2.猪狩り
その夜、方治に買われたのは、おこうという遊女だった。
商家の生まれだという彼女は、出自の通り学問ができた。つまりは方治と同じく、他の女たちの文を手助けする立場である。自然、教授を分担する折もあり、その分だけ距離も近い。
だがおこうは、頑なな面を備えた女だった。
誰にも──楼主にすらも詳らかな前歴は語らず、いつまでも遊里に馴染まぬ空気を纏い続ける娘だった。
閨においても張り詰めた姿勢の中にどこか怯える気配が抜けず、そこが庇護と嗜虐、双方の心を掻き立てるのだと囃されてもいた。
とはいえ、決して人を拒むわけではない。
冗談も言えば相談にも乗る。年相応にあどけなく笑いもする。ただ誰にも触れさせない領域を、胸の奥底に秘めているというだけなのだ。
ならば別段こちらから踏み込む必要はあるまいと方治は見ており、またおこうもそうした雰囲気を悟ってか、ついぞ方治に金を握らせはしなかった。
そんな女からの、唐突な声がかりである。
方治に非ずとも、某かが起きたのだと察して然るべき次第であった。
部屋を訪うと、おこうは既に用意の膳の前に端座していた。
方治を見上げ、淡く笑んで会釈をし、しかし口は開かずに顔を伏せる。
おこうの右目の上には、醜い火傷のひきつれがあった。それを隠して、彼女は常から両目を覆うほどに深く前髪を垂らしている。それゆえ「口ほどに物を言う」とされる瞳は窺えない。
だが痛いほどに思い詰めた娘の心は、その所作の端々からこれ以上なく見て取れた。
おそらくは遣手の慮りであろう。膳は向かい合わせでなく、横に並べて配されている。おこうを頭の回る女だと知るから、方治もまた、黙して隣に胡座をかいた。
銚子を取り、盃を促す。
幾度か躊躇った後、おこうが酒を受け、干す。無言のやり取りを繰り返すうち、糸のように張り詰めていた彼女の中のものが、少しずつ緩んでいく。
やがておこうは、わっと声を上げて方治の腕に縋った。
「あいつが、あいつが来たんです……!」
御簾めいた前髪の向こうから、涙に濡れた瞳がじっと方治を見つめている。
*
おこうは、ちょっとした店の娘だった。
広く屋号を知られるほどではないけれど、父と母とおこうと弟と、親子四人の口を糊するのに不自由はない。そんな、絵に描いたように幸福な家の娘だった。
その頃のおこうは信じ切っていた。世間は我が家と同じく、優しさといたわりで満ちているのだと。
しかし小娘の盲信を嘲るように、ある夜、店に押し込みが入った。
「私たちは四人で、同じひと間に眠っていました。父が大きな声を出したので、なんだろうと私は目を開けたのです」
そうしておこうが目にしたのは、どっかりと座り込んだ大男であった。
腕が、恐ろしく長かった。胡座の格好であるからしかとは言えぬが、直立してなお、両の拳が地を擦るのではないかとすら思われた。
我から破り捨てたのか。羽織の袖は左右ともに無く、付け根から覗く銅色の上膊は、細身女の腰ほどにも太い。
両の肩も、また異様だった。
岩の如くにごつりと大きく隆起をして、まるで左右に二つ、余分の頭を生やすかのようだった。
「あいつは炭団を熾して、ゆうゆうと暖を取っていました」
その傍らには、血を吸ったばかりの刀が転がっていた。
あまりの光景に気を飲まれ、おこうは悲鳴を上げる事すらできなかった。
けれど、幼い弟は違った。
驚愕はすぐさま怯えに転じ、己の感情のまま、声の限りに泣き出した。それが、運命を決めた。
「あっという間もありませんでした。あいつの腕が伸びてきて、弟を捕まえて、引きずり寄せて。『五月蝿いな』って眉を顰めて、小枝のようにあの子の腕を折りました」
当然ながら、幼子は泣いた。火のついたように、更に泣き喚いた。
「続けて『どこまでやれば静かになるかな』って呟いて。あの子の手足を、あいつは順々に折り曲げていきました」
おこうの父が必死で組み付いたが、まるで無駄だった。無造作な腕のひとふりで蠅のように追われ、即座に死なぬよう急所を外して、刀で畳に縫い止められた。
おこうと母は抱き合って、これが夢になるようにと固く固く目を瞑った。
無論、儚い願いは成就しない。
「弟の次は父でした。命乞いをさせられながら、少しずつ、少しずつ刻まれて、小さくされていきました。その次は母でした。手足を落とされて、それから私の前で犯されました。そのうちにけらけらと笑い出したので、先に心が壊れたのだと思います」
家族同然と思う店の者たちが皆、この惨劇の前に屠殺されていたとは、後に知れた事である。
「最後に、あいつは私に手を伸ばしました。でもそれを途中で引っ込めて、こう言ったんです。『飽きた』って」
幾度も、幾度も。
夢に魘された過去なのだろう。
我から思い返しもした記憶なのだろう。
おこうの語り口は順序立ち、淡々と静かですらあった。
「そうして火箸で炭を摘んで、私の、私の顔に……」
声すら震わせず、しかしぽろぽろと涙を零すおこうの体を抱え直し、方治はぽんぽんとその背を撫でた。
「じゃあつまりよぅ、おこう。そいつが来たんだな? 客として」
