158.敵か味方か
カナは席に着いたまま、息を潜めた。
そして、眼にわずかに残る明かりの感覚が消えていく間、アキの言葉の意味を考えた。
真弓が来る。いや、真弓に化けた誰かが来る。
あの慌てぶりから見て、後者だろう。
幸いにも鍵を閉めているが、もし相手が貞子なら油断出来ない。彼女の魔法なら、壁を通り抜けることだって出来るはずだ。
もしかして、もうすでに部屋の中にいるのか!?
カナは、左の手のひらを少しすぼめて小皿を形作り、囁くように詠唱してそこに炎を出現させた。
手のひらに載った電球大の炎が、ロウソクよりも明るく室内を照らしたが、人も獣も姿はなかった。
次に、ソッと詠唱してリンを呼び出す。
ポムッと宙に現れたリンは、炎の光で灼眼をキラキラと輝かせ、耳をパラボラアンテナの向きを変えるようにピクピクと動かす。普通なら、ここであくびをして文句の一つでも言うのだが、珍しく腕を組んだままだ。
沈黙の1分間が続いた。それはカナにとって、1時間にも感じられるほど長かった。
「いる」
リンが、小声で囁き、空中で身構えた。
「どこ?」
「ドアの外」
喉から心臓が飛び出しそうになったカナは、音を立てないように椅子から立ち上がってドアの方に体を向け、耳を澄ます。
でも、何も聞こえない。
向こうも、耳をそばだてているのだろう。
沈黙が続く。
カナの背筋が、ゾクゾクしてきた。
「消えたわよ」
「えっ?」
リンの言葉にホッとしてよいのか迷っていると、階下で、誰かが走っている足音と玄関のドアが開かれる音が聞こえてきた。
しばらくしてから、今度は玄関のドアが開く音、階段を誰かが上ってくる足音、ドアの前まで近づいてくる足音が聞こえてきた。
「お嬢様。いらっしゃいますか?」
ドアの向こうから聞こえる声は、紛れもない真弓の声だ。
でも、カナは聞こえない振りをする。これは、偽の真弓か否かを試すために、以前からやっていることだ。
「お嬢様」
ここで、お嬢様としか言わず、ドアのノブをガチャガチャやらないところまで、真弓にそっくりだ。アキの言葉がなかったら、何の疑問もなくドアを開けていただろう。
でも、カナは思った。これは、いつもやっていること。ならば、それを誰かが見ていて真似をすれば、簡単に真弓になりきれる。今度は、日替わりパターンを決めておこうと今更ながら思ったが、もう遅い。
次は、カナが暗号を言う番だが、ここでわざと無言を貫いた。相手がどう出るかを試すためだ。
しかし、これが裏目に出た。
真弓の体がドアをすり抜けて、いきなり中に入ってきたのだ。
揺れる炎の光が、メイド姿の真弓の全身を映し出す。
「お嬢様。ここで暗号をおっしゃらないとは、どうなされたのですか?」
真弓が、ゆっくりと近づいてくる。だが、リンの姿を見て、ビクッとしたようで、足が棒のようになった。
リンが宙を浮いたまま、スーッと前に出た。
「おん ばさら」
「だるま きり」
リンと真弓の不思議な会話に、カナは首を傾げる。
「ふーん。ちゃんと、答えるわね」
「それは、昔からのお付き合いですから」
「ふーん。なら、今日のお昼に出てきたあんたのカレー。なんでジャガイモが入っていないの?」
「いいえ。入っていましたが」
「ほー。入っていたんだ、ジャガイモが」
「ええ」
「それ、夜のカレーじゃない? ってか、台所を覗いてきたでしょう?」
「何のことでしょう?」
「カナに出すカレーは、朝煮込んで、夕方まで放置してからもう一度煮込むって決まっているの」
「そういえば、そうでした」
「そういえば? そうでした?
あらあら、尻尾を出したわねぇ。
カナ。お昼、何食べた?」
リンは、真弓を凝視したまま、カナに質問する。とその時、ごくわずかだが、真弓の唇が動いた。
「サンドイッチ」
「そう。しかも、あれは真弓が作ったのではなくて、ホテルから取り寄せなの」
全員の呼吸が止まったかのように、室内は沈黙が支配した。
「ハハハハハッ!」
突然、真弓が狂ったように笑い出す。
「いやー、一本取られたよ。
さっき、台所にカレーがあったのを見ちゃったから、まんまと乗せられたね。
ついうっかり。あー、悔しい!」
「そうでなくても、匂いでわかるけどね、桑無貞子」
「それはもう、覚悟の上さ。
リンの顔を見たとき、あちゃーって思ったよ。
どこまで猿芝居が続くか、楽しんでみたけど、これで終わりとは、リンとはいっつもラリーが続かないねぇ」
「本物の真弓はどこ?」
「偽情報に釣られて、外へ行ったよ」
「いいえ。わたくしは、ここにおります」
偽の真弓は、ギョッとしてドアを振り返った。
そこには、もう一人のメイド姿の真弓が立っていた。