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1.笛鳴らし

 笛鳴らしの方治は居残りである。

 居残りとは遊びの金が支払えず、妓楼(ぎろう)に留め置かれた客を指す。要は食い逃げの仕損ないめいた、見下げ果てた(やから)という意味合いだ。

 でありながらこの方治、少しも悪びれるところがない。

 金の入る当ても金を持った知己もおらぬと(うそぶ)いて、店の雑用をするからそれであいこにしろと言いのけたものである。

 袋叩きの上で桶伏せに処されてもおかしくない口上だが、ここの楼主も変わっていた。

 居直りとしか思えぬ態度のどこをお気に召したのか、これを容れるよう周囲に命じ、以来、方治は店に尻を置き続けている。 

 そうして薪を割っては風呂を炊き、包丁を握っては小鉢を作り、腰に刀を帯びては付き馬の真似事をした。

 方治と同じく遊興の金を払えなかった者への取立てをするのが付け馬であるから、いつの間にやら金勘定を任されるだけの信頼を築き上げたという事になる。

 のみならず請われれば読み書きに和歌を教え、病人怪我人が出れば駆けつけて、ちょっとした医者の真似事までするものだから、妓楼の者からは先生などと呼び親しまれ、


「先生は一体、いつになったら帰れるんだい?」

「知ーらねェよう。あのおっかねェ遣手(やりて)に訊いてくんな」


 そんな軽口を叩き合うほど身内扱いをされていた。

 あまりに長く居着きすぎ、最早住み込み働きと遜色(そんしょく)がない有り様である。


 また方治は、女たちの愚痴聞きでもあった。

 或いは苦界へ身を落とすまでの恨みつらみを、或いは客や同僚に対する()方無(かたな)憤懣(ふんまん)を、黙って訊いて頷いて、その心を(たい)らかにするのである。

 元々は昼過ぎ、客のない刻限に為されていたこの仕業だが、まるで盛況な市の如くに集う者が日々増して、今では心の奥底を訴えるべく方治に買われる女までもが出る始末だった。


 無論、居残りの方治に金のあるはずもない。

 彼に買われるというのはつまり、女の側が方治に小遣いを渡し、それで我が身を(あがな)わせるという事である。

 何でも屋の先生に酌をしてもらい、ご機嫌取りでなく自由気ままに誰(はばか)らず(さえず)って、抱かれるではなくただ寝付くまで傍に居てもらう。

 もてなす側がもてなされる側に回り、ただぐっすりと一晩眠る。

 そうした時間の為ならば、己の揚げ代程度は惜しまぬ女が少からずあったのだ。

 このように(おおむ)ね好人物と見られる方治だが、しかしそれだけではないのだと、古参の者は知っている。

 彼が居残りを始めてからしばし、このような事件があった──。




 *




 その若侍は、(なにがし)という旗本の三男坊という触れ込みだった。真偽のほどは知れない。

 ただひとつ確かなのは、この男が敵娼(あいかた)であった女を斬り殺し、そのまま血刀を振り回して()れ回り続けたという事実ばかりである。

 誰も彼もが算を乱して逃げ回るそこへ、ぶらりと顔を出したのが方治だった。


「退け、痩せ犬。直参(じきさん)の御前なるぞ!」


 若侍の言葉の通り、方治は痩せぎすの風体(ふうてい)である。背丈とて低くはないが高くもなく、無造作に背なに垂れた総髪は無宿浪人以外の何者にも思えぬ。

 混乱極まる店の有様を自らの力の象徴と見做し酔う若侍にとって、みすぼらしくも惑乱に流されぬこの野良犬は、実に目障(めざわ)りであったのだろう。


「知ーらねェよう」


 節をつけて、歌うように。

 一喝に対し、方治は泰然と応じた。


「どこのどなた様だろうとよ、白刃(しらは)を抜いたら、もう狼藉者で乱心者さ」

「きさ……!?」


 激昂しかけた若侍は、皆まで言えず苦鳴を上げて仰け反った。抜く手も見せずに鞘走った方治の長脇差(ながわきざし)が、彼の鼻を削ぎ飛ばしたのである。

 跳ね上がった切っ先の、峰が返る。

 空を裂いて打ち下ろされる刃が我が喉笛へと襲い来るのを察知して、若侍は顔の横へ刀を立てた。痛みにも怯えにも屈さず、即座に闘争心を燃え立たせる有り様からは、彼の鍛錬が垣間見える。

 が、相手が悪い。

 彼の剣は方治の一刀の受けきれず、大きく弾き退けられた。


 若侍は自らの太刀を、方治の斬撃の中途に割り込ませ得たと信じたろう。

 しかし、そうではない。

 方治の一閃は(はな)から彼の刀を到達点として狙い澄ましたものである。存分に力の乗った脇差は受け太刀を打ち払い、そこから更に跳ねた。

 ちょうど川面を切る石のように。

 跳ねて、袈裟懸けの軌跡を突きへと変じた。

 切っ先が喉元を(えぐ)り、続く刀身は首横を掠める格好で、刃の形のままに肉を斬り開いてゆく。

 ぱくりと裂けた喉から、ひゅーっと高く笛の()めいた息が漏れ、一瞬遅れて天井へまで血が飛沫(しぶ)く。

 

「──そーもそもよぅ」


 何事もなかったかのように、それこそ茶道具の手入れでもするかのように平然と刀を拭い、


「抜いてから、舌を回すんじゃねェ」


 方治は、そう(うそぶ)いた。




 *




 水際立ったその手並みに尾ひれがついて膾炙(かいしゃ)して、それでついたのが笛鳴らしのあだ名である。

 応じて方治の斬法は、犬笛と呼び習わされた。

 冠された「犬」のひと文字は、畜生ではなく、似て非なるものの意である。笛の如きあの断末魔に()るのは瞭然(りょうぜん)だった。



 以来、方治の剣が閃いた試しはない。

 人の入れ替わりの激しい界隈(かいわい)であるから、七十五日を待たずして、噂も小火(ぼや)かそれ以下に静まった。

 故に、妓楼の新顔は思っている。

 笛鳴らしの呼び名は、幇間(太鼓持ち)ほどではないが賑やかしに足る人物なのが所以(ゆえん)だと。

 だが古参たちは知っている。

 知っているのだ。

 あの飄々(ひょうひょう)とした先生が、酷薄無残な剣術使いでもある事を。

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