一人目
「久しぶりだね、桜井」
僕はできるだけ友好的な微笑みを浮かべて、木の陰から桜井の前に出た。
「む、村上君……? 死んだはずじゃ」
桜井は口をあんぐりと開き、半歩後ろに後ずさった。
「運良く生き残ったんだ。みんなは無事?」
まあ、お前は無事じゃないだろうけど。
「なんとかね。こっちも上手くやってるよ」
身ぶりや視線の方向にも気遣って、必死に内心を押し殺す。
でもちょっとでも気を抜くと口元が歪んでしまいそうだ。村長の時は上手くいったけど、思ったよりこいつに対する恨みが深かったらしい。
でも耐えないと。剱田や岩崎、清美にはもっと恨みが深い。こいつで練習しておくのだ。その後で殺気を出して正面からたたきつぶす。
「それで…… 何の用?」
桜井の手に力がこもったのがわかった。いささか緊張しているようだ。
お前らを殺しにきたに決まってるだろう。口元まで出かかった台詞をギリギリで押さえた。
「う、うわあ!」
桜井がロッドを僕の方に向けた。
「レ―ム!」
一瞬前まで立っていた地面が泥沼に変わり、周囲の木々を飲みこんでいく。僕は咄嗟に近くの木に飛び移って難を逃れた。
だが桜井との距離が大分離れてしまう。
「何でばれたんだろう、ドルヒ?」
『バカ者、あんな殺気を全身から放っていては赤子でも気づくわ。もっと殺気の消し方を練習しておけ』
どうやら最初からばれていたらしい。
まあいいか。殺ることには変わりない。
「レ―ム! レ―ム! レ―ム!」
桜井が叫ぶように詠唱するとロッドの先の地面が濁った色の泥沼へと瞬時に変化する。大体、限界が半径十メートルと言うところか。僕にロッドを向けてくるので、その度に僕は高く跳躍して泥沼に変わった地面から逃れないといけない。
「そこだ、レ―ム!」
左右にばかり逃げていると動きを読まれるので、前後の動きも織り交ぜて泥沼をかわす。
一気に桜井との距離を詰めたいところだけれど桜井は先手を取って自分の周囲を泥沼に変えて守っている。飛び道具でも使わない限り僕の攻撃を当てるのは難しそうだ。
とにかく、今は泥沼の攻撃範囲から逃れることだ。剱田や岩崎を殺す前にあんな奴にやられたら洒落にならない。
「結構厄介だね。桜井は一番弱いんじゃなかったの?」
『阿呆、あいつが弱いのではない。他の悪魔たちが強すぎるのだ』
これじゃ近付けないな…… ドルヒを投げる手もあるけど、この距離じゃかわされてしまうだろう。泥沼に木がほとんど沈んじゃったから死角から攻撃もしづらい。
よくしなる枝を選んで足場にし、高く跳躍する。
空に跳んだ僕を、桜井はウサギをいたぶっていた時と同じような目で見つめていた。
醜いな。
やがて僕の周囲に足の踏み場が完全になくなった。
さっきまで森だった場所が沈んだ木の上部だけがのぞいている沼地になりはて、見る影もない。
「残念だったね、村上君…… 僕のクラフトは『レ―ム』。文字通り地面を泥沼に変えられる。こんな土の地面の多いところで僕を襲おうとしたのが君の運の尽きさ」
見渡す限りの周囲は泥沼ばかりになり、はるか遠くの固い地面までひと飛びで行くのも無理そうだし、かといって沼からのぞいている木は細い枝ばかりでとても足場にできそうにない。
桜井は泥沼の中心に残った固い地面の上に立ち、ロッドを構えて僕の方を見て…… いや見下していた。
「君も他のモンスターみたいに泥沼に沈んでおぼれ死ぬと良いよ。僕もここ数日で大分レベルアップしたからね」
桜井は勝利を確信したのか、ウサギをいたぶっていた時と同じような醜い顔でこちらを見つめている。
「ひとつ、いい?」
僕は太平洋に浮かぶ無人島のようにほんのわずか残った地面に立ち、桜井に尋ねた。
「命ごいなら受け付けないよ」
完全にこっちを嘗めているな……