あやすように体を揺すってやりながら、ざくりと切り込む。
娘は束の間呼吸を止め、それから強く繰り返し頷いた。
「先生、先生! 私、悔しい、悔しいです……! あいつ、私の事を覚えてました。覚えてて、この店に火傷持ちの女がいるって聞いて、それでわざわざ買いに来たんです。私を、笑いに来たんです」
苦界の女たちは、大なり小なり辛い過去と今とを秘めている。
だが中でもこいつは飛び切りだと、方治は羨ましく思う。
「見つけたら、今度会ったら、絶対に殺してやろうって思ってたのに。そう思ってたのに。でも、何もできなかった。あの時とおんなじでした。怖くて怖くて体が竦んで、なんにもできなかった! 挙句言わされたんです。あの時殺さずにいてくださってありがとうございますって。あなたが助けてくださったお陰で今は幸せですって! あいつ、満足そうにして、『また来る』って! また、私を嬲りに来るって……!」
嘆きは、既に悲鳴と大差なかった。
ぎゅうと襟をきつく握り締めた女の拳を、方治の手が上から包む。
もう一方の手で盃を取り、温くなった酒を口中に含んだ。女の顎先に指を添えて上向かせ、口を吸う。そのまま、ゆるゆると酒を移した。
おこうの喉が、こくんと鳴る。
繰り返すうち女の体は、腕の中でやわらかに溶けた。
*
「菱沼丹佐」
半ば酔い潰すようにしておこうを寝かしつけ、廊下へ忍び出た途端、声がかかった。
目をやれば薄闇を纏い、長煙管を燻らせて立つ女が一人。
この妓楼の遣手、志乃である。
遣手とは女たちを取り仕切り、客を円滑に回す役割の者をいう。多くが三十を前に年季の明けた遊女上がりであり、志乃もまた例外ではない。
「おこうの昨日の客の名さね。人呼んで三ツ首丹佐。悪事を尽くして上方に逃げ、棒で打たれてまた逆戻りしてきたって賊徒だよ。愛宕の天狗に剣術の奥妙を授かったってな触れ込みだけど、どう見たって後先を考えない猪だねえ」
志乃は楼主よりも楼主然と、この妓楼を束ねる女だ。肝も知恵も一入である。
つまるところこの物言いは、おこうの過去も今の方治の魂胆も、すっかりお見通しという宣告に相違なかった。
「調べはすっかりお済みかね。相変わらず、いーい犬を飼ってるなァ」
「お陰様でね。図体ばかりの野猪の振る舞いなら、十里先からでも嗅ぎつけてやるさ」
「いやはや、おっかねェ」
首を竦めて見せる方治に、にこりともせず志乃は続ける。
無表情で無感情めく、愛想などは欠片も持たない女だが、所作のひとつひとつが恐ろしく婀娜だった。気怠く冷めたその声の、掠れすらもが艶めいている。
かつては熱狂的な客が多くついたも然りと思わせる立ち振る舞いだった。
「で、やってくれるんだろう?」
楼主かこの遣手が望んだ者を、闇中にて斬り捨てる。仔細は問わない。
それが居残りの裏に秘された、方治と妓楼の契約だった。
言うなれば便利な人斬り包丁であり、本来ならば情も何も存在しない、無味乾燥な間柄である。
だが居続ければ、人にも場所にも情が湧く。仕事のうちと言いながら、今や方治は店の者に、特に女たちに、一方ならぬ肩入れをしてしまっていた。
そこを見透かし付け込んで、志乃は時折このような狩りを申し渡す。
となれば返答は、諾の他にありえない。「ああよ」と諦め顔で脇差を叩くと、志乃は満足を示して頷いた。
「大助かりさね。実はあの猪、さっきも押しかけて来てねえ。今夜はもう客を取ったとあしらったら、大層なお怒りだったよ。あれは明日も必ず来るだろうねえ」
「猪の巣は知れてんのかい?」
「一応は、ね。でもあの手のは塒に煩いよ。寝込みを襲うより、行き帰りを仕留めるが楽さ」
言いながら、胸元から抜き出した紙片を方治へと押し付けた。
薄い行灯に眺めれば、それは付近の絵図面である。いくつかの通りに走る朱筆は、猪狩りの目星に相違なかった。
「昨日今日は一人歩きで、今は悪さをする連れもないようだ。天下に我を害する者なしとでも思ってるのかねえ。天狗様だねえ」
くつくつと忍び笑いをする志乃へ、「おーっかねェ女だよう」と方治は零す。
今度は半ば、軽口ではない。
何から何まで用意周到、準備万端に整って、まるで掌で踊らされる猿の心地だった。
「あたしをまだ女と呼ぶのは、あんたぐらいのもんさね」
煙管を吸って煙を吐き、志乃は眠たげな半眼をする。
「ま、出る前に声はかけるんだよ」
「そりゃ勿論だ。片付けは頼みてェからなあ」
軽く応じはしたが、片付けられる骸が己のものである場合も、無論方治の念頭にある。
おこうと志乃、どちらの話からしても、猪は大層な荒くれだ。やすやすと斬られてくれる手合いではあるまい。
「そうじゃあないよ、馬鹿」
だがその返答は、遣手の思うところではなかったらしい。
言下に吐き捨てるや、しかし珍しくその後を言い淀み、志乃は表情を隠すように額にかかる髪を払った。
「……腐れ縁ではあるからね。切り火くらいは、切ってやるって話さ」
告げて、平素は真一文字に結んだままの唇を、ほんの少しだけ緩ませる。
これが志乃の笑顔であるとは、方治だけが知る事だった。