私と私
命が消える音がした。
ピアノの鍵盤を全て叩いたような不協和音。
またひとり、私がいなくなった。
消えた命は私自身の命だ。
私の心にはたくさんの私がいる。
おしゃべり好きな私、悪魔のような性格の私、何も考えていない能天気な私。
いろいろな私がいるおかげで、何とか生きていけている。
不釣り合いなものにも、新しい私が生まれて対応できるようにしてくれる。
命が生まれる時にも音がする。
新しい音は私を構成する一音になり、私という曲ができあがる。
命が生まれて消えてを繰り返していく。
時に明るく軽やかな、時に暗く悲愴的なメロディーになる私を紡いで、長い長い人生を奏でている。
今回消えた私はきらきら光る私だ。
自分の歳では到底似合いそうにない、白くきらめくワンピースを着るための私。
歩くたびに裾がふわりと揺れて、後ろに立てばフレーバーティーのように甘すぎず、身も心も委ねてしまいそうな香りが漂ってきそうなものだった。
セレクトショップで見つけたときは一目惚れだったが、このワンピースは私をすんなりと受け入れてくれなかった。
大学生で世間的には若いと見られる私でも、この服の前では明らかに浮いてしまった。
しかし目を離さない。
教科書に載っている絵画のように佇むワンピースは、周りの空気を奪っていき、上手く呼吸のできない空間を作り上げていた。
その場にいた私は、とても不恰好だった。
この服は人を選ぶ、服自身が輝けられる人に着て欲しいのだ。
そんな時、命の生まれる音がした。
きっと私に似合うよ、この服も活かせられるよと私に囁く。
じゃあ、お願いするよ。
このワンピースはあなたのためのものにしてあげるね。
こうしてきらきら光る私が生まれた。
時々心から顔を出して「あれが着たいな」と甘えた声で呟いた。
私もそれに応えて袖を通した。
私には似合わないけど、きらきら光る私ちは似合っている。
私が着ているわけじゃない。
不釣り合いじゃない。
このワンピースを褒めてくれる人はいなかった。
私はいつもひとりでいた。
大学へひとりで行き、講義もひとりで受け、ごはんもひとりで食べた。
きらきら光る私は少し不満そうだったけど、いろいろな私で宥めた。
私自身は悲しかった。
きらきら光る私をぼやけさせているのは、私自身のせいだったから。
中学・高校と私は目立つ存在ではなかった。
美人でなければ、その対極でもない。
勉強もスポーツも人並み。
面白い話も、興味を引ける経験も無い。
そこにいなくても、物事が進んでいってしまう。
そんな人間だった。
私を励ましてくれた、唯一の友達はピアノを弾く私だけだった。
幼いころから習っていたピアノを楽しそうに弾く私は、一番最初に生まれた私だ。
母親に連れて行かれたピアノ教室で、初めて鍵盤を叩いたとき、その音と同時に私が生まれた。
無口なのは私自身と同じだけど、ピアノを弾いて雄弁に感情を連ねた。
きらきら光る私が拗ねたとき、私自身を慰めるために、マイ フェイバリット シングスを弾いた。
背景になってしまいそうな見た目の私に、そこにいることを許してくれる、そんな曲だった。
きらきら光る私は歌っていた。
着ていたワンピースは舞台衣装のよう、スポットライトの下で輝いていた。
ワンピースには黒いシミが付いた。
お洒落なカフェが好きな私に連れられて、頼んだコーヒーをこぼしてしまったのだ。
カフェが好きな私は泣いた。
私のせいだと顔を伏せてすすり泣いた。
きらきら光る私は消えてしまった。
カフェの窓にうつった私自身は、とても醜い格好をしていた。
黒いシミのせいではない。
「ほら、言ったでしょ。あなたには似合わないって」とワンピースが語りかけてきた。
テーブルを濡らし続けるカフェ好きの私の背中を優しく撫り、ワンピースに不釣り合いな私は、コーヒーを残しカフェをあとにした。
家に着いてすぐにワンピースを脱いでゴミ袋に捨てた。
シミは落ちるかもしれないけど、この服を着れる私はもういない。
ベッドに寝転んでいたインドアの私が驚いた表情で「なんで?どうして?」と問いかける。
「お別れしたの、私と」
精一杯のか弱い声で返した。
命が消えたときはいつもこうだ。
鳴り響いた不協和音はしばらく止まない。
時間が解決してくれるのを待つしかないのだ。
ピアノを弾く私が別れの曲を弾く。
バイ バイ ブラックバード。
一音一音が悲しみを噛み締めるような、力強いメロディーが流れていく。
メロディーを終え、ソロに入ると打って変わって明るいフレーズになった。
このソロは私を励ますソロだと感じた。
ピアノを弾く私は、悲しみを表現するのが苦手なのだ。
私を励ますためのピアノを、素敵に奏でてくれる。
それが彼女の生まれた意味。
悲しい曲を弾かせてしまったら、彼女も消えてしまう。
それは、嫌だ。
最後のフレーズを終えた彼女の表情は読み取れない。
「ねぇ、リクエストしていい?」
私の思いもよらない提案に、彼女は目を丸くして、ゆっくりと頷いた。
「イズント シー ラブリーが聴きたい」
今度は目を細め、こくっと頷いた。
表情は変わらないが、彼女は嬉しそうだった。
長い間ずっと一緒だから、親友だから分かる。
イズント シー ラブリーはスティーヴィー・ワンダーが娘のアイシャの生誕を祝って書いた曲だ。
肩を揺らし、左足でリズムをとる彼女を見て、私も自然と身体を動かす。
インドアの私もベッドを揺らして、涙のあとが残るカフェ好きの私も、繊細に歌っている。
ポーンと音が鳴った。
彼女のピアノの音ではない。
命が生まれる音だ。
新しい私が生まれたのだ。
彼女のソロはいつもより楽しそうだ。
私自身のためというより、彼女自身が楽しんでいるように聴こえるフレーズだ。
新しい命を喜ぶメロディーに、全ての私が心を踊らせる。
よろしく、アイシャ。