117.盗まれた魔導書
30分後。
ピンク色のパジャマ姿のカナは、ダイニングテーブルの椅子に腹立たしさをぶつけるため、軽くジャンプして尻から落下した。
そして、両手の拳でテーブルを強めに叩く。
ジンとくる拳は、熱を帯びてきて、チリチリとかゆくなる。
彼女は、もう一度叩こうと思ったが、テーブルが真っ二つになりそうなので、諦めた。
詠唱すれば、指一本でも割れるのだから、理性を働かせる必要がある。
テーブルの隅に常駐している、カナお気に入りの数学の参考書が、音を立てて開かれた。
むしゃくしゃした気を紛らわすため、パズル本のつもりで彼女はよく開くのだ。
彼女は、本に吸い込まれるように、目を落として集中する。
深紅のロングヘアの毛先を、白い指に絡める。
翡翠色の双眸が活字を追う。
桜色の唇が時々動く。
西洋人ほどではないが、高い鼻のおかげでハーフっぽい、アイドルのような美少女。
彼女が本を読む姿は、画家の創作意欲をくすぐるはずだ。
しばらくすると、カナはうとうとし、船をこぎ始めた。
襲う睡魔には勝てず、ついに、参考書の上へ顔を伏せて寝てしまう。
数分後、彼女は顔を上げ、半眼のままロングヘアを掻き上げる。
そして、ぱっつん前髪の上から額を三本指で撫でながら、50インチ薄型3Dテレビの方へ振り返った。
このテレビは、巻紙のように丸められ、ポスターのように壁に貼ることのできるタイプ。
貼り方が下手くそだと、少し曲がってしまう。
ちょっと曲がった真っ暗な画面にぼんやりと映る、怠惰な生活が染みついた自分の姿。
怠惰になったのは、事件で長期間謹慎したせいだ。
黒画面をバックに、直近の大事件や、過去の自分が引き起こした大小様々な事件が、頭をよぎる。
事件で離れていった友達の顔が、浮かんでは消えていく。
潤む両眼。
滲む視界。
少し前に乾いたばかりの頬をまたもや濡らす涙。
握りこぶしに力が入る。参考書をテレビへ投げつけたくなる。
だが、自暴自棄になった自分の姿は、頭の中に止まった。
堪える両手が、小刻みに震える。
過去を忘れたい。
全てを白紙に戻したい。
(何が、魔法は人間の究極の力よ!
結局、化け物呼ばわりじゃない!
この力さえなければ、今回の謹慎だって――)
生まれながらの魔力を捨てて、一般人の、どこにでもいる普通の女の子に戻りたい。
だが、蜂乗家が魔女の家系であるからには、許されるはずもなかった。
高ぶる気持ちを落ち着かせるため、彼女は椅子から滑るように降りて、ちゃぶ台風の丸テーブルの前に腰を下ろした。
二十一世紀も半ばをとうに過ぎているのに、前時代的というかレトロな家具は、まだあちこちの家庭に残っていて、彼女の住む部屋も例外ではない。
とその時、テーブルの下から黒猫がヒョコッと顔を出した。
灼眼の瞳がカナを見上げる。
「リン、おいで」
カナの声を待つまでもなく、リンは音もなくご主人様の左側に近づき、寄り添い、彼女の左腕と脇腹と腰を順に温める。
部屋の温度は、完璧に空調管理が行き届いて適温のはず。
だが、外気は、太陽が出ているとはいってもまだ寒い。
窓ガラス付近の空気が冷やされ、それが対流して少し肌寒くなるのだ。
さっきから、リンの長い尻尾がカナの背中を軽くトントンと叩いている。
もちろん、催促の合図だ。
「テレビでも見よっか?」
そう言いながらカナは、斜めに転がるリモコンを左手で奪うように取って、テレビ画面の下の方へ向ける。
電源オンから立ち上がるまでの待機時間は2秒以内だが、それを待ちきれない親指がボタンを押しまくる。
『今月の新商品は、この疑似魔法――』 ピッ……
『車の自動運転はここまで来た。先進技術で、もっともっともっと、やっちゃえ――』 ピッ……
『今日午前八時四十分頃、天野山川の河川敷で、男性と思われる焼死体が発見されました』
(うそっ!? この近くじゃん! 怖っ――)
『損傷はひどく、年齢は不明。所持品はなく、警察は身元の割り出しを急いで――』 ピッ……
『ご家庭の面倒な家事は、このアンドロイドにお任せ。今すぐお電話――』 ピッ……
『さあて、おいくらなんでしょうね、この中世末期の古文書』
『売って海外旅行の費用になればいいんですがね』
『では、査定の結果を見てみましょう――』
カナのせわしなく動いていた親指が、隣り合うボタンの間で凍り付き、彼女の背筋に戦慄が走った。
(えっ? えっ? まさか!?
今開いているページのあの幾何学文様って……あの盗まれた魔導書じゃない!?)
体が固まる彼女の眼に、電光掲示板のアップが映る。
『オープン・ザ・プライス! 一、十、百、千、万、十万、百万――』