。
赫怒した丹佐の思考が狭窄した瞬間、間合いの利を忘れただ殺到したその瞬間を見極めて、方治は後ろを見せたまま、腕を回して肩口へ斬りつけたのだ。
それは仇討ちの為──己より剣腕に勝る者との立ち合いの為に研がれた騙し技であり、非力な子供が大の大人を制すべく工夫を重ねた奇襲の方策だった。
無論、傷は深くない。
所詮は驚かしだけの、曲芸のような太刀筋である。もし正面からこれを受けたなら、丹佐は小揺るぎもしなかったろう。しかし意識の死角を穿った一刀は、刹那彼を迷わせ、躊躇わせた。
そのひと呼吸のうちに方治は反転し、更なる剣を送っている。
寝かせた右袈裟。もしくはやや角度のある右薙ぎ。
続く斬撃はそれである。
丹佐は反射的に太刀を立ててこれを受け──直後、斬り込まれた肩が鋭く痛んだ。
不覚にも握りが弱まり、指が滑る。
方治の剣が、丹佐の太刀を弾いて除けた。
そうして、川面を切る石のように。
長脇差がかちりと跳ねた。
跳ねて、横薙ぎの軌跡を突きへと変じた。
切っ先が喉元を抉り、続く刀身は首横を掠める格好で、刃の形のままに肉を斬り開いてゆく。
斬り込みの工夫ゆえか、太刀行きの速さゆえか。
ぱくりと裂けた喉から、ひゅーっと高く、笛の音めいた息が漏れる。
信じられぬものを確かめるように、丹佐が傷口に触れた。触れて、抑えた。
大きな手のひらだったが、それでどうなるわけもない。
指の隙間よりとめどなく血は溢れ、どくどくと羽織を染め上げていく。
「好き勝手幸せに生きたろう? なら太く短く、幕としようや」
方治の呟きを聞き咎め、丹佐がわずかに唇を動かす。だが、思念が言葉になる事はなかった。
身の内に残った命をそれで使い果たしたか。
異形の巨躯は、音を立てて路傍に転げた。