「そんなことじゃない。なんで僕を餌にしたのか、なんていまさら聞くことじゃない」
「なんでウサギをいたぶった? ウサギをいたぶらなくても、いじめなくても、お前は生きられるはずだ。ストレス解消法なんて他にいくらでもあるだろう」
そう聞くと、桜井の口元が三日月のように大きく歪んだ。
「決まってるじゃない。ウサギとか、小さな生き物が僕の足元で這いつくばって弱弱しい鳴き声をあげるのがいいんだよ。あの助けを乞うようなか弱い声。死ぬ直前に、ちょっとだけ抵抗する無意味な努力。そう言うのを全部全部、否定してあげるのが楽しいんだよ」
こいつの顔だけじゃなく、台詞を聞いていると吐き気がする。桜井が自慢げに話していると、ニキビの混じった醜い顔がもっと醜く感じられた。
「ドルヒ、どう思った?」
『殺せ』
ドルヒの刀身が熱くなったのを感じる。僕は革の鞘からドルヒを引きぬいた。ドルヒは更に進化し、刃が闇に溶け込むようにまっ黒に染まり光沢もない。まさに暗殺武器って感じになった。
「ははは。急に一人言呟き始めてどうしたの? それにそんな遠くからナイフを抜くなんて。頭がおかしくなった?」
おかしいのはお前の頭だろう。
とりあえずあのツラをなんとかするか。
僕は木も、動物もすべて沈め何物も帰って来なかった泥沼に降り立った。
桜井が笑いだした。
「あは、あはは、自殺願望でもあるのかい、村上君! この泥沼からは日原くんや佐伯くんでも脱出できないんだよ!」
剱田って言わないところが、すでにお前の限界を自白してるも同じだ。
泥沼の粘着力は予想以上で、靴が抜けなくなりそうだ。これは普通の人間なら一歩足を踏み入れたらもう二度と出てこられないだろう。
普通の人間なら。
だが僕はもう片方の足を思い切り泥沼に叩きつけ、その反動で飛び上がる。多少は動きづらいが幅跳びのように大きく跳べば問題なさそうだ。
僕が地面を蹴るたびに泥しぶきが数十メートル四方に飛び散り、桜井の顔が青ざめて行く。どんどん桜井との距離が縮まっていった。
「我ながらむちゃくちゃな動きだね、ドルヒ」
『当たり前だろう。吾輩の力でレベルアップした以上、AGIもSTRも飛躍的に向上しておるからな。泥沼どころか今の貴様なら水上ですら走れるぞ』
「剱田たちより速いかな」
『油断するな、相棒。あの二人は桁違いだ。相棒は未だ遠く及ばん』
「くそ、なんなんだよ、レ―ム!」
桜井は空中に泥の塊を作ったり、泥の弾丸を打ち出してこちらの動きを阻害しようとしてくる。
だが僕はそのすべてをドルヒを使って切り裂き、叩き落としていった。ドルヒを使って泥を切り裂くと茶色の塊に透明な線を引いたようになるのが面白い。
桜井のいる固い地面の上に降り立つ。
固い地面の広さが畳一畳分もなく、もうお互いに目と鼻の先だ。
桜井が慌ててロッドを僕の顔面に向けた。僕の体の中にでも泥沼を作る気なんだろうか?
だが僕はロッドを握る手を握ってロッドの先端を僕からずらす。
同時に、手首の関節を極めた。
手首を伸ばされて握れなくなった桜井の指からロッドが落ちた。
「ゆ、ゆるして」
桜井がさっきまでの態度を一変、みっともなく許しを乞うてきた。
「一つ、疑問なんだけど」
僕は笑顔を浮かべ、雰囲気を和らげた。桜井が少しだけ安心した様子を見せる。
「なんで許してもらえると思ってるんだ?」
「え」
僕はためらわずに、桜井の首を水平に切断した。
桜井の首は切断された頸動脈の血でロケットみたいに空に上がった後、放物線を描いて泥沼に落ちた。
桜井の首が自分で作った泥沼の底に沈みゆく。
同時に、僕は凄まじいレベルアップを果たしたのを感じた。
「ドルヒ、今までになくレベルが上がった感じなんだけど」
『それだけの強敵だったと言うことだ』